2008年10月26日日曜日
所有論
高度資本主義は基本的にマイホーム、マイカー(一家一台)といった個体的所有を基礎にしている。これは「分配」という面で見れば社会主義的ではあるが、共産主義は家族制度で言えば資本主義の一夫一妻制に対して一妻多夫制、一夫多妻制、所謂女性や子供の共有である。「単一」と「マルチチュード」は弁証法的に見れば主客(広義のClass、階級関係)がある限り転倒(革命)が常に潜在しており、事実上一方の独裁である。私達は「共有」と言うと多数の一個の所有、一個の多数の所有を想像する。しかし、「一個」というものがある時点で所有の「限界」である「トップダウン」から考えてしまっている。共有の媒体(媒介)を持つことは時として疎外に陥るこがある。これは一器官であった脳が身体で言えばヘゲモニーを占めるように進化した過程、人民の機関(下僕)に過ぎなかった国家が人民を服従させた歴史、受動的で惜しみなく愛情を与える地母神が猜疑的で恐怖を与える天空父神へと変形した神話と符合する。皆が所有しようという共産主義と皆が無所有しようという無政府主義は究極的に合一するのも経済学で100%と0%が似ていることと一緒である。「皆は一人のために、一人は皆のために」。これは共産主義者がよく使ったスローガンである。この「一人」をアウラ化(オリジナル化神聖化唯一化)してしまうと独裁のスローガンであるが、これはもっと高度に「一般人」をあらわしているのである。つまり、いくら「複製技術」や「記号化」が進んでも固体(主体)も融け合わなければ問題が続くのである。