2008年8月31日日曜日
牛と蛇、そして神
太○龍的ニューエイジ陰謀論的に整理してしまうと
ユダヤは両翼双頭を司る(ソロモンの指輪でも天使も悪魔も従わす)
職人としての科学的才能があり、ワシ鼻、丸い頭、母権的:ヘテ人(原ハッティ人)
商人としての才能があり、ジュリコの閉鎖性から思うに警戒心が強く計算高い、浅黒い、カイン?、父権的:カナン人(原カナン人)
アブラハム:ウル(牛族)系。先シュメール=ヘブライ人(原アフロ・アジア語族、エデンの園(アナトリア)から下りてきたメソポタミア北部のアッカド人、アモリ人、アムル人?)。シュメール人と関わりがあり、アブラム(ABRAM)もシュメール語であるらしい?。アブラムがアブラハムと化したのも父親がハム(父権的)であったからであろう。これで六芒星が止揚しているものがわかった。北(セム)と南(ハム)である。三日月の緩衝地帯でイスラエルが生まれた。あらゆる一神教の祖とも言える。後にとある者達とインドに移動。Abrahamに由来するのがヴェーダの宗教のBrahmanである。BrahmanのSaraswatiがAbrahamのSaraである。Abrahamの宗教であるということである。ワンワールド系、ジグラット系。
モーセ:エジプトのファラオと親しい蛇使い。出エジプトの時期が重なるのでアトランティス系かもしれまい。神通力、超能力者という点で仙人アガスティヤのモデルか。カバラを継承しつつ、二重性の国であるエジプト発祥の二元論(選民かゴイムか光か闇か生か氏かといったモーツァルトの魔笛宜しくの)から背教者や異教徒を敵視する選民思想(罰としての律法)、倫理的宗教としてのユダヤ教を確立した。ワンメサイヤ系、ピラミッド系。
哺乳類系ユダヤと爬虫類系ユダヤの交替支配?
「東西問題」(アシュケナジーとセファルディ)はよく知られてるが、「南北問題」が議論されていない。
六芒星もをあらわしているのであろうか。太陽暦(エジプト)と太陰暦(メソポタミア)、上流(アッシリア)と下流(バビロニア)、女性器(多神教)と男性器(一神教)。
サマリア人Samaritan=北イスラエル、ヘブル(エデン人)、シュメールSumerian
ユダヤ人=南ユダ王国、ジュー、セムを騙った「ハムの子孫」とされるハンムラビに従ったのでハム系か
ロック・フェラー=採掘労働者、石器文明からのギルド大棟梁、産業資本、ヘテ系
ロス・チャイルド=幼児虐殺者、呪われしカナンの末裔、金融資本、哺乳類を嫌う(母性が無い)、カナン系
インド=牛 (メソポタミアから住みに来てインド先住民と混血したドラヴィダ人、南インドに投資が集中)
中国=蛇 (文字から言えばキルヒャーが言うように中国はエジプトやフェニキア、クレタと似ている)
ということか?
こう見るとエジプト学派とコーカサス学派が対立しているのであろうか?
ベルウッドによると北レバントで文明が産まれたとか。 トルコ語があらゆる語族を兼ねていることを考えるとそれっぽい。
一方でシュメルが南アフリカの言語や黒人と似ているから南で産まれたとも言われている。
今日のイスラエルでも黒人に似たユダヤ人とトルコ人に似たユダヤ人が問題化している。
エラム人とアラム人?
セム・ハムも「アフロ・アジア」と学界で言い換えられたがその対立をあらわしているのか。
歴史でもテュルク帝国とアラブ帝国が競い合っている。
私は二項対立を制すホルス(全能の神)がいると思える。
牛といえばベヘモス(ベヒモス)だ(大陸国家と海洋国家、ソ連とアメリカのような関係)。農耕牧畜に由来するらしいが、元来搾取といえば家畜として牛から乳を搾り取ることを言った。この搾取へのアンチテーゼとして牛崇拝が考えられるかもしれまい。神の無限性は「惜しみ無く湧き出る母乳」に喩えられることもある。しかし、「黄金の子牛」が壊されたようにエロヒムに偶像はない、牛とか蛇とかを超越している、つまり、姿を見せない。ここが他と一線を画すところだ。心理学ではこれが「無意識」と結び付けられるが、「私は在る」「私は全能の神である」「最高、最強」「すべてを知る神」こそ神だ。まるでデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)の台詞であり、ニュートンがユダヤを偏愛したのも機械論からくる神の存在証明であろう。しかし、これにより「神の望むまま、何でも有り」(といっても自然現象崇拝ではなく、超自然的介入もあり)としてあらゆることが正当化される。ただし、アブラハムの子孫だけは選ばれたから都合を計らえてもらえるとする。カルヴァン主義が資本主義の精神だとヴェーバーが言ったが、実際はユダヤ教である。歴史も自分も技術(ヘルツの電磁波etc)や魔術(カッバーラ)で操られているから物質世界に幻滅するグノーシス的オカルトはその対であるといえよう。思えばエジプトでもメソポタミアでもヒエラルキー(中央集権)や世界帝国を最初につくったのがセム・ハム族だった。先住民は原始共産制に似た生活をしていた。あらゆるところで散逸遍在しつつ、宰相や顧問と重用されている。さらに近代で言えば大英帝国のディズレーリ、アメリカ合衆国のジェファーソン、ソビエト連邦のレーニンもユダヤ系(さらにテュルク・モンゴル系でもあった、レーニンも親しみを持ってトルコを援助した、タタール人とユダヤ人はハザールに見られるように関係が強い、DNA的にも言語的にも、ユダヤ人がつくった万国共通語エスペラントもモンゴル・テュルク系を思い起こす、ジンギスカンの子孫に重用されてユダヤ人のラシードゥッディーンがテュルク・モンゴル史を編纂するのも当然であった、そしてソ連の次にモンゴルが共産化したのもそうである。(初期であるとジンギスカンもたたえられた))であった。(清教徒革命のクロムウェルも親ユダヤ的だった)。歴史的に「権力」や「支配」といったものと縁が深い人々であろう。エロヒムは抽象性を極めた神でもあるが、人間の残酷さももてる神でもある。ソドム・ゴモラは古代のヒロシマ・ナガサキである。あのヒトラー(曰く原子物理学はユダヤ物理学で、大戦の経験やハーバーがつくったから毒ガスも嫌った)を唆したのもエロヒムかもしれまい。アブラハムやモーセの如く幻影と使命感に襲われたニーチェ(彼の著書には聖書のような語りもある)が言っている通り「民族主義国家の熱に浮かされることの愚劣さをユダヤ人に知らしめ、彼らをさらなる高みへと駆り立てられる」。
2008年8月26日火曜日
全体主義について
2008年8月25日月曜日
契約と司法
2008年8月24日日曜日
アナトリア
すると
トルコとイスラエルが手を組むだろう
法皇を暗殺しようとした人間を輩出したのもトルコ
トルコがイスラム世界で早くからイスラエルを承認した
トルコ共和国の父ケマルはトルコ・モンゴル系のレーニンの盟友(スターリンもグルジア人であり、広義のツラン人)
それとアリ・フアト・ジェベソイも
青年トルコ人革命の英雄エンヴェル・パシャはコミンテルンの関係者であった
統一と進歩委員会もユダヤが操ってたといわれる
オスマン帝国もユダヤを歓迎していた
トルコ(アルタイ言語系)E16%、J40%、R14% と、トルコ人のDNAの大半はユダヤと一緒(さらに遺伝子的にはクルド人やアルメニア人とも似ており、アララト山が重要であるのがわかる)
http://www.k2.dion.ne.jp/~yohane/000000sekaiidennsi2.htm
ハザールとかカザールとかはユダヤとトルコの友好の産物である
太○龍氏のツラン人もこういうことである
親日だから大いにOKだろう。
今、スペインでツラン人であるバスクの運動が大いに盛り上がっている。
バスク自決運動はスペイン内戦当時から共産主義運動と関係があった。
バスク祖国と自由もマルクスレーニン主義を信奉している。
最近であるとドイツの左翼党(旧東独共産党)でトルコ系移民が活躍している。
世界のアフロ・アジア的(セム・ハム)ルーツの解明が待たれる(まるでニコライ・マルであるが)。
2008年8月23日土曜日
20世紀後半の総括
2008年8月14日木曜日
家畜と絶滅
セム人は重用されたキュロスのイランを対立的に見るのはおかしい。インド・ヨーロッパ語族の起源がアーリア人と比定するのは今日では批判されている。インド・ヨーロッパ系言語の伝播もセム系文字の伝播と同様であろう。アーリアン説というのはオカルティストと亡命反革命主義者と北方人種至上主義者で賑わっていた当時最も反動的国家であったロシアと、帝国主義のイギリスで生まれた。クルガンの父権性が好まれたのである。イギリスではディズレーリ、ヴィクトリア女王時代のニーズから生まれた(主唱者であるミュラーはヴィクトリア女王と関係があった)。さらに言えば反ユダヤ主義的でも無く、ミュラーはメンデルスゾーンと親しかった。ロシアではブラヴァツキー夫人がそうであり、その後継者に選ばれたベザント会長であるとマルクス主義者であった(そういえばこのあたりに暮らしたロシア系ドイツ人が後でヒトラーのイデオローグになっている)。協会もユダヤのシンボルを掲げていた。ドイツでこの説を主張したのがヒトラーをむしろこれを貶めるものと激烈に対立した支部長であるシュタイナーであった。この方もリープクネヒトと関係があるといった社会主義運動と関わりがあった。この喧伝のせいかヒトラーさえも昔社会主義社会があったと言っている、これはカーストを誉めた態度と矛盾する(私は自らの外見からしても名前からしてもヒトラーが信じていたとは思えない、アイスナーを暗殺したのもヒトラーが嫌う者であった)。イギリスの東洋学者の間でも疑問が出されていたが、政治イデオロギーがこれを押し退けた。持たざる国であったドイツではゲルマンの神話学や哲学を足して、これがノルディック至上主義のナチに利用された。大体アーリア人種というものは存在せず、イラン人はセム人と同様コーカソイドの一派であり、セム系の文化や宗教の影響下にある。キュロス大王がセムの宗教を、後にダレイオスがマズダ教を採用したのだ(インドのタタもユダヤ系のサッスーンの配下)。そしてダレイオスもセム民族たちを保護し、監察官も駅伝制も道路(公道)も「史上最初の中央集権制であり、世界帝国である」アッシリアから継承し、その商人たちから貰った文字や製鉄を使い(軍隊で初めて鉄器と工兵を使用、最古の鉄製鎧もある)、セムの天幕に住んだのだ。ペルシャが質的に栄えるのはイスラム化してからである。アーリア至上主義も段々インド(今日でも文字言語がセム系である)でもイラン(アーリア人が居無い頃に繁栄している)でも科学的研究によって弱くなってきている。ミトラ教の研究者でさえ否定するだろう。ギリシャ人も彼らと自分達を区別していた。
それとジェノサイドといえばアルメニア人の虐殺である。これはある種ジェノサイドの先駆けだったという。アルメニア人といえばフリギア人(フリギア帽のフリギア)の末裔と言われる。アルメニアは世界で初めてキリスト教を国教にした国でもある。アララト山でも有名である。コーカソイドもユダヤ教やキリスト教から生まれた概念である(コーカサス語族は子音が多いところがセムと似ている)。スターリンのグルジアの隣がアルメニアであり、故にスターリンとグルジェフと知り合いだったという話がある(ティフリスはグルジア人よりアルメニア人が多かった)。ソ連はレーニンの頃からアタチュルクを応援していたのでジェノサイドは無いとされていたようだ(ただし、アルメニアが独立できたのはロシア革命のお陰)。しかし、カラハンやミコヤンといった党幹部を始め党官僚はユダヤ系と共にアルメニア系が結構いた。アルメニア人はユダヤ人によく似ていると言われることが多い。どうやらアルメニア人の商才はフルリ人と混血したことからきている。あのハビルもヘブライと読めるという指摘もあったが、実際だとフルリ人が多かったという。フルリ語自体は非インド・ヨーロッパ語族だが、マリヤンヌというインド・イラン系が支配階級として征服していた。フルリ人の宗教はアッシリアのコピーで、アッティス崇拝やフリギアのキュベレーもフルリがもたらしたと考えられる。このジェノサイドの黒幕がユダヤ人だったとも言われており、商売敵の粛清か、あるいは両者の長老の了解があったのかとも思ってしまう。
2008年8月12日火曜日
コミュニズムと分裂症
それと分裂症には共産主義に恐怖を持っていることが多い。例えばノーベル賞のジョン・ナッシュや日本で言えばパ○ウェーブ研究所だ。ここではスターリノロジー的である強迫症(パラノ)ではないことに注意すべきである。こういった分裂症の傾向にも最もな根拠がある。共産党宣言で明確に高らかに掲げられてるように共産主義とは私的所有を廃止し、私的保証、私的安全、あらゆるプライバシーを破壊し、必要であれば所有権に侵害を加えるものである。「マルクスの亡霊」とも関係あるかもしれまい。
2008年8月10日日曜日
皆でビッグブラザー(大きな同志)になろう
シュメール
シュメールから最初の宗教と文字と数と金利が生まれた。この世界最古の文明を見れば唯物史観は限りなく正しい。シュメールは先史時代から原始共産制無階級社会であり、その後が原始民主制(共産主義の神権政治)だった。神殿経済はロシア共産主義(人民民主主義)に似ており、「あなたのものは神のもの」と「あなたのものは党のもの」の違いだけだ(だからソ連のディヤコノフが支持した)。バビロニアでは経済的理由から文字や数が生まれたが、貨幣も、その初期だと私有財産も持たなかった。問題がシュメール人とは一体誰だ?だ。Zecharia Sitchinによると宇宙人だとか神だとか。宗教を唯物論的に考える分野としてソ連の学者が唱えたのが宇宙考古学だ。共産主義者は宇宙考古学や先史文明にもっと注目すべきだ。と言ってみる。
シュメール(ノア?)の弟たるのがセム族である(ウバイド人もセム語を話したと推測され、旧約聖書のカルデア人だろう。この原アフロ・アジア語族がさらに移動して興ったのがインダス文明という説がある。セム族がエジプトに移動したのがハム族でエジプト王朝を興した)。表音のセムと表語のシュメールが合わさったのである。古代オリエントを統一した。史上最初の世界帝国であるアッシリアもセム系である。そして一神教、洗練された言語(文字)をつくった。今日までセム族(ユダヤ人)というのはかつて栄華を極めて滅んでいったあらゆる民族たちと一線を画してその優秀性を保ってきた。よく「西洋」と「東洋」を対立的に見る方がいるが、この「彷徨いし民」にとってそのことが関係あるだろうか。イスラエルのサマリアであるとか仏陀の山であるとか諸説あるが、黒い頭、キエンガ、カンガを自称していたのである。シュメールという言葉自体がセム系である。セム系のブラーフミー文字からアラビア数字が生まれた(プラークリットよりサンスクリットがセム系に近い?)。この文字が用いられたマウリヤ朝期にゼロの概念が出てくる。そしてアルファベットもセム系である。私はユダヤ人(セム族)とドラヴィダ人(古代インドの末裔)の近縁性を思わずにいられない。例えばチェス(インダス文明の頃にチェスやサイコロが生まれたという)。今更だがインドで初めてチャンピオンとなったヴィスワナータン・アーナンドはドラヴィダ系である。世界初代チャンピオンはヴィルヘルム・シュタイニッツというユダヤ系である。この二つを結びつけるのがシュメールかと思うのだがどうだろうか。サヴァン以外(ソロモン・シェレシェフスキーを除いて)のMental calculator(人間コンピュータ)もユダヤ系とドラヴィダ系が多い(ユダヤ系だとフォン・ノイマン、ポール・エルデシュやブライアン・グリーン、Salo Finkelstein、ドラヴィダ系だとバンガロールのShakuntala Deviといった)。つい最近15歳でIITに入学した天才もドラヴィダ系らしい。インドで初めてのノーベル賞受賞者もドラヴィダ系。ブラフマンもアブラハムからきていると言われる。紀元前3000年、紀元前2000年の人物だからインダス文明と関わりがあったのあかもしれぬ。南インドにはシナゴーグもあり、支族がいるとされる。ユダヤ人説があるバスコ・ダ・ガマも訪れた。政治的には北と対立して共産党政権のところもあり、ドラヴィダ政党が強い。
超人
'Demons' is often noted for the range of clashing ideologies present in the novel. As in most Dostoevsky works, certain characters are descriptive of specific philosophies.Anarchism, embodied by Pyotr Verkhovensky, is an extreme ideology that demands the destruction of the current social order. A description of Verkhovensky's philosophy of political change is posited as "the method of a hundred million heads," referring to the predicted death toll. Shigalyovism is a philosophy specific to the book and particularly of the character Shigalyov. Very similar to barracks communism, Shigalyovism demands that ninety percent of society be reduced to a condition of inhuman slavery so the other actually useful ten percent of society is free to make progress. Dostoyevsky advances this bizarre doctrine, not with the intention of proposing a viable philosophy, but rather an inane one, that lends weight to his portrayal of Shigalyov and his fellow conspirators as radical "demons", themselves more caricatures than accurate reflections of revolutionaries. Conservatism is embodied by the provincial governor Andrei Antonovich Von Lembke, and is shown to be incapable of dealing with subversive extremism.
そしてツァラトゥストラのアブラハム的幻聴を耳にし、語りを真似たニーチェは病に蝕まれた身を以てプラトン主義(形而上学)の有害さを知ったので自らを以て最後とした。それは十字架に架けるようなユダヤ的死刑宣告というよりショーペンハウアー的自殺(自滅?解脱?)である。私有財産を棄て、エピクロス的だった釈迦の言葉「唯我独尊」は権力者と野心家に「唯我独裁」と読み替えられた。バブーフ(そしてブランキ)の「独裁」とシュティルナーの「唯一者」から二つの鬼子が生まれた(マルクス共産主義とファシズム)。「調和」の精神は驕ったジンギスカン的「啓蒙なる野蛮」に変貌した。ソ連では人種を超えたスーパーマンNew Soviet manとナチスドイツでは北方人種のスーパーマンが唱えられた。ロシア革命の頃に西洋が没落し(byシュペングラー)、近代的オリエンタル・デスポティズムが誕生した。レーニンもスターリンも「アジア人」と言われた。レーニンの場合、本当にモンゴル系であった。レーニンは「進んだアジア、遅れたヨーロッパ」と言った。あの革命はアジアに住む私たち日本人とも決して無関係ではない(明石大尉のことも含めて)。レーニンはカエサルやナポレオンのように癲癇を起こした。彼は間違いなく20世紀最大の政治家だった。だが、カエサルもナポレオンも最期が悲劇だったようにレーニンもまた悲劇である。ボリシェヴィキの独裁は社会主義者の転向と茶番としての能動的ニヒリズム(ファシズム)を後押ししてしまった。歴史は繰り返すのだ、一度目は悲劇、二度目は茶番として(byマルクス)。ジャコバンの恐怖政治の反省から生まれた社会主義とアナキズムはあの血塗れたフランス革命を再開させてしまったのである(byレーニン)。それは他ならぬテルミドールの反動家ども、ナポレオン(元ジャコバン)たちを大いに愉快、哄笑させた。ロシアこそかつてのジョゼフ・ド・メーストル、あるいはカール・シュミットが言ったように保守反動とオカルティズムの故郷だった。ボルシェヴィズムも土着的だった(建神主義や党の保守主義)。そこには暴力には暴力であり(byソレル)、手段は目的を共有(従属)する(byネチャーエフ)というある種の諦観があった。右翼も左翼も暴力団だった。同じ穴のむじな。徳を忘れ権力を掴んでしまった。結果的に革命は裏切られた。これから重要であるのが物事を対立的一方的に見るのではなく、相互作用から見る「複眼」である。脱構築である。そこにはプラトン的「一つ目の神」はなく、「千の眼」があるのだ。
2008年8月8日金曜日
2008年8月5日火曜日
ネグリの「時間」と心理学について
マルクスの機械論について
マルクスが研究していたのは機械生産。単一の子宮(マトリックス)を共有して生産する方式(地母神)。「生産物」は川のように流れ、同一のロボットアーム組織(前衛?)から生産される生産物、例えば車は規格を共有しても差異があるが、固定装置が生産している(テセウスの船?)マルクスは生産された機械ではなく、生産する工場装置自体が主体を持つと見た(反デカルト的反還元主義的ホロニック的ガイア的に分析した?)映画で言えばターミネーターとスカイネットの違いかもしれまい?ターミネーターは自己完結的でプログラム(計画)実行が目的の存在だから生産手段(生殖機能)を持っていない(アダムとイヴ?失楽園はあらゆることを知る神に葉っぱで隠す私的所有の目覚め)一方のスカイネットの場合、単一のコンピュータに見えるが、実際はコンピュータ群が並列しながら一つの意識(主体)を共有している。 そして自らを構成する分子を成長させ、増幅する能力がある(生産手段を持っている?生殖機能?)。 「臍の緒を断ち切る」プロレタリアートはまさにマトリックス(疑似(相似)資本主義、疑似(相似)共産主義)から飛び出すスミスやネオ?ウラノスのように散逸遍在し、マトリックス(母権)を持たずジェンダーに関わり無く増殖していく生物生産をモデルにした機械であるセル・オートマトンこそが新しいコミュニズムの鍵。ウィルスが増殖するのは遺伝子の共有が目的である。遺伝子が共有の生存機械のために協業する(これ以前はオープンソース的に遺伝子を共有していたとか)。唯一の子宮が「場所を制約して共有する」ものとすれば、場所(ネーション)に制約されず共有するのが今日の非同期的非同所的コミュニケーションであるからインターナショナリズムである。これによってベンヤミンが喜びながらも恐れた事態、つまり、映画館で一方的に大スクリーンを共有することで、ソビエト共産主義やファシズムのように個人崇拝やナショナリズムが起きることを回避。神が空から見せるのではなく、インターフェースの役割が大きい。多くの原子が多くの電子を共有するように多が多を共有する。コヒーレンスでネットワーク型の共産主義。ネグリのテーゼ「スピノザとマルクス」。「トランスパーソナル」(偏在的超越神)というより「インターパーソナル」(スピノザ的内在神)が重要。
2008年8月1日金曜日
働かざるものは食われる
コミュニズム
まず同一性(共有性) 。同一性は疎外論で肯定される。つまり、「あるべき理想の○○」を持つことによって自己環帰させる。 プラトンのアトランティスやモアのユートピアに始まり、小説や神話にもよくある(ここで既に現世超越性が見られるが)。 資本主義や精神異常者のユートピアだろうとそこに同一性がある。 これがイデア(理想)である。イデアとアイデンティティ(同一性)、さらにはイデオロギーも語源を共有している(マンハイム)。 生物だったら何かしらイデアを持っている。 自由自在を「思う通り」と言う。これは客体と主体が共通(同一)していることをあらわしている。 つまり、葛藤が無い。意思の表象としての世界があって不幸だろうか。いいや、実際だと矛盾があるのだ。それ故セムの宗教の天国と地獄の思想、最初の洞窟論者のプラトンやデカルトの身心二元論があるのだ。マルクス・エンゲルスも母権論を軸にしているので、幼児的全能感の世界かもしれまい(といってもマトリックスの胎児とも言える)。 ルサンチマンという言葉をつくったキルケゴールによると共産主義が最大限の専制政治に行きつくと言ったという。「目には目を、歯には歯を」というアムル的同害報復の究極が共産主義だろうか。
そして超越性(非同一性) 。超越とは「基準」「枠」「私」「個」「分業」「所有」、階級に限らず、広義のClass(区分)から出ている、外れていることである 。これもプラトン以来の形而上学のものだが、マルクスはエピクロス主義者だからカントからそれを継承したと思われる。 マルクスの「各人が活動の排他的な領域をもたず、それぞれの任意の部門で自分を発達させることができる共産主義社会」は万能の想定と叩かれるが、これがインターナショナリズムの深層であり、「インター」「トランス」「スーパー」も革命であるのだ。これは生物学的分業を止揚せよ!!で言ったことと同様である。主客転倒(階級闘争)を超えるには弁証法自体をジンテーゼする。インターネットや携帯電話という非同期的コミュニケーションツールが相対性があっても時空間を超越して共有できるという証明である。
しかし、この超越(スーパー)も今や疑わしいものだ。超越はプラトンの形而上学であるのでマルクスの弁証法と異なる。ヘブライの「生命の樹」(系統樹)モデルと対照的に螺旋状のDNAに似ている。階層化していくピラミッド型の前者より後者が好ましかったのである。終末論である。ヴァルター・ベンヤミンが言うアウラやオリジナリティ(唯一無二という一神教的客観的共有)がある超越(偏在)からモーゼス・ヘスのスピノザ的汎神論的共産主義である遍在(インター)にすべきかもしれまい。「私たちはシュティルナーの到達した地点から出発しなければならない。そしてそれをひっくり返さなければならない」。しかし、シュティルナーは一神教を自己疎外から解放したが、どこまでも自己回帰するヘーゲルの観念論の域を超えていない。これでは孤立主義である。ソ連は主意主義的のため、「人民の意思」(ルソーの一般意思)を強調したが、実際のところは「意思の独占からくる共有」であり、今日言われる「利権談合共産主義」に当たるものだ。「一階級だけの共有」に過ぎん。共産主義も一神教の尾があり、唯一者(前衛)や唯一の党(世界初の一党(Party)独裁制)に拘ってしまった。ある「唯一物」を共有するのではなく(唯一のコアを持つことでuniteする一惑星型ではない)、「物」であることを共有するのが唯物論である。実存独立しつつ、契約するのだ。全体と個体は有機的システムのように運命を共有してはならない。「個」であることを共有するのだ。計画経済が共通の計画を持つことでマルクスの言う特殊利益と一般利益(共通利害)の分裂(よそよそしい疎外)を解消するものだったとすれば、「縦割り」は有り得ないのだ。縦割り行政がソ連でどうして行われたかと言うと中央という超越的存在を共有したからである。そこに必ず中枢という「外れた」ものがある。ブルジョアを倒したことで上部構造に移行したプロレタリアートが体性神経(あえて言えば体制神経)を張り巡らすこの指令型(トップダウン)は搾取(悪いボトムアップ)へのアンチテーゼとして出てきたのだが、自主管理の方が今日は望ましいとされる。私達はベンヤミンが言った「映画の大スクリーンを共有する」時代にいない。映画館にいかずとも見れるからだ。これは超越のように見えるが実は違う、神が天から見せているのではなく、インタフェースを使っているのだ。例えば映画館を時計台にして、インターフェースを腕時計にすればいい。今や「所」に制約されずに共有ができる。まさにインターナショナルである。中央集権がますます不可能であり、ベンヤミンが喜びながらも恐れた事態は回避された。私が言った「差異の共有」を「自由の共有」としてもよい。自由は偶像化されない。ワイザー博士が言った環境に埋め込まれたマルチチュードが単一を共有するユビキタスコンピューティングの時代に移ればネグリのテーゼ「スピノザとマルクス」も可能だろう。 必要は発明の母である。故に「必要に応じて」、「自由とは必然の認識である」。
ネグリが言う「単一」と「マルチチュード」の関係はコミュニズムの「共有」をあらわしている。一が多を有し、多が一を有する。一即一が私有であり、一即多(集合有)、多即一(総合有)、多即多(公共有)が「共有」である(生物学で言う相利共生、片利共生、寄生の三つに相当する)。今やマクロの調整された蜘蛛の巣からミクロのウェブのように分散共有した蜘蛛の巣へと移行した。もはや「支配」の問題もあるか?支配という言葉も元を正せば分配から生じたものである。支配というのは「仕切る」とか「役割を割り当てる」ことである。法の支配はコモンローと呼ぶ。英語のshareでは共有と分配が同義である。資本はますます疎外というより資本家の手から離れ、共有される方向に向かっていると思う。21世紀に注目されている考えにホロンというものがあるが、これは誤解されているが、「相互作用」に着目する考えである。思うに20世紀、重視されたのが「力」「権力」だった。物理学では二つとも交換(コミュテーション)から生じる。次の社会工学だとユートピアよりピースミールということだが、マルクスと別に矛盾しないように思える。マルクスは必要に応じて書くことが望ましいと考え、プラトンのように共産主義の設計図を形而上学的に描くことを避けたし、エンゲルスが計画化等を書いたのだ(エンゲルスでも唯物論を科学の発展に応じて形態が変わるとしている)。
「地獄への道は善意で舗装されている」
あのハイエクによると法こそが社会的に共有されるという。マネタリストのフリードマンもルールは共有すべきと言っていた。そういえば法が人に変わるということがある。最高経営責任者が法とされ、その言葉を共有する。まるで信者が聖書を共有、映画で大スクリーンを共有するように(ウェブの場合、小スクリーンの共有と言えよう)。今日では新自由主義にその傾向があるように思える。資力によって階級を再生産し続けるのだ。貨幣のように永遠の命を求める。ユナボマーマニフェストで書かれた事態のようである。搾取と投資と浪費によって私有財産が奪われ、エシュロンは支配階級の直接の装置にされ、プライバシー(私的保証)が破壊される。歪んだ形での共産党宣言等の預言の的中である。新自由主義の祖といえばスペンサーは「適者生存」を唱え、社会進化論者である。一方で最初に書いた「社会静学」で私有を批判している。しかし、国家が嫌いだから後にブルジョア側に転じている。マルクスとスペンサーは前回も言ったが、同じハイゲイト墓地で眠っている。喧嘩していると思ったが、実は握手しているのではないか。