2008年10月6日月曜日

ビジョンかマーヤーか

前回湾岸戦争と911テロをマトリックスよろしくハイパーリアルとして扱ったのだが、「幻」というのも色々解釈がある。それはかつての砂漠の民にとって求め続けるべきものだったし、密林の民にとっては脱するべきものだった。宗教=阿片=麻薬はある程度正しい。幻視や幻聴でできているのであるから。聖書では幻はビジョンであるとして好ましいとされ、イリュージョンでは無い。古代インダスの場合、姿勢を定めて坐禅し、騒々しい「マーヤー」の中から「真理」を見つける「解脱」を目指していた。どれも偶像(資本たる神)を拒み、「超越」が礎であるが、オプティミズムとニヒリズムの差がある。超越とはピリオド(区分、広義のClass、階級)から外れることであるが、三角形のピラミッドがいい例であるかもしれまい。諸々の「終り」(ヘーゲル)「彼岸」「黄昏」が訪れる云々というのは厳格たる一神教と二神教を生んだ古代エジプトの終末論からきている(モーセはエジプトの人物である)。セトとホルスの闘い、パピルスで記された「審判」。つまり、オリジナルとコピー、男と女、選民と愚民、実体とバブル、朝と夜、光と闇、善と悪といった様々に及ぶ二項対立が止揚され、「第三者」(共産主義運動では悪名高い第三期third period論)が訪れるという類である。フリーメーソンのシンボルであるピラミッドの形がいい例であろう。正反対のピラミッドを繋げば菱形の弁証法の「正反合」の螺旋構造である。私が言う従来の共産主義(中央管理型・自主管理型、WinMAXもWinnyも共有ソフトである点で共通するが、集権型と分権型の差異がある)における主体と客体の関係を図にすれば菱形である(資本主義の場合は砂時計?)。さらに「正」と「反」のピラミッドを「合」わせると「六芒星」である。このセム的ハム的超越神をさらに超越したのが「超超越神」たるユダヤ・キリスト・イスラームの神(Almighty、Omnipotenceのpotenceもパワーと同義であり、「すべての権力」、タルムードの「力の権化」)である。この形而上学の反逆児であるニヒリズムの政治化が著しくあらわれたのが20世紀のロシア(ドストエフスキー)とドイツ(ニーチェ)であるが、大きく見ればこの形而上学の影響はプラスがマイナスより多い。どれが終り、続くのが都合がいいかは所有や階級への執着(相互的視点)で決まっている。レーニンはマルクス主義を「プロレタリアのイデオロギー」であるとして、ブルジョアでもプロレタリアでも資本主義でも社会主義でも無いマルクスの柄谷行人が言う超越性を無視した。一方が善くて悪いものは消す、これはマルクスが最も嫌った方法である(マルクスは構造主義的に捉えた)。今や誰もが利用している資本主義システムから逃走するためにも超越するのである。そのための太陽も月も制した天空の「ホルスの目」が「世界政府」でも「地球環境」でも「唯一神」でもいい。あえて言えば資本主義の中の共産主義(グラムシ)ではなく、共産主義の中の資本主義を実現すべきである。