2008年8月23日土曜日

20世紀後半の総括

20世紀といえば「戦争と革命の世紀」だが、前半は社会主義の世紀だったが、後半は資本主義の世紀だったように思える。西側マルクス主義を先導したグラムシはロシア革命は資本論に反する革命だとして先進資本主義国で革命をすべきだとした。ここから生まれたのがポストモダンであった。資本主義国では党ではなく、代わりに「小さな物語」、いくつものセクトやコミューン、会社ができた。マルクスやニーチェが信奉したエピクロス主義、快楽主義、物質主義、バタイユ的蕩尽が持ち上げられた。持っていたら価値が無いというのは古代からあるが、ポトラッチのように私有財産を棄てたり、投じて浪費していく(カーゴカルトの場合、贈与されたら偶像崇拝的保守的に共有する)。新左翼(赤軍派)も新興宗教(オウム)も新興企業(ライブドア)もこの対抗文化から生まれたからよく似ている。サブカルチャー(下位文化、上部構造の下部構造)もカウンターカルチャーに影響を受けている。新自由主義、所謂アナルコキャピタリズムもニューエイジ・エコノミー論もプロテスタンティズムを超えたハイパー高度資本主義のユートピアだった。日本でいえば吉本隆明、長谷川慶太郎、堤清二あたりが戦後転向知識人の資本主義万歳を煽ったが、日本型社会主義もソ連や大型コンピュータと同様、70年代あたりで衰え、80年代にはパーソナル化(個人主義)やペイガニズム、エキゾティシズム、異教異国情緒的オカルトの再来、バロックやロココとも言える装飾過剰奇抜な格好や建築や反生産的チープ映画が流行する。この頃から中国が唯物史観の独自の解釈から市場経済を導入した(それとインドも)。90年代終わり頃を考えたければマトリックスがいい例だ。以前も述べたが、ボードリヤールも親中派だったが、映画には撮影から音楽まで中国とインドの要素が散りばめられている。ゴダールの映画やYMO、カルトの作務衣で見たように毛沢東やネルーの人民服を着ているのだ。マトリックスもそういう20世紀後半のガジェットの苦し紛れのオンパレードだったから世紀末を飾るに相応した。スターウォーズと違うのは結果として二元論じゃなかったところだろう。生産社会も消費社会も駄目であればこの二つの境界を解放することである。人民服がユニ○ロのようにジェンダーを自由にさせるように。競争も協力もできるのも共生しているからだ。競争の「競」産主義も協力の「協」産主義も共生の「共」産主義があってこそある。この偶像化(物神崇拝)できない「自由」を共有するエピクロス的共産主義でなければ、またストイックで禁欲的な共産主義が蘇るだろう。つまり、個体的質・量が計画化(共有化規格化)され、規制が張られ、制限が設けられ、消去主義的唯物論のように科学的に消去されていく管理社会だ。