今回は共産主義とアナーキズムについて。その前に共産主義と言ったら諸君はどんな社会を思い浮かべるだろうか。暗鬱な管理社会だろうか、それともお花畑な御伽噺の楽園だろうか。前にも述べたが、ユートピアという語をつくったトマス・モアもデストピアという語をつくったミルも一種の共産主義者だった。トマス・モアのユートピアは言葉としては最初のユートピアである。当時の社会を諷刺したとも言われるし、最初のデストピア小説とも言われる。ここで描かれたのも財産を共有する共産主義社会だった。1868年にディストピアという言葉を創ったミルはマルクスの同時代人でリベラリズムの父と言われる。一方で「待望した共産主義者」とも言われ、「共産制」の難点は問題だらけの私有財産制に比べれば大小すべてのものを合しても衡器の上に落ちた羽毛に過ぎないとも言っている。しかし、流石リベラリズムの祖でもあり、彼が共産制の問題となりうのはむしろ個人の自由の問題だと言う。
問題になるのは次のような事柄である。すなわち共産制には個性のために避難所が残されるか、輿論が暴君的桎梏とならないかどうか、各人が社会全体に絶対的に隷属し、社会全体によって監督される結果、すべての人の思想と感情と行動とが凡庸なる均一的なものになされてしまいはしないか―これらのことが問題である。」(経済学原理)
この危惧はソ連がずばり当てたとも言えよう。最近ではあのネグリがディストピアに希望を見出すと言っている、未だにこういった傾向もあるようだ。マルクスの場合、モアを始めとするプラトン以来の形而上学的空想的共産主義を転倒させ(オーウェンもフーリエもサンシモンも究極的に共産制を理想とした)、「科学的」を標榜したからフランシス・ベーコンに近い。「空想から科学へ」(byエンゲルス)である。しかし、稲葉さんも言っているが、これも共産主義に内在するユートピア性を否定できずにいた。つまり、「空想科学」(SF)に変わっただけである。ジュール・ヴェルヌが「月世界旅行」を書いた2年後にマルクスが資本論を出した。そしてその2年後に「海底二万マイル」である(ヴェルヌ自身がクロポトキンに共感していたという)。レーニンの場合、マルクスが否定したイデオロギー(idea)や神話(真理プラウダに対する考え)をむしろ肯定的に考え、理想主義的(idealism)人々を惹き付けたのだった。ルカーチやマンハイムも似た傾向にあった。興味深いことにHGウェルズもソ連の未来を憂えつつ、レーニンの構想に賛成しており、クレムリンの空想家と評していたという。前回も言ったが、こういうことの行き着く先がオカルトである。プラトンもアトランティスがあるといった。唯物論者であるソ連の学者も原始民主制とかアトランティスとかを信じた。ソ連の宇宙開発への早い関心(ツァンダーがレーニンに会ったり)もコスミズム(宇宙主義)とコミュニズムの親和性から出てきた。ガイア理論の原型がつくられたのもソ連である(ベルナドスキーのノウアスフィア)。そしてテレパシー(精神の共有)もあると考えられた。レーニンに次ぐ幹部だったボグダーノフの建神主義にも見られる。社会主義も結局のところ、共産主義の一段階に過ぎんのだ。社会主義という語をつくったのはPierre Leroux(ピエール・ルルー)だが、彼の兄弟のJules Lerouxはアメリカでも有名であるコミュニストであり、彼自身もユダヤ教(キブツ?)、ピタゴラス教団、仏教、あらゆる宗教を綜合した社会を理想としていた(ハイネといったユダヤ知識人とも交流があったそうである)。サン・シモンの弟子であるアンファンタンも共産を理想としていたのであるから当然ともいえるが。
知の帝王サルトルはマルクス主義を「乗り越え不可能」と言った。佐藤優氏もマルクス主義は右翼にも左翼にも共通の祖先みたいに言っていた。猪木正道もマルクス主義が重層防御構造であると指摘している。つまり、あらゆる反論に耐える幾重の網羅的仕組みとなっているのだ。ポパーが反証不可能の典型にマルクス主義を挙げたのもこういうことだろう。壁を通り抜ける、共産党宣言で言われる「幽霊」そのものだ。蜘蛛とも言えそうだ、踏破性もあるのだ。そういえば以前のバグズ・ライフでかの昆虫学のファーブル先生が共産主義のメカニズムを節足動物に見出したと言ったが、蜘蛛(クモ)といえば複眼だ。そしてファーブル先生が「プルードン主義者」と罵った蝿(ハエ)も複眼だ。この複眼こそコミュニズムとアナーキズムの共通点と言えよう。あらゆる西洋思想がプラトンの脚注であったようにマルクスもそこに躍り出ようとした。マルクスはその目論見通り20世紀の脚注となった。そして共産主義に対する地球規模のヒステリーが巻き起こった。共産党宣言で奇しくもこのことが指摘されている。
「権力の座にある対抗派から共産主義だと罵られなかった政府反対党がどこにあるでしょうか。自分たちより進歩的な反対党にも、反動的な敵対者にも、共産主義という烙印を押すような非難を投げ返さなかったような反対党がどこにあるでしょうか。」
強迫的にどこにでも現れる恐怖の存在(アラクノフォビア蜘蛛恐怖症)。ロボットの反乱やインベーダーの侵略のネタ元になったのも理解できる。マルクス・エンゲルスは蜘蛛のように張り巡らす理論家でもあり、運動家でもあった。あのプルードンさえも組織に引き入れている。マルクス・エンゲルスのオルグで第一インターナショナルに当時の殆どの主要な社会主義者が集まった。そして第一インターナショナルで創立宣言と綱領をマルクスが起草したが、その器用さは人々を驚かせ、満場一致で賛成された。ここで初めて今までバラバラだった社会主義がまとまり、団結したのだ。インターでマルクスの敵対者だったバクーニンもこう言う。
「マルクスがエンゲルスと共に第一インターナショナルに最大の貢献をしたことは疑いない。彼は聡明で学識深い経済学者であり、イタリアの共和主義者マッツツィーニ等はその生徒と呼んでいい程である。但し、何事にも光には影がある。マルクスは、理論の高みから人々を睥睨し、軽蔑している。社会主義や共産主義の法王だと自ら考えており、権力を追求し、支配を愛好し、権威を渇望する。何時の日にか自分自身の国を支配しようと望むだけでは満足せず、全世界的な権力、世界国家を夢見ている」(バクーニン著作集第6巻)
バクーニンとマルクスの対決は集団的アナキズム(本質的に無政府共産主義とされている)と国家共産主義の対決とも言われる。元々バクーニンはヴァイトリングの影響下で共産主義者を自称していた人であり、バブーフやブランキといった共産主義者から理論を学んでいた。バクーニンも「マルクスが正しかった」と言って、後に資本論をロシア語で翻訳しようとしている。バクーニンを信奉するチョムスキーが初期マルクスを同時に信奉するのもこういうことである。ところでアナーキズムと言えば共産主義と表向き対立してきたり、一緒くたにされたりされるが、実際のところはどうだろうか。浅羽通明はアナーキズムは共産主義以上の永遠の理想論であり、今じゃポンコツだと言う。確かに永遠の理想論とも言えるが、理想論というのは語弊がある。理想論とはこう有るべきとするイデアリズムであり、理想主義に挫折したアナキストが唾棄するものだ。レーニン曰く目的は一緒だが、手段が異なるという。あのHakim Beyも神秘的無政府主義と共産主義は実際は一緒であるという。その後コミュニストは権威化するだが、これは後のサンディカリストのボリシェヴィキ化にも言えるだろう。理想郷も桃源郷も同じと思う方は多くいるだろうが、プラトンの系譜の理想郷の場合、社会批判的や世界変革的であるのに対し、老子の系譜の桃源郷は隠遁的で消極的である。前者がコミュニズムの典型であり、後者がアナキズムの典型とも言える。アナキストは今日にイメージされるナロードニキ的反逆者というよりは究極のニヒリスト、ペシミストだった。よくアナーキー(無支配)とフリーダムやリベラル(自由)を間違える方がいるが、言葉からして違う。自由を愛した古代ギリシャの賢人たちが徹底してアナーキーを否定したのもこういうことだ。所謂「何でも有り」は自由主義である。星新一のマイ国家を読めばわかるが、自由というのも物理的にも法律的にも条件があってこそ可能であり、「支配する」「支配される」ことを拒むのは有り得ず、ただ「無」(真空も無と呼べんし、無が有るという自体で論理が破綻している)とする完全なアナキズムは不可能である。今度は無が「支配している」と言ったり、「無が正しい」とするとニヒリズムと化す。スタヴローギンのようにニヒルな若者やスターリンのようにニヒルな権力者のように自分さえも疑ってしまうのだ。「無い」は井の中の蛙にとっての空や神であり、蛙にとって空や神が「無い」とされるように知らないものにとっては「無」で片付けられる。実際は「無知」ではなく、「未知」である。。結局「無」自体、「無い」のだ。アナーキーは終りも始まりも無いことをあらわした。無を議論するのは馬鹿げたことだ。マルクス主義やレーニン主義(ロシア共産主義)もファシズムも資本主義もアナキズムであると言えばアナーキズムだし、アナーキズムではないと言えばアナーキズムではない。これも解釈。社会的のみならず、哲学的にも厄介である。しかし、確かにいえることはアナーキズムは動物より少し進んだ段階であることだ。「無い」は対象が有ってこそ有る。だからアナーキズムには破壊しかしない。まさに理由無き殺人だ。理由無き殺人はルサンチマンが無いように見えるが、ルサンチマンが有る。あらゆる存在を憎んでいるからだ。理想主義に挫折したアナキストはアナキズムに挫折する。アナーキズムは黒がシンボルだが、それは「氏」をあらわすという。生に終りは有るが、氏に終わりは無い。この人間病に罹らないためには「生」の実践と実感を持ってあらゆる物と共生するしかない(唯物論)。あのニヒリズムを極めたユンガーやハイデガーが気づいたようにニヒリズムを超克するのであればコミュニズムだけだ。科学者にアナーキストが居ない。アナーキーは哲学の域だ。常に妥協しなければならないからあそこまでアナーキストもバラバラであろう、不完全であるからこそアナーキズムかもしれん。共産主義はアナキズムではないが、アナキズムは共産主義、アナキストは実際はコミュニストである(マルクス主義の場合はアナキズムと密接に関係がある、「疑え」がマルクスのモットーだった)。例えばアナーキズムの先駆者と言われるウィリアム・ゴドウィンも、ルドルフ・ロッカーも言うようにBritannicaとかにも書いてあるように無政府共産主義の創設者である。プルードンも晩年に「フリーコミューン」を唱えている。トルストイも無政府共産主義者だ。フランスの無政府主義のシンパと言われる文化人の多くは無政府共産主義のクロポトキンやブランキ、パリコミューンを支持していた。アナルコキャピタリズムは単に資本主義である。リバタリアニズムは無政府コミュニストのJoseph Déjacqueが考案した。今世紀のキーワードである「共有」「分散」「協力」「自律」「環境」を考えると「共産主義」にアナキストが妥協すればいいと思う。もちろんこの蜘蛛の巣も蜘蛛も共産主義的機構(存在)があってこそ可能である。私が思うにソ連やレーニン主義というのも一つ目の妖怪(サイクロプス)だった。それは余りに大きく狭いものだった。複眼こそが共産主義の狭小化を防ぐ方法である。AnarchoがArachnoへと変わる時、蜘蛛の巣は仕上がるのだ。Anarcommunism、Anarkommunism、Anarchommunismへ。
とここまで言っておいて結局私もアナキストである。レーニンが言うように「自由の王国」を実現する思想としてアナキズムは共産主義者の目的である。ジェファーソンの「自由の帝国」のヨーロッパ版と言ってもよい。それにオカルト的にもアナキズムが興味深い。アナキストのシンボル、サイクルAもメーソンからきている。Aと五芒星とピラミッドはそっくりである。サイクルのOもCの完成をあらわしている(オーダー)。プルードンもメーソンであったと聞く。「A」narchyと「L」iberalは神をあらわしている。例えばイスラエルのエル・アル航空。アナーキーもアヌンナキみたいである。このブログのアンドロメダもこれかも。これらはメーソンのルーツであるエジプトに遡る。近年アナキストが唱えてきた地域通貨の起源もエジプトと言われているが、やっぱりかと思う。