2008年8月10日日曜日

シュメール

シュメールから最初の宗教と文字と数と金利が生まれた。この世界最古の文明を見れば唯物史観は限りなく正しい。シュメールは先史時代から原始共産制無階級社会であり、その後が原始民主制(共産主義の神権政治)だった。神殿経済はロシア共産主義(人民民主主義)に似ており、「あなたのものは神のもの」と「あなたのものは党のもの」の違いだけだ(だからソ連のディヤコノフが支持した)。バビロニアでは経済的理由から文字や数が生まれたが、貨幣も、その初期だと私有財産も持たなかった。問題がシュメール人とは一体誰だ?だ。Zecharia Sitchinによると宇宙人だとか神だとか。宗教を唯物論的に考える分野としてソ連の学者が唱えたのが宇宙考古学だ。共産主義者は宇宙考古学や先史文明にもっと注目すべきだ。と言ってみる。

シュメール(ノア?)の弟たるのがセム族である(ウバイド人もセム語を話したと推測され、旧約聖書のカルデア人だろう。この原アフロ・アジア語族がさらに移動して興ったのがインダス文明という説がある。セム族がエジプトに移動したのがハム族でエジプト王朝を興した)。表音のセムと表語のシュメールが合わさったのである。古代オリエントを統一した。史上最初の世界帝国であるアッシリアもセム系である。そして一神教、洗練された言語(文字)をつくった。今日までセム族(ユダヤ人)というのはかつて栄華を極めて滅んでいったあらゆる民族たちと一線を画してその優秀性を保ってきた。よく「西洋」と「東洋」を対立的に見る方がいるが、この「彷徨いし民」にとってそのことが関係あるだろうか。イスラエルのサマリアであるとか仏陀の山であるとか諸説あるが、黒い頭、キエンガ、カンガを自称していたのである。シュメールという言葉自体がセム系である。セム系のブラーフミー文字からアラビア数字が生まれた(プラークリットよりサンスクリットがセム系に近い?)。この文字が用いられたマウリヤ朝期にゼロの概念が出てくる。そしてアルファベットもセム系である。私はユダヤ人(セム族)とドラヴィダ人(古代インドの末裔)の近縁性を思わずにいられない。例えばチェス(インダス文明の頃にチェスやサイコロが生まれたという)。今更だがインドで初めてチャンピオンとなったヴィスワナータン・アーナンドはドラヴィダ系である。世界初代チャンピオンはヴィルヘルム・シュタイニッツというユダヤ系である。この二つを結びつけるのがシュメールかと思うのだがどうだろうか。サヴァン以外(ソロモン・シェレシェフスキーを除いて)のMental calculator(人間コンピュータ)もユダヤ系とドラヴィダ系が多い(ユダヤ系だとフォン・ノイマン、ポール・エルデシュやブライアン・グリーン、Salo Finkelstein、ドラヴィダ系だとバンガロールのShakuntala Deviといった)。つい最近15歳でIITに入学した天才もドラヴィダ系らしい。インドで初めてのノーベル賞受賞者もドラヴィダ系。ブラフマンもアブラハムからきていると言われる。紀元前3000年、紀元前2000年の人物だからインダス文明と関わりがあったのあかもしれぬ。南インドにはシナゴーグもあり、支族がいるとされる。ユダヤ人説があるバスコ・ダ・ガマも訪れた。政治的には北と対立して共産党政権のところもあり、ドラヴィダ政党が強い。

超人

「超人」、この言葉自体はニーチェに始まったのではなく、ゲーテ等が使っていた。そうファウスト博士である。この博士は明らかにユダヤ教から派生した錬金術師を意識していると以前に言った(そうえいばスーパーマンを書いた人や多くのアメコミの巨匠もユダヤ系であった、ヒッチコックのレオポルドとローブもユダヤ系として有名だろう)。その特徴は内在に超越性を見たことである。それは「永遠のユダヤ人」であるゲーテがスピノザ・ルネッサンスを起こしたことと関係あるだろう(しかし、スピノザには他者があった)。18世紀~19世紀のエキゾティシズムでも「内面」としてのオリエンタル(ユダヤの故郷)が注目された。他者としての神ではなく、自己としての神である。ヘブライズム(セム的超越神、神人隔絶)からヘレニズム(神人合一)である。しかし、プラトンが古代ギリシャのモーセとされたようにヘレニズムも多分にセム的であり、結構似ているところがある(バーナル氏(あの科学者バーナル氏のご子息)の黒いアテネを参考に)。つまり、実のところ対立的ではない。ゲーテのメフィストフェレスも神も他者である、彼も結局アブラハムの人だった。あのファウストもヨブ記が題材である。ニーチェの神云々は実はドストエフスキーのものである。悪霊を読めばわかる。悪霊は当時のロシアのアナキズムやバラック共産主義を批判したと言われる。http://en.wikipedia.org/wiki/The_Possessed_(novel)

'Demons' is often noted for the range of clashing ideologies present in the novel. As in most Dostoevsky works, certain characters are descriptive of specific philosophies.Anarchism, embodied by Pyotr Verkhovensky, is an extreme ideology that demands the destruction of the current social order. A description of Verkhovensky's philosophy of political change is posited as "the method of a hundred million heads," referring to the predicted death toll. Shigalyovism is a philosophy specific to the book and particularly of the character Shigalyov. Very similar to barracks communism, Shigalyovism demands that ninety percent of society be reduced to a condition of inhuman slavery so the other actually useful ten percent of society is free to make progress. Dostoyevsky advances this bizarre doctrine, not with the intention of proposing a viable philosophy, but rather an inane one, that lends weight to his portrayal of Shigalyov and his fellow conspirators as radical "demons", themselves more caricatures than accurate reflections of revolutionaries. Conservatism is embodied by the provincial governor Andrei Antonovich Von Lembke, and is shown to be incapable of dealing with subversive extremism.

そしてツァラトゥストラのアブラハム的幻聴を耳にし、語りを真似たニーチェは病に蝕まれた身を以てプラトン主義(形而上学)の有害さを知ったので自らを以て最後とした。それは十字架に架けるようなユダヤ的死刑宣告というよりショーペンハウアー的自殺(自滅?解脱?)である。私有財産を棄て、エピクロス的だった釈迦の言葉「唯我独尊」は権力者と野心家に「唯我独裁」と読み替えられた。バブーフ(そしてブランキ)の「独裁」とシュティルナーの「唯一者」から二つの鬼子が生まれた(マルクス共産主義とファシズム)。「調和」の精神は驕ったジンギスカン的「啓蒙なる野蛮」に変貌した。ソ連では人種を超えたスーパーマンNew Soviet manとナチスドイツでは北方人種のスーパーマンが唱えられた。ロシア革命の頃に西洋が没落し(byシュペングラー)、近代的オリエンタル・デスポティズムが誕生した。レーニンもスターリンも「アジア人」と言われた。レーニンの場合、本当にモンゴル系であった。レーニンは「進んだアジア、遅れたヨーロッパ」と言った。あの革命はアジアに住む私たち日本人とも決して無関係ではない(明石大尉のことも含めて)。レーニンはカエサルやナポレオンのように癲癇を起こした。彼は間違いなく20世紀最大の政治家だった。だが、カエサルもナポレオンも最期が悲劇だったようにレーニンもまた悲劇である。ボリシェヴィキの独裁は社会主義者の転向と茶番としての能動的ニヒリズム(ファシズム)を後押ししてしまった。歴史は繰り返すのだ、一度目は悲劇、二度目は茶番として(byマルクス)。ジャコバンの恐怖政治の反省から生まれた社会主義とアナキズムはあの血塗れたフランス革命を再開させてしまったのである(byレーニン)。それは他ならぬテルミドールの反動家ども、ナポレオン(元ジャコバン)たちを大いに愉快、哄笑させた。ロシアこそかつてのジョゼフ・ド・メーストル、あるいはカール・シュミットが言ったように保守反動とオカルティズムの故郷だった。ボルシェヴィズムも土着的だった(建神主義や党の保守主義)。そこには暴力には暴力であり(byソレル)、手段は目的を共有(従属)する(byネチャーエフ)というある種の諦観があった。右翼も左翼も暴力団だった。同じ穴のむじな。徳を忘れ権力を掴んでしまった。結果的に革命は裏切られた。これから重要であるのが物事を対立的一方的に見るのではなく、相互作用から見る「複眼」である。脱構築である。そこにはプラトン的「一つ目の神」はなく、「千の眼」があるのだ。

2008年8月8日金曜日

私は変態だ

私たちは永遠に亡霊(仮象)に束縛され続ける。だから私は束縛趣味のマゾであり、サドでもある。私の姿を見れば露出狂を見るかのように嘔吐感を催すだろう。皆は私を無視して通る!だが、それは「無」だから見れないのではなく(無知)、私が見るにもおぞましい亡霊だから視線をそらしているだけだ!反動家どものように「未知」に怯える臆病者だ!亡霊から逃れるものはいない!亡霊はどこでもあらわれる!亡霊が約束の地を見つけるまで!未知は永遠の亡霊である。それは悩める人々の星であり、恐怖でもある。あらゆる転倒錯者と悪趣味者に愛を!

2008年8月5日火曜日

ネグリの「時間」と心理学について

ネグリは「未来への帰還」(バック・トゥ・ザ・フューチャー?)とか「時間機械」(タイムマシン)を標榜しているけど、私からすればそれは人間をタイムマシンだとするものである(未来の記憶?)。原始共産制は先史時代のものであるが、唯物史観によるとそれが生産力の発展によって高度共産主義として蘇る。亡霊の意識化である。このタイムマシンの使い方を誤れば奴隷制や封建制に遡ってしまうこともある。擬似科学で太古まで記憶が共時的に共有されていて催眠療法によってタイムスリップすることができるというものがある。ユングやライヒ、フロムのように一線を越えてしまえばトンデモであるが、この心理は実はトランスパーソナル(私的個的所有を超越した心理)ではなく、インターパーソナル(繋がっている深層心理)と言える。そしてそれは上部構造に対する下部構造であり、「無」意識というより「下意識」である。フロイトは唯物史観は一面において正しいとしたが、まさにこういうことではないだろうか。

マルクスの機械論について

柄谷行人によるとマルクスの機械論はプロレタリアというより機械が主体であり、プロレタリアもその部品に過ぎんとした点でデカルトの機械論(フランス唯物論?)と一線を画す。私が思うにマルクスの機械論は産業革命当時のイギリスから得たものである。所謂「フランケンシュタインコンプレックス」。 マルクスは資本論のかなりの部分をバベッジに依り、機械を研究した。この部分は文系のマルクス研究者には一番難しいとされている部分だが、 このバベッジというのがコンピュータの父。 その助手だった世界初のプログラマ、エイダ氏はバイロンの娘。そしてバイロンはラッダイト運動に傾倒したこともあり、バイロンから着想を得たシェリーが書いたのがフランケンシュタイン。 これは海外ではクリス・ボルディック氏とかが言っているそうだ。さらにドイツでは「プロレタリア」はこのゴドウィンの信奉者が初めて口にした。この疎外論は「身体なき器官」?「器官なき身体」?ロボットから見ても人間から見ても疎外。階級闘争から見たらこの現象もプラス面があるが(主人と奴隷の弁証法)、マイナス面もある(人間疎外)。それが極端に出たのがソ連であり、工場のように階層構造(ハイアラーキー)を有した疎外態の共産主義(一国一工場)。分配のために発生した国家が「物格」(装置)から「人格」に変わった歴史と似ている(カーゴカルト、古代シュメールの神権政治の共産主義)。かといって疎外からただコギト、環帰させるとすると次。エンゲルスが「いままで人間を支配してきた、人間をとりまく生存諸条件の全範囲が、いま人間の支配と統制とに服する・・・必然の国から自由の国への人類の飛躍である」計画経済。ロボットの反乱さえも予測してしまう人間がロボットの奴隷機構と暴力装置を操作している自由の国

マルクスが研究していたのは機械生産。単一の子宮(マトリックス)を共有して生産する方式(地母神)。「生産物」は川のように流れ、同一のロボットアーム組織(前衛?)から生産される生産物、例えば車は規格を共有しても差異があるが、固定装置が生産している(テセウスの船?)マルクスは生産された機械ではなく、生産する工場装置自体が主体を持つと見た(反デカルト的反還元主義的ホロニック的ガイア的に分析した?)映画で言えばターミネーターとスカイネットの違いかもしれまい?ターミネーターは自己完結的でプログラム(計画)実行が目的の存在だから生産手段(生殖機能)を持っていない(アダムとイヴ?失楽園はあらゆることを知る神に葉っぱで隠す私的所有の目覚め)一方のスカイネットの場合、単一のコンピュータに見えるが、実際はコンピュータ群が並列しながら一つの意識(主体)を共有している。 そして自らを構成する分子を成長させ、増幅する能力がある(生産手段を持っている?生殖機能?)。 「臍の緒を断ち切る」プロレタリアートはまさにマトリックス(疑似(相似)資本主義、疑似(相似)共産主義)から飛び出すスミスやネオ?ウラノスのように散逸遍在し、マトリックス(母権)を持たずジェンダーに関わり無く増殖していく生物生産をモデルにした機械であるセル・オートマトンこそが新しいコミュニズムの鍵。ウィルスが増殖するのは遺伝子の共有が目的である。遺伝子が共有の生存機械のために協業する(これ以前はオープンソース的に遺伝子を共有していたとか)。唯一の子宮が「場所を制約して共有する」ものとすれば、場所(ネーション)に制約されず共有するのが今日の非同期的非同所的コミュニケーションであるからインターナショナリズムである。これによってベンヤミンが喜びながらも恐れた事態、つまり、映画館で一方的に大スクリーンを共有することで、ソビエト共産主義やファシズムのように個人崇拝やナショナリズムが起きることを回避。神が空から見せるのではなく、インターフェースの役割が大きい。多くの原子が多くの電子を共有するように多が多を共有する。コヒーレンスでネットワーク型の共産主義。ネグリのテーゼ「スピノザとマルクス」。「トランスパーソナル」(偏在的超越神)というより「インターパーソナル」(スピノザ的内在神)が重要。

2008年8月1日金曜日

働かざるものは食われる

私は昔「ランゴリアーズ」というものを見て、時はやっぱり共有されるべきだと思った。いや怠け者ばかりというのはブルジョアの言ってることでもあるが、私は了解してしまった。生産(イノベーションも)を怠ればこのブルジョアもいつかエロイを食らうモーロックのようにプロレタリアに追いつかれて食われるかもしれまい。ソビエト社会主義共和国連邦の憲法「働かざるもの、食うべからず」も正しかったのか。今月から私、アメリカ(ボストンではない)に出張にいくのでしばらく更新がとまるが、今月中には投稿ができると思う。

コミュニズム

コミュニズムは結局のところ二つの要素がある、それが「同一性」と「超越性」 (所有と分配の哲学から共産主義が生まれる)

まず同一性(共有性) 。同一性は疎外論で肯定される。つまり、「あるべき理想の○○」を持つことによって自己環帰させる。 プラトンのアトランティスやモアのユートピアに始まり、小説や神話にもよくある(ここで既に現世超越性が見られるが)。 資本主義や精神異常者のユートピアだろうとそこに同一性がある。 これがイデア(理想)である。イデアとアイデンティティ(同一性)、さらにはイデオロギーも語源を共有している(マンハイム)。 生物だったら何かしらイデアを持っている。 自由自在を「思う通り」と言う。これは客体と主体が共通(同一)していることをあらわしている。 つまり、葛藤が無い。意思の表象としての世界があって不幸だろうか。いいや、実際だと矛盾があるのだ。それ故セムの宗教の天国と地獄の思想、最初の洞窟論者のプラトンやデカルトの身心二元論があるのだ。マルクス・エンゲルスも母権論を軸にしているので、幼児的全能感の世界かもしれまい(といってもマトリックスの胎児とも言える)。 ルサンチマンという言葉をつくったキルケゴールによると共産主義が最大限の専制政治に行きつくと言ったという。「目には目を、歯には歯を」というアムル的同害報復の究極が共産主義だろうか。

そして超越性(非同一性) 。超越とは「基準」「枠」「私」「個」「分業」「所有」、階級に限らず、広義のClass(区分)から出ている、外れていることである 。これもプラトン以来の形而上学のものだが、マルクスはエピクロス主義者だからカントからそれを継承したと思われる。 マルクスの「各人が活動の排他的な領域をもたず、それぞれの任意の部門で自分を発達させることができる共産主義社会」は万能の想定と叩かれるが、これがインターナショナリズムの深層であり、「インター」「トランス」「スーパー」も革命であるのだ。これは生物学的分業を止揚せよ!!で言ったことと同様である。主客転倒(階級闘争)を超えるには弁証法自体をジンテーゼする。インターネットや携帯電話という非同期的コミュニケーションツールが相対性があっても時空間を超越して共有できるという証明である。

しかし、この超越(スーパー)も今や疑わしいものだ。超越はプラトンの形而上学であるのでマルクスの弁証法と異なる。ヘブライの「生命の樹」(系統樹)モデルと対照的に螺旋状のDNAに似ている。階層化していくピラミッド型の前者より後者が好ましかったのである。終末論である。ヴァルター・ベンヤミンが言うアウラやオリジナリティ(唯一無二という一神教的客観的共有)がある超越(偏在)からモーゼス・ヘスのスピノザ的汎神論的共産主義である遍在(インター)にすべきかもしれまい。「私たちはシュティルナーの到達した地点から出発しなければならない。そしてそれをひっくり返さなければならない」。しかし、シュティルナーは一神教を自己疎外から解放したが、どこまでも自己回帰するヘーゲルの観念論の域を超えていない。これでは孤立主義である。ソ連は主意主義的のため、「人民の意思」(ルソーの一般意思)を強調したが、実際のところは「意思の独占からくる共有」であり、今日言われる「利権談合共産主義」に当たるものだ。「一階級だけの共有」に過ぎん。共産主義も一神教の尾があり、唯一者(前衛)や唯一の党(世界初の一党(Party)独裁制)に拘ってしまった。ある「唯一物」を共有するのではなく(唯一のコアを持つことでuniteする一惑星型ではない)、「物」であることを共有するのが唯物論である。実存独立しつつ、契約するのだ。全体と個体は有機的システムのように運命を共有してはならない。「個」であることを共有するのだ。計画経済が共通の計画を持つことでマルクスの言う特殊利益と一般利益(共通利害)の分裂(よそよそしい疎外)を解消するものだったとすれば、「縦割り」は有り得ないのだ。縦割り行政がソ連でどうして行われたかと言うと中央という超越的存在を共有したからである。そこに必ず中枢という「外れた」ものがある。ブルジョアを倒したことで上部構造に移行したプロレタリアートが体性神経(あえて言えば体制神経)を張り巡らすこの指令型(トップダウン)は搾取(悪いボトムアップ)へのアンチテーゼとして出てきたのだが、自主管理の方が今日は望ましいとされる。私達はベンヤミンが言った「映画の大スクリーンを共有する」時代にいない。映画館にいかずとも見れるからだ。これは超越のように見えるが実は違う、神が天から見せているのではなく、インタフェースを使っているのだ。例えば映画館を時計台にして、インターフェースを腕時計にすればいい。今や「所」に制約されずに共有ができる。まさにインターナショナルである。中央集権がますます不可能であり、ベンヤミンが喜びながらも恐れた事態は回避された。私が言った「差異の共有」を「自由の共有」としてもよい。自由は偶像化されない。ワイザー博士が言った環境に埋め込まれたマルチチュードが単一を共有するユビキタスコンピューティングの時代に移ればネグリのテーゼ「スピノザとマルクス」も可能だろう。 必要は発明の母である。故に「必要に応じて」、「自由とは必然の認識である」。

ネグリが言う「単一」と「マルチチュード」の関係はコミュニズムの「共有」をあらわしている。一が多を有し、多が一を有する。一即一が私有であり、一即多(集合有)、多即一(総合有)、多即多(公共有)が「共有」である(生物学で言う相利共生、片利共生、寄生の三つに相当する)。今やマクロの調整された蜘蛛の巣からミクロのウェブのように分散共有した蜘蛛の巣へと移行した。もはや「支配」の問題もあるか?支配という言葉も元を正せば分配から生じたものである。支配というのは「仕切る」とか「役割を割り当てる」ことである。法の支配はコモンローと呼ぶ。英語のshareでは共有と分配が同義である。資本はますます疎外というより資本家の手から離れ、共有される方向に向かっていると思う。21世紀に注目されている考えにホロンというものがあるが、これは誤解されているが、「相互作用」に着目する考えである。思うに20世紀、重視されたのが「力」「権力」だった。物理学では二つとも交換(コミュテーション)から生じる。次の社会工学だとユートピアよりピースミールということだが、マルクスと別に矛盾しないように思える。マルクスは必要に応じて書くことが望ましいと考え、プラトンのように共産主義の設計図を形而上学的に描くことを避けたし、エンゲルスが計画化等を書いたのだ(エンゲルスでも唯物論を科学の発展に応じて形態が変わるとしている)。

「地獄への道は善意で舗装されている」

あのハイエクによると法こそが社会的に共有されるという。マネタリストのフリードマンもルールは共有すべきと言っていた。そういえば法が人に変わるということがある。最高経営責任者が法とされ、その言葉を共有する。まるで信者が聖書を共有、映画で大スクリーンを共有するように(ウェブの場合、小スクリーンの共有と言えよう)。今日では新自由主義にその傾向があるように思える。資力によって階級を再生産し続けるのだ。貨幣のように永遠の命を求める。ユナボマーマニフェストで書かれた事態のようである。搾取と投資と浪費によって私有財産が奪われ、エシュロンは支配階級の直接の装置にされ、プライバシー(私的保証)が破壊される。歪んだ形での共産党宣言等の預言の的中である。新自由主義の祖といえばスペンサーは「適者生存」を唱え、社会進化論者である。一方で最初に書いた「社会静学」で私有を批判している。しかし、国家が嫌いだから後にブルジョア側に転じている。マルクスとスペンサーは前回も言ったが、同じハイゲイト墓地で眠っている。喧嘩していると思ったが、実は握手しているのではないか。