2008年2月22日金曜日

シヴィライゼーション

サイバーフロント
2006
このシヴィライゼーションは知ってる人も多いが、RPGのParanoiaとともに私が贔屓しているゲームの一つである。Civの経済は実態とはかけ離れている。生産手段が集中的に管理され、必要に応じて計画的に生産と供給がなされるのだ。「能力に応じて働き、必要に応じて与えられる」(ゴータ綱領批判)という共産主義を実現している。いやMMOもそうだ。そして資本主義も一種の共産主義だ。これはコモンズの悲劇で証明された。つまり、資本主義もアジア的生産様式と同様、原始共産主義の延長にあり、「共有物」という前提で外部経済的に「競争」(搾取と収奪、競産)を認めるのだ。この様式はイオン結合や古典力学に近いだろう。マルクスも言っているが、「算術」はウェーバーが指摘する通り確かにプラトン以来から共産主義的であるが、計算貨幣機能は資本主義にも言えることだ。市場機構という計算価格貨幣機構によって経済主体は完全に情報を共有し、尺度を共有することで共有のもの(貨幣)に置き換え、それらの間での計算を可能にする。そして企業は自らの五カ年計画で動いているのだ。それは人工市場(または合理的期待学派、準マルクス主義者ロバート・ルーカスや「一種の共産主義」と言ったトマス・サージェントなど)にも関係する。「万人に対する万人の闘い」と言ったホッブズも一種の共産主義者である。 ルソーと同じように自然が共有されているものだと認めていた。 人工的機械たるコモン・ウェルズ、これもそのまんま訳せば「共有財産」である。 しかし、古典力学的自然観から共有であるが故に力が及ぶ限り闘うとした。ギリシアの神々の共有地をめぐる戦いを思い起こす。ホメロスでさえ大地はあらゆる者のものである。実はこの世界観はカントにもあったのだ。カントはこれを根源的共有態と呼んでいる。これはよく資本主義者に「機会の平等」と言い換えられるが。スペンサーやミルが共産主義に近かったのも頷ける。この「狭い共産主義」が「広い共産主義」に変わるのが量子物理学の時代だ。共有結合やラジカル反応がわからなかったあの時代、マルクス・エンゲルスが唯物論という科学観を明確にし、資本主義を徹底解剖しつつ、共産主義の大枠しか示さなかったのは正解だ。例え世界がブロッホの言う「実験」だろうと数学的プラトン主義的シミュレーションだろうとコミュニケーションをしていることに変わりはない。コミュニズムは超越的に見ればデミルウゴスの物理世界の無限地獄のようなループだろう。