2008年7月12日土曜日
コミュニズムの中心
以前「均衡」も「共有」というイデアの影と言った。例えば天秤でも中心を共有している。共有に平等(対称)も不平等(非対称)も無関係である。マルクス、バブーフ以前の共産主義から神、救世主、哲人というものがあったのもここにもあることがわかる。そしてソ連、トップダウン、指令経済、中央集権や経済学のモデルの失敗の原因もこれにあるだろう。シンボル(象徴)を共有することとも似ている。一定の空間を共有しつつ、ヘゲモニーが生まれることも自然科学の実験でも見られる。これを競争的共存(競産主義?)と呼ぶらしい。「競争」というのも「共有」するから起きるのだろう。前々回の神という共産主義者でも言ったように、極端に強い自己の欲望も共産主義を導く。惑星というのも中心を共有している。地球を中心に公転していると言った天動説も負けたが、地動説も太陽に中心が変わっただけだ。だが、宇宙に中心があるだろうか。いいや、風船のように膨張しているのだ。中央を介さず共有している。まさにP2Pだろう。
2008年7月11日金曜日
貨幣
建築物の常識として出口も入り口も一であり、これを通常共有する。この正規の場所以外を使うとすると泥棒か異常事態だろう。そして鍵を共有することも現代で言えば暗号を共有することと一緒である。パスワードを入力したり、カードを使うのも同様だ。貨幣を配給券や証書としたマルクスも正しい。共産党宣言で明確に言われているように共産主義はプライバシー(私的要素)の禁止を必須とする、貨幣の廃止を考えるとバブーフが主張していた各人の情報を登録するか、旧ソ連の囚人やわれらみたいにコード(番号)をつけるか、金庫のようにパスワードをつけてそれを共有するかだろうか。そもそも数字というのも金融資本主義の発祥地とも言うべき古代バビロニアで経済的動機から生まれた(この事実を史的唯物論者以外も共有すべき)。そういえば錬金術を生んだのもユダヤ人であり、ユダヤ人も金属や物質の記号で呼ぶことが多い。最初の鋳造貨幣を生んだのはリディアだったが、貨幣自体はセム系が生んだ。この経済も不老不死の貨幣の王権でできたものだ。そういえば手にしたものを金に変えてしまうというミダス王(プリギュア)もサルゴンの同盟者だった。計算器も古代バビロニアから生まれたが、これがヴェニスの商人の哲学、ベンサムのユダヤ商法の擁護、ノイマンの古典的計算主義とわたっていくのだろう。金融に限らず、カバラ(記号の操作)、ゴーレム(生命の操作)、あらゆるものを操ってきた物質文明の権化とも言うべきユダヤ人、或いはそれに似た根性(反ユダヤ主義者に多い選民思想もそのパロディと言えよう)が善くも悪くも世界を支配してきたのだ。カバラをコンピュータに、ゴーレムをロボット(生産手段)と考えると今日の混乱もどうも人類に対する貨幣(交換手段)の反乱とも言えそうだ。共産党宣言の「近代ブルジョア社会は、自分がよびだした地下の魔物を、もはや統御しきれなくなった魔法使に似ている。」のところで言った「生産手段や交換手段の反乱」もこういうことだろう。一方で古代エジプトの場合、無利子で寿命つきだったそうだ(ブレードランナーのレプリカント?)。イスラム金融にも通じるだろう(緑の資本論?)。先史時代だと原始共産制があった。文字に関わらず技術が発達できたのも興味があるところだ。どこの宗教でも当初は口伝口承だったと思うが、デリダのパロールだろうか。ドゥブレのメディオロジー的唯物史観的技術決定論的に言わせてもらえればパロールは反動である。共産主義はエクリチュール(セム?)、新聞や本、活字媒体で台頭した。そしてファシズムはパロール、詩人や音楽家を伴ってラジオで台頭した。次は「リアル」に働きかけるメディアが台頭するだろう、言ってみれば写真やテレビ、カメラだ(共産主義もファシズムもこのメディアも使ったが)。
神という共産主義者
以前の宗教と共産主義でも述べた通り、神というのも実は共産主義者だ。キリストが、あるいはクリシュナが共産主義者だったと私は言いたいのではない。「有神論者」としてのマルクス主義者はベンヤミン(神的暴力や神的という提起)やルナチャルスキー(建神主義)が有名だが、共産主義が影響を受けたのがセムの宗教、つまり、一神教である。このセム的超越神を定義すれば「造物主」「超越的存在」「全知全能」だろう。まず「造物主」だが、神は万物を造られたわけだが、それは神から見れば皆財産であり、子供だ。プロレタリアート(子供しか持たないもの)である。イエスもそういえば大工だった。子供というのも親から見れば兄弟、姉妹という差があろうと同一であり、子供は親を共有する。宗教で言えば神の愛であり、工学で言えば部品のように共有可能、交換可能ということである。次に「超越的存在」だが、超越とは「分」や「私」を越えたものである。例えば生物学的分業を止揚せよ!!で言った生物が超越していると言えるのは分類目録を転覆しているからである。神も祖先も自然法則も万人がその関係において超越を共有(共通)している。だからプラトンも共産主義社会を構想したのだ。
「共産主義者の理論は、私的所有の廃止という唯一つの文に要約できる」(byマルクス)
以前の科学と共産主義で述べたが、マルクスも一種の「超越的存在」だった。といっても神のように完全性を持ったのではなく、20世紀で最も影響力を持った人物だからというわけでもない。神の目を共有していると思い込んだ昔からよくいるユダヤ的予言者(預言者)としてだ。マルクスはカントに影響を受けていた。カントといえば超越論哲学であり、手続きや概念の共有を前提とする(カントを小生産者の擁護者と見る向きもあるが、彼自身プラトンの国家の支持者であり、共産主義に反対していない)。資本主義が崩壊する運命にあると説きつつ、共産党宣言でも見られた資本主義に対する「礼讃」とも言える分析ができたのもここにある。そして「全知全能」であるが、これも以前のシヴィライゼーションとかでも述べたが、経済学で「全知」の仮定といえば計画経済と合理的期待である。ライプニッツによると神は世界をうまく共有し合うように決定しているという。「全能」の方だが、時空間を超えたものだとすれば精神を共有しているとも言えるだろう。旧約聖書の「全能」とは「全てを満たす」ことであり、スピノザの汎神論とも関係がある。カントールの実無限はカッバーラ的であり、共産主義的でもある。ボルツァーノは共産主義的国家を構想している。それとマルクスがよく無神論者と扱われるが、初期マルクスの言葉を引用しておくとしよう。
「神が人類および人間自身を高貴たらしめる普遍的な目的をあたえたのであるが、神はこの目的を達成しうるための手段をさがしもとめることを人間自身にゆだねた。神は、人間にもっともふさわしい。」
マルクスは確かに宗教を阿片と斥けたが、神に関してこのように考えていたのだ。マルクスのいたヘーゲル左派は「人間が神を発明した」「私こそ唯一者である」「超人だ」という連中の集まりだったが、マルクスも極端に強い自己意識を主張したブルーノ・バウアーの下で学んだから、こういったエゴが共産主義へと結びつく弁証法的過程を発見したのだろう。そういえばジャイアニズムの「お前のものも俺のもの」という論理も聖書からきている。この聖書の言葉は古くから財産を共有することを表していた。これと似ているかも。
「共産主義者の理論は、私的所有の廃止という唯一つの文に要約できる」(byマルクス)
以前の科学と共産主義で述べたが、マルクスも一種の「超越的存在」だった。といっても神のように完全性を持ったのではなく、20世紀で最も影響力を持った人物だからというわけでもない。神の目を共有していると思い込んだ昔からよくいるユダヤ的予言者(預言者)としてだ。マルクスはカントに影響を受けていた。カントといえば超越論哲学であり、手続きや概念の共有を前提とする(カントを小生産者の擁護者と見る向きもあるが、彼自身プラトンの国家の支持者であり、共産主義に反対していない)。資本主義が崩壊する運命にあると説きつつ、共産党宣言でも見られた資本主義に対する「礼讃」とも言える分析ができたのもここにある。そして「全知全能」であるが、これも以前のシヴィライゼーションとかでも述べたが、経済学で「全知」の仮定といえば計画経済と合理的期待である。ライプニッツによると神は世界をうまく共有し合うように決定しているという。「全能」の方だが、時空間を超えたものだとすれば精神を共有しているとも言えるだろう。旧約聖書の「全能」とは「全てを満たす」ことであり、スピノザの汎神論とも関係がある。カントールの実無限はカッバーラ的であり、共産主義的でもある。ボルツァーノは共産主義的国家を構想している。それとマルクスがよく無神論者と扱われるが、初期マルクスの言葉を引用しておくとしよう。
「神が人類および人間自身を高貴たらしめる普遍的な目的をあたえたのであるが、神はこの目的を達成しうるための手段をさがしもとめることを人間自身にゆだねた。神は、人間にもっともふさわしい。」
マルクスは確かに宗教を阿片と斥けたが、神に関してこのように考えていたのだ。マルクスのいたヘーゲル左派は「人間が神を発明した」「私こそ唯一者である」「超人だ」という連中の集まりだったが、マルクスも極端に強い自己意識を主張したブルーノ・バウアーの下で学んだから、こういったエゴが共産主義へと結びつく弁証法的過程を発見したのだろう。そういえばジャイアニズムの「お前のものも俺のもの」という論理も聖書からきている。この聖書の言葉は古くから財産を共有することを表していた。これと似ているかも。
2008年7月8日火曜日
交換
よく物理学・数学の「交換」(Commutation)と商品の「交換」(Exchange)を混同する方がいるが、両者とも違う。前者がより「共有」(共産主義CommunismやコミュニケーションCommunicationと語源を共有する)に近いのに対し、後者の場合、「共有」に遠い。交換(コミュテーション)も数学で重要だが、物理でも重要だと思う。「力」「作用」「結合」といったものに関係するからだ。私が交換可能性を共有可能性(共通性)と呼ぶのもコミュニケーションと共有が不可分と考えているからである。「共有」が欲求であることも前回述べた。その媒体たる機械も下部構造と部品が独立していても共通性があるから組替が可能である。旧ソ連が臓器移植、中国が臓器再生産に熱心であるのもこういう哲学があるからである。しかし、血液型を無視したボグダーノフも遺体を肥料に使った毛沢東たちも問題に直面した。疾病が生じたのだ。自然基底からの人間の原生的疎外からとも言えるだろう(バイオハザード?)。つまり、人間の歴史は「自然」との階級闘争だった。このように物質の無限の外部性に幻想を抱くのも危険だが、スタートレックのレプリケーターのように科学技術が発達さえすれば物質化も可能だろう(文化唯物論の出番?)。そして経済学の当たり前として無限の財が共有される。西洋哲学も自然科学もプラトン以来の形而上学、「共有」や「同一性」のイデアによって発展してきた。今日のポストモダンも「差異の共有」というところで落ち着くだろう。ところで社会を群と考えるとコミュテーションが加法群である。やっぱりシステマティック過ぎるから失敗するのだろうか。実際の社会というと乗法群だろう。アソシエーション(結合)が重要ということか。
2008年7月7日月曜日
エイリアン再論
出演:スティーブン・パスカル
2008
AVP2を見たので再論しようかと。前回、身体の共産主義的考察をしたが、内臓レベルで共有可能性を見出しても実際の人間というのもブサイク(非モテ)とイケメン(モテ)という差異がある。ゲノム情報を99.9%近くも人類が共有しているにも関わらず、その小さい差でここまで違うのだ。これを裏返して見れば共有されるものも多いともとれる。超越的に見れば差異も共有しているとも言える。どこまでを人間と言えるかという問題も関係するだろう。DNAの蛋白質合成だけで「超人だ」とか戯言を吐く連中が無学であることは言うまでもない。人類も脳というプラトンの洞窟の住人でもあるが、決して独房の中の理性でも無く、コミュニケーションという機能がある。以前にエイリアンで述べた通り、Alienというのも疎外(Alienation)されし者である。エコフェミニズムに加担するわけじゃないが、身体の疎外を身近に感じられる例が少子化である。女性の社会進出が子供を生産するという自然機能を疎外しているから出生率が落ちるのだ。心理学者の言葉を借りれば母性である。しかし、これを否定してただ「自然に帰れ」だけであれば女性差別主義者である。マルクスの疎外を客観命題として事実上承認すべきだ。自然科学の世界でも疎外がよく見られる。だが、この技術に対する社会の未熟、制御不可能性や事故を喜んで「人間よ、滅べ」としてしまうとかつての未来主義者だ。共産党宣言と未来派宣言も階級闘争という似た趣味を共有するが、共産主義者が「革命の成功」を前提とするのに対し、未来派の場合、戦争自体が目的だから「階級の共倒れ」を内在している(物象化の対が速度というのも興味深いが)。着目すべきが資本主義のそういった一面がエイリアン(疎外された者)を意図せずに大量生産してしまうということだ。最近の女子が男言葉を話すのも疎外の矛盾だろう。つまり、画一化をもたらしている。SFのエイリアン(宇宙人)や地球外生命体が平等に面を共有している、「顔や体が同一化」しているのもこういうことだ。結果的にこれが「プロレタリア階級の組織化」に至る。タイムマシンのモーロックのように下層階級の人々が不細工と化すのだ。平等にブサイクと化したことで恋愛も計画化する。一方で疎外(自然)に適応し、進化する。障害や突然変異を持ったものが時として脅威的能力を獲得することと似ている。貧乏人がすばらしい生命力を持ち、プロレタリアがすばらしい身体能力を持つこととも似ている。エイリアンが初めは生物兵器として開発されたというのも興味深い。映画の中でもまた「疎外」と「奴隷と主人の弁証法」が働くのだ。例えば「今日から共産主義だから一個の公衆便所を皆さんと共有しましょう」としたとする。するとやがて公衆便所が自我に目覚めて「平等に接してやるんだから俺を掃除しろよ」と強制してくる。市民の共有された意思(一般意思)の所有物だった国家が人格者と変わり、 男どもの産む機械だった女が女王蟻と化す、 研究員がリソースの共有に利用していたコンピュータが自意識に目覚めて人間に命令をしてくるというSF、 資本家が労働者を従えていたのが、生産手段という資本家の心臓を握っていることに目覚めた労働者が会社を乗っ取るというプロレタリア文学。 かつて月は夜を照らす共有物だったが、奴隷制の王たちによって象徴共有(神)に変わった。しかし、今やブルジョアは月を征服してしまった。愚かなことに貨幣のような不老不死を企んでいるブルジョアは次の支配階級を育ててしまっているのだ。エイリアンはやってくる。われらの中から。では、「革命後」の共産主義社会ってどういう社会だろうか。
私がいい例だと思うのがプレデターである。文明を肯定しつつ、狩猟採集に似た生活をする。未開と文明の弁証法的綜合である。宇宙船で小さいコミューンを形成し、狩りに出る。獲物を狩った後に仲間のもとに持ち帰る。マルクスのまさに種族的所有(原始共産制)だろう。映画では人間を狩っているが、弱者にも優しい。プレデターの特質を見ていると未開人やインディアンのイメージがあるとも思う。ところでプレデターも個人の活動着が認められている。支給されたものというより私有財産である。所詮映画だからあくまで参考ということにしておく。 プレデターにせよエイリアンにせよどれを選んでも資本主義に希望は無いのだろうか。
2008年7月5日土曜日
人体と共産主義
かつて共産党は下部組織を「細胞」とし、党中央を「頭脳」としていた。昔ある方に「身体でも私有物だから共産主義は無理」と言われた。そうだろうか。今日の物質的段階を見渡せば臓器の移植や再生産が罷り通っている。精神転送も考えられてる。生物学でいう相同性と相似性も共有性が強いか弱いかの違いだろう。ウイルスに感染したら身体が隔離されるのも共有物として認識されているからだ。献体や手術でも共有物の認識がある。病院自体がインフラ下部構造として共有物である。
神経や免疫系でも共有物がある。脳もニューロンも細胞も情報を共有している。ある解剖学者曰く脳を共有できても、身体の場合、共有したくても難しいという。身体を共有したいという感覚もある。例えばアニメやプロレスを見て共感するのもそういう感覚があるからである。機械を操縦できるのもマクルーハン的に身体の延長として共有しているからだ。前者と後者をうまく表しているのがゲームだろう。ダンスや体操もそういう感覚が根底にある。セックスも感覚を共有したいためにあると思う。AV、エロ本、テレフォンセックスもその媒体だろう。だったら自慰や子孫を残す行為がどう説明されるか。まず自慰の場合、先の「感覚を共有したい」というものが夢という装置でされたものと考える。脳内でもコミュニケーションがあるのだ。一方、子孫を残すという行為だが、個体レベルじゃ利己的に見えるが、子供を守りたいとか親を守りたいということもプログラムで共有されているのだ。種レベルだと遺伝子を共有したいとも言えるかと思う。 ソビエト共産主義を人体に喩えると知の私有を否定して没収(白痴化)した結果、頭と脳が重量オーバーしてそれ以外が貧弱化して足元が潰れた、おまけにコストを削減する外科手術も失敗したと言える。総中流で腹を大きくしたデブ国家はダイエットができるから成功した。私有財産を否定するために共有した媒体が国家だったが、他の媒体も有り得る。
2008年7月4日金曜日
共産主義と科学
今回は共産主義と科学である。フランス革命の時代、百科全書家や百科全書派によって科学と共産主義の一つの結節点ができたと私は考える。「自然状態」と「自然科学」の関係は深い。百科全書派は本によって知の特権的所有を否定し、知識の共有や平等を唱えた。この考えた方が今のインターネットやメディアの共産主義的傾向にも通じるかと考えられる。これを科学社会学のマートンによれば公有主義(Communalism)、共有主義(Communism)と呼ぶ。脳科学が共有主義の典型だろう。共有とは細分化(未分化が原始共産制に相当)に反対する体系化でもある。もっと考えれば真理や法則、定理といった科学の目的が共産主義的である。例えば人間の限界で科学の知識を共有してなくても、科学の法則が実在し、それを人間は共有している。差異と同一、相対と絶対、二項対立も共有性から成立しているとも言える。柄谷行人が多くの科学者がプラトン主義だと言ったのもこういうことか。そういえば柄谷が拠るカント哲学も概念とかの共有を説くものだ。いずれにしても「神の目」とも言うべき超越論的視点だろう。マルクスの時代、19世紀末、相対性理論が出る前に「方眼紙の宇宙」を共有していると考えられていた。1895年、タイムマシンが書かれたのだが、「時間という機械を共有しているのだから改変も共有できる」と考えた。 しかし、この絶対時間共産主義に痛撃を与えたのがあのアインシュタインの相対性理論である。時刻や時計(時間と違う)というのも「共有されたもの」としての前提があるが、 実際の時間というのも感じ方が相対的だから、これも人間の限界であり、人工的時間である。とはいえ相対性理論は厳密にはアナーキーではなく、よく見れば共通性、共有性、同一性を説いており、アインシュタインは反共主義者でもなく、むしろマンスリーレビューというマルクス主義の月刊誌で計画経済を公に支持しているのだが。相対性理論が出てきた20世紀、科学が危機を迎え、そして暴走していくわけだが、これを体現したのがレーニンだと私は思う。レーニンの「唯物論と経験批判論」を読むと、非常に科学に対する信仰を感じられるが、次第に科学や客観を通り越してイデオロギーに結びついていくことがわかる。これはレーニンがドグマティストだったからというよりむしろレーニンがわざとしたと考えれる。レーニンは強烈なリアリスト、プラグマティストだった。徹底した唯物論者のように見えたレーニンであるが、科学的唯物論を否定したソレルの暴力論やルボンの群衆心理をレーニンは読んでいたという。ソレル的に言えば命懸けの飛躍(エラン・ヴィタール)とでも言おうか。この非合理主義と合理主義の境界が曖昧になるのは20世紀の特徴だろう。外部注入論も唯物論的だが、介入・操作・誘導する主体を認めているのだ。そしてレーニンが理論面だけでなく、実践面でも恐ろしい同一性をもたらしたことを以前述べた。科学が宗教化したことはオッペンハイマー博士が自らを「神」に喩えてみせたところで頂点に達した。創世記の神の怒りのごとくユダヤ人にとって広島と長崎はソドムとゴモラであり、原爆の投下はベンヤミンが言ったまさに「神的暴力」だった(ザハロフやハーバーも絡めたいが)。これからの視点として語義矛盾かもしれんが、相対性を共有する、差異をいかに共有するかというものを考えていきたい(例えば空間を超えて経験を共有するとか)。
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