2008年7月19日土曜日

集合

「集合」といえば素朴心理学を引用する方がいるが、引用するのであれば社会学だろう。私はユングはフロイトに負けたと考えている。ユングは頑なに精神に拘ってオカルトに陥ったが、フロイトの場合、「唯物史観も真理」と言っている。原始は原子でもあるのだ。物質的基盤を強調したデュルケムと似ているだろう。この「集合」(SetというよりCollective)を最初に真剣に論じたのがルソー(一般意思)である。これに影響を受けたのがデュルケム(社会)やマルクス(経済、一般知性)たちである(興味深いことにユダヤ系の方が多い、ユングの集合無意識もユダヤ教から得たという説もあるが)。ベルクソンやデュルケムの弟子でマルクス社会主義者のモーリス・アルブヴァクスの集合的記憶も心理学の集合と関係あるだろう。集合と言えばアセンブリだが、ホッブズもこの言葉を使っている。機械的システム(例えばロボット)というのも部品(下部構造)が独立しつつ、共通した目的により組み立てられる(社会心理学による「集団」の定義と似ている)。唯物論的原子論的個人を前提とし、人工機械人間としたホッブズのコモンウェルズ(共有財産、共通利益)もこれだろう。契約ゲームと言われるものだろうか。構造機能分析のパーソンズだと「価値の共有」ということだった。集産主義(Collectivism)というと経済政策で言えば前回の工業や農業の集団化である。これも失敗した。膨張収縮のように集合と離散も両方重要ということだろう。今日強いのが合有や総有と違った個人主義的共有である。これは個人主義的固有と集団主義的共有を超えたものである。これを超えると言っては形而上学的であるのでこれをジンテーゼ(シームレス)したと言うべきか。shareという言葉は分配=共有ということをあらわしている。「支配」は「分配」の類義語。つまり、共産主義は支配主義でもある。共産主義の存在論である唯物論は一切を粒、つまり、小分けされていると考える。これはシェアすることに重要である。観念は資本主義社会だろうと共有される、それが人間の精神の営みであるからだ。観念の分配を考えたのがプラトンやライプニッツだが、タコツボの哲学だった。これを物理的社会的に考えたのがマルクスである(勿論先達はホッブズ、ルソー、デュルケムと)。「神聖不可侵の私」という観念が廃れてきているというのは確実にある。