2008年10月31日金曜日

剰余価値

超越の価値とは「過剰」余価値のことである。超越とは余剰、基準から外れること、強いて言えば「区分」に対する「余分」(アウト)を言う。「極端」のことでは無い。極端は限界を示してしまっている。市場の動向は「神の見えざる手」であるから人間を超越し、疎外している。人間疎外を究極にまで押し進める資本主義は過剰な労働力、つまり、自らをも超越した労働力をつくりだす。そしてその「反乱」により崩壊する。この超越性はプロレタリアの肉体に内在している。つまり、これを否定するのでは無く、超越を「自己還元」させるのがコミュニズムである。「神」と自己を合一するのである。故に資本主義や市場原理の無計画的計画性(超計画性)を自己回帰(一般化、基準化、コモン化)させ、それを止揚し続ける永久革命機関の運動がコミュニ「ズム」である。

コミュナリズム

元々「コミュナリズム」は地方自治の用語として使われたが、今日であるとあらゆる民族や宗教の対立に当てられる。私はコミュニズムがコミュナリズムであることは無いと考える。コミュニズムは共同体を超えた共同性を求め、それがコミュナルとして限界化したら超越し、止揚しようとする現実的運動であると考える。完全completeも競争competitionも名称が示しているように共同性に関わるのである。マルクス以降のコミュニズムは宗教原理主義者も民族至上主義者も資本主義者も敵にしてきた。それは固有化した既成共同体であるからである。ソ連も硬直化保守化した。これも従来の共産主義国家で言われたcoordinatorsismである。無限の同一共同体(脱皮もし無い)があれば革命も無い共産主義であるが、万物は変化する。革命するのである。変化は固有の自己からすれば「新しい」ことを言う、外部や下部からくる。であるから既成共同体は上部構造化し、階層化する。階級社会は「イデオロギー」という幻の装置で共同性を回復したように見せかけるが、一方のビジョンが抑圧しているのであり、本質が対立しているのである。

2008年10月26日日曜日

所有論

高度資本主義は基本的にマイホーム、マイカー(一家一台)といった個体的所有を基礎にしている。これは「分配」という面で見れば社会主義的ではあるが、共産主義は家族制度で言えば資本主義の一夫一妻制に対して一妻多夫制、一夫多妻制、所謂女性や子供の共有である。「単一」と「マルチチュード」は弁証法的に見れば主客(広義のClass、階級関係)がある限り転倒(革命)が常に潜在しており、事実上一方の独裁である。私達は「共有」と言うと多数の一個の所有、一個の多数の所有を想像する。しかし、「一個」というものがある時点で所有の「限界」である「トップダウン」から考えてしまっている。共有の媒体(媒介)を持つことは時として疎外に陥るこがある。これは一器官であった脳が身体で言えばヘゲモニーを占めるように進化した過程、人民の機関(下僕)に過ぎなかった国家が人民を服従させた歴史、受動的で惜しみなく愛情を与える地母神が猜疑的で恐怖を与える天空父神へと変形した神話と符合する。皆が所有しようという共産主義と皆が無所有しようという無政府主義は究極的に合一するのも経済学で100%と0%が似ていることと一緒である。「皆は一人のために、一人は皆のために」。これは共産主義者がよく使ったスローガンである。この「一人」をアウラ化(オリジナル化神聖化唯一化)してしまうと独裁のスローガンであるが、これはもっと高度に「一般人」をあらわしているのである。つまり、いくら「複製技術」や「記号化」が進んでも固体(主体)も融け合わなければ問題が続くのである。

2008年10月24日金曜日

ニーチェ

ニーチェは「真理」を批判した。人間は「真理」という「基準」をつくることでそれを共有する。これは支配であると。「支配」とは何かと言うと、経済学で言うところの「分配」と言える。主体が仕事を配分する(仕切る)、シェア(共有)させる。そして「力」は物理学で言えば「交換」(コミュテーション)から生じる。力は対象無くして有り得ない。ニーチェは「神話」に傾いた。これは真理と似た位置の「神」と異なり、神話の方が絶対的では無いからである。ニーチェは神話を支えているのを「悲劇の共有」と考えた。しかし、これは「生の哲学」のニーチェと矛盾する。結局ニーチェはアナーキストである(ニーチェ自身はアナキストを共産主義平等主義者と批判しているが)。ショーペンハウアーはニーチェ達が言うところの平等主義的共産主義的境地(段階)、共感共苦を説いた。これは必然である。ショーペンハウエルは元々プラトンの崇拝者であった。ニーチェは師と同様、共感共苦(慈しみ)を説いたが、「天才」と「凡人」の「彼岸」をついに唱えなかった。これはレーニンの「前衛」と「大衆」と同じである。いわば「選民思想」の問題である。ニーチェが批判していたプラトンの「哲人王」やイスラエルの「救世主」と同じ轍を踏んでいたのである。ニーチェは当初「彼岸」「力への意志」を批判していたが、肯定するようになっていった。もし、ジンテーゼがテーゼ(肯定)とアンチ(否定)の総和では無いのであればそれは超越していると言える。であるが、これは明らかに「母」と「父」が交わった「所産」(子供)であり、人間の有限を示しているのである。そしてニーチェは永劫回帰に至った。

ニーチェは強い意志を「単一の優勢の衝動」によって「諸衝動が共存している状態」としている。これこそ私が言う「単一」と「マルチチュード」に基く古い共産主義的関係であって、「天下平等」と同義である。経済学で言えば「総動員」である。共通の目標を共有して運動を共有する。ハイデッガーは技術の本質を「徴発」としたが、これは幾分レーニン主義的であろう。ヴィリリオは技術の本質を「固有性の止揚」、つまり、「限界を無くす」と考えた。これこそが元来のマルクスに通じるのであり(私有制や分業制の揚棄)、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教、アブラハムの宗教の概念にも通じる。「無限」「全能」「超越神」である。レーニンの共産主義は「全能である」という言葉はここにあるのである。物質の集合でできているこの世界に住む人間はどこまでいっても共同的動物(アリストテレスより)であり、完全独立した唯一無二の個があるとすればそれは神に他ならぬ。故にヴィリリオは共産主義者の家庭に生まれ、「唯物史観」を軸としているのにカトリックを信仰しているのである。

補足:ニーチェはユダヤ系ロシア人のルー・アンドレアス・ザロメに恋した。ニーチェの源泉はロシアにあると言ってもよい。ツルゲーネフ(ニヒリズム)からドストエフスキーまで。元々ロシアとドイツ自体が歴史的に関係が強いのである。プロシアはロシア系、ベルリンもスラヴ系の名称である(考古学的地政学的に見ればロシアはヨーロッパにとってアジアにおける中国のような存在である)。ツルゲーネフはバクーニンと同居したし、ワグナーもバクーニンに師事していた(バクーニンは「共産主義はあらゆる勢力を吸収する」と批判したことで知られるが、ヴァイトリング時代は共産主義者を自負していて共産主義に関する寄稿もしていた。マルクスのプロレタリア独裁、あるいはバブーフやブランキといった系譜の共産主義者から学び取った概念もバクーニンに見られるという。ここらへんは蜘蛛の蹂躙、あるいは共産主義とアナーキズムで述べた)。ドストエフスキーが悪霊で参考にしたのはネチャーエフというマルクスには「バラック共産主義」と批判された人物である。このように「ニヒリズム」の歴史は共産主義運動と密接な関係があるのである。ユンガーやハイデッガー、バタイユ、ブランショといったニヒリストを極めた面々がボリシェヴィキやコミュニズムに関心を持ったのは必然である。

2008年10月22日水曜日

共産主義者の制服

共産主義者の制服と言えば人民服か、 作業着、例えばオーバーオールであるが、どうも他にもあったようである。

トロツキーによれば、スヴェルドロフは、常に、帽子から長靴に至るまで、全身革づくめの服装で歩き回っていた。このスヴェルドロフの服装が共産党員たちの間に広まって、革の服が共産党員の「制服」となり、反対派が彼らを"leatherites"と呼ぶようになったという。1924年に制作されたソ連最初のSF映画「アエリータ」においても、革コートを着て革のハンチングをかぶる主人公の妻の革服姿が、当時の共産党員をあらわすステレオタイプとして使われた(Wikipedeiaより)
そういえばレフ・ クレショフの映画「ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の異常な冒険」でもやはり共産党員の服が革である。しかし、「黒」であるのでアナキストであることもあるであろう(といってもロシアの無政府主義やナロードニキは共産主義の一派であるのであまり区別されてい無い)。

2008年10月10日金曜日

アジア的生産様式

原始共産主義は当初から言っていたわけでも無く、マルクスは「アジア」「古代」「封建」「ブルジョア」に生産様式を分けている。スピヴァクによればアジア的生産様式という言葉はマルクスは一度使用した。奴隷制へ必然的に至るとしているのは確かであるが、私的所有に欠け、「共有」を敷いている点で連続しているとされる。原始共産主義とアジア的生産様式の境界は実に曖昧なものである。このせいでいくつかの仮説ができることになった。マリアテギはインカを原始共産主義の最もよい例としていた。一方のマルクスはインカには関心が無いと言っている。インカに国家は無いともされている。エジプト・メソポタミア・中国・インダスといった四大文明にこのアジア的生産様式はより見出されるという。今日では中国共産党にせよ日本共産党にせよアジア的生産様式は好ましいものとされるのが有力であるようだ。ということは古代ローマあたりから切断したと見るべきか。ところでアジア的生産様式の記述を読んでいて中央アジアあたりのソ連や中国の共産主義を思い起こす方が多いかと思われる。この疑問に答えてくれるのがカール・ウィットフォーゲルの研究とその著書である「オリエンタル・デスポティズム」である。 ウィットフォーゲルは元々は共産党員でフランクフルト学派のマルクス主義者であったが、アメリカ国籍をとってから転向したと言う。ウィットフォーゲルによると共産主義革命が成功したところにどうしてか東西南北アジアが多いのはこの「アジア的生産様式」にあるという。実際「東側」と呼ばれていたのもそういうことであると。 ロシア、特にソ連はモンゴルと関係付けられていた(モンゴル自体も早い時期から共産国であった)。そういえばレーニンは「遅れたヨーロッパと進んだアジア」「アジアのめざめ」とか日本を「進歩的」「先進的」「偉大」と絶賛していた。 「東方紅」もそうである。「王道」「革命」に影響を与えた孟子は土地共産制を理想とした。康有為・梁啓超・洪秀全は東洋専制的共産主義を目指し、それは毛沢東にも受け継がれている。共産主義の象徴である赤と黄色は中国では国と皇帝をあらわすのである。

レーニンみたいに史的唯物論の三つの起源を言えば
1.バッハオーフェンの母権論
2.モーガンの技術決定論
3.ドブロスのフェティシズム
で構成されている。

1は以前から述べてるが、2のモーガンは先住民の研究で知られるが、科学技術の歴史での役割を重視していた。マルクスはこれに強い感銘を受けてたから唯物史観に影響を与えたのであろう(1もその後である)。3のドブロスは人間関係の考察に取り入れられた。これについては石塚正英さんの著作が一番詳しいかと思われる。

2008年10月9日木曜日

共産主義を数字で解く

マルクスは物事は階級(段階や層、分類といった)でできていると考えた。
これは非常に正しい分析である。「階級」はあらゆる学問の構造である。マルクスは総ての差別が無くなってあらゆる可能性が開花する世界を予測したのである(学際)。単一(神)であり、マルチチュード(多様共生)でもある究極の自由の王国である(一と多が矛盾背反無く共生しているのもマルクス的である)。一切が数字と考えたのはピタゴラスであるが、マルクスとピタゴラス、一見関係も無さそうであるが、この二人は共産主義の歴史では特に重要である。例えば共産主義の先駆者とされるプラトンはティマイオスから聞いたピタゴラスの「財産の共有」に影響を受けていた。では、共産主義と数秘学をアウフヘーベンするとどうか。

六つの段階に分けて説明すると、
一は神の創造、創世期
二は光と闇のぶつかり合い、戦争、動乱、冷戦、20世紀がまさにそうである、2000年もそうかと思われる、二が争うのは一への反動である。
三は、トロイカ体制、三頭政治、第三世界、第三の道、第三期、安定した時期かと思われる
四がアインシュタインの四次元、神聖四文字(テトラグラマトン)、ユダヤ・イスラム・キリスト・ヒンドゥーの四大宗教(私からするとどれもアブラハムの宗教)、四大人種(ネグロイド・コーカソイド・モンゴロイド・オーストラロイド)といった具合に世界を統一させる。キリスト教でも四極は神聖である。 ナラム・シンのように四海を制すということかもしれぬ。
五は共産主義である。ペンタグラムで述べたようにマルクスの誕生日5月5日、五芒星、五カ年計画、第五インターナショナル等を象徴。数字で言えば一と十の中間である。マルクスは共産主義で「前史」が終わるとした。二、三、四の何れでは無いということであろう。 所謂ソロモンの星、メーソンもシンボルとしている。 驚いたことに五大陸の五大文明(エジプト・メソポタミア・黄河・アナトリア・メソアメリカ)の国旗に五芒星があることである(ハラッパー文明が残るパキスタンの国旗も五芒星である、ただし、メソポタミアからの輸入でインダス文明があったのでメソポタミアに加える)。
六は大陸を分けた五芒星は中央に六番目があらわれる。六と五は一体である、この「六」という漢字と「☆」は似ている。四は海、五は大陸を制し、ダヴィデ六芒星はピラミッドと逆ピラミッドの重ね合わせ、空も地も制す。万物がハニカム構造でできている。五感すら超えてしまう第六感、五大陸も五惑星も五本の指も超える(尾?)、獣の数字。
宇宙は10、11次元でできていると言われる。 10と11はピタゴラスによるととても神秘的な数字である。10と言えば十戒である。十はJewに似ている。20世紀ではこの月に革命やクーデターが起きた。
前回ビジョンかマーヤーかで言ったように究極的にはこういった「ピリオド」(期)から外れたところに神(超越)があるのであろう。

2008年10月6日月曜日

ビジョンかマーヤーか

前回湾岸戦争と911テロをマトリックスよろしくハイパーリアルとして扱ったのだが、「幻」というのも色々解釈がある。それはかつての砂漠の民にとって求め続けるべきものだったし、密林の民にとっては脱するべきものだった。宗教=阿片=麻薬はある程度正しい。幻視や幻聴でできているのであるから。聖書では幻はビジョンであるとして好ましいとされ、イリュージョンでは無い。古代インダスの場合、姿勢を定めて坐禅し、騒々しい「マーヤー」の中から「真理」を見つける「解脱」を目指していた。どれも偶像(資本たる神)を拒み、「超越」が礎であるが、オプティミズムとニヒリズムの差がある。超越とはピリオド(区分、広義のClass、階級)から外れることであるが、三角形のピラミッドがいい例であるかもしれまい。諸々の「終り」(ヘーゲル)「彼岸」「黄昏」が訪れる云々というのは厳格たる一神教と二神教を生んだ古代エジプトの終末論からきている(モーセはエジプトの人物である)。セトとホルスの闘い、パピルスで記された「審判」。つまり、オリジナルとコピー、男と女、選民と愚民、実体とバブル、朝と夜、光と闇、善と悪といった様々に及ぶ二項対立が止揚され、「第三者」(共産主義運動では悪名高い第三期third period論)が訪れるという類である。フリーメーソンのシンボルであるピラミッドの形がいい例であろう。正反対のピラミッドを繋げば菱形の弁証法の「正反合」の螺旋構造である。私が言う従来の共産主義(中央管理型・自主管理型、WinMAXもWinnyも共有ソフトである点で共通するが、集権型と分権型の差異がある)における主体と客体の関係を図にすれば菱形である(資本主義の場合は砂時計?)。さらに「正」と「反」のピラミッドを「合」わせると「六芒星」である。このセム的ハム的超越神をさらに超越したのが「超超越神」たるユダヤ・キリスト・イスラームの神(Almighty、Omnipotenceのpotenceもパワーと同義であり、「すべての権力」、タルムードの「力の権化」)である。この形而上学の反逆児であるニヒリズムの政治化が著しくあらわれたのが20世紀のロシア(ドストエフスキー)とドイツ(ニーチェ)であるが、大きく見ればこの形而上学の影響はプラスがマイナスより多い。どれが終り、続くのが都合がいいかは所有や階級への執着(相互的視点)で決まっている。レーニンはマルクス主義を「プロレタリアのイデオロギー」であるとして、ブルジョアでもプロレタリアでも資本主義でも社会主義でも無いマルクスの柄谷行人が言う超越性を無視した。一方が善くて悪いものは消す、これはマルクスが最も嫌った方法である(マルクスは構造主義的に捉えた)。今や誰もが利用している資本主義システムから逃走するためにも超越するのである。そのための太陽も月も制した天空の「ホルスの目」が「世界政府」でも「地球環境」でも「唯一神」でもいい。あえて言えば資本主義の中の共産主義(グラムシ)ではなく、共産主義の中の資本主義を実現すべきである。

2008年10月5日日曜日

ポストモダンのプロトコル

シオン長老の議定書。これほど陰謀論をメジャーにさせた書は珍しい。
この書の「家畜化」(ゴイム自体は人間をあらわすのだが、タルムードであると「獣」とされている)のコンセプトはポストモダンで盛んに言われる「動物化」を思い浮かべる。 元々コジェーヴがアメリカは共産主義の段階に到達しつつあり、人間が動物と化すとしたのが始まりである。コジェーヴの申し子で有名であるのがポストモダニストとフランシス・フクヤマといったネオコンである。 ハイデッガー、ユンガー、シュミットといった右翼がコミュニズムやボリシェヴィズム、プロレタリア独裁を評価したり、ブレヒト、キルヒハイマー、ベンヤミン(唯物論的ホッブズ主義者)といったユダヤ人や左翼と交流したのも偶然では無い。

彼らが目指したのが世界の人間牧場化、動物農場化である。つまり、「新世界秩序」New World Order、「ワンワールド」One Worldである。このNew OrderはグラムシのOrdine Nuovo「新秩序派」に始まる(さらに共産党宣言のold social orderを受けたレーニンのNew Social Orderまで遡るらしいが)。これがファシストに利用されたという。世界のヘゲモニーhegemonyを握るのが目的である。One WorldはスターリンのOne Conturyである。書で「仕掛けた」としているのがマルクス、ダーウィン、ニーチェ(「力」も「畜群」も「断乎とした意思」もタルムードのコピーと言えよう、逆にショーペンハウアーは同感や同苦を説いた)。これにフロイトを加えればポストモダンのバックボーンである。ブッシュ政権もレーガン政権もポストモダンであった。レーガン政権のブレーンにもカークパトリックを始めリオタールよろしく元トロツキストや元マルキストが多くいた。スターウォーズ計画は元スターリニストのアメリカの某陰謀論者が自分が発案したと言っているが、ランド研究所のウォルステッターという元トロツキストの影響があったと公式にはされている。陰謀論では小ブッシュ政権はコミュニスト被れのネオコンとファシスト被れのブッシュらが手を組んだ最悪の独裁政権であるとされ、閣僚にもトロツキーの研究で卒論を書いた人間がいたといわれる。万国の自由戦士よ、団結せよ!Freedom fighter of the all countries, unite!すべての権力をアメリカへ!All power to the America!であったわけである。ゲバラは「革命家は・・・・・冷酷な殺人マシンcold-blooded killing machineとならなければならない」 と言ったが、思考機械、ノマド的殺戮機械としての「レーニン」は止まないのであろう。湾岸戦争と同時多発テロは等価である。ランボーの怒りのアフガンはアメリカ帝国の序章であった(ネグリとハートの帝国は国務省に愛読されたという)、ブッシュは予定通りソ連のブレジネフドクトリン、制限主権論、アフガン侵攻計画を継いだのである。そしてアムネスティが現代のグーラーグとしたキューバのグアンタナモ、アブグレイブで20世紀の悲劇は「茶番」として蘇った。

共産主義の歴史

Karl Marx saw primitive communism as the original, hunter-gatherer state of humankind from which it arose. For Marx, only after humanity was capable of producing surplus, did private property develop.最近の研究によると狩猟採集に限らず、原始共産主義が農業牧畜にも見られるから修正が必要であろう。

In the 16th century, the English writer St. Thomas More portrayed a society based on common ownership of property in his treatise Utopia, whose leaders administered it through the application of reason.モアのユートピアは共産主義にとって示唆に富む。当のマルクスもそう考えており、資本論でも引用されている。

Criticism of the idea of private property continued into the Enlightenment era of the 18th century, through such thinkers as the deeply religious Jean Jacques Rousseau. Raised a Calvinist, Rousseau was influenced by the jansenist movement within the Roman Catholic church. The jansenist movement originated from the most orthodox Roman Catholic bishops, who tried to reform the Roman Catholic church in the 17th century to stop secularization and Protestantism. One of the main jansenist aims was democratizing to stop the aristocratic corruption at the top of the church hierarchy."Utopian socialist" writers such as Robert Owen are also sometimes regarded as communists.ジャンセニスムやカルヴァン主義が共産主義を支えたという事実がここにある。ジャンセニストのパスカルも馬車の共有で知られる。元カルヴァンのゴドウィンのLibertarian communismもそうである。理神論者の共産主義や「建神論」の源流であろう。宗教共産主義でアブラハムの宗教が基本的に多いのが特筆すべきだろう。これは緑の資本論の証明であろうか。イスラム教でもzakatとribaにおいて見出されるという(損益を共有するのがイスラム金融の特徴)。しかし、英語版では僧や尼僧の生活で言えばどの宗教でも普遍的であるとされている。他にもヒンドゥー教(ブラフマンもアブラハムという説がある)、ジャイナ教、仏教とある。元々宗教自体が私有財産を供与供出したり放棄するから実に共産主義的である。18世紀のバブーフや19世紀のマルクスの世俗的共産主義まではこの宗教共産主義が主流であったのである。

これがユダヤ教の共産主義
The Bible indicates, that the pre-monarchic Israelite society was anarchistic:In those days there was no king in Israel; every man did that which was right in his own eyes. (Judges, 21:25); The prophet Samuel harshly criticized the Jews for trying to establish a monarchy. Rabbi Yehuda Ashlag, referring to the above-mentioned verse, believed, that the future society will be libertarian communist.
The are two clearly anti-authoritarian passages in the Talmudic tractate Pirkei Avot: Love labor, hate mastery over others, and avoid a close relationship with the government (Avot, 1:10); Be careful with the government, for they befriend a person only for their own needs. They appear to be friends when it is beneficial to them, but they do not stand by a person at the time of his distress (Avot 2:3).

Another passage in Pirkei Avot lists four possible social relationship schemes: He who says, "What's mine is mine and what's yours is yours", is the median type, though some say that this is the quality of Sodom. He who says, "What's mine is yours and what's yours is mine", is a simple (or, according to other readings, an ignorant) man. He who says, "What's mine is yours and what's yours is yours", is a pious man ("Hasid"). And he who says, "What's yours is mine, and what's mine is mine", is wicked. (Avot, 5:10). According to Rabbi Yehuda Ashlag, consistent application of this ethical rule by all members of the society leads to voluntary communism.
http://en.wikipedia.org/wiki/Anarchism_and_Orthodox_Judaism

Some believe that early communist-like utopias also existed outside of Europe, in Native American society, and other pre-Colonialism societies in the Western Hemisphere. Almost every member of a tribe had his or her own contribution to society, and land and natural resources would often be shared peacefully among the tribe. Some such tribes in North America and South America still existed well into the twentieth century.確かにそういう傾向がある。マルクス・エンゲルスのモデルの歴史主義の側面からであろう。ポストコロニアル理論や被圧迫民族解放理論に関係するからである。母権論や氏族制(母系制)への研究も続けるべきであろう。
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_communism

2008年10月3日金曜日

共産党

金融危機、資本主義崩壊と、騒がしい世界だが、共産党がネットや若者に人気を伸ばしているそうだ。日本の共産党というのも地方議員数が1位、政党助成金を拒否して政党の収入も1位、衆院議員の世襲もゼロ、海外では政界の「番犬」と言われている世界でも珍しい共産党である。京都と大阪が基盤である。京都は工業都市でもあり、製造業が強く、工場よりベンチャーが集まっている。大阪は商業都市であるが、共産党が強いのが東大阪である。工場の密度が東大阪市は1位であり、ローテク・ハイテクともに全国で1、2を争う。つまり、工業プロレタリア、メタルカラーとブルーカラーであろうが、中小企業の支持が大きいようである。後は堺市、大阪市で強い。橋下さんも府営住宅のことで助けられたから黒田了一以来に訪れたという。東京であると港区や大田区でも強い。先進国の共産党を見ると中心としているのは都市、特に工業都市や学術都市が多いように思える。例えば西側最大のイタリア共産党(改称した今日の共産系も)も経済力があり、工業地帯が密集しているイタリア北部(赤いボローニャ・ミラノ・フィレンツェ)が拠点だった。最近では北部同盟が強いが、その初代書記長のボッシも元共産主義者であった。北部同盟は転向した元共産党が多いという。戦前のドイツ共産党もベルリンやハンブルクといった都市で強く、ベルリンでも第1党であった。戦後も東ドイツ共産党を継承した民主社会党・左翼党がベルリンで強い(シュテルン、シュピーゲルによるとドイツではマルクスが再評価されているという)。フランス共産党もパリ郊外の工業地帯が拠点である。アメリカ共産党もユダヤ系が多いニューヨークで強かった。職場・学園であるとトヨタや東大に党員やシンパが多いと言われている。

ネットでどうして人気が出てるかと言うと色々あるようだ。共産党の活動がネットに合っているとか、今日の政治が駄目であるからとか、某匿名掲示板のキャラと志位委員長がかぶるとか。でも投票するかどうかの問題は別であろう。

若者で特に支持しつつあるのが30代男性と言われている。所謂受験戦争や就職氷河期の世代であり、元々社会への関心が高いと思われる。日本の政治動向は学生運動や新左翼が60年代に挫折、70年代は革新自治体、80年代は保守化、90年代前半は旧社会党がやや有利だったが、後半で没落といったものだった。こう見ていくと21世紀が共産党の時代であるのかもしれまい。