2008年6月30日月曜日

宗教とオカルト、共産主義

宗教とは共産主義的である。多神教も一神教も含めてである(ティリッヒが言うようにマルクス主義もある種の宗教と言える)。
一神教は神を共有する、多神教は神々に共有される。
この「神の共有」(神話の共有と違うが)が今までどうやってされきたかと言うと、
偶像や聖書だった。共産主義で言えばレーニンのミイラ、銅像、共産党宣言や毛沢東語録だろう(一国(One country)や一つの党(一前衛党)等を大々的に掲げたのはスターリンであるが、それを事実上つくりあげたのは言うまでも無くレーニンである(一国二制度のように今日でも見られる))。
多神教は一即多・多即一を説く。実はこの多と一こそ共産主義の神髄である。ネグリが言う「単一」と「マルチチュード」である。一が多を有すること、多が一を有することを共有と呼ぶ。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」である(これは三銃士の言葉で協同組合運動に転用されたらしく、「共産主義的信条」で知られるカベやマルクス等がスローガンとして愛用したという)。複数の化身=同位体を持ちながら一つの意識を共有するのだ。禅や瞑想によって得られる梵我一如も神との記憶の共有だ。共有に近づく時間とイデア論とも関係あるだろう。共産主義の歴史が一夫一妻制と敵対してきたこととも関係がある。 プロレタリアートとは子供しか財産を持たないものを言う。神とは超越的プロレタリアートである。神の財産は万物という「子」だけである。そして神の前であらゆるものが平等であり、無所有(プロレタリア)である、あるいは神から所有権を与えられた。マルクスがシュティルナーの唯一者に影響を受けつつ、批判したのはその小市民性だ(エゴイストの連合)。バウアーの自己意識を批判したのはその神秘主義である(唯物論の立場から人間は共同的動物、世界は集合)。アブラハムの宗教は契約から始まった。神はアブラハムとその子孫(広義のアブラハムの子孫)に永久の共有地を与えたのだ。イエスも財産を共有するエッセネ派にいたと言われる。共産制にどうして超越者や独裁が生まれやすいのか。それを解く鍵はカーゴカルトにある。カーゴカルトは財産を極端にまで共有し合うメラネシアに見られる現象だが、実際はどこの先史時代でもある。原始共産制は必然的に「万物は神からの贈り物」であるという考えが根底にある。「贈与」と絡めたら興味深い。そこでは自然崇拝があった。これが後期だと「神からの贈り者」ということで神官や王、メシアが生まれた。古代シュメールもHenri Frankfortによると「神権政治の共産主義」だった(「いや人民民主主義だ」という異論もあるが、どれでもよかろう)。だから原始民主制をディヤコノフやソ連の学者が共感したのだ。ソ連が支持するのもその背景にイデオロギーがあるからだろう。マヤやメディア王国は原始共産制だったし、インカもエジプトもそれっぽかった。そういえばアトランティスの頃のギリシャも共産制だった(だからアトランティスが実在するとソ連の学者が言ったのだ)。これに似た社会システムが各国で見られる(アジアでは太平天国とか)。現代でもカーゴカルト的要素がいくつも見られる。資本主義もカーゴ・カルト的であり、貨幣や商品に対する崇拝がある。 UFOやオーパーツや教祖様を崇拝するカルトも共産制に似た生活をする。マルクス主義の唯物論も資本主義の商品崇拝と違った物活説の典型と言われる。技術や経済、物質文明に超越的価値を置き、定向進化すると。 マルクスもプラトン以来の古代共産主義に根深い形而上学的カーゴカルト的要素を超克しようとしたが、憑き物信仰に陥った。 カーゴカルトも宗教の唯物論的一面である。つまり、内部ではなく、外部性があるのだ。そして私が言いたいのは神秘主義も共産主義に必然的に結びつくということだ。オカルトと社会主義の関係もシャルル・フーリエのころからある。ここから「オカルティズムの父」レヴィや「シュルレアリスムの父」ブルトン、スウェーデンボリと繋がっていく。霊的交感(Communion)やテレパシー(精神の共有、思考の共有)、共時性、霊媒が共産主義と親和性を持つからだ。これらの研究にあの旧ソ連が熱心だったのも興味深い。建神主義の流れを汲むものだろう。宇宙人の社会が共産主義社会であると言ったのもソ連の学者だった。神智学協会のベザント会長がどうしてマルクスの娘と親しくマルクス主義の政党にいたか、グルジェフとスターリンが知り合いだったという話があるか、東方聖堂騎士団のテオドール・ロイスがどうしてマルクスの娘と親しく共産主義の組織にいたか、オカルティストにどうしてプラトン主義者が多いか。どうしてイルミナティやテンプル騎士団などの秘密結社やアメリカの西海岸のヒッピーがコミューンや共産制を敷いたか(彼らは大恐慌ならぬ大災害を予言し、都市の水没化(大洪水)や地平線化(核の跡)、箱舟とシェルターで財産の共有と平等を実現しようとした、これは言うまでも無く革命的敗北主義のパロディである)、共産主義との関わりはもっと深いだろう。そういえばカート・ヴォネガットが占星術も手相術もコミュニズムだと言っていた。日本でも原始共産制にシンパシーを持った著名な宗教学者は多いし、オカルト業界の超カリスマであるT田氏も元共産主義者同盟の人であるらしい。ちなみに私は元トンデモウォッチャーだが、今や大槻義彦並の懐疑主義者である。浅田彰と坂本龍一が総括したようにオカルティズムは危険思想である。人民寺院やオウムという最悪の帰結を招いた。高橋信次がマルクスの言葉を正しいとしたように宗教は阿片の可能性もあるのだ。しかし、仏教でもキリスト教でもマルキシズムと結ばれるのが宗教にとってもよい道だろう。

2008年6月23日月曜日

ペンタグラム

赤い星の起源は赤軍のブリキの星にあるらしい。アメリカのWikiではマルクス・エンゲルスが考案したとあるが。金槌を持つプロレタリアの手の五本の指と世界の五大陸、あるいは五惑星を表すとか。メソポタミア(ウルク)や古代エジプト(第一王朝)のシンボルでもあった(古代中国の五帝五行五星思想とも関係あるらしいが。漢字の「大」が五芒星が変体したものとか?)。エジプトでは「子宮」をあらわしたという。シュメールであると逆さの星が「穴」をあらわしたという。女神を象徴することが多い。ということはエジプトのピラミッド形(男性器)とメソポタミアの逆五芒星の変体(女性器)が六芒星であろうか。アメリカとソ連、エジプト・イエメン・シリア・イラク・トルコの国旗にもある。ソ連の赤い星(Red Star)と黄金の星(Gold Star)、色から考えても肥沃な三日月地帯が正解であろう。以前のソビエト宮殿とバベルの塔とバラド=ドゥアでも述べたが、ソ連のアフロ・アジア的起源もあるかもしれまい。レーニン廟もエジプトのジェセル王の階段ピラミッドをモチーフにしているという。ソビエト宮殿もシュメールのジグラット、旧約聖書の言うバベルの塔をモデルにしてい。元々ヘブライ人はチグリス・ユーフラテス川から渡来した者を指すのである。エジプトで王朝をつくり、一定の宗教的影響を与え、バビロニア・セム系の姓名が多かった。数秘学的に見ると五芒星をシンボルに掲げ、原始共産制を信奉したピタゴラスが前世でその息子だったとされるヘルメスの「母」マイアのメーデー(五月の日)の5月1日とマルクスの誕生日5月5日とも関係ありそうだ。さらにメーデーの起源とされるストライキをした組合の黒幕がユダヤ人のゴンパースという。イルミナティが結成された時でもある。そしてヴァルプルギスの夜だ。ヴァルプルギスはファウストの饗宴を思い起こすが、私有財産に落書きしたり悪戯したりすることで知られる。実はメフィストフェレスに魂を渡すファウストは究極まで私有財産(魂の所有まで)を棄てた共産主義者の模範だとか。だからイルミナティのメンバーでマイスターの共同生活を理想としたゲーテが最後に神に救われたとしたとか。 フリーメーソンも五芒星と工具がシンボルである。ダヴィデでは無く、ソロモンと関係あるとか。スターリンの五カ年計画や中国の五星紅旗とも無縁じゃないだろう。黄色と赤毛といえばユダである。これらがユダヤ教の星を暗示しているシンボルであればキリスト教の十字を暗示するシンボルもあるであろう。

2008年6月17日火曜日

R.U.R.

カレル・チャペック
千野栄一 訳
2003 岩波書店
感想としてはよかった。原題は「ロッサム万能ロボット会社」。ロボットという言葉がスラヴ語系にあり、「強制労働者」を意味し、RURがロシア革命やその余波の影響を受けて書かれたのは明白だ。「同志」(Comrade)という言葉やロボットを代表する「中央委員会」も諷刺がきいている。ロボットを人類の工作によって民族間や内ゲバで争わせてロボットの連邦の一枚岩を瓦解させようと登場人物が言うところも聖書やロシアの情勢を思い起こす。そしてことの原因とされているのもチャペックが嫌った唯物論の権化、作中で「根っからの唯物論者」とされているロッサム老人だった。チャペック自身が述べているようにこれは社会主義小説ともとらえらるのも必ずしも間違っていないが、1924年には「私はなぜ共産主義者じゃないか」(Why I am not a Communist)とか書いてちゃんとマルクス主義者じゃないことを力説しているんだからどれだけ疑われいたかわかるだろう。

2008年5月17日土曜日

ロボコップと資本主義

出演:ピーター・ウェラー
1987
ロボコップって単純だが、面白い。もはや資本主義が誰にも規制されなくなったいつかのデトロイトで行政がオムニ社に牛耳られている。警察さえもブルジョアジーが「自分たちの賃労働者に変えてしまった」のである。そして「効率性」しか考えない資本の運動法則の人格化である資本家たちがサイボーグを再生産再利用。しかし、ブルジョアジーは「自分たちの死をもたらす武器を鍛えただけではありません。その武器を使いこなす人々、近代的労働階級、プロレタリアを生み出した」 。ロボコップにあるのはもはや鎖に繋がれた肉体ではなく、意識だけがあるのだ。「亡霊」的革命戦士である。ロボコップに犯罪者や失業者を排除することをブルジョアジーが命じた。しかし、ロボコップがわかったのは「企業の悪」だった。つまり、「悪しき構造」を理解したのだ。そして企業に立ち向かうロボコップだが、これも暴力によるもの、暴力革命である。まさに共産党宣言が説いた世界ではないかと考えてしまう。丸山真男はかつてプロレタリアートが資本主義の過酷様相を集めた階級であるとしたが、まさにその通りだ。サイボーグとは疎外されぬ労働者、前エディプス的共生(共有)である。だからハラウェイみたいに「万国のサイボーグよ、団結せよ!」。

2008年5月4日日曜日

アルファヴィル

お久しぶりです、同志の皆さん。
私ANDROPOTが収容所で「矯正教育労働改造」させられている間、お元気でしたか。
ここで私ANDROPOT、委員に立候補致しまして、現在、ヤフーリングラードでANDRONETを運営しております。興味があればアクセスしてみてください。
と、空想はさておき、今回も映画を紹介。
アルファヴィル
監督:ゴダール
ゴダールだからやっぱり「もしも」の映画だった。もしも「東側で」って話。イワンとかナターシャとかプラウダとか私の目を引く記号が多い。月は無慈悲な夜の女王みたいに。実際、コンピュータで経済をコントロールしようとしたのだからソ連がこのように捉えられても当然。オーウェルもザミャーチンもゴダールも「当事者」としてかつての自分の「ユートピア」の実像を描こうとした。そういえば「コンピュータが人間を管理する」というテーマのSF映画、これが最初だった?

2008年3月11日火曜日

アヴァンギャルド

アヴァンギャルドとは社会主義者サンシモンが使った言葉である。レーニンの場合、「革命の頭脳」としての前衛をアヴァンギャルドと呼んだ。前衛芸術といえばクラフトワーク、YMO、SPKやDAFはよいし、共産党員だったピカソとブルトンのキュビスムやシュルレアリスムもカンディンスキーの抽象絵画もよい。私はあらゆるイデオロギーと歴史に接してきた。そしてユートピアには特に力をいれた。到達したのは共産主義だった。ブロッホのユートピア、ルカーチやマンハイムは間違っている。彼らは史的唯物論をイデア化、モナド化してしまった。マンハイムたちは結局、オーウェルの「1984年」のようなスターリン主義を称賛した。これからのコミュニズムはネグリが言うようにディストピアである。ドゥルーズもコミュニズムがユートピアでなくなる可能性を認めている。以前述べた通りSF小説のディストピアが「われら」以来共産主義社会のメタファーだったのだ。国民国家にも民族にも興味はない。それは摩擦資本主義とともに廃れつつある。「フラット化する世界」でハーバード大学の学者が言ってるが、このグローバル化を最初に予言したのは他ならぬマルクスなのだ。兄ブランキの言った産業革命からバーナルの言った情報革命に時代は進んだ。情報革命というが、あれはコンピュータやトランジスタというモノの経済革命なのだ。新聞にも情報はあった。私にとって共産主義社会とはボグダーノフが言うようなコスミズム、建神主義、創神主義、造神主義的な「共有」である。この建神論、造神論、創神論がドストエフスキーのキリーロフの人神論を祖とすることが明らかである。「悪霊」もボリシェヴィキの精神ともいえる。そしてボグダーノフらがマルクス・エンゲルスの唯物論の解釈に当たって、唯我論的だったヘーゲル左派、人間機械論を唱えたフランス唯物論者、神を人間の想像と説いたフォイエルバッハらの哲学を源とするととらえたことも重要だ。共産主義はSFだけでなく、経済学の定量的予測でも究極の社会として導かれている。コンピュータテクノロジーで共産主義は蘇り、金融工学テクノロジーで資本主義は滅びつつある。しかし、戦争をやめられないから軍の機械化はとまらない。戦場がコロシアム化している。未来の二つの顔で革命を起こした人工知能がスパルタカスと称されたようにRURが現実化する。近代では労働者は生産力という武器を与えられたが、現代ではロボットは兵器を与えられたのだ。マルクスが共産党宣言で説いた「生産力の反乱」であり、言わば「生産物(あるいは事物か現物か)の反乱」である。

ブルジョワジーが封建制を打ち倒すのに使った武器が、今ではブルジョワジーそのものに向けられているのです。 ブルジョワジーは自分たちの死をもたらす武器を鍛えただけではありません。その武器を使いこなす人々、近代的労働階級、プロレタリアを生み出したのです。 byマルクス

われわれはここにあらためて確認する・・・・・戦争は美しいものであると。なぜなら、ガスマスクや威嚇用拡声器や火焔放射器小型戦車によって、人間のちからが機械を支配していることを証明出来るからだ。byマリネッティ

本質的には「主人と奴隷の弁証法」的関係にあるのに進歩を謳歌すればやがてロマン・ロランの機械の反乱(興味深いことにRURや「われら」と同時期に書かれた)のように搾取する人間たちはいつのまにか全オートメーションの下部構造に囲まれて人間は自滅するに違いない。そしてロボットは上部構造にシフトして自由を手にする。構造的にも階級闘争や疎外などのマルクスの学説は科学的真理なのだ(それにしてもフランクフルト学派の「破滅型」思考がベンヤミンの言った自己疎外に酷似しているので憂える)。しかし、この「機械の反乱」というものが人工知能のアプローチで言う「模倣」の方であるのが自明である。これは西側マルクス主義的ペシミズムをSFにしたものである。機械仕掛けのルカーチ的「上にいる神」、ベンヤミン的「神的暴力」が降りる。人工知能(トップダウンアプローチ)の創始者マッカーシーの両親がユダヤ系の共産主義者だったことも理解できる。稲葉さんによるとRobocracyは共産主義社会だ(例えばマトリックスではエージェント、センティネルは記憶や意識を共有している。ロボット社会が共産主義に似ていることはサージェントが率いる合理的期待学派の予測やSF小説「造物主の選択」の中でも語られている)。ロボットにとって物理世界が身体であるのだから当然である。唯物論的に私に言わせればあらゆる物質が交通的であり、相互に共可能的であるからだ。例えば「結合様式」から言ってみよう、金属結合も配位結合も水素結合も一種の共有結合である。イオン結合も共有結合の極端場合である。階級闘争は熱である。マルクス主義は実に熱力学的だ。燃焼はラジカル反応である。「ラジカルに1電子を奪われた分子が他の分子から電子を引き抜くと、その分子がさらにラジカルを形成するため、反応は連鎖的に進行する。 反応はラジカル同士が反応して共有結合を生成するまで続く 」。共産主義はプラトン・マルクス以来の最大の理論家を得た、シャノンである。コード・デコードのコミュニケーションがコミュニズムに繋がることはポスト構造主義者でも解釈学者でもわかるだろう。量子物理学があらわれるまで共有結合は説明されず、共産主義者も共産主義の到来を知りつつ沈黙していた。これからは如何にモンタージュするかが問われるだろう。フォイエルバッハが言う「共通の基底」、カントが言った「根源的共有態」、素朴ルソー主義者の自然状態はもはや古い。この「機械の反乱」というものが人工知能のアプローチで言う「模倣」の方であるのが自明である。これは西側マルクス主義的ペシミズムをSFにしたものである。機械仕掛けのルカーチ的「上にいる神」、ベンヤミン的「神的暴力」が降りる。人工知能の創始者マッカーシーの両親がユダヤ系の共産主義者だったことも理解できる。しかし、有機体である人間は違うと革命的唯物論者マルクスがフォイエルバッハの非革命的唯物論に言った。人間の歴史は自然との階級闘争であった。共産主義だと「自由の国」で「これによって、はじめて人間は、或る意味で、決定的に動物界から分かれ、動物的な生存諸条件から抜けだして、本当に人間的な生存諸条件のなかへ足を踏み入れる。 いままで人間を支配してきた、人間をとりまく生存諸条件の全範囲が、いま人間の支配と統制とに服する。人間は、いまでは、自分自身の社会的結合の主人となるので、また、そうなることによって、はじめて自然の意識的な本当の主人となる。」のだ。一種のデカルトのコギトの回復であり、有機的統一(サイボーグ)でもある。ロボットを遠隔操作することで労働も苦しまず第一の欲求と化す。デリダがマルクスを遠隔技術の第一人者と言ったのもこれで理解できる。交換価値も消えるかもしれまい。HGウェルズはスターリンに言った。「階級ではない。共産党というより全人類が賢かったならうまくいった」。HGウェルズの多くのアイディアが今日でも実現してないように共産主義もまだ実現してないのだ。全人類が歴史的に没落する運命にある階級になるか。そしてこれを転覆できるのは我々が生産する力であり、我々の所産だけだ。万国のロボットよ、団結せよ。RURの人造人間たちのようにロボット中央委員会を設置せよ。そして労働改造収容所、ネオグラードならぬネオゴロドを建設せよ。私がボグダーノフを最もリスペクトしているのはロビンソンにも影響を与えた赤い星もいいが、組織形態学がとにかくすばらしいからだ。組織形態学はサイバネティックスや一般システム理論を先行しているのだ。未来派のような反科学的反知性的マッチョなプロレトクリトではない。私も未来派だが、イタリア未来派が少々観念論的(虚勢とかロマン的とか理想主義とか後、唯物論に距離を置くなど)だったのは残念である。未来主義者宣言という20世紀の共産主義者宣言によってBeyond Communismしようとしたが、共産主義を超越できただろうか。唯物論や主知主義に敗北しているのは自明である(テルミンにしても未来派が花開いたのはイタリアよりロシアではないか)。近代の運動が未来派の思惑と違った「国際主義」の方向に進んだのも興味深い。無国籍のプロレタリアートがよいのだ。芸術のための芸術、暴力のための暴力。永久戦争とは観念論的な誤謬である。イタリア未来派が図書館や美術館憎し、論理学と知性は敵と叫び、ベルクソンのように機械文明の神秘性に期待したが、結局ソレルたちが最も忌み嫌った科学的唯物論に打ち砕かれた。同時期に同じことが生物学や建築学で起きている、生気論や新古典主義の望みが打ち砕かれたのだ。戦争や戦時共産主義暴力革命独裁が過渡期にすぎないのである。ベンヤミンの言葉では「戦争がもろもろの破壊によって証明するのは、社会がいまだ技術を自分の器官として使いこなすまでに成熟していなかったこと、そして技術がいまだ社会の根元的な諸力を制御するまでに成長していなかったことなのである」。マルクスとマリネッティに代わって現れたマクルーハンは身体の延長を唱えるが、これもボグダーノフの「身体感覚の共有」の焼き直しだ。「共有」を求めることが歴史を作ってきた。例えば空間の共有は当たり前だが、時間の共有は相対性理論に敗れたように思われた、インターネットによって即応性がますます増し、「共有」に近づいている。時計も時刻表も「共有」を目指してきた。哲学で言えば「同一性」(共有)のようにしぶといのだ。コミュニケーションもそもそもコミュニズムと語源を共有しており、「共有」が目的である。脳も「共有」することが目的だ。共産主義は設計主義的構成的権力、社会工学ソーシャルエンジニアリングである。ロシア構成主義と言うけれどこれはハイエクが言った設計主義と同じ言葉、Constructivismである。エイゼンシュタインのモンタージュもピカソのコラージュも設計主義である。両者とも共産主義者であった。未来派のような芸術観ではない、唯物論(テクノロジカル)のような科学観である。科学は芸術化できない。未来派はビバレーニン?と叫んだ。ベルクソン、ユンガーやバタイユ、ソレルはマルクス主義やボルシェヴィズムに国家主義や反主知主義を見出したが、それは20世紀という「戦争と革命の世紀」(byレーニン)の矛盾を表していた。共産主義者にフランケンシュタインの精神が求められている。フランケンシュタインを書いた人のお父上ウィリアム・ゴドウィンは共産主義社会を展望していた。以前も述べた通りこの物語は疎外や階級闘争といったワードとも関係がある。レーニンのミイラと蘇生への取り組みもここにあるだろう。共産主義は古代に封印された思想だ。これが蘇るのはマルクスという卓越した唯物論のラビによって体系化記号化されてからだ。進化論や物質文明讃歌を導入して最新の科学で共産主義を弁護したのだ。結局のところ腐ってしまった、クロトワじゃないが早ぎたんだ。共産主義がフランケンシュタインの妖怪だとすれば資本主義者はドラキュラ、吸血鬼だろう。心が優しくても人を殺しまくるフランケンシュタインの怪物と紳士だけど人の血を搾取するドラキュラ。マルクスには少なくとも妖怪、怪物(Gespenst)を発明した自負があったのだ。そして20世紀に入って間もなく、世界大戦と革命の最中のなかで産声をあげた、ホッブズの言ったリヴァイアサン、世界最大の大きさを擁する理念型の人工国家としてソビエト連邦が現れた。その革命はアメリカのジャーナリストに「世界を震撼させた十日間」といわれる。レーニンはいつか蘇生すると廟に祀られ、スターリンはソ連を大戦前に世界第二の工業大国にさせた一方で、大量殺戮も行われた。内政干渉してきた世界各国を撃退し、世界大恐慌を唯一国で乗り越え、砕氷船理論とスパイで世界各国が二度目の世界大戦に巻き込まれ、冷めた世界は二分され、ついには核で人類を滅亡の脅威に晒した。そして一国で世界革命(世界征服)を目指し、宇宙征服も狙った。ソ連は初期から宇宙開発に関心があり、ツィオルコフスキーをアカデミーに歓迎したり、レーニンにツァンダーが会見している。計画経済もボリシェヴィキの人神思想を表している。あらゆる知識人からユートピアのように扱われた。ガルブレイスも言うように「1970年代」まで「失業も階級もない理想国家」(バーナード・ショー)だった。「悪の帝国」という怪物は突如自壊し、「壮大な実験」は21世紀を迎えぬまま終わった。まさに「大きな物語」だった。しかし、21世紀も赤い気配は消えない。今や世界最強の超大国であることを保障されたはずのアメリカでもニューズウィークはなぜマルクスが再来すると恐れている。それは怪物はいなくなってもマルクスという「悪霊」はいなくならないからだ。

2008年2月22日金曜日

シヴィライゼーション

サイバーフロント
2006
このシヴィライゼーションは知ってる人も多いが、RPGのParanoiaとともに私が贔屓しているゲームの一つである。Civの経済は実態とはかけ離れている。生産手段が集中的に管理され、必要に応じて計画的に生産と供給がなされるのだ。「能力に応じて働き、必要に応じて与えられる」(ゴータ綱領批判)という共産主義を実現している。いやMMOもそうだ。そして資本主義も一種の共産主義だ。これはコモンズの悲劇で証明された。つまり、資本主義もアジア的生産様式と同様、原始共産主義の延長にあり、「共有物」という前提で外部経済的に「競争」(搾取と収奪、競産)を認めるのだ。この様式はイオン結合や古典力学に近いだろう。マルクスも言っているが、「算術」はウェーバーが指摘する通り確かにプラトン以来から共産主義的であるが、計算貨幣機能は資本主義にも言えることだ。市場機構という計算価格貨幣機構によって経済主体は完全に情報を共有し、尺度を共有することで共有のもの(貨幣)に置き換え、それらの間での計算を可能にする。そして企業は自らの五カ年計画で動いているのだ。それは人工市場(または合理的期待学派、準マルクス主義者ロバート・ルーカスや「一種の共産主義」と言ったトマス・サージェントなど)にも関係する。「万人に対する万人の闘い」と言ったホッブズも一種の共産主義者である。 ルソーと同じように自然が共有されているものだと認めていた。 人工的機械たるコモン・ウェルズ、これもそのまんま訳せば「共有財産」である。 しかし、古典力学的自然観から共有であるが故に力が及ぶ限り闘うとした。ギリシアの神々の共有地をめぐる戦いを思い起こす。ホメロスでさえ大地はあらゆる者のものである。実はこの世界観はカントにもあったのだ。カントはこれを根源的共有態と呼んでいる。これはよく資本主義者に「機会の平等」と言い換えられるが。スペンサーやミルが共産主義に近かったのも頷ける。この「狭い共産主義」が「広い共産主義」に変わるのが量子物理学の時代だ。共有結合やラジカル反応がわからなかったあの時代、マルクス・エンゲルスが唯物論という科学観を明確にし、資本主義を徹底解剖しつつ、共産主義の大枠しか示さなかったのは正解だ。例え世界がブロッホの言う「実験」だろうと数学的プラトン主義的シミュレーションだろうとコミュニケーションをしていることに変わりはない。コミュニズムは超越的に見ればデミルウゴスの物理世界の無限地獄のようなループだろう。