2008年7月13日日曜日
デザインとアイディア
以前の蜘蛛の蹂躙、あるいは共産主義とアナーキズムで述べたユートピア性というのもアイディア(理想主義)とデザイン(ハイエクの言う設計主義、構成主義)、同一性(identity)からくる。アイディア(idea)というのもイデアであり、理想主義というのもイデアリズムだ。イデオロギー(ideologie)とも語源を共有している。プラトンの場合、イデアを共有しても物質界じゃ粗製であるとした。マルクスにとって資本主義における機械的生産の無計画性であり、イデアというより下書きである(下部構造)。近代デザインの父と言われるウィリアム・モリスもだからマルクス主義者だったのだ。プラトンが目的とすれば、マルクスは手段を重視する。マルクスが技術を中立的に見ていたのも、仕様というか手段として共有できるし、構造的にも共有するからだろう。しかし、マルクスは神という共産主義者でも述べたようにあくまで決定論ヤハウェの立場にあり、受苦者の運命と社会を見つめる全知全能(絶対静止共有時間)の神の眼(統整)を共有した。これがレーニンだと構成的権力であり、社会をデザインすることが強く出てくる。レーニンはマルクスに達していないばかりか、プラトン的理想主義(ドイツ観念論)さえ超えていなかったということだ。マルクスが預言者だとすれば、レーニンは魔術師である。実験も結果を共有するためにある。操作というのも目的があり、自己の都合を共有させようというものだ。想像というのも感性と悟性の共有で成立する。脳内のコミュニケーションで生まれる。推論も共有性からきているだろう。例えば高度地球外生命体に遭遇するというSFで結果が出るのも物理法則を共有しているからだ。理想を語るのも、決定論的に語るのも法則を共有させるものだ。テクノロジーが固有性を消し去り、共有させるものであることも共産主義と科学で言ったことと関係がある。裏と表があるように思えるが、量子物理学的に見れば表でもあり、裏でもあり、共有していることと一緒だ。