2008年7月4日金曜日

共産主義と科学

今回は共産主義と科学である。フランス革命の時代、百科全書家や百科全書派によって科学と共産主義の一つの結節点ができたと私は考える。「自然状態」と「自然科学」の関係は深い。百科全書派は本によって知の特権的所有を否定し、知識の共有や平等を唱えた。この考えた方が今のインターネットやメディアの共産主義的傾向にも通じるかと考えられる。これを科学社会学のマートンによれば公有主義(Communalism)、共有主義(Communism)と呼ぶ。脳科学が共有主義の典型だろう。共有とは細分化(未分化が原始共産制に相当)に反対する体系化でもある。もっと考えれば真理や法則、定理といった科学の目的が共産主義的である。例えば人間の限界で科学の知識を共有してなくても、科学の法則が実在し、それを人間は共有している。差異と同一、相対と絶対、二項対立も共有性から成立しているとも言える。柄谷行人が多くの科学者がプラトン主義だと言ったのもこういうことか。そういえば柄谷が拠るカント哲学も概念とかの共有を説くものだ。いずれにしても「神の目」とも言うべき超越論的視点だろう。マルクスの時代、19世紀末、相対性理論が出る前に「方眼紙の宇宙」を共有していると考えられていた。1895年、タイムマシンが書かれたのだが、「時間という機械を共有しているのだから改変も共有できる」と考えた。 しかし、この絶対時間共産主義に痛撃を与えたのがあのアインシュタインの相対性理論である。時刻や時計(時間と違う)というのも「共有されたもの」としての前提があるが、 実際の時間というのも感じ方が相対的だから、これも人間の限界であり、人工的時間である。とはいえ相対性理論は厳密にはアナーキーではなく、よく見れば共通性、共有性、同一性を説いており、アインシュタインは反共主義者でもなく、むしろマンスリーレビューというマルクス主義の月刊誌で計画経済を公に支持しているのだが。相対性理論が出てきた20世紀、科学が危機を迎え、そして暴走していくわけだが、これを体現したのがレーニンだと私は思う。レーニンの「唯物論と経験批判論」を読むと、非常に科学に対する信仰を感じられるが、次第に科学や客観を通り越してイデオロギーに結びついていくことがわかる。これはレーニンがドグマティストだったからというよりむしろレーニンがわざとしたと考えれる。レーニンは強烈なリアリスト、プラグマティストだった。徹底した唯物論者のように見えたレーニンであるが、科学的唯物論を否定したソレルの暴力論やルボンの群衆心理をレーニンは読んでいたという。ソレル的に言えば命懸けの飛躍(エラン・ヴィタール)とでも言おうか。この非合理主義と合理主義の境界が曖昧になるのは20世紀の特徴だろう。外部注入論も唯物論的だが、介入・操作・誘導する主体を認めているのだ。そしてレーニンが理論面だけでなく、実践面でも恐ろしい同一性をもたらしたことを以前述べた。科学が宗教化したことはオッペンハイマー博士が自らを「神」に喩えてみせたところで頂点に達した。創世記の神の怒りのごとくユダヤ人にとって広島と長崎はソドムとゴモラであり、原爆の投下はベンヤミンが言ったまさに「神的暴力」だった(ザハロフやハーバーも絡めたいが)。これからの視点として語義矛盾かもしれんが、相対性を共有する、差異をいかに共有するかというものを考えていきたい(例えば空間を超えて経験を共有するとか)。