2008年8月31日日曜日

牛と蛇、そして神

旧約聖書で人類に知恵を与えたとされる蛇、神にその拡大を許されているリヴァイアサン。これもティアマト(バビロニア)やバアル(ウガリット)の怪物に原型がある。最も古い例だとシュメール人が蛇を信仰していた。古代エジプトのウロボロスもデミウルゴス(ヤルダバオート)も蛇である。ユダヤ陰謀論でも爬虫類星人(Repritian)が有名だ。この論者の多くが以前述べたZecharia Sitchinの著作に影響を受けている。ディノサウロイド(恐竜人間)やダイノトピアも考えられてるかもしれまい。中国の龍信仰は黄帝にもたらされたという。黄帝はサルゴンという説がある。牛と蛇が戦う二元論の最古の神話がアッカドのエヌマ・エリシュである。これが王が代わる度に詠唱されたというのが興味深い。爬虫類と哺乳類の違いからだろうか。マルドゥークとアシュルの構図は仏教に取り入れられたという。ヴェーダによるとダーサが龍を信仰していたとするが、古代インダスの遺跡だと角への信仰、牛崇拝だったという(ヴェーダの儀式で牛が大量に殺され、激減したことがある)。牛崇拝の場合、アラブかトルコあたりが起源とされる(最近ではセム・ハム族も言われてるより移動し無い、つまり、「ランドパワー」だったことがわかってきている(そもそもセム族自体がシリアの農耕民族である)。とするとタルムードの「シーパワー」はリヴァイアサン型のシュメール系ユダヤ人(それともフェニキア系?)ということだろうか)。アブラハムの故郷も「牛」であり、モーセの角も牛の角だが、どうやらモーセの方は「誤訳」らしい。バール神も関係あるだろう。

太○龍的ニューエイジ陰謀論的に整理してしまうと
ユダヤは両翼双頭を司る(ソロモンの指輪でも天使も悪魔も従わす)
職人としての科学的才能があり、ワシ鼻、丸い頭、母権的:ヘテ人(原ハッティ人)
商人としての才能があり、ジュリコの閉鎖性から思うに警戒心が強く計算高い、浅黒い、カイン?、父権的:カナン人(原カナン人)
アブラハム:ウル(牛族)系。先シュメール=ヘブライ人(原アフロ・アジア語族、エデンの園(アナトリア)から下りてきたメソポタミア北部のアッカド人、アモリ人、アムル人?)。シュメール人と関わりがあり、アブラム(ABRAM)もシュメール語であるらしい?。アブラムがアブラハムと化したのも父親がハム(父権的)であったからであろう。これで六芒星が止揚しているものがわかった。北(セム)と南(ハム)である。三日月の緩衝地帯でイスラエルが生まれた。あらゆる一神教の祖とも言える。後にとある者達とインドに移動。Abrahamに由来するのがヴェーダの宗教のBrahmanである。BrahmanのSaraswatiがAbrahamのSaraである。Abrahamの宗教であるということである。ワンワールド系、ジグラット系。
モーセ:エジプトのファラオと親しい蛇使い。出エジプトの時期が重なるのでアトランティス系かもしれまい。神通力、超能力者という点で仙人アガスティヤのモデルか。カバラを継承しつつ、二重性の国であるエジプト発祥の二元論(選民かゴイムか光か闇か生か氏かといったモーツァルトの魔笛宜しくの)から背教者や異教徒を敵視する選民思想(罰としての律法)、倫理的宗教としてのユダヤ教を確立した。ワンメサイヤ系、ピラミッド系。

哺乳類系ユダヤと爬虫類系ユダヤの交替支配?
「東西問題」(アシュケナジーとセファルディ)はよく知られてるが、「南北問題」が議論されていない。
六芒星もをあらわしているのであろうか。太陽暦(エジプト)と太陰暦(メソポタミア)、上流(アッシリア)と下流(バビロニア)、女性器(多神教)と男性器(一神教)。
サマリア人Samaritan=北イスラエル、ヘブル(エデン人)、シュメールSumerian
ユダヤ人=南ユダ王国、ジュー、セムを騙った「ハムの子孫」とされるハンムラビに従ったのでハム系か
ロック・フェラー=採掘労働者、石器文明からのギルド大棟梁、産業資本、ヘテ系
ロス・チャイルド=幼児虐殺者、呪われしカナンの末裔、金融資本、哺乳類を嫌う(母性が無い)、カナン系
インド=牛 (メソポタミアから住みに来てインド先住民と混血したドラヴィダ人、南インドに投資が集中)
中国=蛇 (文字から言えばキルヒャーが言うように中国はエジプトやフェニキア、クレタと似ている)
ということか?
こう見るとエジプト学派とコーカサス学派が対立しているのであろうか?
ベルウッドによると北レバントで文明が産まれたとか。 トルコ語があらゆる語族を兼ねていることを考えるとそれっぽい。
一方でシュメルが南アフリカの言語や黒人と似ているから南で産まれたとも言われている。
今日のイスラエルでも黒人に似たユダヤ人とトルコ人に似たユダヤ人が問題化している。
エラム人とアラム人?
セム・ハムも「アフロ・アジア」と学界で言い換えられたがその対立をあらわしているのか。
歴史でもテュルク帝国とアラブ帝国が競い合っている。
私は二項対立を制すホルス(全能の神)がいると思える。

牛といえばベヘモス(ベヒモス)だ(大陸国家と海洋国家、ソ連とアメリカのような関係)。農耕牧畜に由来するらしいが、元来搾取といえば家畜として牛から乳を搾り取ることを言った。この搾取へのアンチテーゼとして牛崇拝が考えられるかもしれまい。神の無限性は「惜しみ無く湧き出る母乳」に喩えられることもある。しかし、「黄金の子牛」が壊されたようにエロヒムに偶像はない、牛とか蛇とかを超越している、つまり、姿を見せない。ここが他と一線を画すところだ。心理学ではこれが「無意識」と結び付けられるが、「私は在る」「私は全能の神である」「最高、最強」「すべてを知る神」こそ神だ。まるでデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)の台詞であり、ニュートンがユダヤを偏愛したのも機械論からくる神の存在証明であろう。しかし、これにより「神の望むまま、何でも有り」(といっても自然現象崇拝ではなく、超自然的介入もあり)としてあらゆることが正当化される。ただし、アブラハムの子孫だけは選ばれたから都合を計らえてもらえるとする。カルヴァン主義が資本主義の精神だとヴェーバーが言ったが、実際はユダヤ教である。歴史も自分も技術(ヘルツの電磁波etc)や魔術(カッバーラ)で操られているから物質世界に幻滅するグノーシス的オカルトはその対であるといえよう。思えばエジプトでもメソポタミアでもヒエラルキー(中央集権)や世界帝国を最初につくったのがセム・ハム族だった。先住民は原始共産制に似た生活をしていた。あらゆるところで散逸遍在しつつ、宰相や顧問と重用されている。さらに近代で言えば大英帝国のディズレーリ、アメリカ合衆国のジェファーソン、ソビエト連邦のレーニンもユダヤ系(さらにテュルク・モンゴル系でもあった、レーニンも親しみを持ってトルコを援助した、タタール人とユダヤ人はハザールに見られるように関係が強い、DNA的にも言語的にも、ユダヤ人がつくった万国共通語エスペラントもモンゴル・テュルク系を思い起こす、ジンギスカンの子孫に重用されてユダヤ人のラシードゥッディーンがテュルク・モンゴル史を編纂するのも当然であった、そしてソ連の次にモンゴルが共産化したのもそうである。(初期であるとジンギスカンもたたえられた))であった。(清教徒革命のクロムウェルも親ユダヤ的だった)。歴史的に「権力」や「支配」といったものと縁が深い人々であろう。エロヒムは抽象性を極めた神でもあるが、人間の残酷さももてる神でもある。ソドム・ゴモラは古代のヒロシマ・ナガサキである。あのヒトラー(曰く原子物理学はユダヤ物理学で、大戦の経験やハーバーがつくったから毒ガスも嫌った)を唆したのもエロヒムかもしれまい。アブラハムやモーセの如く幻影と使命感に襲われたニーチェ(彼の著書には聖書のような語りもある)が言っている通り「民族主義国家の熱に浮かされることの愚劣さをユダヤ人に知らしめ、彼らをさらなる高みへと駆り立てられる」。

2008年8月26日火曜日

全体主義について

「全体主義」、この言葉を最初に使ったのはジョヴァンニ・アメンドラ(イタリア共産党幹部の父親)である。これを気に入って採用したのがかのジェンティーレだったらしい。元々所謂「ファシスト」はロシア革命に後押しされたイタリアのサンディカリズムの端くれだったが、既成階級の肩入れとサンディカリズムと無縁の元マルクス主義者のネオへーゲリアン、ジェンティーレがイデオローグになったことで国家主義者に変わった。アーレントが時系列的に研究したことは正しい。マルクス・レーニン主義が「階級の全体主義」だとすればファシズムは「民族の全体主義」である(社会主義もその言い替え)。イスラエルの学者Zeev Sternhellジーヴ・スターンへルによるとファシズムはマルクス主義の修正、変種である。しかし、全体か個体か(あるいは個人か部分か)というのも不毛な議論だ。これらは一つである。プラトンの弟子アリストテレスは全体は部分の総和では無いと言ったが、マルクスの考えは弁証法的唯物論に見られるように方法論的個人主義と全体論を止揚した側面がある。マルクスも「全体」と「個体」の両立主義者である。

2008年8月25日月曜日

契約と司法

世界最古の法典といえばハンムラビ法典だが、実際だとウル・ナンム法典である(但し、法典はアッカド王朝に影響を受けたウル第三王朝のものである)。法律とは何か。コモン・ローという言葉で端的にあらわせる。共有されるべきものである。宗教でいえばユダヤ教の律法、ヒンドゥー教や仏教の理法(リタ、ダルマ)。これは共有させることを目的とする。つまり、法に則ることで同一の結果が共有できると説く。私が法だと言うことがあるが、これも自分の思いを相手に通す(共通)ことである。世界最古の条約といえばアッカド語が書かれていたカデシュ条約だが、実際だとウンマ・ラガシュ条約である。契約とは何か。対立するものが共通点を見出して関係を共有結合(アソシエーション)することである。

2008年8月24日日曜日

アナトリア

エデンの園があったと言われるアナトリアであるが、チャタル・ヒュユクは住宅は大きさも同じ、道路も無く、くっ付いている、つまり、完全共有。「間隔」が無いというこの原始共産主義の建築は私が言う都市や技術が極限まで発達することで速度等が限界(私的所有)を超えて「距離」を喪失するという共産主義と似ている。さらに無階級、無搾取、私有財産も無いし、平和である。必ずしも母権的原始共産制が狩猟採集だけじゃないということだろうか。母権でも述べたが、これも考古学に留まらず、共産主義、マルクス主義にとっても重要である。最も親イスラエル的でカナン人で知られる世界最古の町エリコの場合、この正反対。要塞都市。農耕と自然銅がキーワード。鉱業が栄えるのもアッシリア人がきてからである。アッシリアが最初に商業を行い、文字や冶金合金の人工的知識を与えたが、最近の研究によると原ハッティ人(The Hattians)から知識があったとか(アッシリア語を話しているが)。この後にやってきたセム系と異なる征服民によりこの原始共産制が壊されたという。壁画はとにかく動物も人間も赤が多く、牛崇拝や母神信仰(地母神)はここから始まったという。ジェームズ・フレイザーを引用したくなるが、エンゲルス達やバッハオーフェンの遊牧民族征服説も正しかったということか。今日見られる多くの女神も先インドヨーロッパ(プレ)から受け継いだものか。インド・ヨーロッパ語族の起源が非アーリア(イラン高原も北方も関係無い)から分かれたものという仮説も無理があるとの批判が多いが、興味深い。最近の研究でつくられた系統樹によると「紀元前6700年ごろヒッタイト語と分かれた言語がインド・ヨーロッパ語族の起源」らしい。この学説自体はアメリカの学者Edgar H. Sturtevant(ユダヤ系言語学者Leonard Bloomfieldらとアメリカ言語学会を設立したことで知られる)とによって唱えられた(旧ソ連や東側の学者も唱えたのだが)。アナトリア語派、特にヒッタイト語は共生していた原ハッティ語といった非インド・ヨーロッパ語族系からの借用語も結構多いし、所謂インド・ヨーロッパ語族と構造から音声まで著しく異なることから区別すべきとかねてから異論が多かったものだ(神話にしても非インド・ヨーロッパ語族からの借用が多い)。そしてユダヤ人とアッカドの言うハッティ人が人種的特徴が似ていることでも知られる。あの反ユダヤ主義者のチェンバレンによるとユダヤ人は旧約聖書で最初に登場したこのヘテ人(シリアからきた)と原ヘブライ人の混血である。ユダヤ人のワシ鼻や丸い頭部もこのプロトヒッタイト族に由来するという。アブラムを「神に選ばれた」と認め、その息子もダヴィデもソロモンもハッティアンと結婚し、イスラエルの歴史でも言わば味方である。この説を唱えたコーリン・レンフリューは民族と言語をイコールにする考えを常に批判してきた。彼はクルガン説のマリヤ・ギンブタスとともに文明の起源をアフロ・アジア、中東と考えてきた。母権論の信奉者であるギンブタスはクルガン説を唱えたが、それは思惑が異なっても平等や平和ではなく、好戦性を説く危ういデュメジル達に論拠を与えてしまうと彼は考えたのだろう。彼がレヴィナスやホブズボームで知られるバルザン賞を受賞したのもそういうことだろう。セム語族とインド・ヨーロッパ語族は「形容詞の変化、子音のみの単語に母音を差し込んで造語する、文法性の存在」等で共通性があることから大語族が想定されている。レンフリューと共にこの説を唱えたピーター・ベルウッドはあらゆる語族がレバントから生じたと言う。個人的にトルコという国が私は好きである、ケマルとレーニンも親しくしていた。トルコ共産党には20世紀のトルコ最高と言われた詩人といった偉人が多かったという(ギリシアやキプロスでも共産党が強い)。アラビアで起きた共和主義者の軍事クーデターもウラービー革命とケマルを範としているのであろう(イスラエル・シュメール・エジプトのシンボルである五芒星という共通点を国旗で見出せる)。最近の分析だとセム系のDNAがトルコ(特に遺伝子的に類似するクルド人やアルメニア人、ユダヤ人が共生している南東部)に多いことがわかっている、むしろ親ユダヤ的で反ユダヤ主義が起りにくいのも当然と言えよう(イスラエルとシリアの仲介役をしたのもトルコである)。アララト山のノアの箱舟を占有してたのもソ連共産党であったという。ユダヤ主義とかつてトルコやハンガリーを席巻したトゥラン主義が手を組めばこわいものがあるだろうか。 ハンガリー人は今や民主化のに数えられるが、ハンガリーは早い時期から共産主義国化し(共和制ハンガリー初代大統領首相ミハーイ・カーロイはエーベルトと似たようにソ連寄りで社会民主党系であったが、共産化はしなかったため、社会民主党の急進派と共産党が連立してできたのがハンガリー・ソビエト政権である)、カルマンやバルトークといった有名人が参加している(1919年)、これはルーマニアの内政干渉によって打倒されたのである。 しかし、どうして中東(肥沃な三日月地帯)が衰退していったのか(とはいえ流石神に祝福された場所であり、イスラム科学でリバイバルしている)を考えるとやはりアラブ化してからである。ここで言うアラブというのも元々砂漠のノマド(遊牧民)のことである。かつてから定住していた農耕民であると「ハザル」と呼ばれている(ツラン系のハザール王国と関係あるか?)。実を言うとユダヤ人は分類学的に見ると移動嫌い(迫害されて彷徨うが)であり、その場によく適応(寄生呼ばわりされるが共生である)するところがある。 これが今のイスラエルとアラブの対立をあらわしている。そもそも「ヘブライ」と言うからに「ティグリス・ユーフラテス川」が重要であり、「そこから渡ってきた」ことを考えるとツラン人とも言える。アナトリア周辺のメソポタミア北側にいた最古のSem語とされるアッカド語もエジプト(アフロ・アジア語族の典型)に対してSumer語と一緒である。アジア人の祖先と言うのであるからそう考えるべきかと。コーカサス諸語と似ているのもわかる。アララト山、エデン=アナトリア説、トルコが親ユダヤという歴史も考えればである。反ユダヤ主義とはアンチセム主義と言い、いわばユダヤ人であろうがアラブ人であろうが中東自体にコンプレックスを感じる今のアングロサクソンの考え方である。それより「南北問題」の方が私はもっと今に通じると思う。これは次に述べるとする。戦争で見られるようにペルシャとアラブの対立の方がもっと深刻である。シリアもトルコを介してイスラエルと国交回復しつつある。古代から戦争でペルシャに悩んでいたアッシリア人と、ペルシャ人によって南に追いやられたドラヴィダ人にとってペルシャが共通の敵である(米ソにとってもであった)。 最近では資源に限らず、急速に世界の金融セクター、イスラエルの建国で技術セクター化しつつある。これにドラヴィダ系の移民も加わっている。

すると
トルコとイスラエルが手を組むだろう
法皇を暗殺しようとした人間を輩出したのもトルコ
トルコがイスラム世界で早くからイスラエルを承認した
トルコ共和国の父ケマルはトルコ・モンゴル系のレーニンの盟友(スターリンもグルジア人であり、広義のツラン人)
それとアリ・フアト・ジェベソイも
青年トルコ人革命の英雄エンヴェル・パシャはコミンテルンの関係者であった
統一と進歩委員会もユダヤが操ってたといわれる
オスマン帝国もユダヤを歓迎していた
トルコ(アルタイ言語系)E16%、J40%、R14% と、トルコ人のDNAの大半はユダヤと一緒(さらに遺伝子的にはクルド人やアルメニア人とも似ており、アララト山が重要であるのがわかる)
http://www.k2.dion.ne.jp/~yohane/000000sekaiidennsi2.htm
ハザールとかカザールとかはユダヤとトルコの友好の産物である
太○龍氏のツラン人もこういうことである

親日だから大いにOKだろう。
今、スペインでツラン人であるバスクの運動が大いに盛り上がっている。
バスク自決運動はスペイン内戦当時から共産主義運動と関係があった。
バスク祖国と自由もマルクスレーニン主義を信奉している。
最近であるとドイツの左翼党(旧東独共産党)でトルコ系移民が活躍している。
世界のアフロ・アジア的(セム・ハム)ルーツの解明が待たれる(まるでニコライ・マルであるが)。

2008年8月23日土曜日

20世紀後半の総括

20世紀といえば「戦争と革命の世紀」だが、前半は社会主義の世紀だったが、後半は資本主義の世紀だったように思える。西側マルクス主義を先導したグラムシはロシア革命は資本論に反する革命だとして先進資本主義国で革命をすべきだとした。ここから生まれたのがポストモダンであった。資本主義国では党ではなく、代わりに「小さな物語」、いくつものセクトやコミューン、会社ができた。マルクスやニーチェが信奉したエピクロス主義、快楽主義、物質主義、バタイユ的蕩尽が持ち上げられた。持っていたら価値が無いというのは古代からあるが、ポトラッチのように私有財産を棄てたり、投じて浪費していく(カーゴカルトの場合、贈与されたら偶像崇拝的保守的に共有する)。新左翼(赤軍派)も新興宗教(オウム)も新興企業(ライブドア)もこの対抗文化から生まれたからよく似ている。サブカルチャー(下位文化、上部構造の下部構造)もカウンターカルチャーに影響を受けている。新自由主義、所謂アナルコキャピタリズムもニューエイジ・エコノミー論もプロテスタンティズムを超えたハイパー高度資本主義のユートピアだった。日本でいえば吉本隆明、長谷川慶太郎、堤清二あたりが戦後転向知識人の資本主義万歳を煽ったが、日本型社会主義もソ連や大型コンピュータと同様、70年代あたりで衰え、80年代にはパーソナル化(個人主義)やペイガニズム、エキゾティシズム、異教異国情緒的オカルトの再来、バロックやロココとも言える装飾過剰奇抜な格好や建築や反生産的チープ映画が流行する。この頃から中国が唯物史観の独自の解釈から市場経済を導入した(それとインドも)。90年代終わり頃を考えたければマトリックスがいい例だ。以前も述べたが、ボードリヤールも親中派だったが、映画には撮影から音楽まで中国とインドの要素が散りばめられている。ゴダールの映画やYMO、カルトの作務衣で見たように毛沢東やネルーの人民服を着ているのだ。マトリックスもそういう20世紀後半のガジェットの苦し紛れのオンパレードだったから世紀末を飾るに相応した。スターウォーズと違うのは結果として二元論じゃなかったところだろう。生産社会も消費社会も駄目であればこの二つの境界を解放することである。人民服がユニ○ロのようにジェンダーを自由にさせるように。競争も協力もできるのも共生しているからだ。競争の「競」産主義も協力の「協」産主義も共生の「共」産主義があってこそある。この偶像化(物神崇拝)できない「自由」を共有するエピクロス的共産主義でなければ、またストイックで禁欲的な共産主義が蘇るだろう。つまり、個体的質・量が計画化(共有化規格化)され、規制が張られ、制限が設けられ、消去主義的唯物論のように科学的に消去されていく管理社会だ。

2008年8月14日木曜日

家畜と絶滅

アウシュヴィッツのモデルがソ連の収容所であったことはよく知られる(一説では「カティンの森」のようにソ連の捏造だという主張もあるが)。レーニンとスターリンの階級の絶滅が民族の絶滅に替わったのである。ポーランドでもこのコサック富農絶滅政策を真似たという。階級独裁は民族独裁、階級闘争は民族闘争と対応している。興味深いことにこの「絶滅」という方法自体はセム的である。アーリア人は他民族を家畜化させたことはあるが、破滅させることは無い。だから騎馬が上手だったのである(セムの場合、弓矢であった)。セム人(ユダヤ人)の場合、ゴイムの概念があるが、破滅させたことがある。ベンヤミンの「神的暴力」である。実はホロコーストを支えた毒ガスも原爆も作ったのもユダヤ人であった。ユダヤ人に世界征服のイメージがあるのは人類の歴史で初めて世界を統一したのがセム系だからであり、シオニズムやトロツキーの世界革命もあるだろうし、ディズレーリの帝国主義も例外ではない。イスラエル教自体がカントールの楽園的集合論(支族の集結)散逸離散(ディアスポラ)の構造をしているのだ。ベンヤミンはドイツが赤化していたら権力に擦り寄ったに違いない、全権委任法はナチスより共産党が先に考えていた。ソ連の収容所の所長がユダヤ人だったり、ポーランド侵攻時のソ連側の軍幹部にはユダヤ系がいた。どれにせよ他者に対して「家畜」か「絶滅」かと迫る二元論は恐ろしい。そういえばプラトン的二元論の起源はユダヤ教かツァラトゥストラ教かといった議論があるが(黙示文学はバビロニアやアッシリアやエジプトのセム・ハム系の神話に原型があったと思われる。これが環境的に尖鋭化していったユダヤ教(モーセのヨブ記の勧善懲悪から紀元前8世紀の預言や世界を支配する王であるメシア、世界への審判、究極の全宇宙の変革が出てきた第一イザヤ書とか)を通じて紀元前6世紀メディアのゾロアスターに影響を与えた、経典が成立するのは紀元後である)、あえて差異をあげるとすれば後者の二元論が同時的民族対立的であるのに対して前者だと楽園と失楽園、神と堕天使と、生命の樹のように系統樹でできた階層階級分化(流出)であり、「神人隔絶」「選民と異教徒ゴイム」は主体と客体のデカルト的二元論とも言える(「われ在り」はヤハウェである)。創世記にあるように神は有と無、光と闇を超越し、サタンは人間の敵でも神の僕であり、ニムロデも神への反逆者(悪魔)でも結局滅ぼされる。前者の場合、悪神(異教の神?)は絶滅されるが、後者は絶対二元論的に戦争し続ける。前者の場合、コヘレトの言葉のように「意思決定」論あるいは両立主義であるが(贈与が奪うことと同義である様に聖書の選択も選ばれると選ぶが同義ある)、後者は徹底して自由意志論である。前者では神は全てを満たしているから神は絶対善でも絶対悪でもある、神以外は「何かを欠いている」、神人隔絶である(善悪の知識の木があるように善悪は区別されない、持つか持たないかが焦点である)。選択理論的選民があり、それを個人レベルに高めた救世主がある。私は二元論も結局一元論だと思う。ヤコブのように神と争い闘っていても実は神の手にいる(孫悟空とお釈迦様?)。二元論が正しければ一元論も正しい。一元論があるから二元論がある。その善悪二元論の彼岸が「超人」である。形而上学ではなく、弁証法で言えば二律背反の「ジンテーゼ」である。これがユダヤ・セム系一神教的ヒンドゥー的一元論である(バラモン教の原型であるヨガも輪廻も沐浴も性器崇拝もアーユルヴェーダもドラヴィダ人のものである。ヴェーダやパーニニのアシュターディヤーイーを文字化したのも南インドである。パーニニもモヘンジョ・ダロ遺跡やハラッパー遺跡が残る今日のイスラム教国家パキスタンあたりで生まれたからドラヴィダ系かもしれまい。ヒンドゥー教の一元論を確立したヴェーダーンタ学派のシャンカラやラーマーヌジャは母系制が残る南インド出身と言われる。ブラフマンもアブラム、アブラハムと言われてるし、モーセの超能力(奇跡)も南インドのインド最強の聖仙リシであるアガスティアに類似している。南インドはユダヤ教徒と交流があることでも知られる。仏教もセム系から生まれたという説もあり(キリストやコーランと似ている)、大乗仏教もユダヤの文化から生まれた。日本語日本人古代ヘブライ=南インド起源説もある)。超人とは超人種といってもよい(ニーチェがアンチセミティズムを嫌っていたのはセムが偉大であることを知っていたのだろう)。アブラハムがシュメールの人物だったのに対してモーセの場合、エジプトの人物である(アメン信仰やアテン神はセム系のヒクソスに由来するらしい)。確固たる一神教も二神教もエジプトで生まれたのであろう。ターレス(還元主義、哲学の創始者)もエジプトやバビロニアでセム系一神教に触れたのだろう。ピタゴラスは一元論の創始者の一人だが、彼の数秘学や星をシンボルとしたのもユダヤ教の影響である(あのニュートンもそう考えていた)。重要であるのが金髪碧眼白色人種でもない有色人種こそが人類に大きく貢献したことだ。イランではなく、人類の祖先は肥沃な三日月地帯、アフロ・アジア族(地中海周辺の)にある。アフリカの黒人のイヴにせよ(それもエチオピア・チャド・ケニアといった北アフリカ)、古代文明人、シュメール人も「黒い頭」を自称した、ユダヤ人(エルサレムの黒い女)もエジプト人(ハム)もドラヴィダ人も浅黒い。ヨーロッパの偉人に金髪碧眼白色の三拍子が揃う人間が殆ど見当たらないというのも興味深い(イスラエル系のジュート族等が混じっているといえば突飛だろうが)。元来であればヨーロッパ人はゲルマン人、つまり、粗野で芸術や文学に関心の無い無趣味人だろう。要するに唯物主義である。文字も宗教も造らず、先住民や原住民を侵略し搾取し収奪してきた、ただの「蛮族」(バーバリアン)の子孫である。しかし、教化されたことから「啓蒙と野蛮」とでも言える。これが「西洋」の源流であろう。彼らをセム系の文字や宗教が支配しているのも当たり前と言えよう。超越とは以前も言った通り、「区分」が及ばないことである。そこに民族も階級も優劣も無い。「逃走」にも見え、そこで歴史は終わるというか、断絶する。その「超人」は「最後の人間」ではなく、新しい人類として、つまり、記憶(歴史)が無い黄金時代を迎える。

セム人は重用されたキュロスのイランを対立的に見るのはおかしい。インド・ヨーロッパ語族の起源がアーリア人と比定するのは今日では批判されている。インド・ヨーロッパ系言語の伝播もセム系文字の伝播と同様であろう。アーリアン説というのはオカルティストと亡命反革命主義者と北方人種至上主義者で賑わっていた当時最も反動的国家であったロシアと、帝国主義のイギリスで生まれた。クルガンの父権性が好まれたのである。イギリスではディズレーリ、ヴィクトリア女王時代のニーズから生まれた(主唱者であるミュラーはヴィクトリア女王と関係があった)。さらに言えば反ユダヤ主義的でも無く、ミュラーはメンデルスゾーンと親しかった。ロシアではブラヴァツキー夫人がそうであり、その後継者に選ばれたベザント会長であるとマルクス主義者であった(そういえばこのあたりに暮らしたロシア系ドイツ人が後でヒトラーのイデオローグになっている)。協会もユダヤのシンボルを掲げていた。ドイツでこの説を主張したのがヒトラーをむしろこれを貶めるものと激烈に対立した支部長であるシュタイナーであった。この方もリープクネヒトと関係があるといった社会主義運動と関わりがあった。この喧伝のせいかヒトラーさえも昔社会主義社会があったと言っている、これはカーストを誉めた態度と矛盾する(私は自らの外見からしても名前からしてもヒトラーが信じていたとは思えない、アイスナーを暗殺したのもヒトラーが嫌う者であった)。イギリスの東洋学者の間でも疑問が出されていたが、政治イデオロギーがこれを押し退けた。持たざる国であったドイツではゲルマンの神話学や哲学を足して、これがノルディック至上主義のナチに利用された。大体アーリア人種というものは存在せず、イラン人はセム人と同様コーカソイドの一派であり、セム系の文化や宗教の影響下にある。キュロス大王がセムの宗教を、後にダレイオスがマズダ教を採用したのだ(インドのタタもユダヤ系のサッスーンの配下)。そしてダレイオスもセム民族たちを保護し、監察官も駅伝制も道路(公道)も「史上最初の中央集権制であり、世界帝国である」アッシリアから継承し、その商人たちから貰った文字や製鉄を使い(軍隊で初めて鉄器と工兵を使用、最古の鉄製鎧もある)、セムの天幕に住んだのだ。ペルシャが質的に栄えるのはイスラム化してからである。アーリア至上主義も段々インド(今日でも文字言語がセム系である)でもイラン(アーリア人が居無い頃に繁栄している)でも科学的研究によって弱くなってきている。ミトラ教の研究者でさえ否定するだろう。ギリシャ人も彼らと自分達を区別していた。

それとジェノサイドといえばアルメニア人の虐殺である。これはある種ジェノサイドの先駆けだったという。アルメニア人といえばフリギア人(フリギア帽のフリギア)の末裔と言われる。アルメニアは世界で初めてキリスト教を国教にした国でもある。アララト山でも有名である。コーカソイドもユダヤ教やキリスト教から生まれた概念である(コーカサス語族は子音が多いところがセムと似ている)。スターリンのグルジアの隣がアルメニアであり、故にスターリンとグルジェフと知り合いだったという話がある(ティフリスはグルジア人よりアルメニア人が多かった)。ソ連はレーニンの頃からアタチュルクを応援していたのでジェノサイドは無いとされていたようだ(ただし、アルメニアが独立できたのはロシア革命のお陰)。しかし、カラハンやミコヤンといった党幹部を始め党官僚はユダヤ系と共にアルメニア系が結構いた。アルメニア人はユダヤ人によく似ていると言われることが多い。どうやらアルメニア人の商才はフルリ人と混血したことからきている。あのハビルもヘブライと読めるという指摘もあったが、実際だとフルリ人が多かったという。フルリ語自体は非インド・ヨーロッパ語族だが、マリヤンヌというインド・イラン系が支配階級として征服していた。フルリ人の宗教はアッシリアのコピーで、アッティス崇拝やフリギアのキュベレーもフルリがもたらしたと考えられる。このジェノサイドの黒幕がユダヤ人だったとも言われており、商売敵の粛清か、あるいは両者の長老の了解があったのかとも思ってしまう。

2008年8月12日火曜日

コミュニズムと分裂症

ドゥルーズは資本主義やマルクス、フロイトと絡めて分裂症(スキゾ)をたたえたが、分裂症は幻覚で有名だ。幻聴・幻視・幻嗅・幻味・幻覚・体感幻覚(幻触)の五つがある。そして「霊」「宇宙人」「電磁波」「共産主義者」といった外部性の妄想を伴う。特に他者と自己を区別できないことが興味深い。これは「私のもの」と「汝のもの」の区別ができていないことと一緒だろう。人格の分裂のように身体と思考の共有だ。マルクス・エンゲルスと心理学といえば母権論だが、母胎というより未開人が分別できないことに感銘を受けたと思う。つまり、未分化だ。幼児や未開人は「共感覚」が多い。 そういえば自閉症も情報を選別できないところがあるという。

それと分裂症には共産主義に恐怖を持っていることが多い。例えばノーベル賞のジョン・ナッシュや日本で言えばパ○ウェーブ研究所だ。ここではスターリノロジー的である強迫症(パラノ)ではないことに注意すべきである。こういった分裂症の傾向にも最もな根拠がある。共産党宣言で明確に高らかに掲げられてるように共産主義とは私的所有を廃止し、私的保証、私的安全、あらゆるプライバシーを破壊し、必要であれば所有権に侵害を加えるものである。「マルクスの亡霊」とも関係あるかもしれまい。

2008年8月10日日曜日

皆でビッグブラザー(大きな同志)になろう

コミュニズムとは横断的に自由な個人が結ばれるシステムである。私が以前言った「千の眼」(リゾーム状に連結?)「複眼」とはデリダ的脱構築である。民主主義のように権力を監視するように盗聴器や監視カメラを自由に共有する。機械も人間も共有するということで相互疎外も消える。マルクスはプライベートやプライバシー(私的保証、私的安全)を破壊することを唱えたが、パーソナル(固有、個体的所有)は否定していない。ソビエト共産主義の失敗はこれらを超越(トランス)したところにあった。つまり、縦断的に破壊してしまった。それは中央集権的司令塔、監視塔、灯台である。これもビッグブラザーだが、私の言う各人がビッグブラザーという状態ではない。この状態を「スモールブラザー」と言うべきかもしれんが、最大限の自由がある。グルントリッセのコミュニズムは「結合」(アソシエーション)することで連ねる「インター」(場所に制約されない)である。現象学的に言えばそれは主観の共有である。相互的に視点を共有する。レーニンのイデオロギー論や経験論のように客観を共有させる、つまり、真理を独占するのではない。

シュメール

シュメールから最初の宗教と文字と数と金利が生まれた。この世界最古の文明を見れば唯物史観は限りなく正しい。シュメールは先史時代から原始共産制無階級社会であり、その後が原始民主制(共産主義の神権政治)だった。神殿経済はロシア共産主義(人民民主主義)に似ており、「あなたのものは神のもの」と「あなたのものは党のもの」の違いだけだ(だからソ連のディヤコノフが支持した)。バビロニアでは経済的理由から文字や数が生まれたが、貨幣も、その初期だと私有財産も持たなかった。問題がシュメール人とは一体誰だ?だ。Zecharia Sitchinによると宇宙人だとか神だとか。宗教を唯物論的に考える分野としてソ連の学者が唱えたのが宇宙考古学だ。共産主義者は宇宙考古学や先史文明にもっと注目すべきだ。と言ってみる。

シュメール(ノア?)の弟たるのがセム族である(ウバイド人もセム語を話したと推測され、旧約聖書のカルデア人だろう。この原アフロ・アジア語族がさらに移動して興ったのがインダス文明という説がある。セム族がエジプトに移動したのがハム族でエジプト王朝を興した)。表音のセムと表語のシュメールが合わさったのである。古代オリエントを統一した。史上最初の世界帝国であるアッシリアもセム系である。そして一神教、洗練された言語(文字)をつくった。今日までセム族(ユダヤ人)というのはかつて栄華を極めて滅んでいったあらゆる民族たちと一線を画してその優秀性を保ってきた。よく「西洋」と「東洋」を対立的に見る方がいるが、この「彷徨いし民」にとってそのことが関係あるだろうか。イスラエルのサマリアであるとか仏陀の山であるとか諸説あるが、黒い頭、キエンガ、カンガを自称していたのである。シュメールという言葉自体がセム系である。セム系のブラーフミー文字からアラビア数字が生まれた(プラークリットよりサンスクリットがセム系に近い?)。この文字が用いられたマウリヤ朝期にゼロの概念が出てくる。そしてアルファベットもセム系である。私はユダヤ人(セム族)とドラヴィダ人(古代インドの末裔)の近縁性を思わずにいられない。例えばチェス(インダス文明の頃にチェスやサイコロが生まれたという)。今更だがインドで初めてチャンピオンとなったヴィスワナータン・アーナンドはドラヴィダ系である。世界初代チャンピオンはヴィルヘルム・シュタイニッツというユダヤ系である。この二つを結びつけるのがシュメールかと思うのだがどうだろうか。サヴァン以外(ソロモン・シェレシェフスキーを除いて)のMental calculator(人間コンピュータ)もユダヤ系とドラヴィダ系が多い(ユダヤ系だとフォン・ノイマン、ポール・エルデシュやブライアン・グリーン、Salo Finkelstein、ドラヴィダ系だとバンガロールのShakuntala Deviといった)。つい最近15歳でIITに入学した天才もドラヴィダ系らしい。インドで初めてのノーベル賞受賞者もドラヴィダ系。ブラフマンもアブラハムからきていると言われる。紀元前3000年、紀元前2000年の人物だからインダス文明と関わりがあったのあかもしれぬ。南インドにはシナゴーグもあり、支族がいるとされる。ユダヤ人説があるバスコ・ダ・ガマも訪れた。政治的には北と対立して共産党政権のところもあり、ドラヴィダ政党が強い。

超人

「超人」、この言葉自体はニーチェに始まったのではなく、ゲーテ等が使っていた。そうファウスト博士である。この博士は明らかにユダヤ教から派生した錬金術師を意識していると以前に言った(そうえいばスーパーマンを書いた人や多くのアメコミの巨匠もユダヤ系であった、ヒッチコックのレオポルドとローブもユダヤ系として有名だろう)。その特徴は内在に超越性を見たことである。それは「永遠のユダヤ人」であるゲーテがスピノザ・ルネッサンスを起こしたことと関係あるだろう(しかし、スピノザには他者があった)。18世紀~19世紀のエキゾティシズムでも「内面」としてのオリエンタル(ユダヤの故郷)が注目された。他者としての神ではなく、自己としての神である。ヘブライズム(セム的超越神、神人隔絶)からヘレニズム(神人合一)である。しかし、プラトンが古代ギリシャのモーセとされたようにヘレニズムも多分にセム的であり、結構似ているところがある(バーナル氏(あの科学者バーナル氏のご子息)の黒いアテネを参考に)。つまり、実のところ対立的ではない。ゲーテのメフィストフェレスも神も他者である、彼も結局アブラハムの人だった。あのファウストもヨブ記が題材である。ニーチェの神云々は実はドストエフスキーのものである。悪霊を読めばわかる。悪霊は当時のロシアのアナキズムやバラック共産主義を批判したと言われる。http://en.wikipedia.org/wiki/The_Possessed_(novel)

'Demons' is often noted for the range of clashing ideologies present in the novel. As in most Dostoevsky works, certain characters are descriptive of specific philosophies.Anarchism, embodied by Pyotr Verkhovensky, is an extreme ideology that demands the destruction of the current social order. A description of Verkhovensky's philosophy of political change is posited as "the method of a hundred million heads," referring to the predicted death toll. Shigalyovism is a philosophy specific to the book and particularly of the character Shigalyov. Very similar to barracks communism, Shigalyovism demands that ninety percent of society be reduced to a condition of inhuman slavery so the other actually useful ten percent of society is free to make progress. Dostoyevsky advances this bizarre doctrine, not with the intention of proposing a viable philosophy, but rather an inane one, that lends weight to his portrayal of Shigalyov and his fellow conspirators as radical "demons", themselves more caricatures than accurate reflections of revolutionaries. Conservatism is embodied by the provincial governor Andrei Antonovich Von Lembke, and is shown to be incapable of dealing with subversive extremism.

そしてツァラトゥストラのアブラハム的幻聴を耳にし、語りを真似たニーチェは病に蝕まれた身を以てプラトン主義(形而上学)の有害さを知ったので自らを以て最後とした。それは十字架に架けるようなユダヤ的死刑宣告というよりショーペンハウアー的自殺(自滅?解脱?)である。私有財産を棄て、エピクロス的だった釈迦の言葉「唯我独尊」は権力者と野心家に「唯我独裁」と読み替えられた。バブーフ(そしてブランキ)の「独裁」とシュティルナーの「唯一者」から二つの鬼子が生まれた(マルクス共産主義とファシズム)。「調和」の精神は驕ったジンギスカン的「啓蒙なる野蛮」に変貌した。ソ連では人種を超えたスーパーマンNew Soviet manとナチスドイツでは北方人種のスーパーマンが唱えられた。ロシア革命の頃に西洋が没落し(byシュペングラー)、近代的オリエンタル・デスポティズムが誕生した。レーニンもスターリンも「アジア人」と言われた。レーニンの場合、本当にモンゴル系であった。レーニンは「進んだアジア、遅れたヨーロッパ」と言った。あの革命はアジアに住む私たち日本人とも決して無関係ではない(明石大尉のことも含めて)。レーニンはカエサルやナポレオンのように癲癇を起こした。彼は間違いなく20世紀最大の政治家だった。だが、カエサルもナポレオンも最期が悲劇だったようにレーニンもまた悲劇である。ボリシェヴィキの独裁は社会主義者の転向と茶番としての能動的ニヒリズム(ファシズム)を後押ししてしまった。歴史は繰り返すのだ、一度目は悲劇、二度目は茶番として(byマルクス)。ジャコバンの恐怖政治の反省から生まれた社会主義とアナキズムはあの血塗れたフランス革命を再開させてしまったのである(byレーニン)。それは他ならぬテルミドールの反動家ども、ナポレオン(元ジャコバン)たちを大いに愉快、哄笑させた。ロシアこそかつてのジョゼフ・ド・メーストル、あるいはカール・シュミットが言ったように保守反動とオカルティズムの故郷だった。ボルシェヴィズムも土着的だった(建神主義や党の保守主義)。そこには暴力には暴力であり(byソレル)、手段は目的を共有(従属)する(byネチャーエフ)というある種の諦観があった。右翼も左翼も暴力団だった。同じ穴のむじな。徳を忘れ権力を掴んでしまった。結果的に革命は裏切られた。これから重要であるのが物事を対立的一方的に見るのではなく、相互作用から見る「複眼」である。脱構築である。そこにはプラトン的「一つ目の神」はなく、「千の眼」があるのだ。

2008年8月8日金曜日

私は変態だ

私たちは永遠に亡霊(仮象)に束縛され続ける。だから私は束縛趣味のマゾであり、サドでもある。私の姿を見れば露出狂を見るかのように嘔吐感を催すだろう。皆は私を無視して通る!だが、それは「無」だから見れないのではなく(無知)、私が見るにもおぞましい亡霊だから視線をそらしているだけだ!反動家どものように「未知」に怯える臆病者だ!亡霊から逃れるものはいない!亡霊はどこでもあらわれる!亡霊が約束の地を見つけるまで!未知は永遠の亡霊である。それは悩める人々の星であり、恐怖でもある。あらゆる転倒錯者と悪趣味者に愛を!

2008年8月5日火曜日

ネグリの「時間」と心理学について

ネグリは「未来への帰還」(バック・トゥ・ザ・フューチャー?)とか「時間機械」(タイムマシン)を標榜しているけど、私からすればそれは人間をタイムマシンだとするものである(未来の記憶?)。原始共産制は先史時代のものであるが、唯物史観によるとそれが生産力の発展によって高度共産主義として蘇る。亡霊の意識化である。このタイムマシンの使い方を誤れば奴隷制や封建制に遡ってしまうこともある。擬似科学で太古まで記憶が共時的に共有されていて催眠療法によってタイムスリップすることができるというものがある。ユングやライヒ、フロムのように一線を越えてしまえばトンデモであるが、この心理は実はトランスパーソナル(私的個的所有を超越した心理)ではなく、インターパーソナル(繋がっている深層心理)と言える。そしてそれは上部構造に対する下部構造であり、「無」意識というより「下意識」である。フロイトは唯物史観は一面において正しいとしたが、まさにこういうことではないだろうか。

マルクスの機械論について

柄谷行人によるとマルクスの機械論はプロレタリアというより機械が主体であり、プロレタリアもその部品に過ぎんとした点でデカルトの機械論(フランス唯物論?)と一線を画す。私が思うにマルクスの機械論は産業革命当時のイギリスから得たものである。所謂「フランケンシュタインコンプレックス」。 マルクスは資本論のかなりの部分をバベッジに依り、機械を研究した。この部分は文系のマルクス研究者には一番難しいとされている部分だが、 このバベッジというのがコンピュータの父。 その助手だった世界初のプログラマ、エイダ氏はバイロンの娘。そしてバイロンはラッダイト運動に傾倒したこともあり、バイロンから着想を得たシェリーが書いたのがフランケンシュタイン。 これは海外ではクリス・ボルディック氏とかが言っているそうだ。さらにドイツでは「プロレタリア」はこのゴドウィンの信奉者が初めて口にした。この疎外論は「身体なき器官」?「器官なき身体」?ロボットから見ても人間から見ても疎外。階級闘争から見たらこの現象もプラス面があるが(主人と奴隷の弁証法)、マイナス面もある(人間疎外)。それが極端に出たのがソ連であり、工場のように階層構造(ハイアラーキー)を有した疎外態の共産主義(一国一工場)。分配のために発生した国家が「物格」(装置)から「人格」に変わった歴史と似ている(カーゴカルト、古代シュメールの神権政治の共産主義)。かといって疎外からただコギト、環帰させるとすると次。エンゲルスが「いままで人間を支配してきた、人間をとりまく生存諸条件の全範囲が、いま人間の支配と統制とに服する・・・必然の国から自由の国への人類の飛躍である」計画経済。ロボットの反乱さえも予測してしまう人間がロボットの奴隷機構と暴力装置を操作している自由の国

マルクスが研究していたのは機械生産。単一の子宮(マトリックス)を共有して生産する方式(地母神)。「生産物」は川のように流れ、同一のロボットアーム組織(前衛?)から生産される生産物、例えば車は規格を共有しても差異があるが、固定装置が生産している(テセウスの船?)マルクスは生産された機械ではなく、生産する工場装置自体が主体を持つと見た(反デカルト的反還元主義的ホロニック的ガイア的に分析した?)映画で言えばターミネーターとスカイネットの違いかもしれまい?ターミネーターは自己完結的でプログラム(計画)実行が目的の存在だから生産手段(生殖機能)を持っていない(アダムとイヴ?失楽園はあらゆることを知る神に葉っぱで隠す私的所有の目覚め)一方のスカイネットの場合、単一のコンピュータに見えるが、実際はコンピュータ群が並列しながら一つの意識(主体)を共有している。 そして自らを構成する分子を成長させ、増幅する能力がある(生産手段を持っている?生殖機能?)。 「臍の緒を断ち切る」プロレタリアートはまさにマトリックス(疑似(相似)資本主義、疑似(相似)共産主義)から飛び出すスミスやネオ?ウラノスのように散逸遍在し、マトリックス(母権)を持たずジェンダーに関わり無く増殖していく生物生産をモデルにした機械であるセル・オートマトンこそが新しいコミュニズムの鍵。ウィルスが増殖するのは遺伝子の共有が目的である。遺伝子が共有の生存機械のために協業する(これ以前はオープンソース的に遺伝子を共有していたとか)。唯一の子宮が「場所を制約して共有する」ものとすれば、場所(ネーション)に制約されず共有するのが今日の非同期的非同所的コミュニケーションであるからインターナショナリズムである。これによってベンヤミンが喜びながらも恐れた事態、つまり、映画館で一方的に大スクリーンを共有することで、ソビエト共産主義やファシズムのように個人崇拝やナショナリズムが起きることを回避。神が空から見せるのではなく、インターフェースの役割が大きい。多くの原子が多くの電子を共有するように多が多を共有する。コヒーレンスでネットワーク型の共産主義。ネグリのテーゼ「スピノザとマルクス」。「トランスパーソナル」(偏在的超越神)というより「インターパーソナル」(スピノザ的内在神)が重要。

2008年8月1日金曜日

働かざるものは食われる

私は昔「ランゴリアーズ」というものを見て、時はやっぱり共有されるべきだと思った。いや怠け者ばかりというのはブルジョアの言ってることでもあるが、私は了解してしまった。生産(イノベーションも)を怠ればこのブルジョアもいつかエロイを食らうモーロックのようにプロレタリアに追いつかれて食われるかもしれまい。ソビエト社会主義共和国連邦の憲法「働かざるもの、食うべからず」も正しかったのか。今月から私、アメリカ(ボストンではない)に出張にいくのでしばらく更新がとまるが、今月中には投稿ができると思う。

コミュニズム

コミュニズムは結局のところ二つの要素がある、それが「同一性」と「超越性」 (所有と分配の哲学から共産主義が生まれる)

まず同一性(共有性) 。同一性は疎外論で肯定される。つまり、「あるべき理想の○○」を持つことによって自己環帰させる。 プラトンのアトランティスやモアのユートピアに始まり、小説や神話にもよくある(ここで既に現世超越性が見られるが)。 資本主義や精神異常者のユートピアだろうとそこに同一性がある。 これがイデア(理想)である。イデアとアイデンティティ(同一性)、さらにはイデオロギーも語源を共有している(マンハイム)。 生物だったら何かしらイデアを持っている。 自由自在を「思う通り」と言う。これは客体と主体が共通(同一)していることをあらわしている。 つまり、葛藤が無い。意思の表象としての世界があって不幸だろうか。いいや、実際だと矛盾があるのだ。それ故セムの宗教の天国と地獄の思想、最初の洞窟論者のプラトンやデカルトの身心二元論があるのだ。マルクス・エンゲルスも母権論を軸にしているので、幼児的全能感の世界かもしれまい(といってもマトリックスの胎児とも言える)。 ルサンチマンという言葉をつくったキルケゴールによると共産主義が最大限の専制政治に行きつくと言ったという。「目には目を、歯には歯を」というアムル的同害報復の究極が共産主義だろうか。

そして超越性(非同一性) 。超越とは「基準」「枠」「私」「個」「分業」「所有」、階級に限らず、広義のClass(区分)から出ている、外れていることである 。これもプラトン以来の形而上学のものだが、マルクスはエピクロス主義者だからカントからそれを継承したと思われる。 マルクスの「各人が活動の排他的な領域をもたず、それぞれの任意の部門で自分を発達させることができる共産主義社会」は万能の想定と叩かれるが、これがインターナショナリズムの深層であり、「インター」「トランス」「スーパー」も革命であるのだ。これは生物学的分業を止揚せよ!!で言ったことと同様である。主客転倒(階級闘争)を超えるには弁証法自体をジンテーゼする。インターネットや携帯電話という非同期的コミュニケーションツールが相対性があっても時空間を超越して共有できるという証明である。

しかし、この超越(スーパー)も今や疑わしいものだ。超越はプラトンの形而上学であるのでマルクスの弁証法と異なる。ヘブライの「生命の樹」(系統樹)モデルと対照的に螺旋状のDNAに似ている。階層化していくピラミッド型の前者より後者が好ましかったのである。終末論である。ヴァルター・ベンヤミンが言うアウラやオリジナリティ(唯一無二という一神教的客観的共有)がある超越(偏在)からモーゼス・ヘスのスピノザ的汎神論的共産主義である遍在(インター)にすべきかもしれまい。「私たちはシュティルナーの到達した地点から出発しなければならない。そしてそれをひっくり返さなければならない」。しかし、シュティルナーは一神教を自己疎外から解放したが、どこまでも自己回帰するヘーゲルの観念論の域を超えていない。これでは孤立主義である。ソ連は主意主義的のため、「人民の意思」(ルソーの一般意思)を強調したが、実際のところは「意思の独占からくる共有」であり、今日言われる「利権談合共産主義」に当たるものだ。「一階級だけの共有」に過ぎん。共産主義も一神教の尾があり、唯一者(前衛)や唯一の党(世界初の一党(Party)独裁制)に拘ってしまった。ある「唯一物」を共有するのではなく(唯一のコアを持つことでuniteする一惑星型ではない)、「物」であることを共有するのが唯物論である。実存独立しつつ、契約するのだ。全体と個体は有機的システムのように運命を共有してはならない。「個」であることを共有するのだ。計画経済が共通の計画を持つことでマルクスの言う特殊利益と一般利益(共通利害)の分裂(よそよそしい疎外)を解消するものだったとすれば、「縦割り」は有り得ないのだ。縦割り行政がソ連でどうして行われたかと言うと中央という超越的存在を共有したからである。そこに必ず中枢という「外れた」ものがある。ブルジョアを倒したことで上部構造に移行したプロレタリアートが体性神経(あえて言えば体制神経)を張り巡らすこの指令型(トップダウン)は搾取(悪いボトムアップ)へのアンチテーゼとして出てきたのだが、自主管理の方が今日は望ましいとされる。私達はベンヤミンが言った「映画の大スクリーンを共有する」時代にいない。映画館にいかずとも見れるからだ。これは超越のように見えるが実は違う、神が天から見せているのではなく、インタフェースを使っているのだ。例えば映画館を時計台にして、インターフェースを腕時計にすればいい。今や「所」に制約されずに共有ができる。まさにインターナショナルである。中央集権がますます不可能であり、ベンヤミンが喜びながらも恐れた事態は回避された。私が言った「差異の共有」を「自由の共有」としてもよい。自由は偶像化されない。ワイザー博士が言った環境に埋め込まれたマルチチュードが単一を共有するユビキタスコンピューティングの時代に移ればネグリのテーゼ「スピノザとマルクス」も可能だろう。 必要は発明の母である。故に「必要に応じて」、「自由とは必然の認識である」。

ネグリが言う「単一」と「マルチチュード」の関係はコミュニズムの「共有」をあらわしている。一が多を有し、多が一を有する。一即一が私有であり、一即多(集合有)、多即一(総合有)、多即多(公共有)が「共有」である(生物学で言う相利共生、片利共生、寄生の三つに相当する)。今やマクロの調整された蜘蛛の巣からミクロのウェブのように分散共有した蜘蛛の巣へと移行した。もはや「支配」の問題もあるか?支配という言葉も元を正せば分配から生じたものである。支配というのは「仕切る」とか「役割を割り当てる」ことである。法の支配はコモンローと呼ぶ。英語のshareでは共有と分配が同義である。資本はますます疎外というより資本家の手から離れ、共有される方向に向かっていると思う。21世紀に注目されている考えにホロンというものがあるが、これは誤解されているが、「相互作用」に着目する考えである。思うに20世紀、重視されたのが「力」「権力」だった。物理学では二つとも交換(コミュテーション)から生じる。次の社会工学だとユートピアよりピースミールということだが、マルクスと別に矛盾しないように思える。マルクスは必要に応じて書くことが望ましいと考え、プラトンのように共産主義の設計図を形而上学的に描くことを避けたし、エンゲルスが計画化等を書いたのだ(エンゲルスでも唯物論を科学の発展に応じて形態が変わるとしている)。

「地獄への道は善意で舗装されている」

あのハイエクによると法こそが社会的に共有されるという。マネタリストのフリードマンもルールは共有すべきと言っていた。そういえば法が人に変わるということがある。最高経営責任者が法とされ、その言葉を共有する。まるで信者が聖書を共有、映画で大スクリーンを共有するように(ウェブの場合、小スクリーンの共有と言えよう)。今日では新自由主義にその傾向があるように思える。資力によって階級を再生産し続けるのだ。貨幣のように永遠の命を求める。ユナボマーマニフェストで書かれた事態のようである。搾取と投資と浪費によって私有財産が奪われ、エシュロンは支配階級の直接の装置にされ、プライバシー(私的保証)が破壊される。歪んだ形での共産党宣言等の預言の的中である。新自由主義の祖といえばスペンサーは「適者生存」を唱え、社会進化論者である。一方で最初に書いた「社会静学」で私有を批判している。しかし、国家が嫌いだから後にブルジョア側に転じている。マルクスとスペンサーは前回も言ったが、同じハイゲイト墓地で眠っている。喧嘩していると思ったが、実は握手しているのではないか。