出演:スティーブン・パスカル
2008
AVP2を見たので再論しようかと。前回、身体の共産主義的考察をしたが、内臓レベルで共有可能性を見出しても実際の人間というのもブサイク(非モテ)とイケメン(モテ)という差異がある。ゲノム情報を99.9%近くも人類が共有しているにも関わらず、その小さい差でここまで違うのだ。これを裏返して見れば共有されるものも多いともとれる。超越的に見れば差異も共有しているとも言える。どこまでを人間と言えるかという問題も関係するだろう。DNAの蛋白質合成だけで「超人だ」とか戯言を吐く連中が無学であることは言うまでもない。人類も脳というプラトンの洞窟の住人でもあるが、決して独房の中の理性でも無く、コミュニケーションという機能がある。以前にエイリアンで述べた通り、Alienというのも疎外(Alienation)されし者である。エコフェミニズムに加担するわけじゃないが、身体の疎外を身近に感じられる例が少子化である。女性の社会進出が子供を生産するという自然機能を疎外しているから出生率が落ちるのだ。心理学者の言葉を借りれば母性である。しかし、これを否定してただ「自然に帰れ」だけであれば女性差別主義者である。マルクスの疎外を客観命題として事実上承認すべきだ。自然科学の世界でも疎外がよく見られる。だが、この技術に対する社会の未熟、制御不可能性や事故を喜んで「人間よ、滅べ」としてしまうとかつての未来主義者だ。共産党宣言と未来派宣言も階級闘争という似た趣味を共有するが、共産主義者が「革命の成功」を前提とするのに対し、未来派の場合、戦争自体が目的だから「階級の共倒れ」を内在している(物象化の対が速度というのも興味深いが)。着目すべきが資本主義のそういった一面がエイリアン(疎外された者)を意図せずに大量生産してしまうということだ。最近の女子が男言葉を話すのも疎外の矛盾だろう。つまり、画一化をもたらしている。SFのエイリアン(宇宙人)や地球外生命体が平等に面を共有している、「顔や体が同一化」しているのもこういうことだ。結果的にこれが「プロレタリア階級の組織化」に至る。タイムマシンのモーロックのように下層階級の人々が不細工と化すのだ。平等にブサイクと化したことで恋愛も計画化する。一方で疎外(自然)に適応し、進化する。障害や突然変異を持ったものが時として脅威的能力を獲得することと似ている。貧乏人がすばらしい生命力を持ち、プロレタリアがすばらしい身体能力を持つこととも似ている。エイリアンが初めは生物兵器として開発されたというのも興味深い。映画の中でもまた「疎外」と「奴隷と主人の弁証法」が働くのだ。例えば「今日から共産主義だから一個の公衆便所を皆さんと共有しましょう」としたとする。するとやがて公衆便所が自我に目覚めて「平等に接してやるんだから俺を掃除しろよ」と強制してくる。市民の共有された意思(一般意思)の所有物だった国家が人格者と変わり、 男どもの産む機械だった女が女王蟻と化す、 研究員がリソースの共有に利用していたコンピュータが自意識に目覚めて人間に命令をしてくるというSF、 資本家が労働者を従えていたのが、生産手段という資本家の心臓を握っていることに目覚めた労働者が会社を乗っ取るというプロレタリア文学。 かつて月は夜を照らす共有物だったが、奴隷制の王たちによって象徴共有(神)に変わった。しかし、今やブルジョアは月を征服してしまった。愚かなことに貨幣のような不老不死を企んでいるブルジョアは次の支配階級を育ててしまっているのだ。エイリアンはやってくる。われらの中から。では、「革命後」の共産主義社会ってどういう社会だろうか。
私がいい例だと思うのがプレデターである。文明を肯定しつつ、狩猟採集に似た生活をする。未開と文明の弁証法的綜合である。宇宙船で小さいコミューンを形成し、狩りに出る。獲物を狩った後に仲間のもとに持ち帰る。マルクスのまさに種族的所有(原始共産制)だろう。映画では人間を狩っているが、弱者にも優しい。プレデターの特質を見ていると未開人やインディアンのイメージがあるとも思う。ところでプレデターも個人の活動着が認められている。支給されたものというより私有財産である。所詮映画だからあくまで参考ということにしておく。 プレデターにせよエイリアンにせよどれを選んでも資本主義に希望は無いのだろうか。