2008年7月24日木曜日

エコ至上主義に不都合な真実

エコロジーは事実上スピノザを祖とする考えである。勿論それを公然と言ったのはある生物学者で、ゲーテを介してであ。これは超越性の内在を個人主義的「超人」から元々の汎神論を取り戻したのである。つまり、神学から生まれた。地球破壊を止めたければ唯物論と経済人たることを棄てないことである。経済とはオイコノモスであるが、家計を指した。家族が共産主義的であることはアリストテレスやヴェーバーを始め多く認められてる。つまり、「活動」より「計画」、「外部」より「内部」が経済の本質である。経済活動というと自然の資源を生産(改造・変形)して消費したら放出する(物質代謝)。放出したことから階級の自然成長(所産としてのプロレタリア)、ミュータントの反乱が起こる(スペースデブリ、公害)。

「人間たちが自然成長的な社会にある限り・・・人間自身の行為が、彼にとって、疎遠な対立する力となり、彼がこの力を支配するのではなく、この力が彼を抑えつける」(byマルクス)

ロボットにせよミュータントにせよ階級や疎外者(Ailen)を外部に作らず、リサイクル(環帰)を重視すべきである。「自然成長的形態は、共産主義革命によって・・・制御と意識的支配へ変えられる」。マルクスが批判した無歴史的思考とは無媒介的無関係的無規定的のことである。「あらゆるものが繋がっている」(何かを共有している)という考えが重要である。物理学でいえば大統一理論、哲学でいえばマルクス主義という「大きな物語」。環境が大切と思うのであれば経済人であるべきである。ここで言う経済人が狭い経済人(商人や企業の計算合理性の限界)を指すわけではない。単純に環境の操作であれば20世紀最大の環境破壊・殺戮と言われるスターリンの自然改造計画、毛沢東の大躍進であるが、もっと高度にした計画が要るであろう。インドに見られるような「自然の支配者である人間が猿のハヌマーンや牝牛のサッパラにひざまずいて礼拝する・・・堕落した自然崇拝」では環境破壊と一緒である(牛のゲップは温暖化を促進する)。コモンズの悲劇でわかったように自然は資本主義だろうと社会主義だろうと共有地であり、疎外(外部不経済)から包摂(内部化)させるべきである。この競合的共産主義(資本主義)と疎外態の共産主義(ソビエト共産主義)のジンテーゼを示す。まず個人単位の私的消費を共同的計画的消費に揚棄する。最適排出量を義務付けると同時に生産ノルマを義務付ける(権利を与えるのでもよし)。ここから21世紀のコミュニズムで言った自己完結(閉鎖系)から自己組織(開放系)のコミュニズムを考えるべきである。