2008年7月8日火曜日

交換

よく物理学・数学の「交換」(Commutation)と商品の「交換」(Exchange)を混同する方がいるが、両者とも違う。前者がより「共有」(共産主義CommunismやコミュニケーションCommunicationと語源を共有する)に近いのに対し、後者の場合、「共有」に遠い。交換(コミュテーション)も数学で重要だが、物理でも重要だと思う。「力」「作用」「結合」といったものに関係するからだ。私が交換可能性を共有可能性(共通性)と呼ぶのもコミュニケーションと共有が不可分と考えているからである。「共有」が欲求であることも前回述べた。その媒体たる機械も下部構造と部品が独立していても共通性があるから組替が可能である。旧ソ連が臓器移植、中国が臓器再生産に熱心であるのもこういう哲学があるからである。しかし、血液型を無視したボグダーノフも遺体を肥料に使った毛沢東たちも問題に直面した。疾病が生じたのだ。自然基底からの人間の原生的疎外からとも言えるだろう(バイオハザード?)。つまり、人間の歴史は「自然」との階級闘争だった。このように物質の無限の外部性に幻想を抱くのも危険だが、スタートレックのレプリケーターのように科学技術が発達さえすれば物質化も可能だろう(文化唯物論の出番?)。そして経済学の当たり前として無限の財が共有される。西洋哲学も自然科学もプラトン以来の形而上学、「共有」や「同一性」のイデアによって発展してきた。今日のポストモダンも「差異の共有」というところで落ち着くだろう。ところで社会を群と考えるとコミュテーションが加法群である。やっぱりシステマティック過ぎるから失敗するのだろうか。実際の社会というと乗法群だろう。アソシエーション(結合)が重要ということか。