プロレタリア文学のSF的側面、SFの階級闘争的側面を指摘したのはよかったが、いただけないのはフリッツ・ラングの話である。 著者はメトロポリスに拘らず、それ以前の作品も取り上げるべきだった。例えばカレル・チャペックのR.U.R.など(1921年頃であり、ロシアと東ヨーロッパで大きな動きがあった。ザミャーチンの「われら」やロマン・ロランの「機械の反乱」はこの時期に書かれた)はどうしてしまったのか?あと、ナチが頼んだのはシラーの古典ヴィルヘルム・テルの映画化であり、メトロポリスのような映画ではない。ナチ宣伝相はメトロポリスより前のラングとハルボウのニーベルンゲンの大ファンだった。それよりも脚本におけるラングとハルボウの考えの違いは意外と知られてないようだ。メトロポリスの労働者の代表と資本家が握手するラストはハルボウのアイディアであり、ラングではない。ハルボウの協調組合主義的な傾向が表れている。階級闘争を導くアンドロイド(ユダヤ人?共産主義者?悪魔?)が悪であり、頭と手は協力すべきと言ってるからこの点がナチ宣伝相に気に入られたようだが、批評家が酷評した。ラングも批評家と同じようにPeter Bogdanovichとのインタビューで大いに不満を漏らしている。ハルボウはラングが居なくなれば大したものを書けなくなったが。それと著者はアンドロイド(未来のイヴ)とロボット(ロッサム万能ロボット会社)の違いに気づきかけているが、マリアをロボットとしてしまっている。アンドロイドとロボットの違いは人形と機械の価値の違いにある。 メトロポリスの社会はロマン・ロランの「機械の反乱」のような自動化はなく、産業兵化している。見た目もリラダンのアンドロイドを継いでいる。未来のイヴと革命は直接は無関係だが、リラダンはパリコミューンを支持していた。
そしてラングがユダヤ系だったという事実は重要だ。映画でも五芒星が出てくるが、六角形がユダヤ教だが、ユダヤの暗示だと言われている。錬金術などをユダヤと重ねているのだ。RURも「唯物論者」としてロッサムが出てくる。マリアはユダヤ人に多い名前ではないか。チャペックはユダヤ教に伝わるゴーレムをロボットの原型だと言っている。ロボットという言葉は実際は兄のヨゼフが造ったが、ヨゼフの方も親ユダヤ的でナチに対する際どい辛らつな態度によりナチの強制収容所で死んだ。つまり、ロボットは元からユダヤ教に通じている。ギルガメシュ叙事詩のエンキドゥもセム系が書いたのかもしれん。アイザック・アシモフのロボットに対する熱意も有名であろう。最近ではスピルバーグがロボットやAIの映画を撮り続けているのも記憶に新しい。ターミネーターのデザインを手がけたアニマトロニクスのパイオニア、スタン・ウィンストンもユダヤ系である。文化人だけではない。AIの父であるミンスキーもマッカーシーもユダヤ人である。ユダヤ系でサイバネティックスの父ノーバート・ウィーナーもこれを知っていたようである。God & Golem (科学と神)にこう書いている。
The ability of machines to learn, and their potential ability to reproduce themselves, lead to the question: 'Can we say that God is to Golem as man is to machine?' (In Jewish legend Golem is an embryo Adam, shapeless and not fully created, hence an automaton).
なお、ラングの反ナチ映画の中では『死刑執行人もまた死す』が傑作であり、ヴェネチア国際映画祭特別賞を受賞している。この映画はウェクスリーやブレヒトといった熱烈な共産主義者と合作したにも関わらず、イデオロギー色は酷くなく、娯楽作品としてもよくできている。やはりラングの技術は凄い。完成後すぐアメリカで「共産主義的な傾向」という理由で徹底的にカットされるほどイデオロギー色があったメトロポリスが傑作でいられるのもラングの技術的な手腕によるところが大きいだろう。