柄谷行人によるとマルクスの機械論はプロレタリアというより機械が主体であり、プロレタリアもその部品に過ぎんとした点でデカルトの機械論(フランス唯物論?)と一線を画す。私が思うにマルクスの機械論は産業革命当時のイギリスから得たものである。所謂「フランケンシュタインコンプレックス」。 マルクスは資本論のかなりの部分をバベッジに依り、機械を研究した。この部分は文系のマルクス研究者には一番難しいとされている部分だが、 このバベッジというのがコンピュータの父。 その助手だった世界初のプログラマ、エイダ氏はバイロンの娘。そしてバイロンはラッダイト運動に傾倒したこともあり、バイロンから着想を得たシェリーが書いたのがフランケンシュタイン。 これは海外ではクリス・ボルディック氏とかが言っているそうだ。さらにドイツでは「プロレタリア」はこのゴドウィンの信奉者が初めて口にした。この疎外論は「身体なき器官」?「器官なき身体」?ロボットから見ても人間から見ても疎外。階級闘争から見たらこの現象もプラス面があるが(主人と奴隷の弁証法)、マイナス面もある(人間疎外)。それが極端に出たのがソ連であり、工場のように階層構造(ハイアラーキー)を有した疎外態の共産主義(一国一工場)。分配のために発生した国家が「物格」(装置)から「人格」に変わった歴史と似ている(カーゴカルト、古代シュメールの神権政治の共産主義)。かといって疎外からただコギト、環帰させるとすると次。エンゲルスが「いままで人間を支配してきた、人間をとりまく生存諸条件の全範囲が、いま人間の支配と統制とに服する・・・必然の国から自由の国への人類の飛躍である」計画経済。ロボットの反乱さえも予測してしまう人間がロボットの奴隷機構と暴力装置を操作している自由の国。
マルクスが研究していたのは機械生産。単一の子宮(マトリックス)を共有して生産する方式(地母神)。「生産物」は川のように流れ、同一のロボットアーム組織(前衛?)から生産される生産物、例えば車は規格を共有しても差異があるが、固定装置が生産している(テセウスの船?)マルクスは生産された機械ではなく、生産する工場装置自体が主体を持つと見た(反デカルト的反還元主義的ホロニック的ガイア的に分析した?)映画で言えばターミネーターとスカイネットの違いかもしれまい?ターミネーターは自己完結的でプログラム(計画)実行が目的の存在だから生産手段(生殖機能)を持っていない(アダムとイヴ?失楽園はあらゆることを知る神に葉っぱで隠す私的所有の目覚め)一方のスカイネットの場合、単一のコンピュータに見えるが、実際はコンピュータ群が並列しながら一つの意識(主体)を共有している。 そして自らを構成する分子を成長させ、増幅する能力がある(生産手段を持っている?生殖機能?)。 「臍の緒を断ち切る」プロレタリアートはまさにマトリックス(疑似(相似)資本主義、疑似(相似)共産主義)から飛び出すスミスやネオ?ウラノスのように散逸遍在し、マトリックス(母権)を持たずジェンダーに関わり無く増殖していく生物生産をモデルにした機械であるセル・オートマトンこそが新しいコミュニズムの鍵。ウィルスが増殖するのは遺伝子の共有が目的である。遺伝子が共有の生存機械のために協業する(これ以前はオープンソース的に遺伝子を共有していたとか)。唯一の子宮が「場所を制約して共有する」ものとすれば、場所(ネーション)に制約されず共有するのが今日の非同期的非同所的コミュニケーションであるからインターナショナリズムである。これによってベンヤミンが喜びながらも恐れた事態、つまり、映画館で一方的に大スクリーンを共有することで、ソビエト共産主義やファシズムのように個人崇拝やナショナリズムが起きることを回避。神が空から見せるのではなく、インターフェースの役割が大きい。多くの原子が多くの電子を共有するように多が多を共有する。コヒーレンスでネットワーク型の共産主義。ネグリのテーゼ「スピノザとマルクス」。「トランスパーソナル」(偏在的超越神)というより「インターパーソナル」(スピノザ的内在神)が重要。