2008年7月5日土曜日

人体と共産主義

かつて共産党は下部組織を「細胞」とし、党中央を「頭脳」としていた。昔ある方に「身体でも私有物だから共産主義は無理」と言われた。そうだろうか。今日の物質的段階を見渡せば臓器の移植や再生産が罷り通っている。精神転送も考えられてる。生物学でいう相同性と相似性も共有性が強いか弱いかの違いだろう。ウイルスに感染したら身体が隔離されるのも共有物として認識されているからだ。献体や手術でも共有物の認識がある。病院自体がインフラ下部構造として共有物である。

神経や免疫系でも共有物がある。脳もニューロンも細胞も情報を共有している。ある解剖学者曰く脳を共有できても、身体の場合、共有したくても難しいという。身体を共有したいという感覚もある。例えばアニメやプロレスを見て共感するのもそういう感覚があるからである。機械を操縦できるのもマクルーハン的に身体の延長として共有しているからだ。前者と後者をうまく表しているのがゲームだろう。ダンスや体操もそういう感覚が根底にある。セックスも感覚を共有したいためにあると思う。AV、エロ本、テレフォンセックスもその媒体だろう。だったら自慰や子孫を残す行為がどう説明されるか。まず自慰の場合、先の「感覚を共有したい」というものが夢という装置でされたものと考える。脳内でもコミュニケーションがあるのだ。一方、子孫を残すという行為だが、個体レベルじゃ利己的に見えるが、子供を守りたいとか親を守りたいということもプログラムで共有されているのだ。種レベルだと遺伝子を共有したいとも言えるかと思う。 ソビエト共産主義を人体に喩えると知の私有を否定して没収(白痴化)した結果、頭と脳が重量オーバーしてそれ以外が貧弱化して足元が潰れた、おまけにコストを削減する外科手術も失敗したと言える。総中流で腹を大きくしたデブ国家はダイエットができるから成功した。私有財産を否定するために共有した媒体が国家だったが、他の媒体も有り得る。