「超人」、この言葉自体はニーチェに始まったのではなく、ゲーテ等が使っていた。そうファウスト博士である。この博士は明らかにユダヤ教から派生した錬金術師を意識していると以前に言った(そうえいばスーパーマンを書いた人や多くのアメコミの巨匠もユダヤ系であった、ヒッチコックのレオポルドとローブもユダヤ系として有名だろう)。その特徴は内在に超越性を見たことである。それは「永遠のユダヤ人」であるゲーテがスピノザ・ルネッサンスを起こしたことと関係あるだろう(しかし、スピノザには他者があった)。18世紀~19世紀のエキゾティシズムでも「内面」としてのオリエンタル(ユダヤの故郷)が注目された。他者としての神ではなく、自己としての神である。ヘブライズム(セム的超越神、神人隔絶)からヘレニズム(神人合一)である。しかし、プラトンが古代ギリシャのモーセとされたようにヘレニズムも多分にセム的であり、結構似ているところがある(バーナル氏(あの科学者バーナル氏のご子息)の黒いアテネを参考に)。つまり、実のところ対立的ではない。ゲーテのメフィストフェレスも神も他者である、彼も結局アブラハムの人だった。あのファウストもヨブ記が題材である。ニーチェの神云々は実はドストエフスキーのものである。悪霊を読めばわかる。悪霊は当時のロシアのアナキズムやバラック共産主義を批判したと言われる。http://en.wikipedia.org/wiki/The_Possessed_(novel)
'Demons' is often noted for the range of clashing ideologies present in the novel. As in most Dostoevsky works, certain characters are descriptive of specific philosophies.Anarchism, embodied by Pyotr Verkhovensky, is an extreme ideology that demands the destruction of the current social order. A description of Verkhovensky's philosophy of political change is posited as "the method of a hundred million heads," referring to the predicted death toll. Shigalyovism is a philosophy specific to the book and particularly of the character Shigalyov. Very similar to barracks communism, Shigalyovism demands that ninety percent of society be reduced to a condition of inhuman slavery so the other actually useful ten percent of society is free to make progress. Dostoyevsky advances this bizarre doctrine, not with the intention of proposing a viable philosophy, but rather an inane one, that lends weight to his portrayal of Shigalyov and his fellow conspirators as radical "demons", themselves more caricatures than accurate reflections of revolutionaries. Conservatism is embodied by the provincial governor Andrei Antonovich Von Lembke, and is shown to be incapable of dealing with subversive extremism.
そしてツァラトゥストラのアブラハム的幻聴を耳にし、語りを真似たニーチェは病に蝕まれた身を以てプラトン主義(形而上学)の有害さを知ったので自らを以て最後とした。それは十字架に架けるようなユダヤ的死刑宣告というよりショーペンハウアー的自殺(自滅?解脱?)である。私有財産を棄て、エピクロス的だった釈迦の言葉「唯我独尊」は権力者と野心家に「唯我独裁」と読み替えられた。バブーフ(そしてブランキ)の「独裁」とシュティルナーの「唯一者」から二つの鬼子が生まれた(マルクス共産主義とファシズム)。「調和」の精神は驕ったジンギスカン的「啓蒙なる野蛮」に変貌した。ソ連では人種を超えたスーパーマンNew Soviet manとナチスドイツでは北方人種のスーパーマンが唱えられた。ロシア革命の頃に西洋が没落し(byシュペングラー)、近代的オリエンタル・デスポティズムが誕生した。レーニンもスターリンも「アジア人」と言われた。レーニンの場合、本当にモンゴル系であった。レーニンは「進んだアジア、遅れたヨーロッパ」と言った。あの革命はアジアに住む私たち日本人とも決して無関係ではない(明石大尉のことも含めて)。レーニンはカエサルやナポレオンのように癲癇を起こした。彼は間違いなく20世紀最大の政治家だった。だが、カエサルもナポレオンも最期が悲劇だったようにレーニンもまた悲劇である。ボリシェヴィキの独裁は社会主義者の転向と茶番としての能動的ニヒリズム(ファシズム)を後押ししてしまった。歴史は繰り返すのだ、一度目は悲劇、二度目は茶番として(byマルクス)。ジャコバンの恐怖政治の反省から生まれた社会主義とアナキズムはあの血塗れたフランス革命を再開させてしまったのである(byレーニン)。それは他ならぬテルミドールの反動家ども、ナポレオン(元ジャコバン)たちを大いに愉快、哄笑させた。ロシアこそかつてのジョゼフ・ド・メーストル、あるいはカール・シュミットが言ったように保守反動とオカルティズムの故郷だった。ボルシェヴィズムも土着的だった(建神主義や党の保守主義)。そこには暴力には暴力であり(byソレル)、手段は目的を共有(従属)する(byネチャーエフ)というある種の諦観があった。右翼も左翼も暴力団だった。同じ穴のむじな。徳を忘れ権力を掴んでしまった。結果的に革命は裏切られた。これから重要であるのが物事を対立的一方的に見るのではなく、相互作用から見る「複眼」である。脱構築である。そこにはプラトン的「一つ目の神」はなく、「千の眼」があるのだ。