2008年7月30日水曜日

妖怪は眠らない

レーニンがガラス張りのケースで眠り、ハイゲイト墓地にマルクスが眠っている。木端微塵にされかけたりしたわけだけど、ここにはマルクス以外の偉人もいる。物理学者のファラデー、モリアーティ教授のモデルとされるワース、そして「適者生存」で知られる新自由主義の祖スペンサー。この魂たちがどういう議論しているのか想像したいものだが、難しい。しかし、「吸血鬼」や「墓堀人」(共産党宣言の)といったワードからはやはりマルクスを思い起こす。

「マッドサイエンティスト」をつくったフランケンシュタインのシェリーと「コンピュータ」をつくったバベッジ。その間にいる世界初のプログラマとされるエイダ。そしてバイロンのラッダイティズム(機械の破壊への快感も危うい)。シェリーに「神への挑戦」を教えた無政府共産主義の先駆者ゴドウィン、バベッジやユアら蒸気の権力者たちに影響されたマルクスの機械や技術へのフェテイッシズム(最初の技術クリティーク)。セム族の商人たちの製鉄法でできた産業ゴーレム、その魔術の亜種である錬金術によるフレッシュゴーレムたち(ゲーテのホムンクルス、フランケンシュタインの妖怪、唯物論者老ロッサムのロボット)。前者と後者はユダヤ映画人ラングのメトロポリスの星の印を以て結び付けられたと言えよう(このことに関しては以前の貨幣プロレタリア文学はものすごいで書いた)。また、フランスの場合、ボードレールやヴェルヌらの系譜からリラダンのロマン的ダンディ的機械主義(アンドロイド)が生まれた。私は「亡霊」「怪物」「妖怪」(Gespenst)というものが好みだが、共産党宣言を読んだ時の衝撃を忘れることができない。ゴジラのように怪獣がヨーロッパの伝統を蹂躙していく姿。

「ヨーロッパを妖怪が徘徊している。共産主義という妖怪が」
「近代ブルジョア社会は、自分の呪文で呼び出した地下世界の魔物をもはや思うようにできなくなった魔法使いに似ている」(byマルクス)

この戦慄する宣言の技術はガルブレイスが「不確実性の時代」で言っているように未来派宣言やクリプトアナーキスト宣言、今日まであらゆるアジにとり憑き、コピー再生産され続けている(マニフェストテクノロジー)。プロレタリアは新しい階級であったが、モーロックのように新しい種族でもあった。ヴィリリオが言うようにプロレタリアも近代の所産であり、科学技術が生み出したのだ。資本主義が労働者の個性を剥ぎ取り、試練や力を与えることが、むしろ組織化を可能とするとマルクスたちは述べる。つまり、妖怪とは「アンチヒーロー」である。さらにシオニズムの父モーゼス・ヘスがマルクスの友人だったようにヨーロッパじゃユダヤ教とマルクス主義は不可分である。ベンヤミンやブロッホがその神秘主義と史的唯物論、ネグリがマルクスとスピノザを結びつけたり、デリダがマルクス主義のメシアニズムに注目したのもそうだろう。マルクス主義の起源がユダヤ教にあることはベルジャーエフもよく言っていた。セム族の歴史も資本主義や世界の文明化の歴史と大きく関係がある。だからマルクスが宗教社会学をしていたように研究すべきである。デリダが言うにマルクスには「不老不死の論理」がある。それは永遠の命を持つ貨幣や機械のように自己完結した「固定資本」である。これを熔かすことができたのが金融だった(ユダヤ的錬金術)。金融資本が産業資本を支配するというマルクスの考えは明らかにその出自(ユダヤ教)から得たものだろう。マルクスは金融の利子計算に代わる算術を求めた。これは大枠しか示せなかったが(これが計画経済の根拠に)、共産主義が計算可能性に大きく依存するのもマルクスたちに始まったことではなく、ピタゴラスやプラトンの計算主義、快楽計算に遡る(そしてセム族のバビロニアの算術とカバラ、エジプトで接したユダヤ教的一神教的考え)。ドラッカーは共産主義も資本主義もヴェニスの商人のように抜け目が見られない「経済人」を理想としているとしたが、これは正しい。そしてヘーゲル哲学の閉鎖系は結果的にスターリン主義やファシズム(ジェンティーレがまとめた)をもたらした。さらに人工市場の実験で自己完結型の市場像が終焉し、中央計画経済(市場社会主義)の可能性が閉ざされる(しかし、マルクスも進化論を積極的に学習し、進化経済学に貢献したように複雑系に通じる部分がある)。母胎(工場)を共有することも重要性が消え、機械生産から生物生産(人工生命)へと移る。マルクスは「機械の中の幽霊」(物憑き)から脱出せず、これを手におえなくなるものとして考えた。資本主義は主人と奴隷の弁証法的に疎外を生み出すから自らの矛盾によって崩壊する。それが交換手段(貨幣)の反乱(恐慌)であり、生産手段(機械)の反乱(ストライキや生産力の反乱)、そしてプロレタリアの反乱という暴力の連鎖である。マルクスがいた産業革命の時代、「フランケンシュタインコンプレックス」が、特に亡命先のイギリスで席巻していた。マルクスはバベッジから機械制大工業を研究したのだが、その周辺にシェリーのフランケンシュタイン、バイロンのラッダイト主義があったのだ。「臍の緒を断ち切る」プロレタリアはまさにフランケンシュタインのものである。そこではパリコミューン等の失敗した革命家や反乱者の呪怨が投影され、20世紀初頭に世界を震撼させるロシア革命として実った。祖国を持たない労働者に人工的に故郷をつくってしまったソビエト連邦。それは今で言えばイスラエルに似ている。当時ロシア人は「半分人間」として嫌われた。さらに党の幹部とかにはユダヤ人が多かった。戦争によって生まれたソ連であるが、さらに戦争と革命をもたらし、力をつけてついに超大国にいってしまうのだから、その作用と反作用を含めて世界に残した痕跡はこの先も癒されないだろう。一方、マルクスも形而上学的妖怪と資本の亡霊を追う余り、自らもその亡霊に憑かれてしまった。反共主義者も強迫的にマルクスの亡霊たちであり、共産主義と大して変わらない(マッカーシズムがその典型)。転向した人々も本質は変わっていないように思える(例えばネオコンがそう)。

「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。」(byニーチェ)

ミイラ取りがミイラになる。レーニンはミイラになってしまったけど(フランケンシュタインのようにレーニン蘇生計画とういうものがあったが、テルミンにレーニンが言ったように共産主義は電化である!として直流を考えたのだろうか)。

2008年7月29日火曜日

メフィストフェレスに魂を売るくらいであれば

自分の目的のためであればメフィストフェレスに魂を売れる人間は山ほど世の中にいるだろう。いや今も体や魂にあたいする私有財産が数字の地獄に投じられ、悪魔たちの財布に落っことすのだ。市場は神ではない。悪魔だ。気まぐれで、約束しない。今日の資本主義は魅力的だ。幻想の現状に満足してしまう。しかし、君はペンタグラムで言ったようにもしかしたら試されてるのかもしれまい、共産主義者の神に。だったら一度共産主義運動に身を投じてみよ。それはメフィストフェレスより永遠で確かであるものを約束するだろう。

2008年7月24日木曜日

エコ至上主義に不都合な真実

エコロジーは事実上スピノザを祖とする考えである。勿論それを公然と言ったのはある生物学者で、ゲーテを介してであ。これは超越性の内在を個人主義的「超人」から元々の汎神論を取り戻したのである。つまり、神学から生まれた。地球破壊を止めたければ唯物論と経済人たることを棄てないことである。経済とはオイコノモスであるが、家計を指した。家族が共産主義的であることはアリストテレスやヴェーバーを始め多く認められてる。つまり、「活動」より「計画」、「外部」より「内部」が経済の本質である。経済活動というと自然の資源を生産(改造・変形)して消費したら放出する(物質代謝)。放出したことから階級の自然成長(所産としてのプロレタリア)、ミュータントの反乱が起こる(スペースデブリ、公害)。

「人間たちが自然成長的な社会にある限り・・・人間自身の行為が、彼にとって、疎遠な対立する力となり、彼がこの力を支配するのではなく、この力が彼を抑えつける」(byマルクス)

ロボットにせよミュータントにせよ階級や疎外者(Ailen)を外部に作らず、リサイクル(環帰)を重視すべきである。「自然成長的形態は、共産主義革命によって・・・制御と意識的支配へ変えられる」。マルクスが批判した無歴史的思考とは無媒介的無関係的無規定的のことである。「あらゆるものが繋がっている」(何かを共有している)という考えが重要である。物理学でいえば大統一理論、哲学でいえばマルクス主義という「大きな物語」。環境が大切と思うのであれば経済人であるべきである。ここで言う経済人が狭い経済人(商人や企業の計算合理性の限界)を指すわけではない。単純に環境の操作であれば20世紀最大の環境破壊・殺戮と言われるスターリンの自然改造計画、毛沢東の大躍進であるが、もっと高度にした計画が要るであろう。インドに見られるような「自然の支配者である人間が猿のハヌマーンや牝牛のサッパラにひざまずいて礼拝する・・・堕落した自然崇拝」では環境破壊と一緒である(牛のゲップは温暖化を促進する)。コモンズの悲劇でわかったように自然は資本主義だろうと社会主義だろうと共有地であり、疎外(外部不経済)から包摂(内部化)させるべきである。この競合的共産主義(資本主義)と疎外態の共産主義(ソビエト共産主義)のジンテーゼを示す。まず個人単位の私的消費を共同的計画的消費に揚棄する。最適排出量を義務付けると同時に生産ノルマを義務付ける(権利を与えるのでもよし)。ここから21世紀のコミュニズムで言った自己完結(閉鎖系)から自己組織(開放系)のコミュニズムを考えるべきである。

2008年7月20日日曜日

コスモポリタニズムから生まれた世界帝国の野望

世界征服といえばアレキサンダー大王だが、その世界征服の野望がコスモポリタニズムからきていたかもしれない。多くはその家庭教師だったアリストテレスからきていると言われるが、そうだろうか。アレキサンダー大王が強く影響を受けたのがディオゲネスである。このシニシスト(犬儒派)がアレキサンダー大王をどうして魅了したか。それはその硬い心である。社会についてコスモポリタニズム以外に、女性や子供の共有を唱えた点でプラトンと似ているし、ディオゲネスも共産主義者と言うべきだろう。ディオゲネスはアナキズムの祖と言われることもあるが、海賊に自分ができるることをたずねられた時に「人を支配することだ」と言ったという。この平和主義が暴力主義へと変貌する過程を最も如実にあらわしているのがマルクスの共産党宣言で言った「プロレタリアの世界の獲得」とソ連の世界革命だろう。岡田斗司夫も世界革命も世界征服だと言っていたが、ソ連の「革命の輸出」や「民族解放」も確かに侵略だった(一国社会主義論でインターナショナリズムから世界最大の領土を持つ赤い帝国主義と化したが)。戦前日本の大東亜共栄圏(共産圏?)やネオコンの「強いアメリカによる民主主義の輸出」のイデオローグにも元共産主義者が多かった。国際連合も初代事務総長から共産主義と関係があったし、EUやそれに似た同盟も共産主義に対抗するためにできたものだろう(統一協会も)。ウィルソンが当初レーニンを歓迎していた事実も興味深い。これが今やグローバリゼーション(インターナショナリズムからグローバリズムへ)であり、サンデルが言った共産党宣言にある資本主義の世界化である。

2008年7月19日土曜日

集合

「集合」といえば素朴心理学を引用する方がいるが、引用するのであれば社会学だろう。私はユングはフロイトに負けたと考えている。ユングは頑なに精神に拘ってオカルトに陥ったが、フロイトの場合、「唯物史観も真理」と言っている。原始は原子でもあるのだ。物質的基盤を強調したデュルケムと似ているだろう。この「集合」(SetというよりCollective)を最初に真剣に論じたのがルソー(一般意思)である。これに影響を受けたのがデュルケム(社会)やマルクス(経済、一般知性)たちである(興味深いことにユダヤ系の方が多い、ユングの集合無意識もユダヤ教から得たという説もあるが)。ベルクソンやデュルケムの弟子でマルクス社会主義者のモーリス・アルブヴァクスの集合的記憶も心理学の集合と関係あるだろう。集合と言えばアセンブリだが、ホッブズもこの言葉を使っている。機械的システム(例えばロボット)というのも部品(下部構造)が独立しつつ、共通した目的により組み立てられる(社会心理学による「集団」の定義と似ている)。唯物論的原子論的個人を前提とし、人工機械人間としたホッブズのコモンウェルズ(共有財産、共通利益)もこれだろう。契約ゲームと言われるものだろうか。構造機能分析のパーソンズだと「価値の共有」ということだった。集産主義(Collectivism)というと経済政策で言えば前回の工業や農業の集団化である。これも失敗した。膨張収縮のように集合と離散も両方重要ということだろう。今日強いのが合有や総有と違った個人主義的共有である。これは個人主義的固有と集団主義的共有を超えたものである。これを超えると言っては形而上学的であるのでこれをジンテーゼ(シームレス)したと言うべきか。shareという言葉は分配=共有ということをあらわしている。「支配」は「分配」の類義語。つまり、共産主義は支配主義でもある。共産主義の存在論である唯物論は一切を粒、つまり、小分けされていると考える。これはシェアすることに重要である。観念は資本主義社会だろうと共有される、それが人間の精神の営みであるからだ。観念の分配を考えたのがプラトンやライプニッツだが、タコツボの哲学だった。これを物理的社会的に考えたのがマルクスである(勿論先達はホッブズ、ルソー、デュルケムと)。「神聖不可侵の私」という観念が廃れてきているというのは確実にある。

2008年7月18日金曜日

下部構造

唯物史観を再確認しておく。社会は有機体ではなく、機械である(ルソーやホッブズ、マルクスらの社会契約論)。下部構造(下位システム、マルクスが言う「土台」)の役割が大きい。言わばマトリックス(基盤、母権的)である。これをインフラストラクチャー(交通様式)と呼ぶ。学校、港湾、道路、病院、水道、ガスも下部構造であり、共有物(公共物)である。資本主義の公共投資も共産主義の公共事業も「共有財産の強化」という点で共通するが、後者が個人の家まで及ぶ私有の廃止も含めるのに対して、前者の場合、制限や規制だけだった。そういえば世界最初の公営集合住宅というのもカール・マルクス・ホーフだった。コンビナート、それに集団農場。 レーニンは共産主義を電化と言ったが、これは発電所という下部構造の性質(電気の共有)から得た知見だろう。

インフラ整備の原型はローマに遡るという(水道も公道もトンネルも図書館もダムも最古の帝国アッシリアのものであり、その機構を真似たのがローマである。日本では余り知られてないようだが郵便もアッシリアからある)。ローマといえばローマ法は所有権を認めたが、公共に対する意識が高かったという。土地に関して言えばバブーフが尊敬したグラックス兄弟が暗殺されてから、カエサルが登場するまで目立った改革は一切行われなかった。カエサルの多くの施策はグラックス兄弟の計画を継承したものだという。そういえばゲルマニアや日本というのも私有の意識が低く、制限を設けていた(これらの国々が共産党やマルクス主義が強かった国というのも興味深い)。共産圏(特にゴエルロ・プランや五カ年計画)や所謂枢軸国のインフラ建設にも通じるだろう(といってもムッソリーニもヒトラーも前任者の計画を継承したのだが)。モスクワ改造計画(1931年)、世界首都ゲルマニア計画(1933年)、エウル・チネチッタ(1935年、1937年)という具合に。ソ連やドイツの収容所も下部構造と言える、今日のアメリカも刑務所が一定の産業を支えている。80年代のビスマルクの社会保障も何れもマルクスと関係を持ったフォン・ミーケルやラサールの助言から得たものと言われる。ニューディールにも通じる。アメリカの場合、私有の意識が高いように思われるが、建国当初は共産制であり、電話や多くのインフラを供給してきた。ロシアも村落共同体から共有の意識が高い。冷戦も計画経済同士の戦いと言われ、焦点だったのも経済というより政治だった。計画経済も世界恐慌に耐え、宇宙開発や都市計画で効果を出したが、サービス業では消費者を軽視して製品の質が粗末であった(人間工学の視点が欠けるということか)。アメリカじゃ消費者運動が起きたが、ソ連だと抑圧された。この構造の終わりごろだと軍需から民需への転換が見えてくる。

下部構造の概念が大きく変わるのがインターネットである。これにより通信インフラやITインフラへとシフトし、かつての重厚長大産業に代わる。ここで着目すべきが共有財産という意識が保持されるどころか、高められたことだ。20世紀前半、資本論の「総需要は有限」に基く計画経済が出てきたが、後半だと「成長は無限」に基くニューエコノミー論が出てきた。コジェーブが言った共産主義の「必要に応じて受け取る」段階にとりあえず人類は移行したようだ。土地や設備という下部構造に対する「資金の無限」でバブルが起きた。21世紀だと古典派経済学の「自然の無限」が、共有地の悲劇である環境問題や食糧危機で崩壊した。私として「人間が自然に疎外されて環境を管理できておらず、搾取に対する自然の反乱が起こった」と考える。といっても情報の無限(IT技術)があるから資本主義がハードからソフトに移るだけだと言う。この「創造的資本主義」がコミュニズムという妖怪をうまく飼う、いや揺り籠で静めることができるか。いずれ資本家もあらゆる事業から撤退するだろう。老人のように砦をつくってマルクスの亡霊におびえるか、奴隷制の主人や封建制の王、かつての亡者とともに歴史の眠りにつくか。

2008年7月17日木曜日

母権

家族というのも財産の共有や家計に基くコミュニズムであるが、母権論と絡めて母性というものを考えてみた。妊娠していると胎児と母親は身体を共有する。ここで胎児も色々学ぶのだが、環境、飲酒や喫煙、ストレスも胎児に影響する。母親が発育過程を計画化し、子宮内を管理する。赤子からすれば幼児的全能感、自由の王国である(胎児は「共有」の視点から見ても実に興味深い)。これを社会化すると人工子宮だろう。あらゆるものに愛(栄養)を与える。あらゆるものに惜しみ無く資源を供給する「自然」状態のようだ。人工共有物(公共物)としての子宮。人工子宮を考えたJ.B.S.ホールデンも共産主義者だった。未熟児や稀少価値がある生物を守るにも重要かもしれまい。ゴドウィンの娘メアリー・シェリーを始め、ツェトキンやコロンタイといった共産主義の歴史もフェミニズム、女性解放運動に大きく貢献している。それと共産主義と母性の関係を知りたければマルクス・エンゲルスやベンヤミン、フロムに影響を与えたバッハオーフェンが参考になるだろう。

There was little initial reaction to Bachofen’s theory of cultural evolution, largely because of his impenetrable literary style, but eventually, as well as furious criticism, the book inspired several generations of ethnologists, social philosophers, and even writers: Lewis Henry Morgan, Friedrich Engels, who drew on Bachofen for Origins of the Family, Private Property, and the State, Thomas Mann, Jane Ellen Harrison, who was inspired by Bachofen to devote her career to mythology, Walter Benjamin, Erich Fromm, Robert Graves, Rainer Maria Rilke, Otto Gross and opponents such as Julius Evola.

Bachofen proposed four phases of cultural evolution which absorbed each other:
1) Hetairism. A wild nomadic 'tellurian' phase, characterised by him as communistic and polyamourous. Whose dominant deity he believed to have been an earthy proto Aphrodite.
2) Das Mutterecht. A matriarchal 'lunar' phase based on agriculture, characterised by him by the emergence of chthonic Mystery Cults and Law. Whose dominant deity was an early Demeter according to Bachofen.
3) The Dionysian. A transitional phase when earlier traditions were masculinised as patriarchy began to emerge. Whose dominant deity was the original Dionysos.
4) The Apollonian. The patriarchal 'solar' phase, in which all trace of the Matriarchal and Dionysian past was eradicated and modern civilisation emerged.
While based on an imaginative interpretation of the existing archeological evidence of his time, this model tells us as much about Bachofen's own time as it does the past.
A selection of Bachofen's writings was translated as Myth, Religion and Mother Right (1967). A fuller edited English edition in several volumes is being published.
As has been noted by Joseph Campbell [Occidental Mythology] and others, Bachofen's theories stand in radical opposition to the Aryan origin theories of religion, culture and society
http://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Jakob_Bachofen

2008年7月16日水曜日

21世紀のコミュニズム

20世紀のコミュニズムが同一性だったとすれば、21世紀のコミュニズムは相似性である。理論、概念の共有から技術、実践の共有へ。プラトン的共産主義(デーモン)からマルクス的共産主義(カオス)への移行である。21世紀のコミュニズムが偏在する存在(超越者)を求めず、遍在する存在(観察者?)を求める。システム(同一性)というよりネットワーク(相似性?)だろう。倉庫から風船に供給主体が変わる。今までの共産主義(原始共産制を含め)も集合が中央(目的)を共有する惑星的共産主義というもので、今求められてるのが中央を介さず共有できるP2P的宇宙的共産主義である。 新しいコミュニズムにブランショやナンシーが解釈学を考えていたが、情報理論(自然科学)のコードモデルに基く共産主義に対抗するのであればプラトン的世界、ユートピアや天国を描かず、常に共有を生むことが重要である。それがネグリの言うディーストピアに希望を見出すことだ。解釈学というとフラクタルや自己相似性を説くだのが、解釈には縮小と拡大がある(宇宙的膨張収縮)。重層的決定によって本質を共有させることができるのだ。相似性といえば生物学で機能や器官を共有しつつ、祖先を共有しないことを言う。近代の歴史論争の焦点は「共通祖先」だった。どこが故郷かといった類だ。還元主義である。21世紀である現代、この祖先崇拝からまず抜け出すべきだ。もはや重力、地球という運命を共有する理由がどこにあるだろうか。この揺り籠からまず出るのだ。シヴィライゼーションでも言ったように資本主義も原始共産主義の延長にあるものである。 つまり、自然基底に疎外された上で成立している。 今日の疎外態といえば貨幣というマルクスの亡霊で言われた不老不死の幽霊である。 それが人間性を疎外した幻想である神や君主や貨幣や市場であり、 象徴(シンボル)の共有である。モノマニアやフェティシズムという原始共産制の慣習が資本主義でもより見られる。例えばメラネシアの原始共産制に見られるカーゴカルトが 資本主義のカタログ志向(性能数値、品質、材質、機構、製造企業等に過剰にフェティッシュ)に見られるのだ。 社会が分化し、自己完結した生活が極限に達したものであるのがオタクである。 オタクは心理学で捉えるべきで無くアニメ・ゲーム・インターネット・食べ物・漫画といった物質的関心を示す。 資本主義社会の熱心な消費者でもあり(データベース的動物でクリエイティブさに欠けるところがある)、 労働生産者で供給主体である親がいる(親がプロレタリア(子持ち)だからプロレタリアの所産ということか)。 一方でオタクというのも前述のモノマニアであり、ラフ(自然)を好み、コミュニティやメシアニズムに傾斜することがある。歴史的に見ればヒッピー(理想主義者)とオタク(仙人)は連続している。 その未開性がたえず知を求める遊牧民的で攻撃的、ハッカーのオープンソースの乱交的様相に見られる。 では、常民であるオタクと遊牧民であるニートに何故私たちが似た印象を持ってしまうのか。ノマド的にオープンで、農耕民族的にクローズ。この性質を矛盾無く共有しているからであり、資本主義の産物である。 この象徴の共有から行為の共有にするのが共産主義革命である。これで記号、表象、形式の操作の段階から解釈学や現象学の段階に移行するのである。人工知能でも自己完結モデル(デカルト的器官機械論)から社会的存在モデル(柄谷行人が言うマルクス的機械器官論)に移行している。古代でも「文字の共有」というより「解釈」によってロストテクノロジーが発達した。これも物理法則を共有している(結果が出る)から解釈ができるのだ。様式や仕様を共有しつつ、個性が多くある。複雑系である。 例えば歩くことも各人目的が違うが、手段として共有している。 今日資本主義で交換手段を共有し、貨幣の共同体を形成しているが、 生産手段が共有されてるだろうか。20世紀が社会主義(マルクス主義とそのカリカチュアと偽キリスト)の世紀であり、唯物論の世紀でもあったこと、21世紀が生命の世紀であることを私も認める。といっても人間原理を認めるわけではない。ドゥルーズによってファシズムに近い過激な生気論ではないことも自明だとわかった。デカルトの器官機械論とマルクスの機械器官論がジンテーゼ(シームレス)されただけだ。20世紀のコミュニズムが民族や戦争という同一性の鬼子によって分裂したとすれば、21世紀のコミュニズムも相似性を獲得するべきだ。「神聖な同盟」の「法王とツァー、メッテルニヒとギゾー、フランスの急進派とドイツの密偵」もどんどん虱潰しで神のリスト(神的暴力)から消されてゆく、いや今じゃ「資本と国家と宗教」の結託だろうか、国際主義も唯物論も階級闘争も正しいから反動勢力だろう。カオスも決定論ヤハウェの手にある。歴史の歯車がいつものように動いているのだ。宇宙の自己相似性(フラクタル)から人類が生まれた。唯我論的シミュレーションで私の都合を他が共有しているからでない。宇宙と自我が一部の情報を共有しているのだ。共鳴(コヒーレンス)、共振(シンパ)によって自己組織(オルグ)、進化する。私はSFではシェアード・ワールド(世界の共有)を好むが、どうやらパラレルと媒体を共有することでコネクトすることが今日求められてるようだ。そして21世紀のコミュニズムはもはや文明ではない。「文」(文字)が明かされぬ共同体である。それがもたらすのがクオリアという新しいカオスの共有であり、共同主観の客観化である。

2008年7月15日火曜日

ソラリス

原作者:スタニスラフ・レム
出演:ナタリア・ボンダルチュク、ドナータス・バニオニス
まず、この惑星ソラリスをどうしてあのソ連で撮れ、当局が許可したのかだ。このソラリスこそ共産主義というものだ。それもボリシェヴィキが始まった時からのものである。人類の精神の共有である。これに向けてレーニンに次ぐ幹部だったボグダーノフが後のサイバネティックスや一般システム理論の先駆けである数々の実験をして、ついに自らの体まで奉げてしまったことも有名だろう。建神主義(建神論)と距離を置いたレーニンもツァンダーと会ってから宇宙開発に興味を持ったのもツィオルコフスキーの突然の抜擢も関係するだろう。わかりやすい例といえばガンダムのニュータイプというのもロシア宇宙主義の系譜に連ねれるだろう。これが「波動の共有」(テレパシーとかヘッドギア)だったり、ドラッグに結びついて唯物論的サイケデリックというか霊的唯物論というオカルト実験と化したこともあった。しかし、あのフッサールが言う共有主観(共同主観)を客観化した文明もこの宇宙のどこかにあるかも。

2008年7月13日日曜日

デザインとアイディア

以前の蜘蛛の蹂躙、あるいは共産主義とアナーキズムで述べたユートピア性というのもアイディア(理想主義)とデザイン(ハイエクの言う設計主義、構成主義)、同一性(identity)からくる。アイディア(idea)というのもイデアであり、理想主義というのもイデアリズムだ。イデオロギー(ideologie)とも語源を共有している。プラトンの場合、イデアを共有しても物質界じゃ粗製であるとした。マルクスにとって資本主義における機械的生産の無計画性であり、イデアというより下書きである(下部構造)。近代デザインの父と言われるウィリアム・モリスもだからマルクス主義者だったのだ。プラトンが目的とすれば、マルクスは手段を重視する。マルクスが技術を中立的に見ていたのも、仕様というか手段として共有できるし、構造的にも共有するからだろう。しかし、マルクスは神という共産主義者でも述べたようにあくまで決定論ヤハウェの立場にあり、受苦者の運命と社会を見つめる全知全能(絶対静止共有時間)の神の眼(統整)を共有した。これがレーニンだと構成的権力であり、社会をデザインすることが強く出てくる。レーニンはマルクスに達していないばかりか、プラトン的理想主義(ドイツ観念論)さえ超えていなかったということだ。マルクスが預言者だとすれば、レーニンは魔術師である。実験も結果を共有するためにある。操作というのも目的があり、自己の都合を共有させようというものだ。想像というのも感性と悟性の共有で成立する。脳内のコミュニケーションで生まれる。推論も共有性からきているだろう。例えば高度地球外生命体に遭遇するというSFで結果が出るのも物理法則を共有しているからだ。理想を語るのも、決定論的に語るのも法則を共有させるものだ。テクノロジーが固有性を消し去り、共有させるものであることも共産主義と科学で言ったことと関係がある。裏と表があるように思えるが、量子物理学的に見れば表でもあり、裏でもあり、共有していることと一緒だ。

2008年7月12日土曜日

コミュニズムの中心

以前「均衡」も「共有」というイデアの影と言った。例えば天秤でも中心を共有している。共有に平等(対称)も不平等(非対称)も無関係である。マルクス、バブーフ以前の共産主義から神、救世主、哲人というものがあったのもここにもあることがわかる。そしてソ連、トップダウン、指令経済、中央集権や経済学のモデルの失敗の原因もこれにあるだろう。シンボル(象徴)を共有することとも似ている。一定の空間を共有しつつ、ヘゲモニーが生まれることも自然科学の実験でも見られる。これを競争的共存(競産主義?)と呼ぶらしい。「競争」というのも「共有」するから起きるのだろう。前々回の神という共産主義者でも言ったように、極端に強い自己の欲望も共産主義を導く。惑星というのも中心を共有している。地球を中心に公転していると言った天動説も負けたが、地動説も太陽に中心が変わっただけだ。だが、宇宙に中心があるだろうか。いいや、風船のように膨張しているのだ。中央を介さず共有している。まさにP2Pだろう。

2008年7月11日金曜日

貨幣

建築物の常識として出口も入り口も一であり、これを通常共有する。この正規の場所以外を使うとすると泥棒か異常事態だろう。そして鍵を共有することも現代で言えば暗号を共有することと一緒である。パスワードを入力したり、カードを使うのも同様だ。貨幣を配給券や証書としたマルクスも正しい。共産党宣言で明確に言われているように共産主義はプライバシー(私的要素)の禁止を必須とする、貨幣の廃止を考えるとバブーフが主張していた各人の情報を登録するか、旧ソ連の囚人やわれらみたいにコード(番号)をつけるか、金庫のようにパスワードをつけてそれを共有するかだろうか。そもそも数字というのも金融資本主義の発祥地とも言うべき古代バビロニアで経済的動機から生まれた(この事実を史的唯物論者以外も共有すべき)。そういえば錬金術を生んだのもユダヤ人であり、ユダヤ人も金属や物質の記号で呼ぶことが多い。最初の鋳造貨幣を生んだのはリディアだったが、貨幣自体はセム系が生んだ。この経済も不老不死の貨幣の王権でできたものだ。そういえば手にしたものを金に変えてしまうというミダス王(プリギュア)もサルゴンの同盟者だった。計算器も古代バビロニアから生まれたが、これがヴェニスの商人の哲学、ベンサムのユダヤ商法の擁護、ノイマンの古典的計算主義とわたっていくのだろう。金融に限らず、カバラ(記号の操作)、ゴーレム(生命の操作)、あらゆるものを操ってきた物質文明の権化とも言うべきユダヤ人、或いはそれに似た根性(反ユダヤ主義者に多い選民思想もそのパロディと言えよう)が善くも悪くも世界を支配してきたのだ。カバラをコンピュータに、ゴーレムをロボット(生産手段)と考えると今日の混乱もどうも人類に対する貨幣(交換手段)の反乱とも言えそうだ。共産党宣言の「近代ブルジョア社会は、自分がよびだした地下の魔物を、もはや統御しきれなくなった魔法使に似ている。」のところで言った「生産手段や交換手段の反乱」もこういうことだろう。一方で古代エジプトの場合、無利子で寿命つきだったそうだ(ブレードランナーのレプリカント?)。イスラム金融にも通じるだろう(緑の資本論?)。先史時代だと原始共産制があった。文字に関わらず技術が発達できたのも興味があるところだ。どこの宗教でも当初は口伝口承だったと思うが、デリダのパロールだろうか。ドゥブレのメディオロジー的唯物史観的技術決定論的に言わせてもらえればパロールは反動である。共産主義はエクリチュール(セム?)、新聞や本、活字媒体で台頭した。そしてファシズムはパロール、詩人や音楽家を伴ってラジオで台頭した。次は「リアル」に働きかけるメディアが台頭するだろう、言ってみれば写真やテレビ、カメラだ(共産主義もファシズムもこのメディアも使ったが)。

神という共産主義者

以前の宗教と共産主義でも述べた通り、神というのも実は共産主義者だ。キリストが、あるいはクリシュナが共産主義者だったと私は言いたいのではない。「有神論者」としてのマルクス主義者はベンヤミン(神的暴力や神的という提起)やルナチャルスキー(建神主義)が有名だが、共産主義が影響を受けたのがセムの宗教、つまり、一神教である。このセム的超越神を定義すれば「造物主」「超越的存在」「全知全能」だろう。まず「造物主」だが、神は万物を造られたわけだが、それは神から見れば皆財産であり、子供だ。プロレタリアート(子供しか持たないもの)である。イエスもそういえば大工だった。子供というのも親から見れば兄弟、姉妹という差があろうと同一であり、子供は親を共有する。宗教で言えば神の愛であり、工学で言えば部品のように共有可能、交換可能ということである。次に「超越的存在」だが、超越とは「分」や「私」を越えたものである。例えば生物学的分業を止揚せよ!!で言った生物が超越していると言えるのは分類目録を転覆しているからである。神も祖先も自然法則も万人がその関係において超越を共有(共通)している。だからプラトンも共産主義社会を構想したのだ。

「共産主義者の理論は、私的所有の廃止という唯一つの文に要約できる」(byマルクス)

以前の科学と共産主義で述べたが、マルクスも一種の「超越的存在」だった。といっても神のように完全性を持ったのではなく、20世紀で最も影響力を持った人物だからというわけでもない。神の目を共有していると思い込んだ昔からよくいるユダヤ的予言者(預言者)としてだ。マルクスはカントに影響を受けていた。カントといえば超越論哲学であり、手続きや概念の共有を前提とする(カントを小生産者の擁護者と見る向きもあるが、彼自身プラトンの国家の支持者であり、共産主義に反対していない)。資本主義が崩壊する運命にあると説きつつ、共産党宣言でも見られた資本主義に対する「礼讃」とも言える分析ができたのもここにある。そして「全知全能」であるが、これも以前のシヴィライゼーションとかでも述べたが、経済学で「全知」の仮定といえば計画経済と合理的期待である。ライプニッツによると神は世界をうまく共有し合うように決定しているという。「全能」の方だが、時空間を超えたものだとすれば精神を共有しているとも言えるだろう。旧約聖書の「全能」とは「全てを満たす」ことであり、スピノザの汎神論とも関係がある。カントールの実無限はカッバーラ的であり、共産主義的でもある。ボルツァーノは共産主義的国家を構想している。それとマルクスがよく無神論者と扱われるが、初期マルクスの言葉を引用しておくとしよう。

「神が人類および人間自身を高貴たらしめる普遍的な目的をあたえたのであるが、神はこの目的を達成しうるための手段をさがしもとめることを人間自身にゆだねた。神は、人間にもっともふさわしい。」

マルクスは確かに宗教を阿片と斥けたが、神に関してこのように考えていたのだ。マルクスのいたヘーゲル左派は「人間が神を発明した」「私こそ唯一者である」「超人だ」という連中の集まりだったが、マルクスも極端に強い自己意識を主張したブルーノ・バウアーの下で学んだから、こういったエゴが共産主義へと結びつく弁証法的過程を発見したのだろう。そういえばジャイアニズムの「お前のものも俺のもの」という論理も聖書からきている。この聖書の言葉は古くから財産を共有することを表していた。これと似ているかも。

2008年7月8日火曜日

交換

よく物理学・数学の「交換」(Commutation)と商品の「交換」(Exchange)を混同する方がいるが、両者とも違う。前者がより「共有」(共産主義CommunismやコミュニケーションCommunicationと語源を共有する)に近いのに対し、後者の場合、「共有」に遠い。交換(コミュテーション)も数学で重要だが、物理でも重要だと思う。「力」「作用」「結合」といったものに関係するからだ。私が交換可能性を共有可能性(共通性)と呼ぶのもコミュニケーションと共有が不可分と考えているからである。「共有」が欲求であることも前回述べた。その媒体たる機械も下部構造と部品が独立していても共通性があるから組替が可能である。旧ソ連が臓器移植、中国が臓器再生産に熱心であるのもこういう哲学があるからである。しかし、血液型を無視したボグダーノフも遺体を肥料に使った毛沢東たちも問題に直面した。疾病が生じたのだ。自然基底からの人間の原生的疎外からとも言えるだろう(バイオハザード?)。つまり、人間の歴史は「自然」との階級闘争だった。このように物質の無限の外部性に幻想を抱くのも危険だが、スタートレックのレプリケーターのように科学技術が発達さえすれば物質化も可能だろう(文化唯物論の出番?)。そして経済学の当たり前として無限の財が共有される。西洋哲学も自然科学もプラトン以来の形而上学、「共有」や「同一性」のイデアによって発展してきた。今日のポストモダンも「差異の共有」というところで落ち着くだろう。ところで社会を群と考えるとコミュテーションが加法群である。やっぱりシステマティック過ぎるから失敗するのだろうか。実際の社会というと乗法群だろう。アソシエーション(結合)が重要ということか。

2008年7月7日月曜日

エイリアン再論

出演:スティーブン・パスカル
2008

AVP2を見たので再論しようかと。前回、身体の共産主義的考察をしたが、内臓レベルで共有可能性を見出しても実際の人間というのもブサイク(非モテ)とイケメン(モテ)という差異がある。ゲノム情報を99.9%近くも人類が共有しているにも関わらず、その小さい差でここまで違うのだ。これを裏返して見れば共有されるものも多いともとれる。超越的に見れば差異も共有しているとも言える。どこまでを人間と言えるかという問題も関係するだろう。DNAの蛋白質合成だけで「超人だ」とか戯言を吐く連中が無学であることは言うまでもない。人類も脳というプラトンの洞窟の住人でもあるが、決して独房の中の理性でも無く、コミュニケーションという機能がある。以前にエイリアンで述べた通り、Alienというのも疎外(Alienation)されし者である。エコフェミニズムに加担するわけじゃないが、身体の疎外を身近に感じられる例が少子化である。女性の社会進出が子供を生産するという自然機能を疎外しているから出生率が落ちるのだ。心理学者の言葉を借りれば母性である。しかし、これを否定してただ「自然に帰れ」だけであれば女性差別主義者である。マルクスの疎外を客観命題として事実上承認すべきだ。自然科学の世界でも疎外がよく見られる。だが、この技術に対する社会の未熟、制御不可能性や事故を喜んで「人間よ、滅べ」としてしまうとかつての未来主義者だ。共産党宣言と未来派宣言も階級闘争という似た趣味を共有するが、共産主義者が「革命の成功」を前提とするのに対し、未来派の場合、戦争自体が目的だから「階級の共倒れ」を内在している(物象化の対が速度というのも興味深いが)。着目すべきが資本主義のそういった一面がエイリアン(疎外された者)を意図せずに大量生産してしまうということだ。最近の女子が男言葉を話すのも疎外の矛盾だろう。つまり、画一化をもたらしている。SFのエイリアン(宇宙人)や地球外生命体が平等に面を共有している、「顔や体が同一化」しているのもこういうことだ。結果的にこれが「プロレタリア階級の組織化」に至る。タイムマシンのモーロックのように下層階級の人々が不細工と化すのだ。平等にブサイクと化したことで恋愛も計画化する。一方で疎外(自然)に適応し、進化する。障害や突然変異を持ったものが時として脅威的能力を獲得することと似ている。貧乏人がすばらしい生命力を持ち、プロレタリアがすばらしい身体能力を持つこととも似ている。エイリアンが初めは生物兵器として開発されたというのも興味深い。映画の中でもまた「疎外」と「奴隷と主人の弁証法」が働くのだ。例えば「今日から共産主義だから一個の公衆便所を皆さんと共有しましょう」としたとする。するとやがて公衆便所が自我に目覚めて「平等に接してやるんだから俺を掃除しろよ」と強制してくる。市民の共有された意思(一般意思)の所有物だった国家が人格者と変わり、 男どもの産む機械だった女が女王蟻と化す、 研究員がリソースの共有に利用していたコンピュータが自意識に目覚めて人間に命令をしてくるというSF、 資本家が労働者を従えていたのが、生産手段という資本家の心臓を握っていることに目覚めた労働者が会社を乗っ取るというプロレタリア文学。 かつて月は夜を照らす共有物だったが、奴隷制の王たちによって象徴共有(神)に変わった。しかし、今やブルジョアは月を征服してしまった。愚かなことに貨幣のような不老不死を企んでいるブルジョアは次の支配階級を育ててしまっているのだ。エイリアンはやってくる。われらの中から。では、「革命後」の共産主義社会ってどういう社会だろうか。
私がいい例だと思うのがプレデターである。文明を肯定しつつ、狩猟採集に似た生活をする。未開と文明の弁証法的綜合である。宇宙船で小さいコミューンを形成し、狩りに出る。獲物を狩った後に仲間のもとに持ち帰る。マルクスのまさに種族的所有(原始共産制)だろう。映画では人間を狩っているが、弱者にも優しい。プレデターの特質を見ていると未開人やインディアンのイメージがあるとも思う。ところでプレデターも個人の活動着が認められている。支給されたものというより私有財産である。所詮映画だからあくまで参考ということにしておく。 プレデターにせよエイリアンにせよどれを選んでも資本主義に希望は無いのだろうか。

2008年7月5日土曜日

人体と共産主義

かつて共産党は下部組織を「細胞」とし、党中央を「頭脳」としていた。昔ある方に「身体でも私有物だから共産主義は無理」と言われた。そうだろうか。今日の物質的段階を見渡せば臓器の移植や再生産が罷り通っている。精神転送も考えられてる。生物学でいう相同性と相似性も共有性が強いか弱いかの違いだろう。ウイルスに感染したら身体が隔離されるのも共有物として認識されているからだ。献体や手術でも共有物の認識がある。病院自体がインフラ下部構造として共有物である。

神経や免疫系でも共有物がある。脳もニューロンも細胞も情報を共有している。ある解剖学者曰く脳を共有できても、身体の場合、共有したくても難しいという。身体を共有したいという感覚もある。例えばアニメやプロレスを見て共感するのもそういう感覚があるからである。機械を操縦できるのもマクルーハン的に身体の延長として共有しているからだ。前者と後者をうまく表しているのがゲームだろう。ダンスや体操もそういう感覚が根底にある。セックスも感覚を共有したいためにあると思う。AV、エロ本、テレフォンセックスもその媒体だろう。だったら自慰や子孫を残す行為がどう説明されるか。まず自慰の場合、先の「感覚を共有したい」というものが夢という装置でされたものと考える。脳内でもコミュニケーションがあるのだ。一方、子孫を残すという行為だが、個体レベルじゃ利己的に見えるが、子供を守りたいとか親を守りたいということもプログラムで共有されているのだ。種レベルだと遺伝子を共有したいとも言えるかと思う。 ソビエト共産主義を人体に喩えると知の私有を否定して没収(白痴化)した結果、頭と脳が重量オーバーしてそれ以外が貧弱化して足元が潰れた、おまけにコストを削減する外科手術も失敗したと言える。総中流で腹を大きくしたデブ国家はダイエットができるから成功した。私有財産を否定するために共有した媒体が国家だったが、他の媒体も有り得る。

2008年7月4日金曜日

共産主義と科学

今回は共産主義と科学である。フランス革命の時代、百科全書家や百科全書派によって科学と共産主義の一つの結節点ができたと私は考える。「自然状態」と「自然科学」の関係は深い。百科全書派は本によって知の特権的所有を否定し、知識の共有や平等を唱えた。この考えた方が今のインターネットやメディアの共産主義的傾向にも通じるかと考えられる。これを科学社会学のマートンによれば公有主義(Communalism)、共有主義(Communism)と呼ぶ。脳科学が共有主義の典型だろう。共有とは細分化(未分化が原始共産制に相当)に反対する体系化でもある。もっと考えれば真理や法則、定理といった科学の目的が共産主義的である。例えば人間の限界で科学の知識を共有してなくても、科学の法則が実在し、それを人間は共有している。差異と同一、相対と絶対、二項対立も共有性から成立しているとも言える。柄谷行人が多くの科学者がプラトン主義だと言ったのもこういうことか。そういえば柄谷が拠るカント哲学も概念とかの共有を説くものだ。いずれにしても「神の目」とも言うべき超越論的視点だろう。マルクスの時代、19世紀末、相対性理論が出る前に「方眼紙の宇宙」を共有していると考えられていた。1895年、タイムマシンが書かれたのだが、「時間という機械を共有しているのだから改変も共有できる」と考えた。 しかし、この絶対時間共産主義に痛撃を与えたのがあのアインシュタインの相対性理論である。時刻や時計(時間と違う)というのも「共有されたもの」としての前提があるが、 実際の時間というのも感じ方が相対的だから、これも人間の限界であり、人工的時間である。とはいえ相対性理論は厳密にはアナーキーではなく、よく見れば共通性、共有性、同一性を説いており、アインシュタインは反共主義者でもなく、むしろマンスリーレビューというマルクス主義の月刊誌で計画経済を公に支持しているのだが。相対性理論が出てきた20世紀、科学が危機を迎え、そして暴走していくわけだが、これを体現したのがレーニンだと私は思う。レーニンの「唯物論と経験批判論」を読むと、非常に科学に対する信仰を感じられるが、次第に科学や客観を通り越してイデオロギーに結びついていくことがわかる。これはレーニンがドグマティストだったからというよりむしろレーニンがわざとしたと考えれる。レーニンは強烈なリアリスト、プラグマティストだった。徹底した唯物論者のように見えたレーニンであるが、科学的唯物論を否定したソレルの暴力論やルボンの群衆心理をレーニンは読んでいたという。ソレル的に言えば命懸けの飛躍(エラン・ヴィタール)とでも言おうか。この非合理主義と合理主義の境界が曖昧になるのは20世紀の特徴だろう。外部注入論も唯物論的だが、介入・操作・誘導する主体を認めているのだ。そしてレーニンが理論面だけでなく、実践面でも恐ろしい同一性をもたらしたことを以前述べた。科学が宗教化したことはオッペンハイマー博士が自らを「神」に喩えてみせたところで頂点に達した。創世記の神の怒りのごとくユダヤ人にとって広島と長崎はソドムとゴモラであり、原爆の投下はベンヤミンが言ったまさに「神的暴力」だった(ザハロフやハーバーも絡めたいが)。これからの視点として語義矛盾かもしれんが、相対性を共有する、差異をいかに共有するかというものを考えていきたい(例えば空間を超えて経験を共有するとか)。

2008年7月2日水曜日

軍と共産主義

今も各国の軍人にとって「アカ」は国家に対する最大の脅威であり、忌み嫌われてるわけだが、軍隊と共産主義の関係は結構深い。共産主義が昔から理想としてきたのが実は軍隊であり、その次が宗教である。例えばプラトンがスパルタのリュクルゴスに感銘を受けていたのも有名である(一説では私有財産も禁止していたらしいが、これもプラトンの文才によるものかも)。マルクスの「食卓的共働態」とも関係しそうだ。バブーフも軍隊の制度を自らの共産主義ビジョンの例に挙げていた。マルクスの相棒であるエンゲルスもかなりの軍事オタク(ミリオタ)であり、多くの軍事評論を残し、周囲から「将軍」とまで呼ばれていた。史的唯物論と軍人の世界観も近い。

「軍隊の歴史は、生産力と社会的諸関係との関連に関するわれわれの見解の正しさを、何にもまして鮮明に浮き上がらせている。」(Correspondenceより)

私もそう思う。軍事も戦争も決してその無知熱狂者が言う息苦しい「観念」のものに留まらず、常に物質、産業経済、兵器類と関係がある。マルクス・エンゲルスの時代、19世紀末、機械的再生産と鉄道輸送、電信が大きく役割を果した。これらもいつも私が言う「共有」というイデアの影である。合理化を進め、時間差を消し、時間を共有させようとした(統一、均衡も共有の劣化コピーである)。これにより時間と空間が変化した。レーニンも「鉄の規律」だとか戦時共産主義で軍国的だったように、「革命は戦争である。唯一の、正当な、正義の、真に偉大な、戦争である」と言っている。そもそも20世紀が「戦争や革命の世紀」であることを告知したのがレーニンだ。戦争も階級闘争であるとしたソレルもユンガーもボリシェヴィキを称賛している。これらはウェーバーによると「戦友愛の共産主義」というものである。塹壕の共同所有(運命や沈黙の共有)である。軍隊の行進も「共有」(同期)を志向していると言える。ロシア革命が第一次世界大戦とともに起こり、戦艦ポチョムキンなどの兵士の反乱から始まったことを考えると確かにそうだ。私もSFファンだから軍事に興味があり、共同生活で共有して計画的に経済を運営している宇宙艦隊や宇宙要塞こそまさに将来の共産制であると考えていた。しかし、軍隊にも階級制がある。それも二つじゃなくてカーストのように多いのだ。ここで「映画」に見られたベンヤミン的問題提起が生じる。つまり、階級性を超えたように一瞬見えても資本家に充用されれば現実の身分、悪しき構造は維持される。コーポラティズム(労資の癒着)の余地が出てくるのだ。そしてその恐れた事態がファシズムによって実行された。「民族」や「人種」という国家資本主義の「神話」によって階級性は消されず、覆い隠されたのだ。これを最も端的に教えてくれるのが攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIGのクゼだろう。クゼも結局操られてたわけだが、「下部構造から上部構造にシフトすべき」というテーゼに大いに共感する。クゼの場合、上部構造がネットだったが、私にとってITインフラが下部構造であり、その上部構造へのシフトを唱えたい。まさに著作権問題やゲノムの所有問題で苦しんでるのが今のブルジョアジーで、階級国家からの脱皮(グローバルビレッジ)に近づいている。結局のところテクノロジー自体も目的合理性、中立的であり、所有の外部にあるということだ。コーポラティズム亡き今のアメリカ軍や世界の軍隊を見るとどうも前世紀より一層産業資本(軍産複合体)の暴力装置であり、それ自体がテスト兵器であるオモチャ兵隊と化してるようだ。湾岸戦争も「見本市」と呼ばれ、イラク戦争の目的も石油にあった。最近のゲームをやっていると、資本が国家を超えた権力となり、傭兵を従えているという設定が多い。実はこの世界観はベンヤミンの目論見通りである。「民族」や「人種」という国民国家を支えた神話がブルジョアジーによって「用済み」と棄てられた今、ブルジョアは次の段階に入ろうとしている。警察も賃労働者化してロボコップと化すかもしれまい。しかし、これも共産党宣言で述べられた「主と奴の弁証法」が働くだろう。資本家は自らの墓堀人たる疎外(Alienation)されしもの(エイリアン)や妖怪(Gespesnt)を生産しているのだ。この生産力がやがて人間に反逆し、支配や破滅をもたらすであろうこと、自明である。

2008年7月1日火曜日

蜘蛛の蹂躙、あるいは共産主義とアナーキズム

今回は共産主義とアナーキズムについて。その前に共産主義と言ったら諸君はどんな社会を思い浮かべるだろうか。暗鬱な管理社会だろうか、それともお花畑な御伽噺の楽園だろうか。前にも述べたが、ユートピアという語をつくったトマス・モアもデストピアという語をつくったミルも一種の共産主義者だった。トマス・モアのユートピアは言葉としては最初のユートピアである。当時の社会を諷刺したとも言われるし、最初のデストピア小説とも言われる。ここで描かれたのも財産を共有する共産主義社会だった。1868年にディストピアという言葉を創ったミルはマルクスの同時代人でリベラリズムの父と言われる。一方で「待望した共産主義者」とも言われ、「共産制」の難点は問題だらけの私有財産制に比べれば大小すべてのものを合しても衡器の上に落ちた羽毛に過ぎないとも言っている。しかし、流石リベラリズムの祖でもあり、彼が共産制の問題となりうのはむしろ個人の自由の問題だと言う。

問題になるのは次のような事柄である。すなわち共産制には個性のために避難所が残されるか、輿論が暴君的桎梏とならないかどうか、各人が社会全体に絶対的に隷属し、社会全体によって監督される結果、すべての人の思想と感情と行動とが凡庸なる均一的なものになされてしまいはしないか―これらのことが問題である。」(経済学原理)

この危惧はソ連がずばり当てたとも言えよう。最近ではあのネグリがディストピアに希望を見出すと言っている、未だにこういった傾向もあるようだ。マルクスの場合、モアを始めとするプラトン以来の形而上学的空想的共産主義を転倒させ(オーウェンもフーリエもサンシモンも究極的に共産制を理想とした)、「科学的」を標榜したからフランシス・ベーコンに近い。「空想から科学へ」(byエンゲルス)である。しかし、稲葉さんも言っているが、これも共産主義に内在するユートピア性を否定できずにいた。つまり、「空想科学」(SF)に変わっただけである。ジュール・ヴェルヌが「月世界旅行」を書いた2年後にマルクスが資本論を出した。そしてその2年後に「海底二万マイル」である(ヴェルヌ自身がクロポトキンに共感していたという)。レーニンの場合、マルクスが否定したイデオロギー(idea)や神話(真理プラウダに対する考え)をむしろ肯定的に考え、理想主義的(idealism)人々を惹き付けたのだった。ルカーチやマンハイムも似た傾向にあった。興味深いことにHGウェルズもソ連の未来を憂えつつ、レーニンの構想に賛成しており、クレムリンの空想家と評していたという。前回も言ったが、こういうことの行き着く先がオカルトである。プラトンもアトランティスがあるといった。唯物論者であるソ連の学者も原始民主制とかアトランティスとかを信じた。ソ連の宇宙開発への早い関心(ツァンダーがレーニンに会ったり)もコスミズム(宇宙主義)とコミュニズムの親和性から出てきた。ガイア理論の原型がつくられたのもソ連である(ベルナドスキーのノウアスフィア)。そしてテレパシー(精神の共有)もあると考えられた。レーニンに次ぐ幹部だったボグダーノフの建神主義にも見られる。社会主義も結局のところ、共産主義の一段階に過ぎんのだ。社会主義という語をつくったのはPierre Leroux(ピエール・ルルー)だが、彼の兄弟のJules Lerouxはアメリカでも有名であるコミュニストであり、彼自身もユダヤ教(キブツ?)、ピタゴラス教団、仏教、あらゆる宗教を綜合した社会を理想としていた(ハイネといったユダヤ知識人とも交流があったそうである)。サン・シモンの弟子であるアンファンタンも共産を理想としていたのであるから当然ともいえるが。

知の帝王サルトルはマルクス主義を「乗り越え不可能」と言った。佐藤優氏もマルクス主義は右翼にも左翼にも共通の祖先みたいに言っていた。猪木正道もマルクス主義が重層防御構造であると指摘している。つまり、あらゆる反論に耐える幾重の網羅的仕組みとなっているのだ。ポパーが反証不可能の典型にマルクス主義を挙げたのもこういうことだろう。壁を通り抜ける、共産党宣言で言われる「幽霊」そのものだ。蜘蛛とも言えそうだ、踏破性もあるのだ。そういえば以前のバグズ・ライフでかの昆虫学のファーブル先生が共産主義のメカニズムを節足動物に見出したと言ったが、蜘蛛(クモ)といえば複眼だ。そしてファーブル先生が「プルードン主義者」と罵った蝿(ハエ)も複眼だ。この複眼こそコミュニズムとアナーキズムの共通点と言えよう。あらゆる西洋思想がプラトンの脚注であったようにマルクスもそこに躍り出ようとした。マルクスはその目論見通り20世紀の脚注となった。そして共産主義に対する地球規模のヒステリーが巻き起こった。共産党宣言で奇しくもこのことが指摘されている。
「権力の座にある対抗派から共産主義だと罵られなかった政府反対党がどこにあるでしょうか。自分たちより進歩的な反対党にも、反動的な敵対者にも、共産主義という烙印を押すような非難を投げ返さなかったような反対党がどこにあるでしょうか。」
強迫的にどこにでも現れる恐怖の存在(アラクノフォビア蜘蛛恐怖症)。ロボットの反乱やインベーダーの侵略のネタ元になったのも理解できる。マルクス・エンゲルスは蜘蛛のように張り巡らす理論家でもあり、運動家でもあった。あのプルードンさえも組織に引き入れている。マルクス・エンゲルスのオルグで第一インターナショナルに当時の殆どの主要な社会主義者が集まった。そして第一インターナショナルで創立宣言と綱領をマルクスが起草したが、その器用さは人々を驚かせ、満場一致で賛成された。ここで初めて今までバラバラだった社会主義がまとまり、団結したのだ。インターでマルクスの敵対者だったバクーニンもこう言う。

「マルクスがエンゲルスと共に第一インターナショナルに最大の貢献をしたことは疑いない。彼は聡明で学識深い経済学者であり、イタリアの共和主義者マッツツィーニ等はその生徒と呼んでいい程である。但し、何事にも光には影がある。マルクスは、理論の高みから人々を睥睨し、軽蔑している。社会主義や共産主義の法王だと自ら考えており、権力を追求し、支配を愛好し、権威を渇望する。何時の日にか自分自身の国を支配しようと望むだけでは満足せず、全世界的な権力、世界国家を夢見ている」(バクーニン著作集第6巻)

バクーニンとマルクスの対決は集団的アナキズム(本質的に無政府共産主義とされている)と国家共産主義の対決とも言われる。元々バクーニンはヴァイトリングの影響下で共産主義者を自称していた人であり、バブーフやブランキといった共産主義者から理論を学んでいた。バクーニンも「マルクスが正しかった」と言って、後に資本論をロシア語で翻訳しようとしている。バクーニンを信奉するチョムスキーが初期マルクスを同時に信奉するのもこういうことである。ところでアナーキズムと言えば共産主義と表向き対立してきたり、一緒くたにされたりされるが、実際のところはどうだろうか。浅羽通明はアナーキズムは共産主義以上の永遠の理想論であり、今じゃポンコツだと言う。確かに永遠の理想論とも言えるが、理想論というのは語弊がある。理想論とはこう有るべきとするイデアリズムであり、理想主義に挫折したアナキストが唾棄するものだ。レーニン曰く目的は一緒だが、手段が異なるという。あのHakim Beyも神秘的無政府主義と共産主義は実際は一緒であるという。その後コミュニストは権威化するだが、これは後のサンディカリストのボリシェヴィキ化にも言えるだろう。理想郷も桃源郷も同じと思う方は多くいるだろうが、プラトンの系譜の理想郷の場合、社会批判的や世界変革的であるのに対し、老子の系譜の桃源郷は隠遁的で消極的である。前者がコミュニズムの典型であり、後者がアナキズムの典型とも言える。アナキストは今日にイメージされるナロードニキ的反逆者というよりは究極のニヒリスト、ペシミストだった。よくアナーキー(無支配)とフリーダムやリベラル(自由)を間違える方がいるが、言葉からして違う。自由を愛した古代ギリシャの賢人たちが徹底してアナーキーを否定したのもこういうことだ。所謂「何でも有り」は自由主義である。星新一のマイ国家を読めばわかるが、自由というのも物理的にも法律的にも条件があってこそ可能であり、「支配する」「支配される」ことを拒むのは有り得ず、ただ「無」(真空も無と呼べんし、無が有るという自体で論理が破綻している)とする完全なアナキズムは不可能である。今度は無が「支配している」と言ったり、「無が正しい」とするとニヒリズムと化す。スタヴローギンのようにニヒルな若者やスターリンのようにニヒルな権力者のように自分さえも疑ってしまうのだ。「無い」は井の中の蛙にとっての空や神であり、蛙にとって空や神が「無い」とされるように知らないものにとっては「無」で片付けられる。実際は「無知」ではなく、「未知」である。。結局「無」自体、「無い」のだ。アナーキーは終りも始まりも無いことをあらわした。無を議論するのは馬鹿げたことだ。マルクス主義やレーニン主義(ロシア共産主義)もファシズムも資本主義もアナキズムであると言えばアナーキズムだし、アナーキズムではないと言えばアナーキズムではない。これも解釈。社会的のみならず、哲学的にも厄介である。しかし、確かにいえることはアナーキズムは動物より少し進んだ段階であることだ。「無い」は対象が有ってこそ有る。だからアナーキズムには破壊しかしない。まさに理由無き殺人だ。理由無き殺人はルサンチマンが無いように見えるが、ルサンチマンが有る。あらゆる存在を憎んでいるからだ。理想主義に挫折したアナキストはアナキズムに挫折する。アナーキズムは黒がシンボルだが、それは「氏」をあらわすという。生に終りは有るが、氏に終わりは無い。この人間病に罹らないためには「生」の実践と実感を持ってあらゆる物と共生するしかない(唯物論)。あのニヒリズムを極めたユンガーやハイデガーが気づいたようにニヒリズムを超克するのであればコミュニズムだけだ。科学者にアナーキストが居ない。アナーキーは哲学の域だ。常に妥協しなければならないからあそこまでアナーキストもバラバラであろう、不完全であるからこそアナーキズムかもしれん。共産主義はアナキズムではないが、アナキズムは共産主義、アナキストは実際はコミュニストである(マルクス主義の場合はアナキズムと密接に関係がある、「疑え」がマルクスのモットーだった)。例えばアナーキズムの先駆者と言われるウィリアム・ゴドウィンも、ルドルフ・ロッカーも言うようにBritannicaとかにも書いてあるように無政府共産主義の創設者である。プルードンも晩年に「フリーコミューン」を唱えている。トルストイも無政府共産主義者だ。フランスの無政府主義のシンパと言われる文化人の多くは無政府共産主義のクロポトキンやブランキ、パリコミューンを支持していた。アナルコキャピタリズムは単に資本主義である。リバタリアニズムは無政府コミュニストのJoseph Déjacqueが考案した。今世紀のキーワードである「共有」「分散」「協力」「自律」「環境」を考えると「共産主義」にアナキストが妥協すればいいと思う。もちろんこの蜘蛛の巣も蜘蛛も共産主義的機構(存在)があってこそ可能である。私が思うにソ連やレーニン主義というのも一つ目の妖怪(サイクロプス)だった。それは余りに大きく狭いものだった。複眼こそが共産主義の狭小化を防ぐ方法である。AnarchoがArachnoへと変わる時、蜘蛛の巣は仕上がるのだ。Anarcommunism、Anarkommunism、Anarchommunismへ。
とここまで言っておいて結局私もアナキストである。レーニンが言うように「自由の王国」を実現する思想としてアナキズムは共産主義者の目的である。ジェファーソンの「自由の帝国」のヨーロッパ版と言ってもよい。それにオカルト的にもアナキズムが興味深い。アナキストのシンボル、サイクルAもメーソンからきている。Aと五芒星とピラミッドはそっくりである。サイクルのOもCの完成をあらわしている(オーダー)。プルードンもメーソンであったと聞く。「A」narchyと「L」iberalは神をあらわしている。例えばイスラエルのエル・アル航空。アナーキーもアヌンナキみたいである。このブログのアンドロメダもこれかも。これらはメーソンのルーツであるエジプトに遡る。近年アナキストが唱えてきた地域通貨の起源もエジプトと言われているが、やっぱりかと思う。