2008年7月16日水曜日

21世紀のコミュニズム

20世紀のコミュニズムが同一性だったとすれば、21世紀のコミュニズムは相似性である。理論、概念の共有から技術、実践の共有へ。プラトン的共産主義(デーモン)からマルクス的共産主義(カオス)への移行である。21世紀のコミュニズムが偏在する存在(超越者)を求めず、遍在する存在(観察者?)を求める。システム(同一性)というよりネットワーク(相似性?)だろう。倉庫から風船に供給主体が変わる。今までの共産主義(原始共産制を含め)も集合が中央(目的)を共有する惑星的共産主義というもので、今求められてるのが中央を介さず共有できるP2P的宇宙的共産主義である。 新しいコミュニズムにブランショやナンシーが解釈学を考えていたが、情報理論(自然科学)のコードモデルに基く共産主義に対抗するのであればプラトン的世界、ユートピアや天国を描かず、常に共有を生むことが重要である。それがネグリの言うディーストピアに希望を見出すことだ。解釈学というとフラクタルや自己相似性を説くだのが、解釈には縮小と拡大がある(宇宙的膨張収縮)。重層的決定によって本質を共有させることができるのだ。相似性といえば生物学で機能や器官を共有しつつ、祖先を共有しないことを言う。近代の歴史論争の焦点は「共通祖先」だった。どこが故郷かといった類だ。還元主義である。21世紀である現代、この祖先崇拝からまず抜け出すべきだ。もはや重力、地球という運命を共有する理由がどこにあるだろうか。この揺り籠からまず出るのだ。シヴィライゼーションでも言ったように資本主義も原始共産主義の延長にあるものである。 つまり、自然基底に疎外された上で成立している。 今日の疎外態といえば貨幣というマルクスの亡霊で言われた不老不死の幽霊である。 それが人間性を疎外した幻想である神や君主や貨幣や市場であり、 象徴(シンボル)の共有である。モノマニアやフェティシズムという原始共産制の慣習が資本主義でもより見られる。例えばメラネシアの原始共産制に見られるカーゴカルトが 資本主義のカタログ志向(性能数値、品質、材質、機構、製造企業等に過剰にフェティッシュ)に見られるのだ。 社会が分化し、自己完結した生活が極限に達したものであるのがオタクである。 オタクは心理学で捉えるべきで無くアニメ・ゲーム・インターネット・食べ物・漫画といった物質的関心を示す。 資本主義社会の熱心な消費者でもあり(データベース的動物でクリエイティブさに欠けるところがある)、 労働生産者で供給主体である親がいる(親がプロレタリア(子持ち)だからプロレタリアの所産ということか)。 一方でオタクというのも前述のモノマニアであり、ラフ(自然)を好み、コミュニティやメシアニズムに傾斜することがある。歴史的に見ればヒッピー(理想主義者)とオタク(仙人)は連続している。 その未開性がたえず知を求める遊牧民的で攻撃的、ハッカーのオープンソースの乱交的様相に見られる。 では、常民であるオタクと遊牧民であるニートに何故私たちが似た印象を持ってしまうのか。ノマド的にオープンで、農耕民族的にクローズ。この性質を矛盾無く共有しているからであり、資本主義の産物である。 この象徴の共有から行為の共有にするのが共産主義革命である。これで記号、表象、形式の操作の段階から解釈学や現象学の段階に移行するのである。人工知能でも自己完結モデル(デカルト的器官機械論)から社会的存在モデル(柄谷行人が言うマルクス的機械器官論)に移行している。古代でも「文字の共有」というより「解釈」によってロストテクノロジーが発達した。これも物理法則を共有している(結果が出る)から解釈ができるのだ。様式や仕様を共有しつつ、個性が多くある。複雑系である。 例えば歩くことも各人目的が違うが、手段として共有している。 今日資本主義で交換手段を共有し、貨幣の共同体を形成しているが、 生産手段が共有されてるだろうか。20世紀が社会主義(マルクス主義とそのカリカチュアと偽キリスト)の世紀であり、唯物論の世紀でもあったこと、21世紀が生命の世紀であることを私も認める。といっても人間原理を認めるわけではない。ドゥルーズによってファシズムに近い過激な生気論ではないことも自明だとわかった。デカルトの器官機械論とマルクスの機械器官論がジンテーゼ(シームレス)されただけだ。20世紀のコミュニズムが民族や戦争という同一性の鬼子によって分裂したとすれば、21世紀のコミュニズムも相似性を獲得するべきだ。「神聖な同盟」の「法王とツァー、メッテルニヒとギゾー、フランスの急進派とドイツの密偵」もどんどん虱潰しで神のリスト(神的暴力)から消されてゆく、いや今じゃ「資本と国家と宗教」の結託だろうか、国際主義も唯物論も階級闘争も正しいから反動勢力だろう。カオスも決定論ヤハウェの手にある。歴史の歯車がいつものように動いているのだ。宇宙の自己相似性(フラクタル)から人類が生まれた。唯我論的シミュレーションで私の都合を他が共有しているからでない。宇宙と自我が一部の情報を共有しているのだ。共鳴(コヒーレンス)、共振(シンパ)によって自己組織(オルグ)、進化する。私はSFではシェアード・ワールド(世界の共有)を好むが、どうやらパラレルと媒体を共有することでコネクトすることが今日求められてるようだ。そして21世紀のコミュニズムはもはや文明ではない。「文」(文字)が明かされぬ共同体である。それがもたらすのがクオリアという新しいカオスの共有であり、共同主観の客観化である。