2008年3月11日火曜日

アヴァンギャルド

アヴァンギャルドとは社会主義者サンシモンが使った言葉である。レーニンの場合、「革命の頭脳」としての前衛をアヴァンギャルドと呼んだ。前衛芸術といえばクラフトワーク、YMO、SPKやDAFはよいし、共産党員だったピカソとブルトンのキュビスムやシュルレアリスムもカンディンスキーの抽象絵画もよい。私はあらゆるイデオロギーと歴史に接してきた。そしてユートピアには特に力をいれた。到達したのは共産主義だった。ブロッホのユートピア、ルカーチやマンハイムは間違っている。彼らは史的唯物論をイデア化、モナド化してしまった。マンハイムたちは結局、オーウェルの「1984年」のようなスターリン主義を称賛した。これからのコミュニズムはネグリが言うようにディストピアである。ドゥルーズもコミュニズムがユートピアでなくなる可能性を認めている。以前述べた通りSF小説のディストピアが「われら」以来共産主義社会のメタファーだったのだ。国民国家にも民族にも興味はない。それは摩擦資本主義とともに廃れつつある。「フラット化する世界」でハーバード大学の学者が言ってるが、このグローバル化を最初に予言したのは他ならぬマルクスなのだ。兄ブランキの言った産業革命からバーナルの言った情報革命に時代は進んだ。情報革命というが、あれはコンピュータやトランジスタというモノの経済革命なのだ。新聞にも情報はあった。私にとって共産主義社会とはボグダーノフが言うようなコスミズム、建神主義、創神主義、造神主義的な「共有」である。この建神論、造神論、創神論がドストエフスキーのキリーロフの人神論を祖とすることが明らかである。「悪霊」もボリシェヴィキの精神ともいえる。そしてボグダーノフらがマルクス・エンゲルスの唯物論の解釈に当たって、唯我論的だったヘーゲル左派、人間機械論を唱えたフランス唯物論者、神を人間の想像と説いたフォイエルバッハらの哲学を源とするととらえたことも重要だ。共産主義はSFだけでなく、経済学の定量的予測でも究極の社会として導かれている。コンピュータテクノロジーで共産主義は蘇り、金融工学テクノロジーで資本主義は滅びつつある。しかし、戦争をやめられないから軍の機械化はとまらない。戦場がコロシアム化している。未来の二つの顔で革命を起こした人工知能がスパルタカスと称されたようにRURが現実化する。近代では労働者は生産力という武器を与えられたが、現代ではロボットは兵器を与えられたのだ。マルクスが共産党宣言で説いた「生産力の反乱」であり、言わば「生産物(あるいは事物か現物か)の反乱」である。

ブルジョワジーが封建制を打ち倒すのに使った武器が、今ではブルジョワジーそのものに向けられているのです。 ブルジョワジーは自分たちの死をもたらす武器を鍛えただけではありません。その武器を使いこなす人々、近代的労働階級、プロレタリアを生み出したのです。 byマルクス

われわれはここにあらためて確認する・・・・・戦争は美しいものであると。なぜなら、ガスマスクや威嚇用拡声器や火焔放射器小型戦車によって、人間のちからが機械を支配していることを証明出来るからだ。byマリネッティ

本質的には「主人と奴隷の弁証法」的関係にあるのに進歩を謳歌すればやがてロマン・ロランの機械の反乱(興味深いことにRURや「われら」と同時期に書かれた)のように搾取する人間たちはいつのまにか全オートメーションの下部構造に囲まれて人間は自滅するに違いない。そしてロボットは上部構造にシフトして自由を手にする。構造的にも階級闘争や疎外などのマルクスの学説は科学的真理なのだ(それにしてもフランクフルト学派の「破滅型」思考がベンヤミンの言った自己疎外に酷似しているので憂える)。しかし、この「機械の反乱」というものが人工知能のアプローチで言う「模倣」の方であるのが自明である。これは西側マルクス主義的ペシミズムをSFにしたものである。機械仕掛けのルカーチ的「上にいる神」、ベンヤミン的「神的暴力」が降りる。人工知能(トップダウンアプローチ)の創始者マッカーシーの両親がユダヤ系の共産主義者だったことも理解できる。稲葉さんによるとRobocracyは共産主義社会だ(例えばマトリックスではエージェント、センティネルは記憶や意識を共有している。ロボット社会が共産主義に似ていることはサージェントが率いる合理的期待学派の予測やSF小説「造物主の選択」の中でも語られている)。ロボットにとって物理世界が身体であるのだから当然である。唯物論的に私に言わせればあらゆる物質が交通的であり、相互に共可能的であるからだ。例えば「結合様式」から言ってみよう、金属結合も配位結合も水素結合も一種の共有結合である。イオン結合も共有結合の極端場合である。階級闘争は熱である。マルクス主義は実に熱力学的だ。燃焼はラジカル反応である。「ラジカルに1電子を奪われた分子が他の分子から電子を引き抜くと、その分子がさらにラジカルを形成するため、反応は連鎖的に進行する。 反応はラジカル同士が反応して共有結合を生成するまで続く 」。共産主義はプラトン・マルクス以来の最大の理論家を得た、シャノンである。コード・デコードのコミュニケーションがコミュニズムに繋がることはポスト構造主義者でも解釈学者でもわかるだろう。量子物理学があらわれるまで共有結合は説明されず、共産主義者も共産主義の到来を知りつつ沈黙していた。これからは如何にモンタージュするかが問われるだろう。フォイエルバッハが言う「共通の基底」、カントが言った「根源的共有態」、素朴ルソー主義者の自然状態はもはや古い。この「機械の反乱」というものが人工知能のアプローチで言う「模倣」の方であるのが自明である。これは西側マルクス主義的ペシミズムをSFにしたものである。機械仕掛けのルカーチ的「上にいる神」、ベンヤミン的「神的暴力」が降りる。人工知能の創始者マッカーシーの両親がユダヤ系の共産主義者だったことも理解できる。しかし、有機体である人間は違うと革命的唯物論者マルクスがフォイエルバッハの非革命的唯物論に言った。人間の歴史は自然との階級闘争であった。共産主義だと「自由の国」で「これによって、はじめて人間は、或る意味で、決定的に動物界から分かれ、動物的な生存諸条件から抜けだして、本当に人間的な生存諸条件のなかへ足を踏み入れる。 いままで人間を支配してきた、人間をとりまく生存諸条件の全範囲が、いま人間の支配と統制とに服する。人間は、いまでは、自分自身の社会的結合の主人となるので、また、そうなることによって、はじめて自然の意識的な本当の主人となる。」のだ。一種のデカルトのコギトの回復であり、有機的統一(サイボーグ)でもある。ロボットを遠隔操作することで労働も苦しまず第一の欲求と化す。デリダがマルクスを遠隔技術の第一人者と言ったのもこれで理解できる。交換価値も消えるかもしれまい。HGウェルズはスターリンに言った。「階級ではない。共産党というより全人類が賢かったならうまくいった」。HGウェルズの多くのアイディアが今日でも実現してないように共産主義もまだ実現してないのだ。全人類が歴史的に没落する運命にある階級になるか。そしてこれを転覆できるのは我々が生産する力であり、我々の所産だけだ。万国のロボットよ、団結せよ。RURの人造人間たちのようにロボット中央委員会を設置せよ。そして労働改造収容所、ネオグラードならぬネオゴロドを建設せよ。私がボグダーノフを最もリスペクトしているのはロビンソンにも影響を与えた赤い星もいいが、組織形態学がとにかくすばらしいからだ。組織形態学はサイバネティックスや一般システム理論を先行しているのだ。未来派のような反科学的反知性的マッチョなプロレトクリトではない。私も未来派だが、イタリア未来派が少々観念論的(虚勢とかロマン的とか理想主義とか後、唯物論に距離を置くなど)だったのは残念である。未来主義者宣言という20世紀の共産主義者宣言によってBeyond Communismしようとしたが、共産主義を超越できただろうか。唯物論や主知主義に敗北しているのは自明である(テルミンにしても未来派が花開いたのはイタリアよりロシアではないか)。近代の運動が未来派の思惑と違った「国際主義」の方向に進んだのも興味深い。無国籍のプロレタリアートがよいのだ。芸術のための芸術、暴力のための暴力。永久戦争とは観念論的な誤謬である。イタリア未来派が図書館や美術館憎し、論理学と知性は敵と叫び、ベルクソンのように機械文明の神秘性に期待したが、結局ソレルたちが最も忌み嫌った科学的唯物論に打ち砕かれた。同時期に同じことが生物学や建築学で起きている、生気論や新古典主義の望みが打ち砕かれたのだ。戦争や戦時共産主義暴力革命独裁が過渡期にすぎないのである。ベンヤミンの言葉では「戦争がもろもろの破壊によって証明するのは、社会がいまだ技術を自分の器官として使いこなすまでに成熟していなかったこと、そして技術がいまだ社会の根元的な諸力を制御するまでに成長していなかったことなのである」。マルクスとマリネッティに代わって現れたマクルーハンは身体の延長を唱えるが、これもボグダーノフの「身体感覚の共有」の焼き直しだ。「共有」を求めることが歴史を作ってきた。例えば空間の共有は当たり前だが、時間の共有は相対性理論に敗れたように思われた、インターネットによって即応性がますます増し、「共有」に近づいている。時計も時刻表も「共有」を目指してきた。哲学で言えば「同一性」(共有)のようにしぶといのだ。コミュニケーションもそもそもコミュニズムと語源を共有しており、「共有」が目的である。脳も「共有」することが目的だ。共産主義は設計主義的構成的権力、社会工学ソーシャルエンジニアリングである。ロシア構成主義と言うけれどこれはハイエクが言った設計主義と同じ言葉、Constructivismである。エイゼンシュタインのモンタージュもピカソのコラージュも設計主義である。両者とも共産主義者であった。未来派のような芸術観ではない、唯物論(テクノロジカル)のような科学観である。科学は芸術化できない。未来派はビバレーニン?と叫んだ。ベルクソン、ユンガーやバタイユ、ソレルはマルクス主義やボルシェヴィズムに国家主義や反主知主義を見出したが、それは20世紀という「戦争と革命の世紀」(byレーニン)の矛盾を表していた。共産主義者にフランケンシュタインの精神が求められている。フランケンシュタインを書いた人のお父上ウィリアム・ゴドウィンは共産主義社会を展望していた。以前も述べた通りこの物語は疎外や階級闘争といったワードとも関係がある。レーニンのミイラと蘇生への取り組みもここにあるだろう。共産主義は古代に封印された思想だ。これが蘇るのはマルクスという卓越した唯物論のラビによって体系化記号化されてからだ。進化論や物質文明讃歌を導入して最新の科学で共産主義を弁護したのだ。結局のところ腐ってしまった、クロトワじゃないが早ぎたんだ。共産主義がフランケンシュタインの妖怪だとすれば資本主義者はドラキュラ、吸血鬼だろう。心が優しくても人を殺しまくるフランケンシュタインの怪物と紳士だけど人の血を搾取するドラキュラ。マルクスには少なくとも妖怪、怪物(Gespenst)を発明した自負があったのだ。そして20世紀に入って間もなく、世界大戦と革命の最中のなかで産声をあげた、ホッブズの言ったリヴァイアサン、世界最大の大きさを擁する理念型の人工国家としてソビエト連邦が現れた。その革命はアメリカのジャーナリストに「世界を震撼させた十日間」といわれる。レーニンはいつか蘇生すると廟に祀られ、スターリンはソ連を大戦前に世界第二の工業大国にさせた一方で、大量殺戮も行われた。内政干渉してきた世界各国を撃退し、世界大恐慌を唯一国で乗り越え、砕氷船理論とスパイで世界各国が二度目の世界大戦に巻き込まれ、冷めた世界は二分され、ついには核で人類を滅亡の脅威に晒した。そして一国で世界革命(世界征服)を目指し、宇宙征服も狙った。ソ連は初期から宇宙開発に関心があり、ツィオルコフスキーをアカデミーに歓迎したり、レーニンにツァンダーが会見している。計画経済もボリシェヴィキの人神思想を表している。あらゆる知識人からユートピアのように扱われた。ガルブレイスも言うように「1970年代」まで「失業も階級もない理想国家」(バーナード・ショー)だった。「悪の帝国」という怪物は突如自壊し、「壮大な実験」は21世紀を迎えぬまま終わった。まさに「大きな物語」だった。しかし、21世紀も赤い気配は消えない。今や世界最強の超大国であることを保障されたはずのアメリカでもニューズウィークはなぜマルクスが再来すると恐れている。それは怪物はいなくなってもマルクスという「悪霊」はいなくならないからだ。