2008年10月24日金曜日

ニーチェ

ニーチェは「真理」を批判した。人間は「真理」という「基準」をつくることでそれを共有する。これは支配であると。「支配」とは何かと言うと、経済学で言うところの「分配」と言える。主体が仕事を配分する(仕切る)、シェア(共有)させる。そして「力」は物理学で言えば「交換」(コミュテーション)から生じる。力は対象無くして有り得ない。ニーチェは「神話」に傾いた。これは真理と似た位置の「神」と異なり、神話の方が絶対的では無いからである。ニーチェは神話を支えているのを「悲劇の共有」と考えた。しかし、これは「生の哲学」のニーチェと矛盾する。結局ニーチェはアナーキストである(ニーチェ自身はアナキストを共産主義平等主義者と批判しているが)。ショーペンハウアーはニーチェ達が言うところの平等主義的共産主義的境地(段階)、共感共苦を説いた。これは必然である。ショーペンハウエルは元々プラトンの崇拝者であった。ニーチェは師と同様、共感共苦(慈しみ)を説いたが、「天才」と「凡人」の「彼岸」をついに唱えなかった。これはレーニンの「前衛」と「大衆」と同じである。いわば「選民思想」の問題である。ニーチェが批判していたプラトンの「哲人王」やイスラエルの「救世主」と同じ轍を踏んでいたのである。ニーチェは当初「彼岸」「力への意志」を批判していたが、肯定するようになっていった。もし、ジンテーゼがテーゼ(肯定)とアンチ(否定)の総和では無いのであればそれは超越していると言える。であるが、これは明らかに「母」と「父」が交わった「所産」(子供)であり、人間の有限を示しているのである。そしてニーチェは永劫回帰に至った。

ニーチェは強い意志を「単一の優勢の衝動」によって「諸衝動が共存している状態」としている。これこそ私が言う「単一」と「マルチチュード」に基く古い共産主義的関係であって、「天下平等」と同義である。経済学で言えば「総動員」である。共通の目標を共有して運動を共有する。ハイデッガーは技術の本質を「徴発」としたが、これは幾分レーニン主義的であろう。ヴィリリオは技術の本質を「固有性の止揚」、つまり、「限界を無くす」と考えた。これこそが元来のマルクスに通じるのであり(私有制や分業制の揚棄)、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教、アブラハムの宗教の概念にも通じる。「無限」「全能」「超越神」である。レーニンの共産主義は「全能である」という言葉はここにあるのである。物質の集合でできているこの世界に住む人間はどこまでいっても共同的動物(アリストテレスより)であり、完全独立した唯一無二の個があるとすればそれは神に他ならぬ。故にヴィリリオは共産主義者の家庭に生まれ、「唯物史観」を軸としているのにカトリックを信仰しているのである。

補足:ニーチェはユダヤ系ロシア人のルー・アンドレアス・ザロメに恋した。ニーチェの源泉はロシアにあると言ってもよい。ツルゲーネフ(ニヒリズム)からドストエフスキーまで。元々ロシアとドイツ自体が歴史的に関係が強いのである。プロシアはロシア系、ベルリンもスラヴ系の名称である(考古学的地政学的に見ればロシアはヨーロッパにとってアジアにおける中国のような存在である)。ツルゲーネフはバクーニンと同居したし、ワグナーもバクーニンに師事していた(バクーニンは「共産主義はあらゆる勢力を吸収する」と批判したことで知られるが、ヴァイトリング時代は共産主義者を自負していて共産主義に関する寄稿もしていた。マルクスのプロレタリア独裁、あるいはバブーフやブランキといった系譜の共産主義者から学び取った概念もバクーニンに見られるという。ここらへんは蜘蛛の蹂躙、あるいは共産主義とアナーキズムで述べた)。ドストエフスキーが悪霊で参考にしたのはネチャーエフというマルクスには「バラック共産主義」と批判された人物である。このように「ニヒリズム」の歴史は共産主義運動と密接な関係があるのである。ユンガーやハイデッガー、バタイユ、ブランショといったニヒリストを極めた面々がボリシェヴィキやコミュニズムに関心を持ったのは必然である。