2008年9月2日火曜日

共産主義社会の方法論

1.階級同士が競争し、一方がもう一方を絶やす
2.階級同士が協力し、階級の差を縮める
3.階級を超越したものが介入し、階級の差を消す

1は階級闘争であり、「友」(同じ類)を共有する。例えば経済や人種(これも最近の生物学では質というよりパーセンテージ、量である)の矛盾である。しかし、絶滅するより保存(共生)する方が望ましいことは20世紀が示した。

2はイデオロギーや価値観の共有によることが多く、「敵」を共有する。映画のアルマゲドンがいい例である。地球を滅亡させる危機が訪れて、万国の人類が団結する。デメリットは既成階級の口実となれば常に共通の敵(スケープゴート)を創ることに陥りやすいところ。これはどこの国でも見られる。

3は超越者を共有する。例えば「神の前の平等」「天下平等」。国家が民族を平等に抑圧し、経済を計画化することで民族や経済を均衡にする。ソ連の崩壊はまさにこの失敗を物語っている。

共産主義は所謂「無所有」主義ではない。所有と無所有を超えた概念である「共有」がその礎である。「全能」に有能(有産)と無能(無産)の区別もあるだろうか。資本主義と社会主義を超越した共産主義こそ「第三の道」「第三極」「第三世界」「第三思想」である。元々「社会主義」という言葉は以前も言った通り共産主義の歴史から生まれたのだが(チャーティスト運動も共産主義者ブナオローティが黒幕だった)、今日では大きく歪められてしまっている。アラブ社会主義、宗教社会主義、反動的社会主義、民族社会主義、封建的社会主義、小市民的社会主義、純粋社会主義等と統一していない。確かに世界各国の「社会民主党」も「社会党」もインターナショナル、マルクス主義者によって初めて建設されたが、今や非共産主義者に征服された。資本主義と社会主義の境界が曖昧になり、最早後戻りできまい。ソ連は原始共産主義と同じ間違いを犯した、私有財産を否定しても収奪没収して総プロレタリアート平等にしてもブルジョアから党が私物化しただけである。結局のところ「主客転倒」(階級闘争)が続くのも区分があるからだ。人種にせよ思想にせよ基準にせよ分類にせよ階層にせよ広義のClass、つまり、階級だ。超越とはClassを外れることである。DNAの蛋白質をコラージュした生物を何故に超越していると言うか。それは生物学的分類表のいずれからも外れるからである。そしてそれは生物学的分業を止揚(超越)している共産主義的生物と言えよう。デカルトの懐疑主義形而上学の産物であるニヒリズムはスタヴローギンのように自己不信に陥る。そしてニーチェは狂人を「特異性」から擁護し、自己過信に陥った。ニーチェに言わせれば「個性は例外なく病」だろうが、「病」は基本的に治すべきためのもの(治療も平等主義)で、「病」を称えてしまうとこれも主客転倒である。「貧しい俺に文句は無い」で自己愛(自己肯定)に浸り、「だが社会には文句が有る」とする他者否定といった弁証法。エピクロスの貧しいことは素晴らしい的精神をマルクスとニーチェは共有していた。しかし、「目的」と「手段」、「自己」と「他者」というデカルト的区分を超えたものを模索せねばならない。