2008年7月11日金曜日

神という共産主義者

以前の宗教と共産主義でも述べた通り、神というのも実は共産主義者だ。キリストが、あるいはクリシュナが共産主義者だったと私は言いたいのではない。「有神論者」としてのマルクス主義者はベンヤミン(神的暴力や神的という提起)やルナチャルスキー(建神主義)が有名だが、共産主義が影響を受けたのがセムの宗教、つまり、一神教である。このセム的超越神を定義すれば「造物主」「超越的存在」「全知全能」だろう。まず「造物主」だが、神は万物を造られたわけだが、それは神から見れば皆財産であり、子供だ。プロレタリアート(子供しか持たないもの)である。イエスもそういえば大工だった。子供というのも親から見れば兄弟、姉妹という差があろうと同一であり、子供は親を共有する。宗教で言えば神の愛であり、工学で言えば部品のように共有可能、交換可能ということである。次に「超越的存在」だが、超越とは「分」や「私」を越えたものである。例えば生物学的分業を止揚せよ!!で言った生物が超越していると言えるのは分類目録を転覆しているからである。神も祖先も自然法則も万人がその関係において超越を共有(共通)している。だからプラトンも共産主義社会を構想したのだ。

「共産主義者の理論は、私的所有の廃止という唯一つの文に要約できる」(byマルクス)

以前の科学と共産主義で述べたが、マルクスも一種の「超越的存在」だった。といっても神のように完全性を持ったのではなく、20世紀で最も影響力を持った人物だからというわけでもない。神の目を共有していると思い込んだ昔からよくいるユダヤ的予言者(預言者)としてだ。マルクスはカントに影響を受けていた。カントといえば超越論哲学であり、手続きや概念の共有を前提とする(カントを小生産者の擁護者と見る向きもあるが、彼自身プラトンの国家の支持者であり、共産主義に反対していない)。資本主義が崩壊する運命にあると説きつつ、共産党宣言でも見られた資本主義に対する「礼讃」とも言える分析ができたのもここにある。そして「全知全能」であるが、これも以前のシヴィライゼーションとかでも述べたが、経済学で「全知」の仮定といえば計画経済と合理的期待である。ライプニッツによると神は世界をうまく共有し合うように決定しているという。「全能」の方だが、時空間を超えたものだとすれば精神を共有しているとも言えるだろう。旧約聖書の「全能」とは「全てを満たす」ことであり、スピノザの汎神論とも関係がある。カントールの実無限はカッバーラ的であり、共産主義的でもある。ボルツァーノは共産主義的国家を構想している。それとマルクスがよく無神論者と扱われるが、初期マルクスの言葉を引用しておくとしよう。

「神が人類および人間自身を高貴たらしめる普遍的な目的をあたえたのであるが、神はこの目的を達成しうるための手段をさがしもとめることを人間自身にゆだねた。神は、人間にもっともふさわしい。」

マルクスは確かに宗教を阿片と斥けたが、神に関してこのように考えていたのだ。マルクスのいたヘーゲル左派は「人間が神を発明した」「私こそ唯一者である」「超人だ」という連中の集まりだったが、マルクスも極端に強い自己意識を主張したブルーノ・バウアーの下で学んだから、こういったエゴが共産主義へと結びつく弁証法的過程を発見したのだろう。そういえばジャイアニズムの「お前のものも俺のもの」という論理も聖書からきている。この聖書の言葉は古くから財産を共有することを表していた。これと似ているかも。