2008年7月2日水曜日

軍と共産主義

今も各国の軍人にとって「アカ」は国家に対する最大の脅威であり、忌み嫌われてるわけだが、軍隊と共産主義の関係は結構深い。共産主義が昔から理想としてきたのが実は軍隊であり、その次が宗教である。例えばプラトンがスパルタのリュクルゴスに感銘を受けていたのも有名である(一説では私有財産も禁止していたらしいが、これもプラトンの文才によるものかも)。マルクスの「食卓的共働態」とも関係しそうだ。バブーフも軍隊の制度を自らの共産主義ビジョンの例に挙げていた。マルクスの相棒であるエンゲルスもかなりの軍事オタク(ミリオタ)であり、多くの軍事評論を残し、周囲から「将軍」とまで呼ばれていた。史的唯物論と軍人の世界観も近い。

「軍隊の歴史は、生産力と社会的諸関係との関連に関するわれわれの見解の正しさを、何にもまして鮮明に浮き上がらせている。」(Correspondenceより)

私もそう思う。軍事も戦争も決してその無知熱狂者が言う息苦しい「観念」のものに留まらず、常に物質、産業経済、兵器類と関係がある。マルクス・エンゲルスの時代、19世紀末、機械的再生産と鉄道輸送、電信が大きく役割を果した。これらもいつも私が言う「共有」というイデアの影である。合理化を進め、時間差を消し、時間を共有させようとした(統一、均衡も共有の劣化コピーである)。これにより時間と空間が変化した。レーニンも「鉄の規律」だとか戦時共産主義で軍国的だったように、「革命は戦争である。唯一の、正当な、正義の、真に偉大な、戦争である」と言っている。そもそも20世紀が「戦争や革命の世紀」であることを告知したのがレーニンだ。戦争も階級闘争であるとしたソレルもユンガーもボリシェヴィキを称賛している。これらはウェーバーによると「戦友愛の共産主義」というものである。塹壕の共同所有(運命や沈黙の共有)である。軍隊の行進も「共有」(同期)を志向していると言える。ロシア革命が第一次世界大戦とともに起こり、戦艦ポチョムキンなどの兵士の反乱から始まったことを考えると確かにそうだ。私もSFファンだから軍事に興味があり、共同生活で共有して計画的に経済を運営している宇宙艦隊や宇宙要塞こそまさに将来の共産制であると考えていた。しかし、軍隊にも階級制がある。それも二つじゃなくてカーストのように多いのだ。ここで「映画」に見られたベンヤミン的問題提起が生じる。つまり、階級性を超えたように一瞬見えても資本家に充用されれば現実の身分、悪しき構造は維持される。コーポラティズム(労資の癒着)の余地が出てくるのだ。そしてその恐れた事態がファシズムによって実行された。「民族」や「人種」という国家資本主義の「神話」によって階級性は消されず、覆い隠されたのだ。これを最も端的に教えてくれるのが攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIGのクゼだろう。クゼも結局操られてたわけだが、「下部構造から上部構造にシフトすべき」というテーゼに大いに共感する。クゼの場合、上部構造がネットだったが、私にとってITインフラが下部構造であり、その上部構造へのシフトを唱えたい。まさに著作権問題やゲノムの所有問題で苦しんでるのが今のブルジョアジーで、階級国家からの脱皮(グローバルビレッジ)に近づいている。結局のところテクノロジー自体も目的合理性、中立的であり、所有の外部にあるということだ。コーポラティズム亡き今のアメリカ軍や世界の軍隊を見るとどうも前世紀より一層産業資本(軍産複合体)の暴力装置であり、それ自体がテスト兵器であるオモチャ兵隊と化してるようだ。湾岸戦争も「見本市」と呼ばれ、イラク戦争の目的も石油にあった。最近のゲームをやっていると、資本が国家を超えた権力となり、傭兵を従えているという設定が多い。実はこの世界観はベンヤミンの目論見通りである。「民族」や「人種」という国民国家を支えた神話がブルジョアジーによって「用済み」と棄てられた今、ブルジョアは次の段階に入ろうとしている。警察も賃労働者化してロボコップと化すかもしれまい。しかし、これも共産党宣言で述べられた「主と奴の弁証法」が働くだろう。資本家は自らの墓堀人たる疎外(Alienation)されしもの(エイリアン)や妖怪(Gespesnt)を生産しているのだ。この生産力がやがて人間に反逆し、支配や破滅をもたらすであろうこと、自明である。

2008年7月1日火曜日

蜘蛛の蹂躙、あるいは共産主義とアナーキズム

今回は共産主義とアナーキズムについて。その前に共産主義と言ったら諸君はどんな社会を思い浮かべるだろうか。暗鬱な管理社会だろうか、それともお花畑な御伽噺の楽園だろうか。前にも述べたが、ユートピアという語をつくったトマス・モアもデストピアという語をつくったミルも一種の共産主義者だった。トマス・モアのユートピアは言葉としては最初のユートピアである。当時の社会を諷刺したとも言われるし、最初のデストピア小説とも言われる。ここで描かれたのも財産を共有する共産主義社会だった。1868年にディストピアという言葉を創ったミルはマルクスの同時代人でリベラリズムの父と言われる。一方で「待望した共産主義者」とも言われ、「共産制」の難点は問題だらけの私有財産制に比べれば大小すべてのものを合しても衡器の上に落ちた羽毛に過ぎないとも言っている。しかし、流石リベラリズムの祖でもあり、彼が共産制の問題となりうのはむしろ個人の自由の問題だと言う。

問題になるのは次のような事柄である。すなわち共産制には個性のために避難所が残されるか、輿論が暴君的桎梏とならないかどうか、各人が社会全体に絶対的に隷属し、社会全体によって監督される結果、すべての人の思想と感情と行動とが凡庸なる均一的なものになされてしまいはしないか―これらのことが問題である。」(経済学原理)

この危惧はソ連がずばり当てたとも言えよう。最近ではあのネグリがディストピアに希望を見出すと言っている、未だにこういった傾向もあるようだ。マルクスの場合、モアを始めとするプラトン以来の形而上学的空想的共産主義を転倒させ(オーウェンもフーリエもサンシモンも究極的に共産制を理想とした)、「科学的」を標榜したからフランシス・ベーコンに近い。「空想から科学へ」(byエンゲルス)である。しかし、稲葉さんも言っているが、これも共産主義に内在するユートピア性を否定できずにいた。つまり、「空想科学」(SF)に変わっただけである。ジュール・ヴェルヌが「月世界旅行」を書いた2年後にマルクスが資本論を出した。そしてその2年後に「海底二万マイル」である(ヴェルヌ自身がクロポトキンに共感していたという)。レーニンの場合、マルクスが否定したイデオロギー(idea)や神話(真理プラウダに対する考え)をむしろ肯定的に考え、理想主義的(idealism)人々を惹き付けたのだった。ルカーチやマンハイムも似た傾向にあった。興味深いことにHGウェルズもソ連の未来を憂えつつ、レーニンの構想に賛成しており、クレムリンの空想家と評していたという。前回も言ったが、こういうことの行き着く先がオカルトである。プラトンもアトランティスがあるといった。唯物論者であるソ連の学者も原始民主制とかアトランティスとかを信じた。ソ連の宇宙開発への早い関心(ツァンダーがレーニンに会ったり)もコスミズム(宇宙主義)とコミュニズムの親和性から出てきた。ガイア理論の原型がつくられたのもソ連である(ベルナドスキーのノウアスフィア)。そしてテレパシー(精神の共有)もあると考えられた。レーニンに次ぐ幹部だったボグダーノフの建神主義にも見られる。社会主義も結局のところ、共産主義の一段階に過ぎんのだ。社会主義という語をつくったのはPierre Leroux(ピエール・ルルー)だが、彼の兄弟のJules Lerouxはアメリカでも有名であるコミュニストであり、彼自身もユダヤ教(キブツ?)、ピタゴラス教団、仏教、あらゆる宗教を綜合した社会を理想としていた(ハイネといったユダヤ知識人とも交流があったそうである)。サン・シモンの弟子であるアンファンタンも共産を理想としていたのであるから当然ともいえるが。

知の帝王サルトルはマルクス主義を「乗り越え不可能」と言った。佐藤優氏もマルクス主義は右翼にも左翼にも共通の祖先みたいに言っていた。猪木正道もマルクス主義が重層防御構造であると指摘している。つまり、あらゆる反論に耐える幾重の網羅的仕組みとなっているのだ。ポパーが反証不可能の典型にマルクス主義を挙げたのもこういうことだろう。壁を通り抜ける、共産党宣言で言われる「幽霊」そのものだ。蜘蛛とも言えそうだ、踏破性もあるのだ。そういえば以前のバグズ・ライフでかの昆虫学のファーブル先生が共産主義のメカニズムを節足動物に見出したと言ったが、蜘蛛(クモ)といえば複眼だ。そしてファーブル先生が「プルードン主義者」と罵った蝿(ハエ)も複眼だ。この複眼こそコミュニズムとアナーキズムの共通点と言えよう。あらゆる西洋思想がプラトンの脚注であったようにマルクスもそこに躍り出ようとした。マルクスはその目論見通り20世紀の脚注となった。そして共産主義に対する地球規模のヒステリーが巻き起こった。共産党宣言で奇しくもこのことが指摘されている。
「権力の座にある対抗派から共産主義だと罵られなかった政府反対党がどこにあるでしょうか。自分たちより進歩的な反対党にも、反動的な敵対者にも、共産主義という烙印を押すような非難を投げ返さなかったような反対党がどこにあるでしょうか。」
強迫的にどこにでも現れる恐怖の存在(アラクノフォビア蜘蛛恐怖症)。ロボットの反乱やインベーダーの侵略のネタ元になったのも理解できる。マルクス・エンゲルスは蜘蛛のように張り巡らす理論家でもあり、運動家でもあった。あのプルードンさえも組織に引き入れている。マルクス・エンゲルスのオルグで第一インターナショナルに当時の殆どの主要な社会主義者が集まった。そして第一インターナショナルで創立宣言と綱領をマルクスが起草したが、その器用さは人々を驚かせ、満場一致で賛成された。ここで初めて今までバラバラだった社会主義がまとまり、団結したのだ。インターでマルクスの敵対者だったバクーニンもこう言う。

「マルクスがエンゲルスと共に第一インターナショナルに最大の貢献をしたことは疑いない。彼は聡明で学識深い経済学者であり、イタリアの共和主義者マッツツィーニ等はその生徒と呼んでいい程である。但し、何事にも光には影がある。マルクスは、理論の高みから人々を睥睨し、軽蔑している。社会主義や共産主義の法王だと自ら考えており、権力を追求し、支配を愛好し、権威を渇望する。何時の日にか自分自身の国を支配しようと望むだけでは満足せず、全世界的な権力、世界国家を夢見ている」(バクーニン著作集第6巻)

バクーニンとマルクスの対決は集団的アナキズム(本質的に無政府共産主義とされている)と国家共産主義の対決とも言われる。元々バクーニンはヴァイトリングの影響下で共産主義者を自称していた人であり、バブーフやブランキといった共産主義者から理論を学んでいた。バクーニンも「マルクスが正しかった」と言って、後に資本論をロシア語で翻訳しようとしている。バクーニンを信奉するチョムスキーが初期マルクスを同時に信奉するのもこういうことである。ところでアナーキズムと言えば共産主義と表向き対立してきたり、一緒くたにされたりされるが、実際のところはどうだろうか。浅羽通明はアナーキズムは共産主義以上の永遠の理想論であり、今じゃポンコツだと言う。確かに永遠の理想論とも言えるが、理想論というのは語弊がある。理想論とはこう有るべきとするイデアリズムであり、理想主義に挫折したアナキストが唾棄するものだ。レーニン曰く目的は一緒だが、手段が異なるという。あのHakim Beyも神秘的無政府主義と共産主義は実際は一緒であるという。その後コミュニストは権威化するだが、これは後のサンディカリストのボリシェヴィキ化にも言えるだろう。理想郷も桃源郷も同じと思う方は多くいるだろうが、プラトンの系譜の理想郷の場合、社会批判的や世界変革的であるのに対し、老子の系譜の桃源郷は隠遁的で消極的である。前者がコミュニズムの典型であり、後者がアナキズムの典型とも言える。アナキストは今日にイメージされるナロードニキ的反逆者というよりは究極のニヒリスト、ペシミストだった。よくアナーキー(無支配)とフリーダムやリベラル(自由)を間違える方がいるが、言葉からして違う。自由を愛した古代ギリシャの賢人たちが徹底してアナーキーを否定したのもこういうことだ。所謂「何でも有り」は自由主義である。星新一のマイ国家を読めばわかるが、自由というのも物理的にも法律的にも条件があってこそ可能であり、「支配する」「支配される」ことを拒むのは有り得ず、ただ「無」(真空も無と呼べんし、無が有るという自体で論理が破綻している)とする完全なアナキズムは不可能である。今度は無が「支配している」と言ったり、「無が正しい」とするとニヒリズムと化す。スタヴローギンのようにニヒルな若者やスターリンのようにニヒルな権力者のように自分さえも疑ってしまうのだ。「無い」は井の中の蛙にとっての空や神であり、蛙にとって空や神が「無い」とされるように知らないものにとっては「無」で片付けられる。実際は「無知」ではなく、「未知」である。。結局「無」自体、「無い」のだ。アナーキーは終りも始まりも無いことをあらわした。無を議論するのは馬鹿げたことだ。マルクス主義やレーニン主義(ロシア共産主義)もファシズムも資本主義もアナキズムであると言えばアナーキズムだし、アナーキズムではないと言えばアナーキズムではない。これも解釈。社会的のみならず、哲学的にも厄介である。しかし、確かにいえることはアナーキズムは動物より少し進んだ段階であることだ。「無い」は対象が有ってこそ有る。だからアナーキズムには破壊しかしない。まさに理由無き殺人だ。理由無き殺人はルサンチマンが無いように見えるが、ルサンチマンが有る。あらゆる存在を憎んでいるからだ。理想主義に挫折したアナキストはアナキズムに挫折する。アナーキズムは黒がシンボルだが、それは「氏」をあらわすという。生に終りは有るが、氏に終わりは無い。この人間病に罹らないためには「生」の実践と実感を持ってあらゆる物と共生するしかない(唯物論)。あのニヒリズムを極めたユンガーやハイデガーが気づいたようにニヒリズムを超克するのであればコミュニズムだけだ。科学者にアナーキストが居ない。アナーキーは哲学の域だ。常に妥協しなければならないからあそこまでアナーキストもバラバラであろう、不完全であるからこそアナーキズムかもしれん。共産主義はアナキズムではないが、アナキズムは共産主義、アナキストは実際はコミュニストである(マルクス主義の場合はアナキズムと密接に関係がある、「疑え」がマルクスのモットーだった)。例えばアナーキズムの先駆者と言われるウィリアム・ゴドウィンも、ルドルフ・ロッカーも言うようにBritannicaとかにも書いてあるように無政府共産主義の創設者である。プルードンも晩年に「フリーコミューン」を唱えている。トルストイも無政府共産主義者だ。フランスの無政府主義のシンパと言われる文化人の多くは無政府共産主義のクロポトキンやブランキ、パリコミューンを支持していた。アナルコキャピタリズムは単に資本主義である。リバタリアニズムは無政府コミュニストのJoseph Déjacqueが考案した。今世紀のキーワードである「共有」「分散」「協力」「自律」「環境」を考えると「共産主義」にアナキストが妥協すればいいと思う。もちろんこの蜘蛛の巣も蜘蛛も共産主義的機構(存在)があってこそ可能である。私が思うにソ連やレーニン主義というのも一つ目の妖怪(サイクロプス)だった。それは余りに大きく狭いものだった。複眼こそが共産主義の狭小化を防ぐ方法である。AnarchoがArachnoへと変わる時、蜘蛛の巣は仕上がるのだ。Anarcommunism、Anarkommunism、Anarchommunismへ。
とここまで言っておいて結局私もアナキストである。レーニンが言うように「自由の王国」を実現する思想としてアナキズムは共産主義者の目的である。ジェファーソンの「自由の帝国」のヨーロッパ版と言ってもよい。それにオカルト的にもアナキズムが興味深い。アナキストのシンボル、サイクルAもメーソンからきている。Aと五芒星とピラミッドはそっくりである。サイクルのOもCの完成をあらわしている(オーダー)。プルードンもメーソンであったと聞く。「A」narchyと「L」iberalは神をあらわしている。例えばイスラエルのエル・アル航空。アナーキーもアヌンナキみたいである。このブログのアンドロメダもこれかも。これらはメーソンのルーツであるエジプトに遡る。近年アナキストが唱えてきた地域通貨の起源もエジプトと言われているが、やっぱりかと思う。

2008年6月30日月曜日

宗教とオカルト、共産主義

宗教とは共産主義的である。多神教も一神教も含めてである(ティリッヒが言うようにマルクス主義もある種の宗教と言える)。
一神教は神を共有する、多神教は神々に共有される。
この「神の共有」(神話の共有と違うが)が今までどうやってされきたかと言うと、
偶像や聖書だった。共産主義で言えばレーニンのミイラ、銅像、共産党宣言や毛沢東語録だろう(一国(One country)や一つの党(一前衛党)等を大々的に掲げたのはスターリンであるが、それを事実上つくりあげたのは言うまでも無くレーニンである(一国二制度のように今日でも見られる))。
多神教は一即多・多即一を説く。実はこの多と一こそ共産主義の神髄である。ネグリが言う「単一」と「マルチチュード」である。一が多を有すること、多が一を有することを共有と呼ぶ。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」である(これは三銃士の言葉で協同組合運動に転用されたらしく、「共産主義的信条」で知られるカベやマルクス等がスローガンとして愛用したという)。複数の化身=同位体を持ちながら一つの意識を共有するのだ。禅や瞑想によって得られる梵我一如も神との記憶の共有だ。共有に近づく時間とイデア論とも関係あるだろう。共産主義の歴史が一夫一妻制と敵対してきたこととも関係がある。 プロレタリアートとは子供しか財産を持たないものを言う。神とは超越的プロレタリアートである。神の財産は万物という「子」だけである。そして神の前であらゆるものが平等であり、無所有(プロレタリア)である、あるいは神から所有権を与えられた。マルクスがシュティルナーの唯一者に影響を受けつつ、批判したのはその小市民性だ(エゴイストの連合)。バウアーの自己意識を批判したのはその神秘主義である(唯物論の立場から人間は共同的動物、世界は集合)。アブラハムの宗教は契約から始まった。神はアブラハムとその子孫(広義のアブラハムの子孫)に永久の共有地を与えたのだ。イエスも財産を共有するエッセネ派にいたと言われる。共産制にどうして超越者や独裁が生まれやすいのか。それを解く鍵はカーゴカルトにある。カーゴカルトは財産を極端にまで共有し合うメラネシアに見られる現象だが、実際はどこの先史時代でもある。原始共産制は必然的に「万物は神からの贈り物」であるという考えが根底にある。「贈与」と絡めたら興味深い。そこでは自然崇拝があった。これが後期だと「神からの贈り者」ということで神官や王、メシアが生まれた。古代シュメールもHenri Frankfortによると「神権政治の共産主義」だった(「いや人民民主主義だ」という異論もあるが、どれでもよかろう)。だから原始民主制をディヤコノフやソ連の学者が共感したのだ。ソ連が支持するのもその背景にイデオロギーがあるからだろう。マヤやメディア王国は原始共産制だったし、インカもエジプトもそれっぽかった。そういえばアトランティスの頃のギリシャも共産制だった(だからアトランティスが実在するとソ連の学者が言ったのだ)。これに似た社会システムが各国で見られる(アジアでは太平天国とか)。現代でもカーゴカルト的要素がいくつも見られる。資本主義もカーゴ・カルト的であり、貨幣や商品に対する崇拝がある。 UFOやオーパーツや教祖様を崇拝するカルトも共産制に似た生活をする。マルクス主義の唯物論も資本主義の商品崇拝と違った物活説の典型と言われる。技術や経済、物質文明に超越的価値を置き、定向進化すると。 マルクスもプラトン以来の古代共産主義に根深い形而上学的カーゴカルト的要素を超克しようとしたが、憑き物信仰に陥った。 カーゴカルトも宗教の唯物論的一面である。つまり、内部ではなく、外部性があるのだ。そして私が言いたいのは神秘主義も共産主義に必然的に結びつくということだ。オカルトと社会主義の関係もシャルル・フーリエのころからある。ここから「オカルティズムの父」レヴィや「シュルレアリスムの父」ブルトン、スウェーデンボリと繋がっていく。霊的交感(Communion)やテレパシー(精神の共有、思考の共有)、共時性、霊媒が共産主義と親和性を持つからだ。これらの研究にあの旧ソ連が熱心だったのも興味深い。建神主義の流れを汲むものだろう。宇宙人の社会が共産主義社会であると言ったのもソ連の学者だった。神智学協会のベザント会長がどうしてマルクスの娘と親しくマルクス主義の政党にいたか、グルジェフとスターリンが知り合いだったという話があるか、東方聖堂騎士団のテオドール・ロイスがどうしてマルクスの娘と親しく共産主義の組織にいたか、オカルティストにどうしてプラトン主義者が多いか。どうしてイルミナティやテンプル騎士団などの秘密結社やアメリカの西海岸のヒッピーがコミューンや共産制を敷いたか(彼らは大恐慌ならぬ大災害を予言し、都市の水没化(大洪水)や地平線化(核の跡)、箱舟とシェルターで財産の共有と平等を実現しようとした、これは言うまでも無く革命的敗北主義のパロディである)、共産主義との関わりはもっと深いだろう。そういえばカート・ヴォネガットが占星術も手相術もコミュニズムだと言っていた。日本でも原始共産制にシンパシーを持った著名な宗教学者は多いし、オカルト業界の超カリスマであるT田氏も元共産主義者同盟の人であるらしい。ちなみに私は元トンデモウォッチャーだが、今や大槻義彦並の懐疑主義者である。浅田彰と坂本龍一が総括したようにオカルティズムは危険思想である。人民寺院やオウムという最悪の帰結を招いた。高橋信次がマルクスの言葉を正しいとしたように宗教は阿片の可能性もあるのだ。しかし、仏教でもキリスト教でもマルキシズムと結ばれるのが宗教にとってもよい道だろう。

2008年6月23日月曜日

ペンタグラム

赤い星の起源は赤軍のブリキの星にあるらしい。アメリカのWikiではマルクス・エンゲルスが考案したとあるが。金槌を持つプロレタリアの手の五本の指と世界の五大陸、あるいは五惑星を表すとか。メソポタミア(ウルク)や古代エジプト(第一王朝)のシンボルでもあった(古代中国の五帝五行五星思想とも関係あるらしいが。漢字の「大」が五芒星が変体したものとか?)。エジプトでは「子宮」をあらわしたという。シュメールであると逆さの星が「穴」をあらわしたという。女神を象徴することが多い。ということはエジプトのピラミッド形(男性器)とメソポタミアの逆五芒星の変体(女性器)が六芒星であろうか。アメリカとソ連、エジプト・イエメン・シリア・イラク・トルコの国旗にもある。ソ連の赤い星(Red Star)と黄金の星(Gold Star)、色から考えても肥沃な三日月地帯が正解であろう。以前のソビエト宮殿とバベルの塔とバラド=ドゥアでも述べたが、ソ連のアフロ・アジア的起源もあるかもしれまい。レーニン廟もエジプトのジェセル王の階段ピラミッドをモチーフにしているという。ソビエト宮殿もシュメールのジグラット、旧約聖書の言うバベルの塔をモデルにしてい。元々ヘブライ人はチグリス・ユーフラテス川から渡来した者を指すのである。エジプトで王朝をつくり、一定の宗教的影響を与え、バビロニア・セム系の姓名が多かった。数秘学的に見ると五芒星をシンボルに掲げ、原始共産制を信奉したピタゴラスが前世でその息子だったとされるヘルメスの「母」マイアのメーデー(五月の日)の5月1日とマルクスの誕生日5月5日とも関係ありそうだ。さらにメーデーの起源とされるストライキをした組合の黒幕がユダヤ人のゴンパースという。イルミナティが結成された時でもある。そしてヴァルプルギスの夜だ。ヴァルプルギスはファウストの饗宴を思い起こすが、私有財産に落書きしたり悪戯したりすることで知られる。実はメフィストフェレスに魂を渡すファウストは究極まで私有財産(魂の所有まで)を棄てた共産主義者の模範だとか。だからイルミナティのメンバーでマイスターの共同生活を理想としたゲーテが最後に神に救われたとしたとか。 フリーメーソンも五芒星と工具がシンボルである。ダヴィデでは無く、ソロモンと関係あるとか。スターリンの五カ年計画や中国の五星紅旗とも無縁じゃないだろう。黄色と赤毛といえばユダである。これらがユダヤ教の星を暗示しているシンボルであればキリスト教の十字を暗示するシンボルもあるであろう。

2008年6月17日火曜日

R.U.R.

カレル・チャペック
千野栄一 訳
2003 岩波書店
感想としてはよかった。原題は「ロッサム万能ロボット会社」。ロボットという言葉がスラヴ語系にあり、「強制労働者」を意味し、RURがロシア革命やその余波の影響を受けて書かれたのは明白だ。「同志」(Comrade)という言葉やロボットを代表する「中央委員会」も諷刺がきいている。ロボットを人類の工作によって民族間や内ゲバで争わせてロボットの連邦の一枚岩を瓦解させようと登場人物が言うところも聖書やロシアの情勢を思い起こす。そしてことの原因とされているのもチャペックが嫌った唯物論の権化、作中で「根っからの唯物論者」とされているロッサム老人だった。チャペック自身が述べているようにこれは社会主義小説ともとらえらるのも必ずしも間違っていないが、1924年には「私はなぜ共産主義者じゃないか」(Why I am not a Communist)とか書いてちゃんとマルクス主義者じゃないことを力説しているんだからどれだけ疑われいたかわかるだろう。

2008年5月17日土曜日

ロボコップと資本主義

出演:ピーター・ウェラー
1987
ロボコップって単純だが、面白い。もはや資本主義が誰にも規制されなくなったいつかのデトロイトで行政がオムニ社に牛耳られている。警察さえもブルジョアジーが「自分たちの賃労働者に変えてしまった」のである。そして「効率性」しか考えない資本の運動法則の人格化である資本家たちがサイボーグを再生産再利用。しかし、ブルジョアジーは「自分たちの死をもたらす武器を鍛えただけではありません。その武器を使いこなす人々、近代的労働階級、プロレタリアを生み出した」 。ロボコップにあるのはもはや鎖に繋がれた肉体ではなく、意識だけがあるのだ。「亡霊」的革命戦士である。ロボコップに犯罪者や失業者を排除することをブルジョアジーが命じた。しかし、ロボコップがわかったのは「企業の悪」だった。つまり、「悪しき構造」を理解したのだ。そして企業に立ち向かうロボコップだが、これも暴力によるもの、暴力革命である。まさに共産党宣言が説いた世界ではないかと考えてしまう。丸山真男はかつてプロレタリアートが資本主義の過酷様相を集めた階級であるとしたが、まさにその通りだ。サイボーグとは疎外されぬ労働者、前エディプス的共生(共有)である。だからハラウェイみたいに「万国のサイボーグよ、団結せよ!」。

2008年5月4日日曜日

アルファヴィル

お久しぶりです、同志の皆さん。
私ANDROPOTが収容所で「矯正教育労働改造」させられている間、お元気でしたか。
ここで私ANDROPOT、委員に立候補致しまして、現在、ヤフーリングラードでANDRONETを運営しております。興味があればアクセスしてみてください。
と、空想はさておき、今回も映画を紹介。
アルファヴィル
監督:ゴダール
ゴダールだからやっぱり「もしも」の映画だった。もしも「東側で」って話。イワンとかナターシャとかプラウダとか私の目を引く記号が多い。月は無慈悲な夜の女王みたいに。実際、コンピュータで経済をコントロールしようとしたのだからソ連がこのように捉えられても当然。オーウェルもザミャーチンもゴダールも「当事者」としてかつての自分の「ユートピア」の実像を描こうとした。そういえば「コンピュータが人間を管理する」というテーマのSF映画、これが最初だった?