2008年7月2日水曜日

軍と共産主義

今も各国の軍人にとって「アカ」は国家に対する最大の脅威であり、忌み嫌われてるわけだが、軍隊と共産主義の関係は結構深い。共産主義が昔から理想としてきたのが実は軍隊であり、その次が宗教である。例えばプラトンがスパルタのリュクルゴスに感銘を受けていたのも有名である(一説では私有財産も禁止していたらしいが、これもプラトンの文才によるものかも)。マルクスの「食卓的共働態」とも関係しそうだ。バブーフも軍隊の制度を自らの共産主義ビジョンの例に挙げていた。マルクスの相棒であるエンゲルスもかなりの軍事オタク(ミリオタ)であり、多くの軍事評論を残し、周囲から「将軍」とまで呼ばれていた。史的唯物論と軍人の世界観も近い。

「軍隊の歴史は、生産力と社会的諸関係との関連に関するわれわれの見解の正しさを、何にもまして鮮明に浮き上がらせている。」(Correspondenceより)

私もそう思う。軍事も戦争も決してその無知熱狂者が言う息苦しい「観念」のものに留まらず、常に物質、産業経済、兵器類と関係がある。マルクス・エンゲルスの時代、19世紀末、機械的再生産と鉄道輸送、電信が大きく役割を果した。これらもいつも私が言う「共有」というイデアの影である。合理化を進め、時間差を消し、時間を共有させようとした(統一、均衡も共有の劣化コピーである)。これにより時間と空間が変化した。レーニンも「鉄の規律」だとか戦時共産主義で軍国的だったように、「革命は戦争である。唯一の、正当な、正義の、真に偉大な、戦争である」と言っている。そもそも20世紀が「戦争や革命の世紀」であることを告知したのがレーニンだ。戦争も階級闘争であるとしたソレルもユンガーもボリシェヴィキを称賛している。これらはウェーバーによると「戦友愛の共産主義」というものである。塹壕の共同所有(運命や沈黙の共有)である。軍隊の行進も「共有」(同期)を志向していると言える。ロシア革命が第一次世界大戦とともに起こり、戦艦ポチョムキンなどの兵士の反乱から始まったことを考えると確かにそうだ。私もSFファンだから軍事に興味があり、共同生活で共有して計画的に経済を運営している宇宙艦隊や宇宙要塞こそまさに将来の共産制であると考えていた。しかし、軍隊にも階級制がある。それも二つじゃなくてカーストのように多いのだ。ここで「映画」に見られたベンヤミン的問題提起が生じる。つまり、階級性を超えたように一瞬見えても資本家に充用されれば現実の身分、悪しき構造は維持される。コーポラティズム(労資の癒着)の余地が出てくるのだ。そしてその恐れた事態がファシズムによって実行された。「民族」や「人種」という国家資本主義の「神話」によって階級性は消されず、覆い隠されたのだ。これを最も端的に教えてくれるのが攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIGのクゼだろう。クゼも結局操られてたわけだが、「下部構造から上部構造にシフトすべき」というテーゼに大いに共感する。クゼの場合、上部構造がネットだったが、私にとってITインフラが下部構造であり、その上部構造へのシフトを唱えたい。まさに著作権問題やゲノムの所有問題で苦しんでるのが今のブルジョアジーで、階級国家からの脱皮(グローバルビレッジ)に近づいている。結局のところテクノロジー自体も目的合理性、中立的であり、所有の外部にあるということだ。コーポラティズム亡き今のアメリカ軍や世界の軍隊を見るとどうも前世紀より一層産業資本(軍産複合体)の暴力装置であり、それ自体がテスト兵器であるオモチャ兵隊と化してるようだ。湾岸戦争も「見本市」と呼ばれ、イラク戦争の目的も石油にあった。最近のゲームをやっていると、資本が国家を超えた権力となり、傭兵を従えているという設定が多い。実はこの世界観はベンヤミンの目論見通りである。「民族」や「人種」という国民国家を支えた神話がブルジョアジーによって「用済み」と棄てられた今、ブルジョアは次の段階に入ろうとしている。警察も賃労働者化してロボコップと化すかもしれまい。しかし、これも共産党宣言で述べられた「主と奴の弁証法」が働くだろう。資本家は自らの墓堀人たる疎外(Alienation)されしもの(エイリアン)や妖怪(Gespesnt)を生産しているのだ。この生産力がやがて人間に反逆し、支配や破滅をもたらすであろうこと、自明である。