最近の国際関係に興味があるのであるが、私の持論を述べておこうと思う。
アメリカが言い始めた「文明の衝突」は21世紀版階級闘争とも言え、重要である(対してオリエントが言った文明の同盟」も)。
21世紀まで文明を持た無い新興大国が活躍していた。例えばイギリス・ソ連・ドイツ・日本・韓国・台湾である。
そしてかつて最も栄えた中国も戦争で負けて侵略されていた。
しかし、今日目覚しいのが中国・中東・インドである。
言わば「東側」が台頭しているのである。
オバマが黒人初のアメリカ合衆国大統領に当選したということもオルメカ文明が再興するということであり、ハム、エジプト学派が勢力を得てきているということである。
陰謀論的であるが、以前言った五大文明が五芒星を国旗としているのも五大陸を制覇するためと思うのである。
ハラッパー文化が残るパキスタン(元々親米親中であり、国旗を見よ、最近ではインダス川にダムを中国の援助で建設するそうであるが、これは中国がチベットを征服したということみならず、旧ソ連のアスワンハイダム(ナイル川)や三門峡ダム(黄河)、イラクのダム等といったダム外交の継承者たる象徴であろうか)や元々シリアあたりにいた農耕民のダラヴィダ人(アラビア半島系とDNAが共通)が住み、インドでも経済規模が大きいアラビア海と面する南西部を加えたオリエントをメソポタミア
アフリカをエジプト
ヨーロッパをトルコ
アジアを中国(インド東部を分け与えられる可能性あり)
メソアメリカをアメリカ合衆国
が支配すると思う。
大陸を分けた五芒星は中央に六番目があらわれる。
四つの海(十字架)、五つの大陸(五芒星)の次である六芒星はピラミッドと逆ピラミッドの重ね合わせ、空も地も制すということである。レバントをイスラエルが支配するのであろう。
奇しくも21世紀最初に戦争したのが人類の文明が発祥したメソポタミアであるが、目的が原油と思えぬ。 メソポタミアを漢字にすると米とくる。メソアメリカ(これも共産主義者の学者の言葉であるが)とメソポタミアが関係を結ぶのも当然であった。
湾岸戦争があり、侵攻される前のイラクとアメリカの関係が良いといえぬ。問題はどうしてアフガンにも侵攻したかである。軍事に通じたエンゲルスはかつてアフガンを敵にすることは危ういと説いていた。にも関わらず、アレキサンダーやジンギスハーン、大英帝国のようにアフガンに侵攻したのがソ連であったが、この時アフガンのレジスタンスを支援していたのがアメリカであった。政治体制もイラクとアフガンでは差異があり、ソ連を敵視したタリバン政権と共和制に移行してから親ソであったイラクも対照的である。かつてイラン・イラク戦争というものがあった。冷戦で敵対していると思われた米ソと湾岸戦争で戦うクウェートが共同してイラクを支援した。どうして同盟国であるソ連はともかく、後々対立するイラクと協力できたか。これは私はペルシャという国に問題があると思う。ペルシャはアラブ諸国とはイスラムという共通点があっても歴史的には区別されている。米ソにとってかつて米ソの連合国に背いたペルシャは好ましく無い。しかし、肝心のイスラエルが支援しており、特殊でもある。最近騒がせているペルシャの代表がキュロス、ヒトラーのようなユダヤに尽くすために作られたペルシャ至上主義者かどうかわからぬが(ローマ、プルシア、ロシアといった悪役帝国はペルシアと共通している)。ペルシャの歴史を考えればユダヤに有利である機会を与えてくれている。であるからペルシャを利用したのであろう。こう考えると今更ペルシャが敵視され、アフガニスタンにオバマが増派するとしたのもわかる。インドに対するペルシャの影響力への防波堤としてのアフガンである。
これからは製造業をアジア、サービス業をオリエント、食糧を支配するのがアメリカと私は思うのであるが、どうであろう。
それにしても中南米の反米化がどうして今起こっているのかを考えるべきであろう。
「文明の衝突」は地域密着型の争いであり、特にアメリカ合衆国(アメリカ統一)は中南米にヘゲモニーを持つのである。
市場としても中南米は魅力的であり、侵攻の口実であろうか。
WWIIは「植民地を持つ国」と「持たざる国」の戦争であったが、冷戦はイデオロギーを持つ国と持たざる国(戦争というよりも階級関係)、WWIIであると「文明を持つ国」と「持たざる国」という構造かと思われる。
2008年11月23日日曜日
ユーラシア
レーニンの「民族自決」等といった概念がウィルソンの方針や国際連盟より先で影響を与えたというのは今やよく知られているが、ソ連の外交政策が「ユーラシア主義」であったという認識が最近出てきている。
The Evraziitsi criticised the anti-Bolshevik activities of organizations such as ROVS, believing that the emigre community's energies would be better focused on preparing for this hoped for process of evolution. In turn, their opponents among the emigres argued that the Evraziitsi were calling for a compromise with and even support of the Soviet regime, while justifying its ruthless policies (such as the persecution of the Russian Orthodox Church) as mere "transitory problems" that were inevitable results of the revolutionary process.
The Eurasianists (Russian: Евразийцы, Evraziitsy) was a political movemen in the Russian emigre community in the 1920s. The movement posited that Russian civilization does not belong in the "European" category (somewhat borrowing from Slavophile ideas of Konstantin Leontyev), and that the October Revolution of the Bolsheviks was a necessary reaction to the rapid westernization of Russian society. The Evraziitsi believed that the Soviet regime was capable of evolving into a new national, non-European Orthodox Christian government, shedding off the initial mask of proletarian internationalism and militant atheism (which the Evraziitsi were totally opposed to).
The Evraziitsi criticised the anti-Bolshevik activities of organizations such as ROVS, believing that the emigre community's energies would be better focused on preparing for this hoped for process of evolution. In turn, their opponents among the emigres argued that the Evraziitsi were calling for a compromise with and even support of the Soviet regime, while justifying its ruthless policies (such as the persecution of the Russian Orthodox Church) as mere "transitory problems" that were inevitable results of the revolutionary process.
The key leaders of the Evraziitsi were Prince Nikolai Trubetzkoy, P.N. Savitsky, P.P. Suvchinskiy, D.S. Mirsky, P. Arapov, and S. Efron. Philosopher Georges Florovsky was initially a supporter, but backed out of the organization claiming it "raises the right questions", but "poses the wrong answers". A significant influence of the doctrine of the Evraziitsi can be found in Nikolai Berdyaev's essay "The Sources and Meaning of Russian Communism".
というわけで簡単に言えば「ロシア」という国から見たソ連を展望したのであるが、ドイツのナショナルボリシェヴィズムに似ている。特にSuvchinskyというユーラシア主義運動のメンバーが自らマルキストと言い、ユーラシア主義をコミュニズムにすべきとし、それを一部に反発されて「ネオユーラシア主義」というものを自ら考え、これが今オスタルギーが強いロシアの運動の主流であるとか。このユーラシア主義運動の祖をつくったのがソ連原爆開発計画に関わった学者ウラジミール・ベルナドスキーであったと言われる。
実際のソ連の援助の件数を見ると中東とアフリカが圧倒的である。デュボイス、ルムンバ、エンクルマといった人物、さらにエティオピアも親ソであった、マンデラと共産党の関係を考えると「アフロ・ユーラシア主義」であったとも言える。上の画像に毛沢東やティトーの言う「第三世界」の非同盟諸国も旧東側寄りであれば加えるべきとも思う。驚いたのが、汎ユーラシア主義についてロシア連邦共産党書記長ジュガーノフが本を書いていることである。
2008年11月11日火曜日
物象化
エリアーデが言うようにマルクス、あるいは共産主義というのは中東に起源があるのかもしれまい。それは思想に限らず、制度としてもである。例えばマルクス・エンゲルスが称賛して止まなかった婦子を共有する一夫多妻制である。これは主に中東で見られる。中東では初代教会といったコミューンで共産制が行われた。古代では一妻多夫制であり、マルクス・エンゲルスによると母権社会があったとされる。「オアシス」は基本的に富の源泉が集中している。今日では石油。昔であると水か。この主力を共有することで経済が潤う、実に単純。イスラム金融は借り手と貸し手が損益を共有するというものである。最近ではイスラエルのキブツが興味深い。
かつての繁栄からは信じられない程今や中東諸国は世界から遅れている。どうして砂漠で多くの文明を揺籃できたのかという疑問がある。しかし、実際は素材に恵まれていたから技術が考えれたことがわかっている。これは中国で火薬が生まれた要因と似ている。今日荒廃しているが、西アジアは世界最古の農業が営まれた。これは砂漠化を発展に伴う物象化の一つと考えられる。今日も経済が猛成長している中国では黄砂が問題化、砂漠化している。サウジやドバイが砂上の楼閣化している。一方の海では物象化とは逆の「雪解け」が起きている、将来大洪水で滅んだ人類に代わって文明を担うのが水棲生物かと言われている。核兵器は究極の物象化であると思う。つまり、人間が「原始」というより「原子」に帰ってしまう。ハイデッガーによれば技術とは自然からの徴発であり、私有財産の飽く無き収用である(この反対は私有財産の投棄という放出のメカニズム)。広大の惑星を想定する、その言わばノマド的制覇、家父長的である。しかし、私は技術はそれ自体は合理的(中立的)で受動的、言わば母性的であると考える。一方でヴィリリオによれば技術とは固有性の止揚である。例えば都市化が進めば家はすし詰めになるが、これは原始共産制社会の住宅様式と類似する。「間隔」を喪失するという点で限界(固有性)を突破する速度やスピードも重要である。これは物象化に対抗する運動であり、近年の知識経済によって加速しているのである。
「物質的生産物の共産主義的生産様式と専有様式に対して言い立てられる異議は、同じように、知的生産物の共産主義的生産様式と専有様式に対しても言い立てられる」共産党宣言より
かつて私は人間の想像力(例えばライトノベルとか)で創世記の言う「最高の、最強の方」とはどういうものかを議論したことがある。結局ユダヤ神学が言う通り固有性(偶像)を持たぬ「無限」の唯一性(共通性)、つまり、「全能」こそが神である。故に私はこれを前提とするために自由主義者、「アダム」スミス的ジェファーソン主義者である。しかし、この「自由の王国」は自己疎外が無く、操作、つまり、主体と客体を同一させる。「見えざる手」というより計画者(ベンヤミンの決定者、神的性格者)を考える。「神的暴力」というのは結局のところ「限界を設け無い」という定義の通り境界をつけて固定化(アウラを見せる物象化、つまり、偶像化)しようとする「神話」を破壊してしまうことで、レーニンの言う「法に制限されえぬ権力」、毛沢東の言う「無法無天」(神にとって)、言わば中国の「小皇帝」のように「孫悟空より自由、始皇帝より権力がある」ことであろうか。究極のCommand Economyか共産主義母権制経済かと。犠牲を無料化された暴力に対して考えれるのが惜しみ無く与えられる「段階」(楽園?)。従って、際限無く獲物を求めるディアスポラ(狩猟採集)では無く、オアシスに定住するために運動するのである。
かつての繁栄からは信じられない程今や中東諸国は世界から遅れている。どうして砂漠で多くの文明を揺籃できたのかという疑問がある。しかし、実際は素材に恵まれていたから技術が考えれたことがわかっている。これは中国で火薬が生まれた要因と似ている。今日荒廃しているが、西アジアは世界最古の農業が営まれた。これは砂漠化を発展に伴う物象化の一つと考えられる。今日も経済が猛成長している中国では黄砂が問題化、砂漠化している。サウジやドバイが砂上の楼閣化している。一方の海では物象化とは逆の「雪解け」が起きている、将来大洪水で滅んだ人類に代わって文明を担うのが水棲生物かと言われている。核兵器は究極の物象化であると思う。つまり、人間が「原始」というより「原子」に帰ってしまう。ハイデッガーによれば技術とは自然からの徴発であり、私有財産の飽く無き収用である(この反対は私有財産の投棄という放出のメカニズム)。広大の惑星を想定する、その言わばノマド的制覇、家父長的である。しかし、私は技術はそれ自体は合理的(中立的)で受動的、言わば母性的であると考える。一方でヴィリリオによれば技術とは固有性の止揚である。例えば都市化が進めば家はすし詰めになるが、これは原始共産制社会の住宅様式と類似する。「間隔」を喪失するという点で限界(固有性)を突破する速度やスピードも重要である。これは物象化に対抗する運動であり、近年の知識経済によって加速しているのである。
「物質的生産物の共産主義的生産様式と専有様式に対して言い立てられる異議は、同じように、知的生産物の共産主義的生産様式と専有様式に対しても言い立てられる」共産党宣言より
かつて私は人間の想像力(例えばライトノベルとか)で創世記の言う「最高の、最強の方」とはどういうものかを議論したことがある。結局ユダヤ神学が言う通り固有性(偶像)を持たぬ「無限」の唯一性(共通性)、つまり、「全能」こそが神である。故に私はこれを前提とするために自由主義者、「アダム」スミス的ジェファーソン主義者である。しかし、この「自由の王国」は自己疎外が無く、操作、つまり、主体と客体を同一させる。「見えざる手」というより計画者(ベンヤミンの決定者、神的性格者)を考える。「神的暴力」というのは結局のところ「限界を設け無い」という定義の通り境界をつけて固定化(アウラを見せる物象化、つまり、偶像化)しようとする「神話」を破壊してしまうことで、レーニンの言う「法に制限されえぬ権力」、毛沢東の言う「無法無天」(神にとって)、言わば中国の「小皇帝」のように「孫悟空より自由、始皇帝より権力がある」ことであろうか。究極のCommand Economyか共産主義母権制経済かと。犠牲を無料化された暴力に対して考えれるのが惜しみ無く与えられる「段階」(楽園?)。従って、際限無く獲物を求めるディアスポラ(狩猟採集)では無く、オアシスに定住するために運動するのである。
2008年11月10日月曜日
学園における階級闘争
アメリカでよく見られる学校における階級闘争、取り分けJockとNerdの階層対立であるが、「博識は分別を教えない」という格言の通り、Nerdは分別を持たない点で無階級社会を考えるのに興味深い思考回路をしている。これは以前述べたこととも関係あるかもしれまい。しかし、Jockとの分別、さらにそれに対して前衛思想を抱いていることが多い。これは矛盾と呼べる。究極的に考えるとJockのプロレタリア的肉体労働能力とNerdの知的生産能力の弁証法的アウフヘーベン、コラージュ、モンタージュがあるべきであろう。Jockは形式的物質的物理的パワー(資本力)をモテるが、Nerdがその物理的法則をわかっていれば反乱は簡単であろうかと思われる。
2008年10月31日金曜日
剰余価値
超越の価値とは「過剰」余価値のことである。超越とは余剰、基準から外れること、強いて言えば「区分」に対する「余分」(アウト)を言う。「極端」のことでは無い。極端は限界を示してしまっている。市場の動向は「神の見えざる手」であるから人間を超越し、疎外している。人間疎外を究極にまで押し進める資本主義は過剰な労働力、つまり、自らをも超越した労働力をつくりだす。そしてその「反乱」により崩壊する。この超越性はプロレタリアの肉体に内在している。つまり、これを否定するのでは無く、超越を「自己還元」させるのがコミュニズムである。「神」と自己を合一するのである。故に資本主義や市場原理の無計画的計画性(超計画性)を自己回帰(一般化、基準化、コモン化)させ、それを止揚し続ける永久革命機関の運動がコミュニ「ズム」である。
コミュナリズム
元々「コミュナリズム」は地方自治の用語として使われたが、今日であるとあらゆる民族や宗教の対立に当てられる。私はコミュニズムがコミュナリズムであることは無いと考える。コミュニズムは共同体を超えた共同性を求め、それがコミュナルとして限界化したら超越し、止揚しようとする現実的運動であると考える。完全completeも競争competitionも名称が示しているように共同性に関わるのである。マルクス以降のコミュニズムは宗教原理主義者も民族至上主義者も資本主義者も敵にしてきた。それは固有化した既成共同体であるからである。ソ連も硬直化保守化した。これも従来の共産主義国家で言われたcoordinatorsismである。無限の同一共同体(脱皮もし無い)があれば革命も無い共産主義であるが、万物は変化する。革命するのである。変化は固有の自己からすれば「新しい」ことを言う、外部や下部からくる。であるから既成共同体は上部構造化し、階層化する。階級社会は「イデオロギー」という幻の装置で共同性を回復したように見せかけるが、一方のビジョンが抑圧しているのであり、本質が対立しているのである。
2008年10月26日日曜日
所有論
高度資本主義は基本的にマイホーム、マイカー(一家一台)といった個体的所有を基礎にしている。これは「分配」という面で見れば社会主義的ではあるが、共産主義は家族制度で言えば資本主義の一夫一妻制に対して一妻多夫制、一夫多妻制、所謂女性や子供の共有である。「単一」と「マルチチュード」は弁証法的に見れば主客(広義のClass、階級関係)がある限り転倒(革命)が常に潜在しており、事実上一方の独裁である。私達は「共有」と言うと多数の一個の所有、一個の多数の所有を想像する。しかし、「一個」というものがある時点で所有の「限界」である「トップダウン」から考えてしまっている。共有の媒体(媒介)を持つことは時として疎外に陥るこがある。これは一器官であった脳が身体で言えばヘゲモニーを占めるように進化した過程、人民の機関(下僕)に過ぎなかった国家が人民を服従させた歴史、受動的で惜しみなく愛情を与える地母神が猜疑的で恐怖を与える天空父神へと変形した神話と符合する。皆が所有しようという共産主義と皆が無所有しようという無政府主義は究極的に合一するのも経済学で100%と0%が似ていることと一緒である。「皆は一人のために、一人は皆のために」。これは共産主義者がよく使ったスローガンである。この「一人」をアウラ化(オリジナル化神聖化唯一化)してしまうと独裁のスローガンであるが、これはもっと高度に「一般人」をあらわしているのである。つまり、いくら「複製技術」や「記号化」が進んでも固体(主体)も融け合わなければ問題が続くのである。
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