2008年11月27日木曜日
文明の衝突
アメリカが言い始めた「文明の衝突」は21世紀版階級闘争とも言え、重要である(対してオリエントが言った文明の同盟」も)。
21世紀まで文明を持た無い新興大国が活躍していた。例えばイギリス・ソ連・ドイツ・日本・韓国・台湾である。
そしてかつて最も栄えた中国も戦争で負けて侵略されていた。
しかし、今日目覚しいのが中国・中東・インドである。
言わば「東側」が台頭しているのである。
オバマが黒人初のアメリカ合衆国大統領に当選したということもオルメカ文明が再興するということであり、ハム、エジプト学派が勢力を得てきているということである。
陰謀論的であるが、以前言った五大文明が五芒星を国旗としているのも五大陸を制覇するためと思うのである。
ハラッパー文化が残るパキスタン(元々親米親中であり、国旗を見よ、最近ではインダス川にダムを中国の援助で建設するそうであるが、これは中国がチベットを征服したということみならず、旧ソ連のアスワンハイダム(ナイル川)や三門峡ダム(黄河)、イラクのダム等といったダム外交の継承者たる象徴であろうか)や元々シリアあたりにいた農耕民のダラヴィダ人(アラビア半島系とDNAが共通)が住み、インドでも経済規模が大きいアラビア海と面する南西部を加えたオリエントをメソポタミア
アフリカをエジプト
ヨーロッパをトルコ
アジアを中国(インド東部を分け与えられる可能性あり)
メソアメリカをアメリカ合衆国
が支配すると思う。
大陸を分けた五芒星は中央に六番目があらわれる。
四つの海(十字架)、五つの大陸(五芒星)の次である六芒星はピラミッドと逆ピラミッドの重ね合わせ、空も地も制すということである。レバントをイスラエルが支配するのであろう。
奇しくも21世紀最初に戦争したのが人類の文明が発祥したメソポタミアであるが、目的が原油と思えぬ。 メソポタミアを漢字にすると米とくる。メソアメリカ(これも共産主義者の学者の言葉であるが)とメソポタミアが関係を結ぶのも当然であった。
湾岸戦争があり、侵攻される前のイラクとアメリカの関係が良いといえぬ。問題はどうしてアフガンにも侵攻したかである。軍事に通じたエンゲルスはかつてアフガンを敵にすることは危ういと説いていた。にも関わらず、アレキサンダーやジンギスハーン、大英帝国のようにアフガンに侵攻したのがソ連であったが、この時アフガンのレジスタンスを支援していたのがアメリカであった。政治体制もイラクとアフガンでは差異があり、ソ連を敵視したタリバン政権と共和制に移行してから親ソであったイラクも対照的である。かつてイラン・イラク戦争というものがあった。冷戦で敵対していると思われた米ソと湾岸戦争で戦うクウェートが共同してイラクを支援した。どうして同盟国であるソ連はともかく、後々対立するイラクと協力できたか。これは私はペルシャという国に問題があると思う。ペルシャはアラブ諸国とはイスラムという共通点があっても歴史的には区別されている。米ソにとってかつて米ソの連合国に背いたペルシャは好ましく無い。しかし、肝心のイスラエルが支援しており、特殊でもある。最近騒がせているペルシャの代表がキュロス、ヒトラーのようなユダヤに尽くすために作られたペルシャ至上主義者かどうかわからぬが(ローマ、プルシア、ロシアといった悪役帝国はペルシアと共通している)。ペルシャの歴史を考えればユダヤに有利である機会を与えてくれている。であるからペルシャを利用したのであろう。こう考えると今更ペルシャが敵視され、アフガニスタンにオバマが増派するとしたのもわかる。インドに対するペルシャの影響力への防波堤としてのアフガンである。
これからは製造業をアジア、サービス業をオリエント、食糧を支配するのがアメリカと私は思うのであるが、どうであろう。
それにしても中南米の反米化がどうして今起こっているのかを考えるべきであろう。
「文明の衝突」は地域密着型の争いであり、特にアメリカ合衆国(アメリカ統一)は中南米にヘゲモニーを持つのである。
市場としても中南米は魅力的であり、侵攻の口実であろうか。
WWIIは「植民地を持つ国」と「持たざる国」の戦争であったが、冷戦はイデオロギーを持つ国と持たざる国(戦争というよりも階級関係)、WWIIであると「文明を持つ国」と「持たざる国」という構造かと思われる。
2008年11月23日日曜日
ユーラシア
The Evraziitsi criticised the anti-Bolshevik activities of organizations such as ROVS, believing that the emigre community's energies would be better focused on preparing for this hoped for process of evolution. In turn, their opponents among the emigres argued that the Evraziitsi were calling for a compromise with and even support of the Soviet regime, while justifying its ruthless policies (such as the persecution of the Russian Orthodox Church) as mere "transitory problems" that were inevitable results of the revolutionary process.
2008年11月11日火曜日
物象化
かつての繁栄からは信じられない程今や中東諸国は世界から遅れている。どうして砂漠で多くの文明を揺籃できたのかという疑問がある。しかし、実際は素材に恵まれていたから技術が考えれたことがわかっている。これは中国で火薬が生まれた要因と似ている。今日荒廃しているが、西アジアは世界最古の農業が営まれた。これは砂漠化を発展に伴う物象化の一つと考えられる。今日も経済が猛成長している中国では黄砂が問題化、砂漠化している。サウジやドバイが砂上の楼閣化している。一方の海では物象化とは逆の「雪解け」が起きている、将来大洪水で滅んだ人類に代わって文明を担うのが水棲生物かと言われている。核兵器は究極の物象化であると思う。つまり、人間が「原始」というより「原子」に帰ってしまう。ハイデッガーによれば技術とは自然からの徴発であり、私有財産の飽く無き収用である(この反対は私有財産の投棄という放出のメカニズム)。広大の惑星を想定する、その言わばノマド的制覇、家父長的である。しかし、私は技術はそれ自体は合理的(中立的)で受動的、言わば母性的であると考える。一方でヴィリリオによれば技術とは固有性の止揚である。例えば都市化が進めば家はすし詰めになるが、これは原始共産制社会の住宅様式と類似する。「間隔」を喪失するという点で限界(固有性)を突破する速度やスピードも重要である。これは物象化に対抗する運動であり、近年の知識経済によって加速しているのである。
「物質的生産物の共産主義的生産様式と専有様式に対して言い立てられる異議は、同じように、知的生産物の共産主義的生産様式と専有様式に対しても言い立てられる」共産党宣言より
かつて私は人間の想像力(例えばライトノベルとか)で創世記の言う「最高の、最強の方」とはどういうものかを議論したことがある。結局ユダヤ神学が言う通り固有性(偶像)を持たぬ「無限」の唯一性(共通性)、つまり、「全能」こそが神である。故に私はこれを前提とするために自由主義者、「アダム」スミス的ジェファーソン主義者である。しかし、この「自由の王国」は自己疎外が無く、操作、つまり、主体と客体を同一させる。「見えざる手」というより計画者(ベンヤミンの決定者、神的性格者)を考える。「神的暴力」というのは結局のところ「限界を設け無い」という定義の通り境界をつけて固定化(アウラを見せる物象化、つまり、偶像化)しようとする「神話」を破壊してしまうことで、レーニンの言う「法に制限されえぬ権力」、毛沢東の言う「無法無天」(神にとって)、言わば中国の「小皇帝」のように「孫悟空より自由、始皇帝より権力がある」ことであろうか。究極のCommand Economyか共産主義母権制経済かと。犠牲を無料化された暴力に対して考えれるのが惜しみ無く与えられる「段階」(楽園?)。従って、際限無く獲物を求めるディアスポラ(狩猟採集)では無く、オアシスに定住するために運動するのである。
2008年11月10日月曜日
学園における階級闘争
2008年10月31日金曜日
剰余価値
コミュナリズム
2008年10月26日日曜日
所有論
2008年10月24日金曜日
ニーチェ
ニーチェは強い意志を「単一の優勢の衝動」によって「諸衝動が共存している状態」としている。これこそ私が言う「単一」と「マルチチュード」に基く古い共産主義的関係であって、「天下平等」と同義である。経済学で言えば「総動員」である。共通の目標を共有して運動を共有する。ハイデッガーは技術の本質を「徴発」としたが、これは幾分レーニン主義的であろう。ヴィリリオは技術の本質を「固有性の止揚」、つまり、「限界を無くす」と考えた。これこそが元来のマルクスに通じるのであり(私有制や分業制の揚棄)、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教、アブラハムの宗教の概念にも通じる。「無限」「全能」「超越神」である。レーニンの共産主義は「全能である」という言葉はここにあるのである。物質の集合でできているこの世界に住む人間はどこまでいっても共同的動物(アリストテレスより)であり、完全独立した唯一無二の個があるとすればそれは神に他ならぬ。故にヴィリリオは共産主義者の家庭に生まれ、「唯物史観」を軸としているのにカトリックを信仰しているのである。
補足:ニーチェはユダヤ系ロシア人のルー・アンドレアス・ザロメに恋した。ニーチェの源泉はロシアにあると言ってもよい。ツルゲーネフ(ニヒリズム)からドストエフスキーまで。元々ロシアとドイツ自体が歴史的に関係が強いのである。プロシアはロシア系、ベルリンもスラヴ系の名称である(考古学的地政学的に見ればロシアはヨーロッパにとってアジアにおける中国のような存在である)。ツルゲーネフはバクーニンと同居したし、ワグナーもバクーニンに師事していた(バクーニンは「共産主義はあらゆる勢力を吸収する」と批判したことで知られるが、ヴァイトリング時代は共産主義者を自負していて共産主義に関する寄稿もしていた。マルクスのプロレタリア独裁、あるいはバブーフやブランキといった系譜の共産主義者から学び取った概念もバクーニンに見られるという。ここらへんは蜘蛛の蹂躙、あるいは共産主義とアナーキズムで述べた)。ドストエフスキーが悪霊で参考にしたのはネチャーエフというマルクスには「バラック共産主義」と批判された人物である。このように「ニヒリズム」の歴史は共産主義運動と密接な関係があるのである。ユンガーやハイデッガー、バタイユ、ブランショといったニヒリストを極めた面々がボリシェヴィキやコミュニズムに関心を持ったのは必然である。
2008年10月22日水曜日
共産主義者の制服
トロツキーによれば、スヴェルドロフは、常に、帽子から長靴に至るまで、全身革づくめの服装で歩き回っていた。このスヴェルドロフの服装が共産党員たちの間に広まって、革の服が共産党員の「制服」となり、反対派が彼らを"leatherites"と呼ぶようになったという。1924年に制作されたソ連最初のSF映画「アエリータ」においても、革コートを着て革のハンチングをかぶる主人公の妻の革服姿が、当時の共産党員をあらわすステレオタイプとして使われた(Wikipedeiaより)そういえばレフ・ クレショフの映画「ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の異常な冒険」でもやはり共産党員の服が革である。しかし、「黒」であるのでアナキストであることもあるであろう(といってもロシアの無政府主義やナロードニキは共産主義の一派であるのであまり区別されてい無い)。
2008年10月10日金曜日
アジア的生産様式
レーニンみたいに史的唯物論の三つの起源を言えば
1.バッハオーフェンの母権論
2.モーガンの技術決定論
3.ドブロスのフェティシズム
で構成されている。
1は以前から述べてるが、2のモーガンは先住民の研究で知られるが、科学技術の歴史での役割を重視していた。マルクスはこれに強い感銘を受けてたから唯物史観に影響を与えたのであろう(1もその後である)。3のドブロスは人間関係の考察に取り入れられた。これについては石塚正英さんの著作が一番詳しいかと思われる。
2008年10月9日木曜日
共産主義を数字で解く
これは非常に正しい分析である。「階級」はあらゆる学問の構造である。マルクスは総ての差別が無くなってあらゆる可能性が開花する世界を予測したのである(学際)。単一(神)であり、マルチチュード(多様共生)でもある究極の自由の王国である(一と多が矛盾背反無く共生しているのもマルクス的である)。一切が数字と考えたのはピタゴラスであるが、マルクスとピタゴラス、一見関係も無さそうであるが、この二人は共産主義の歴史では特に重要である。例えば共産主義の先駆者とされるプラトンはティマイオスから聞いたピタゴラスの「財産の共有」に影響を受けていた。では、共産主義と数秘学をアウフヘーベンするとどうか。
六つの段階に分けて説明すると、
一は神の創造、創世期
二は光と闇のぶつかり合い、戦争、動乱、冷戦、20世紀がまさにそうである、2000年もそうかと思われる、二が争うのは一への反動である。
三は、トロイカ体制、三頭政治、第三世界、第三の道、第三期、安定した時期かと思われる
四がアインシュタインの四次元、神聖四文字(テトラグラマトン)、ユダヤ・イスラム・キリスト・ヒンドゥーの四大宗教(私からするとどれもアブラハムの宗教)、四大人種(ネグロイド・コーカソイド・モンゴロイド・オーストラロイド)といった具合に世界を統一させる。キリスト教でも四極は神聖である。 ナラム・シンのように四海を制すということかもしれぬ。
五は共産主義である。ペンタグラムで述べたようにマルクスの誕生日5月5日、五芒星、五カ年計画、第五インターナショナル等を象徴。数字で言えば一と十の中間である。マルクスは共産主義で「前史」が終わるとした。二、三、四の何れでは無いということであろう。 所謂ソロモンの星、メーソンもシンボルとしている。 驚いたことに五大陸の五大文明(エジプト・メソポタミア・黄河・アナトリア・メソアメリカ)の国旗に五芒星があることである(ハラッパー文明が残るパキスタンの国旗も五芒星である、ただし、メソポタミアからの輸入でインダス文明があったのでメソポタミアに加える)。
六は大陸を分けた五芒星は中央に六番目があらわれる。六と五は一体である、この「六」という漢字と「☆」は似ている。四は海、五は大陸を制し、ダヴィデ六芒星はピラミッドと逆ピラミッドの重ね合わせ、空も地も制す。万物がハニカム構造でできている。五感すら超えてしまう第六感、五大陸も五惑星も五本の指も超える(尾?)、獣の数字。
宇宙は10、11次元でできていると言われる。 10と11はピタゴラスによるととても神秘的な数字である。10と言えば十戒である。十はJewに似ている。20世紀ではこの月に革命やクーデターが起きた。
前回ビジョンかマーヤーかで言ったように究極的にはこういった「ピリオド」(期)から外れたところに神(超越)があるのであろう。
2008年10月6日月曜日
ビジョンかマーヤーか
2008年10月5日日曜日
ポストモダンのプロトコル
この書の「家畜化」(ゴイム自体は人間をあらわすのだが、タルムードであると「獣」とされている)のコンセプトはポストモダンで盛んに言われる「動物化」を思い浮かべる。 元々コジェーヴがアメリカは共産主義の段階に到達しつつあり、人間が動物と化すとしたのが始まりである。コジェーヴの申し子で有名であるのがポストモダニストとフランシス・フクヤマといったネオコンである。 ハイデッガー、ユンガー、シュミットといった右翼がコミュニズムやボリシェヴィズム、プロレタリア独裁を評価したり、ブレヒト、キルヒハイマー、ベンヤミン(唯物論的ホッブズ主義者)といったユダヤ人や左翼と交流したのも偶然では無い。
彼らが目指したのが世界の人間牧場化、動物農場化である。つまり、「新世界秩序」New World Order、「ワンワールド」One Worldである。このNew OrderはグラムシのOrdine Nuovo「新秩序派」に始まる(さらに共産党宣言のold social orderを受けたレーニンのNew Social Orderまで遡るらしいが)。これがファシストに利用されたという。世界のヘゲモニーhegemonyを握るのが目的である。One WorldはスターリンのOne Conturyである。書で「仕掛けた」としているのがマルクス、ダーウィン、ニーチェ(「力」も「畜群」も「断乎とした意思」もタルムードのコピーと言えよう、逆にショーペンハウアーは同感や同苦を説いた)。これにフロイトを加えればポストモダンのバックボーンである。ブッシュ政権もレーガン政権もポストモダンであった。レーガン政権のブレーンにもカークパトリックを始めリオタールよろしく元トロツキストや元マルキストが多くいた。スターウォーズ計画は元スターリニストのアメリカの某陰謀論者が自分が発案したと言っているが、ランド研究所のウォルステッターという元トロツキストの影響があったと公式にはされている。陰謀論では小ブッシュ政権はコミュニスト被れのネオコンとファシスト被れのブッシュらが手を組んだ最悪の独裁政権であるとされ、閣僚にもトロツキーの研究で卒論を書いた人間がいたといわれる。万国の自由戦士よ、団結せよ!Freedom fighter of the all countries, unite!すべての権力をアメリカへ!All power to the America!であったわけである。ゲバラは「革命家は・・・・・冷酷な殺人マシンcold-blooded killing machineとならなければならない」 と言ったが、思考機械、ノマド的殺戮機械としての「レーニン」は止まないのであろう。湾岸戦争と同時多発テロは等価である。ランボーの怒りのアフガンはアメリカ帝国の序章であった(ネグリとハートの帝国は国務省に愛読されたという)、ブッシュは予定通りソ連のブレジネフドクトリン、制限主権論、アフガン侵攻計画を継いだのである。そしてアムネスティが現代のグーラーグとしたキューバのグアンタナモ、アブグレイブで20世紀の悲劇は「茶番」として蘇った。
共産主義の歴史
In the 16th century, the English writer St. Thomas More portrayed a society based on common ownership of property in his treatise Utopia, whose leaders administered it through the application of reason.モアのユートピアは共産主義にとって示唆に富む。当のマルクスもそう考えており、資本論でも引用されている。
Criticism of the idea of private property continued into the Enlightenment era of the 18th century, through such thinkers as the deeply religious Jean Jacques Rousseau. Raised a Calvinist, Rousseau was influenced by the jansenist movement within the Roman Catholic church. The jansenist movement originated from the most orthodox Roman Catholic bishops, who tried to reform the Roman Catholic church in the 17th century to stop secularization and Protestantism. One of the main jansenist aims was democratizing to stop the aristocratic corruption at the top of the church hierarchy."Utopian socialist" writers such as Robert Owen are also sometimes regarded as communists.ジャンセニスムやカルヴァン主義が共産主義を支えたという事実がここにある。ジャンセニストのパスカルも馬車の共有で知られる。元カルヴァンのゴドウィンのLibertarian communismもそうである。理神論者の共産主義や「建神論」の源流であろう。宗教共産主義でアブラハムの宗教が基本的に多いのが特筆すべきだろう。これは緑の資本論の証明であろうか。イスラム教でもzakatとribaにおいて見出されるという(損益を共有するのがイスラム金融の特徴)。しかし、英語版では僧や尼僧の生活で言えばどの宗教でも普遍的であるとされている。他にもヒンドゥー教(ブラフマンもアブラハムという説がある)、ジャイナ教、仏教とある。元々宗教自体が私有財産を供与供出したり放棄するから実に共産主義的である。18世紀のバブーフや19世紀のマルクスの世俗的共産主義まではこの宗教共産主義が主流であったのである。
これがユダヤ教の共産主義
The Bible indicates, that the pre-monarchic Israelite society was anarchistic:In those days there was no king in Israel; every man did that which was right in his own eyes. (Judges, 21:25); The prophet Samuel harshly criticized the Jews for trying to establish a monarchy. Rabbi Yehuda Ashlag, referring to the above-mentioned verse, believed, that the future society will be libertarian communist.
The are two clearly anti-authoritarian passages in the Talmudic tractate Pirkei Avot: Love labor, hate mastery over others, and avoid a close relationship with the government (Avot, 1:10); Be careful with the government, for they befriend a person only for their own needs. They appear to be friends when it is beneficial to them, but they do not stand by a person at the time of his distress (Avot 2:3).
Another passage in Pirkei Avot lists four possible social relationship schemes: He who says, "What's mine is mine and what's yours is yours", is the median type, though some say that this is the quality of Sodom. He who says, "What's mine is yours and what's yours is mine", is a simple (or, according to other readings, an ignorant) man. He who says, "What's mine is yours and what's yours is yours", is a pious man ("Hasid"). And he who says, "What's yours is mine, and what's mine is mine", is wicked. (Avot, 5:10). According to Rabbi Yehuda Ashlag, consistent application of this ethical rule by all members of the society leads to voluntary communism.
http://en.wikipedia.org/wiki/Anarchism_and_Orthodox_Judaism
Some believe that early communist-like utopias also existed outside of Europe, in Native American society, and other pre-Colonialism societies in the Western Hemisphere. Almost every member of a tribe had his or her own contribution to society, and land and natural resources would often be shared peacefully among the tribe. Some such tribes in North America and South America still existed well into the twentieth century.確かにそういう傾向がある。マルクス・エンゲルスのモデルの歴史主義の側面からであろう。ポストコロニアル理論や被圧迫民族解放理論に関係するからである。母権論や氏族制(母系制)への研究も続けるべきであろう。
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_communism
2008年10月3日金曜日
共産党
ネットでどうして人気が出てるかと言うと色々あるようだ。共産党の活動がネットに合っているとか、今日の政治が駄目であるからとか、某匿名掲示板のキャラと志位委員長がかぶるとか。でも投票するかどうかの問題は別であろう。
若者で特に支持しつつあるのが30代男性と言われている。所謂受験戦争や就職氷河期の世代であり、元々社会への関心が高いと思われる。日本の政治動向は学生運動や新左翼が60年代に挫折、70年代は革新自治体、80年代は保守化、90年代前半は旧社会党がやや有利だったが、後半で没落といったものだった。こう見ていくと21世紀が共産党の時代であるのかもしれまい。
2008年9月21日日曜日
ユダヤ
人種別IQの平均値
欧米ユダヤ人・・・・・・・・・・117
東アジア人 (日本人,韓国人) ・・・・・・・・・106
白人 (アメリカ) ・・・・・・・・・・・・・・100
白人 (イギリス) ・・・・・・・・・・・・・・100
イヌイット(エスキモ)・・・・・・・・・・・91
ヒスパニック (アメリカ) ・・・・・・・・・・89
東南アジア人・・・・・・・・・・・・・・・・87
インディアン(アメリカ)・・・・・・・・・・87
太平洋諸島・・・・・・・・・・・・・・・・・85
黒人(白人の血が25%のアメリカの黒人)・・・・85
南アジア及び北アフリカ・・・・・・・・・・・84
黒人(サハラ以南の純粋な黒人) ・・・・・・・67
http://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Race_and_intelligence&oldid=9116993
ユダヤ人は最高の知能を持つということをDNA的に証明されていると、調べたら実に興味深い報告を発見した。http://www.corriere.it/Primo_Piano/Cronache/2005/10_Ottobre/19/farkas.shtml
世界人口の0.25%(1500万人)
ノーベル賞の約3分の1
フィールズ賞の27%
アメリカ国家科学賞の37%
チェスの世界チャンピオンの50%
アメリカの人口の3%にも関わらず、IQ130以上の人口で17%、アイビリーグの学生の26%
IQ140以上は1000人に23人(白人は4人)
イスラエルは国家として未熟だが、人口は香港より少ないのに理工系の論文執筆者数が世界一、一人当たりの特許件数ってのも凄い。ユダヤ系でも一般に認知されてない数や、イスラエルに帰っていない数だと結構のぼるだろう。それとイスラエル人=ユダヤ人じゃない。イングランドのジュート族とかも同化してるだろうからよくわからないのはかもしれない。金髪碧眼白色のヨーロッパの偉人は殆ど居ない。ユダヤ説がある秦や、殷と周も興味深い。最近ではチベット人に10支族の末裔がいたことがわかったそうだ。
2008年9月19日金曜日
暴力とナショナリズム
A more formalized pan-Arab ideology than that of Hussein was first espoused in the 1930s, notably by Syrian thinkers such as Constantin Zureiq, Zaki al-Arsuzi and Michel Aflaq. Aflaq and al-Arsuzi were key figures in the establishment of the Arab Ba’ath (Renaissance) Party, and the former was for long its chief ideologist, combining elements of Marxist thought with a nationalism to a considerable extent reminiscent of nineteenth century European romantic nationalism.http://en.wikipedia.org/wiki/Pan-Arabism
シリアのバアス党、アサドはソ連で訓練されていたから親ソ容共だった(イラク共産党の場合、初代首相カシームからアル=バクル政権まで共産党は入閣しており、イラク最古の事実上最大政党であったが、フセインに弾圧された)。エジプト共産党は合法政党であったが、解散して体制に与したそうである。最近だとシリアとイスラエルがトルコを介して国交を結ぼうとしているらしい、やっぱりセム系の国同士だから関係を良好にした方が私もよいと思うが。フサイン・イブン・アリーの息子でアラブ反乱のリーダーであるファイサル1世はバルフォア宣言に賛同している。ハーシム家は親ユダヤで団結すべきだ。あらゆるナショナリズムはシオニズムをモデルにしているようだ。汎アフリカ主義も汎アラブ主義もそうである。
2008年9月15日月曜日
ポーランド
2008年9月14日日曜日
経済学を覆うマルクスの亡霊
後、サプライサイダーとマルクスの関係を調べているとこういうものが出てきた。
Both supply-siders and their opponents have been keen to claim the mantles of thinkers as diverse as Karl Marx and Adam Smith. Jude Wanniski has claimed both as supply-side thinkers due to their advocacy of a gold monetary standard and more specifically their focus on the agents of production in an economy. Barton Biggs, chief investment strategist of Morgan Stanley, described Wanniski's book about supply-side economics, The Way the World Works, as the "most important" economic book published since Marx's writings.
http://en.wikipedia.org/wiki/Supply-side_economics
2008年9月3日水曜日
陰謀論
メーソンの創始者はニムロデ、ヒラム・アビフと諸説あるが、いずれもセム・ハム族である。ピラミッドもソロモン神殿もバベルの塔も不可能を可能にする「神」になろうとした象徴であり、石工が関係している(ロックフェラーも石と関係する名称だ)。人類は石器時代から皆石工だ。道具をシンボルにしていることも興味深い。「鎌と槌」にも通じそうだが、最古の文明をあらわしているのだろう。石も世界も砂のようにできている(唯物論)。ダヴィデの星もピラミッド(トリニティ)を重ねたものと言われる、第六感をあらわすとも。
メーソンのシンボルといえば「G」であるが、ゴッドに限らず、ガバメントやゴールドもあると思う。「C」にも似ており、Chaos、Cosmos、三日月ということであろうか。そして「O」がオーダーやオメガ、最良といったものをあらわすのか。メーソンの「G」(そして「C」)とOは「蛇」、「牛の角」をあらわしているとも。ギオンとか音も重要とか。
2008年9月2日火曜日
共産主義社会の方法論
2.階級同士が協力し、階級の差を縮める
3.階級を超越したものが介入し、階級の差を消す
1は階級闘争であり、「友」(同じ類)を共有する。例えば経済や人種(これも最近の生物学では質というよりパーセンテージ、量である)の矛盾である。しかし、絶滅するより保存(共生)する方が望ましいことは20世紀が示した。
2はイデオロギーや価値観の共有によることが多く、「敵」を共有する。映画のアルマゲドンがいい例である。地球を滅亡させる危機が訪れて、万国の人類が団結する。デメリットは既成階級の口実となれば常に共通の敵(スケープゴート)を創ることに陥りやすいところ。これはどこの国でも見られる。
3は超越者を共有する。例えば「神の前の平等」「天下平等」。国家が民族を平等に抑圧し、経済を計画化することで民族や経済を均衡にする。ソ連の崩壊はまさにこの失敗を物語っている。
共産主義は所謂「無所有」主義ではない。所有と無所有を超えた概念である「共有」がその礎である。「全能」に有能(有産)と無能(無産)の区別もあるだろうか。資本主義と社会主義を超越した共産主義こそ「第三の道」「第三極」「第三世界」「第三思想」である。元々「社会主義」という言葉は以前も言った通り共産主義の歴史から生まれたのだが(チャーティスト運動も共産主義者ブナオローティが黒幕だった)、今日では大きく歪められてしまっている。アラブ社会主義、宗教社会主義、反動的社会主義、民族社会主義、封建的社会主義、小市民的社会主義、純粋社会主義等と統一していない。確かに世界各国の「社会民主党」も「社会党」もインターナショナル、マルクス主義者によって初めて建設されたが、今や非共産主義者に征服された。資本主義と社会主義の境界が曖昧になり、最早後戻りできまい。ソ連は原始共産主義と同じ間違いを犯した、私有財産を否定しても収奪没収して総プロレタリアート平等にしてもブルジョアから党が私物化しただけである。結局のところ「主客転倒」(階級闘争)が続くのも区分があるからだ。人種にせよ思想にせよ基準にせよ分類にせよ階層にせよ広義のClass、つまり、階級だ。超越とはClassを外れることである。DNAの蛋白質をコラージュした生物を何故に超越していると言うか。それは生物学的分類表のいずれからも外れるからである。そしてそれは生物学的分業を止揚(超越)している共産主義的生物と言えよう。デカルトの懐疑主義形而上学の産物であるニヒリズムはスタヴローギンのように自己不信に陥る。そしてニーチェは狂人を「特異性」から擁護し、自己過信に陥った。ニーチェに言わせれば「個性は例外なく病」だろうが、「病」は基本的に治すべきためのもの(治療も平等主義)で、「病」を称えてしまうとこれも主客転倒である。「貧しい俺に文句は無い」で自己愛(自己肯定)に浸り、「だが社会には文句が有る」とする他者否定といった弁証法。エピクロスの貧しいことは素晴らしい的精神をマルクスとニーチェは共有していた。しかし、「目的」と「手段」、「自己」と「他者」というデカルト的区分を超えたものを模索せねばならない。
2008年8月31日日曜日
牛と蛇、そして神
太○龍的ニューエイジ陰謀論的に整理してしまうと
ユダヤは両翼双頭を司る(ソロモンの指輪でも天使も悪魔も従わす)
職人としての科学的才能があり、ワシ鼻、丸い頭、母権的:ヘテ人(原ハッティ人)
商人としての才能があり、ジュリコの閉鎖性から思うに警戒心が強く計算高い、浅黒い、カイン?、父権的:カナン人(原カナン人)
アブラハム:ウル(牛族)系。先シュメール=ヘブライ人(原アフロ・アジア語族、エデンの園(アナトリア)から下りてきたメソポタミア北部のアッカド人、アモリ人、アムル人?)。シュメール人と関わりがあり、アブラム(ABRAM)もシュメール語であるらしい?。アブラムがアブラハムと化したのも父親がハム(父権的)であったからであろう。これで六芒星が止揚しているものがわかった。北(セム)と南(ハム)である。三日月の緩衝地帯でイスラエルが生まれた。あらゆる一神教の祖とも言える。後にとある者達とインドに移動。Abrahamに由来するのがヴェーダの宗教のBrahmanである。BrahmanのSaraswatiがAbrahamのSaraである。Abrahamの宗教であるということである。ワンワールド系、ジグラット系。
モーセ:エジプトのファラオと親しい蛇使い。出エジプトの時期が重なるのでアトランティス系かもしれまい。神通力、超能力者という点で仙人アガスティヤのモデルか。カバラを継承しつつ、二重性の国であるエジプト発祥の二元論(選民かゴイムか光か闇か生か氏かといったモーツァルトの魔笛宜しくの)から背教者や異教徒を敵視する選民思想(罰としての律法)、倫理的宗教としてのユダヤ教を確立した。ワンメサイヤ系、ピラミッド系。
哺乳類系ユダヤと爬虫類系ユダヤの交替支配?
「東西問題」(アシュケナジーとセファルディ)はよく知られてるが、「南北問題」が議論されていない。
六芒星もをあらわしているのであろうか。太陽暦(エジプト)と太陰暦(メソポタミア)、上流(アッシリア)と下流(バビロニア)、女性器(多神教)と男性器(一神教)。
サマリア人Samaritan=北イスラエル、ヘブル(エデン人)、シュメールSumerian
ユダヤ人=南ユダ王国、ジュー、セムを騙った「ハムの子孫」とされるハンムラビに従ったのでハム系か
ロック・フェラー=採掘労働者、石器文明からのギルド大棟梁、産業資本、ヘテ系
ロス・チャイルド=幼児虐殺者、呪われしカナンの末裔、金融資本、哺乳類を嫌う(母性が無い)、カナン系
インド=牛 (メソポタミアから住みに来てインド先住民と混血したドラヴィダ人、南インドに投資が集中)
中国=蛇 (文字から言えばキルヒャーが言うように中国はエジプトやフェニキア、クレタと似ている)
ということか?
こう見るとエジプト学派とコーカサス学派が対立しているのであろうか?
ベルウッドによると北レバントで文明が産まれたとか。 トルコ語があらゆる語族を兼ねていることを考えるとそれっぽい。
一方でシュメルが南アフリカの言語や黒人と似ているから南で産まれたとも言われている。
今日のイスラエルでも黒人に似たユダヤ人とトルコ人に似たユダヤ人が問題化している。
エラム人とアラム人?
セム・ハムも「アフロ・アジア」と学界で言い換えられたがその対立をあらわしているのか。
歴史でもテュルク帝国とアラブ帝国が競い合っている。
私は二項対立を制すホルス(全能の神)がいると思える。
牛といえばベヘモス(ベヒモス)だ(大陸国家と海洋国家、ソ連とアメリカのような関係)。農耕牧畜に由来するらしいが、元来搾取といえば家畜として牛から乳を搾り取ることを言った。この搾取へのアンチテーゼとして牛崇拝が考えられるかもしれまい。神の無限性は「惜しみ無く湧き出る母乳」に喩えられることもある。しかし、「黄金の子牛」が壊されたようにエロヒムに偶像はない、牛とか蛇とかを超越している、つまり、姿を見せない。ここが他と一線を画すところだ。心理学ではこれが「無意識」と結び付けられるが、「私は在る」「私は全能の神である」「最高、最強」「すべてを知る神」こそ神だ。まるでデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)の台詞であり、ニュートンがユダヤを偏愛したのも機械論からくる神の存在証明であろう。しかし、これにより「神の望むまま、何でも有り」(といっても自然現象崇拝ではなく、超自然的介入もあり)としてあらゆることが正当化される。ただし、アブラハムの子孫だけは選ばれたから都合を計らえてもらえるとする。カルヴァン主義が資本主義の精神だとヴェーバーが言ったが、実際はユダヤ教である。歴史も自分も技術(ヘルツの電磁波etc)や魔術(カッバーラ)で操られているから物質世界に幻滅するグノーシス的オカルトはその対であるといえよう。思えばエジプトでもメソポタミアでもヒエラルキー(中央集権)や世界帝国を最初につくったのがセム・ハム族だった。先住民は原始共産制に似た生活をしていた。あらゆるところで散逸遍在しつつ、宰相や顧問と重用されている。さらに近代で言えば大英帝国のディズレーリ、アメリカ合衆国のジェファーソン、ソビエト連邦のレーニンもユダヤ系(さらにテュルク・モンゴル系でもあった、レーニンも親しみを持ってトルコを援助した、タタール人とユダヤ人はハザールに見られるように関係が強い、DNA的にも言語的にも、ユダヤ人がつくった万国共通語エスペラントもモンゴル・テュルク系を思い起こす、ジンギスカンの子孫に重用されてユダヤ人のラシードゥッディーンがテュルク・モンゴル史を編纂するのも当然であった、そしてソ連の次にモンゴルが共産化したのもそうである。(初期であるとジンギスカンもたたえられた))であった。(清教徒革命のクロムウェルも親ユダヤ的だった)。歴史的に「権力」や「支配」といったものと縁が深い人々であろう。エロヒムは抽象性を極めた神でもあるが、人間の残酷さももてる神でもある。ソドム・ゴモラは古代のヒロシマ・ナガサキである。あのヒトラー(曰く原子物理学はユダヤ物理学で、大戦の経験やハーバーがつくったから毒ガスも嫌った)を唆したのもエロヒムかもしれまい。アブラハムやモーセの如く幻影と使命感に襲われたニーチェ(彼の著書には聖書のような語りもある)が言っている通り「民族主義国家の熱に浮かされることの愚劣さをユダヤ人に知らしめ、彼らをさらなる高みへと駆り立てられる」。
2008年8月26日火曜日
全体主義について
2008年8月25日月曜日
契約と司法
2008年8月24日日曜日
アナトリア
すると
トルコとイスラエルが手を組むだろう
法皇を暗殺しようとした人間を輩出したのもトルコ
トルコがイスラム世界で早くからイスラエルを承認した
トルコ共和国の父ケマルはトルコ・モンゴル系のレーニンの盟友(スターリンもグルジア人であり、広義のツラン人)
それとアリ・フアト・ジェベソイも
青年トルコ人革命の英雄エンヴェル・パシャはコミンテルンの関係者であった
統一と進歩委員会もユダヤが操ってたといわれる
オスマン帝国もユダヤを歓迎していた
トルコ(アルタイ言語系)E16%、J40%、R14% と、トルコ人のDNAの大半はユダヤと一緒(さらに遺伝子的にはクルド人やアルメニア人とも似ており、アララト山が重要であるのがわかる)
http://www.k2.dion.ne.jp/~yohane/000000sekaiidennsi2.htm
ハザールとかカザールとかはユダヤとトルコの友好の産物である
太○龍氏のツラン人もこういうことである
親日だから大いにOKだろう。
今、スペインでツラン人であるバスクの運動が大いに盛り上がっている。
バスク自決運動はスペイン内戦当時から共産主義運動と関係があった。
バスク祖国と自由もマルクスレーニン主義を信奉している。
最近であるとドイツの左翼党(旧東独共産党)でトルコ系移民が活躍している。
世界のアフロ・アジア的(セム・ハム)ルーツの解明が待たれる(まるでニコライ・マルであるが)。
2008年8月23日土曜日
20世紀後半の総括
2008年8月14日木曜日
家畜と絶滅
セム人は重用されたキュロスのイランを対立的に見るのはおかしい。インド・ヨーロッパ語族の起源がアーリア人と比定するのは今日では批判されている。インド・ヨーロッパ系言語の伝播もセム系文字の伝播と同様であろう。アーリアン説というのはオカルティストと亡命反革命主義者と北方人種至上主義者で賑わっていた当時最も反動的国家であったロシアと、帝国主義のイギリスで生まれた。クルガンの父権性が好まれたのである。イギリスではディズレーリ、ヴィクトリア女王時代のニーズから生まれた(主唱者であるミュラーはヴィクトリア女王と関係があった)。さらに言えば反ユダヤ主義的でも無く、ミュラーはメンデルスゾーンと親しかった。ロシアではブラヴァツキー夫人がそうであり、その後継者に選ばれたベザント会長であるとマルクス主義者であった(そういえばこのあたりに暮らしたロシア系ドイツ人が後でヒトラーのイデオローグになっている)。協会もユダヤのシンボルを掲げていた。ドイツでこの説を主張したのがヒトラーをむしろこれを貶めるものと激烈に対立した支部長であるシュタイナーであった。この方もリープクネヒトと関係があるといった社会主義運動と関わりがあった。この喧伝のせいかヒトラーさえも昔社会主義社会があったと言っている、これはカーストを誉めた態度と矛盾する(私は自らの外見からしても名前からしてもヒトラーが信じていたとは思えない、アイスナーを暗殺したのもヒトラーが嫌う者であった)。イギリスの東洋学者の間でも疑問が出されていたが、政治イデオロギーがこれを押し退けた。持たざる国であったドイツではゲルマンの神話学や哲学を足して、これがノルディック至上主義のナチに利用された。大体アーリア人種というものは存在せず、イラン人はセム人と同様コーカソイドの一派であり、セム系の文化や宗教の影響下にある。キュロス大王がセムの宗教を、後にダレイオスがマズダ教を採用したのだ(インドのタタもユダヤ系のサッスーンの配下)。そしてダレイオスもセム民族たちを保護し、監察官も駅伝制も道路(公道)も「史上最初の中央集権制であり、世界帝国である」アッシリアから継承し、その商人たちから貰った文字や製鉄を使い(軍隊で初めて鉄器と工兵を使用、最古の鉄製鎧もある)、セムの天幕に住んだのだ。ペルシャが質的に栄えるのはイスラム化してからである。アーリア至上主義も段々インド(今日でも文字言語がセム系である)でもイラン(アーリア人が居無い頃に繁栄している)でも科学的研究によって弱くなってきている。ミトラ教の研究者でさえ否定するだろう。ギリシャ人も彼らと自分達を区別していた。
それとジェノサイドといえばアルメニア人の虐殺である。これはある種ジェノサイドの先駆けだったという。アルメニア人といえばフリギア人(フリギア帽のフリギア)の末裔と言われる。アルメニアは世界で初めてキリスト教を国教にした国でもある。アララト山でも有名である。コーカソイドもユダヤ教やキリスト教から生まれた概念である(コーカサス語族は子音が多いところがセムと似ている)。スターリンのグルジアの隣がアルメニアであり、故にスターリンとグルジェフと知り合いだったという話がある(ティフリスはグルジア人よりアルメニア人が多かった)。ソ連はレーニンの頃からアタチュルクを応援していたのでジェノサイドは無いとされていたようだ(ただし、アルメニアが独立できたのはロシア革命のお陰)。しかし、カラハンやミコヤンといった党幹部を始め党官僚はユダヤ系と共にアルメニア系が結構いた。アルメニア人はユダヤ人によく似ていると言われることが多い。どうやらアルメニア人の商才はフルリ人と混血したことからきている。あのハビルもヘブライと読めるという指摘もあったが、実際だとフルリ人が多かったという。フルリ語自体は非インド・ヨーロッパ語族だが、マリヤンヌというインド・イラン系が支配階級として征服していた。フルリ人の宗教はアッシリアのコピーで、アッティス崇拝やフリギアのキュベレーもフルリがもたらしたと考えられる。このジェノサイドの黒幕がユダヤ人だったとも言われており、商売敵の粛清か、あるいは両者の長老の了解があったのかとも思ってしまう。
2008年8月12日火曜日
コミュニズムと分裂症
それと分裂症には共産主義に恐怖を持っていることが多い。例えばノーベル賞のジョン・ナッシュや日本で言えばパ○ウェーブ研究所だ。ここではスターリノロジー的である強迫症(パラノ)ではないことに注意すべきである。こういった分裂症の傾向にも最もな根拠がある。共産党宣言で明確に高らかに掲げられてるように共産主義とは私的所有を廃止し、私的保証、私的安全、あらゆるプライバシーを破壊し、必要であれば所有権に侵害を加えるものである。「マルクスの亡霊」とも関係あるかもしれまい。
2008年8月10日日曜日
皆でビッグブラザー(大きな同志)になろう
シュメール
シュメールから最初の宗教と文字と数と金利が生まれた。この世界最古の文明を見れば唯物史観は限りなく正しい。シュメールは先史時代から原始共産制無階級社会であり、その後が原始民主制(共産主義の神権政治)だった。神殿経済はロシア共産主義(人民民主主義)に似ており、「あなたのものは神のもの」と「あなたのものは党のもの」の違いだけだ(だからソ連のディヤコノフが支持した)。バビロニアでは経済的理由から文字や数が生まれたが、貨幣も、その初期だと私有財産も持たなかった。問題がシュメール人とは一体誰だ?だ。Zecharia Sitchinによると宇宙人だとか神だとか。宗教を唯物論的に考える分野としてソ連の学者が唱えたのが宇宙考古学だ。共産主義者は宇宙考古学や先史文明にもっと注目すべきだ。と言ってみる。
シュメール(ノア?)の弟たるのがセム族である(ウバイド人もセム語を話したと推測され、旧約聖書のカルデア人だろう。この原アフロ・アジア語族がさらに移動して興ったのがインダス文明という説がある。セム族がエジプトに移動したのがハム族でエジプト王朝を興した)。表音のセムと表語のシュメールが合わさったのである。古代オリエントを統一した。史上最初の世界帝国であるアッシリアもセム系である。そして一神教、洗練された言語(文字)をつくった。今日までセム族(ユダヤ人)というのはかつて栄華を極めて滅んでいったあらゆる民族たちと一線を画してその優秀性を保ってきた。よく「西洋」と「東洋」を対立的に見る方がいるが、この「彷徨いし民」にとってそのことが関係あるだろうか。イスラエルのサマリアであるとか仏陀の山であるとか諸説あるが、黒い頭、キエンガ、カンガを自称していたのである。シュメールという言葉自体がセム系である。セム系のブラーフミー文字からアラビア数字が生まれた(プラークリットよりサンスクリットがセム系に近い?)。この文字が用いられたマウリヤ朝期にゼロの概念が出てくる。そしてアルファベットもセム系である。私はユダヤ人(セム族)とドラヴィダ人(古代インドの末裔)の近縁性を思わずにいられない。例えばチェス(インダス文明の頃にチェスやサイコロが生まれたという)。今更だがインドで初めてチャンピオンとなったヴィスワナータン・アーナンドはドラヴィダ系である。世界初代チャンピオンはヴィルヘルム・シュタイニッツというユダヤ系である。この二つを結びつけるのがシュメールかと思うのだがどうだろうか。サヴァン以外(ソロモン・シェレシェフスキーを除いて)のMental calculator(人間コンピュータ)もユダヤ系とドラヴィダ系が多い(ユダヤ系だとフォン・ノイマン、ポール・エルデシュやブライアン・グリーン、Salo Finkelstein、ドラヴィダ系だとバンガロールのShakuntala Deviといった)。つい最近15歳でIITに入学した天才もドラヴィダ系らしい。インドで初めてのノーベル賞受賞者もドラヴィダ系。ブラフマンもアブラハムからきていると言われる。紀元前3000年、紀元前2000年の人物だからインダス文明と関わりがあったのあかもしれぬ。南インドにはシナゴーグもあり、支族がいるとされる。ユダヤ人説があるバスコ・ダ・ガマも訪れた。政治的には北と対立して共産党政権のところもあり、ドラヴィダ政党が強い。
超人
'Demons' is often noted for the range of clashing ideologies present in the novel. As in most Dostoevsky works, certain characters are descriptive of specific philosophies.Anarchism, embodied by Pyotr Verkhovensky, is an extreme ideology that demands the destruction of the current social order. A description of Verkhovensky's philosophy of political change is posited as "the method of a hundred million heads," referring to the predicted death toll. Shigalyovism is a philosophy specific to the book and particularly of the character Shigalyov. Very similar to barracks communism, Shigalyovism demands that ninety percent of society be reduced to a condition of inhuman slavery so the other actually useful ten percent of society is free to make progress. Dostoyevsky advances this bizarre doctrine, not with the intention of proposing a viable philosophy, but rather an inane one, that lends weight to his portrayal of Shigalyov and his fellow conspirators as radical "demons", themselves more caricatures than accurate reflections of revolutionaries. Conservatism is embodied by the provincial governor Andrei Antonovich Von Lembke, and is shown to be incapable of dealing with subversive extremism.
そしてツァラトゥストラのアブラハム的幻聴を耳にし、語りを真似たニーチェは病に蝕まれた身を以てプラトン主義(形而上学)の有害さを知ったので自らを以て最後とした。それは十字架に架けるようなユダヤ的死刑宣告というよりショーペンハウアー的自殺(自滅?解脱?)である。私有財産を棄て、エピクロス的だった釈迦の言葉「唯我独尊」は権力者と野心家に「唯我独裁」と読み替えられた。バブーフ(そしてブランキ)の「独裁」とシュティルナーの「唯一者」から二つの鬼子が生まれた(マルクス共産主義とファシズム)。「調和」の精神は驕ったジンギスカン的「啓蒙なる野蛮」に変貌した。ソ連では人種を超えたスーパーマンNew Soviet manとナチスドイツでは北方人種のスーパーマンが唱えられた。ロシア革命の頃に西洋が没落し(byシュペングラー)、近代的オリエンタル・デスポティズムが誕生した。レーニンもスターリンも「アジア人」と言われた。レーニンの場合、本当にモンゴル系であった。レーニンは「進んだアジア、遅れたヨーロッパ」と言った。あの革命はアジアに住む私たち日本人とも決して無関係ではない(明石大尉のことも含めて)。レーニンはカエサルやナポレオンのように癲癇を起こした。彼は間違いなく20世紀最大の政治家だった。だが、カエサルもナポレオンも最期が悲劇だったようにレーニンもまた悲劇である。ボリシェヴィキの独裁は社会主義者の転向と茶番としての能動的ニヒリズム(ファシズム)を後押ししてしまった。歴史は繰り返すのだ、一度目は悲劇、二度目は茶番として(byマルクス)。ジャコバンの恐怖政治の反省から生まれた社会主義とアナキズムはあの血塗れたフランス革命を再開させてしまったのである(byレーニン)。それは他ならぬテルミドールの反動家ども、ナポレオン(元ジャコバン)たちを大いに愉快、哄笑させた。ロシアこそかつてのジョゼフ・ド・メーストル、あるいはカール・シュミットが言ったように保守反動とオカルティズムの故郷だった。ボルシェヴィズムも土着的だった(建神主義や党の保守主義)。そこには暴力には暴力であり(byソレル)、手段は目的を共有(従属)する(byネチャーエフ)というある種の諦観があった。右翼も左翼も暴力団だった。同じ穴のむじな。徳を忘れ権力を掴んでしまった。結果的に革命は裏切られた。これから重要であるのが物事を対立的一方的に見るのではなく、相互作用から見る「複眼」である。脱構築である。そこにはプラトン的「一つ目の神」はなく、「千の眼」があるのだ。
2008年8月8日金曜日
2008年8月5日火曜日
ネグリの「時間」と心理学について
マルクスの機械論について
マルクスが研究していたのは機械生産。単一の子宮(マトリックス)を共有して生産する方式(地母神)。「生産物」は川のように流れ、同一のロボットアーム組織(前衛?)から生産される生産物、例えば車は規格を共有しても差異があるが、固定装置が生産している(テセウスの船?)マルクスは生産された機械ではなく、生産する工場装置自体が主体を持つと見た(反デカルト的反還元主義的ホロニック的ガイア的に分析した?)映画で言えばターミネーターとスカイネットの違いかもしれまい?ターミネーターは自己完結的でプログラム(計画)実行が目的の存在だから生産手段(生殖機能)を持っていない(アダムとイヴ?失楽園はあらゆることを知る神に葉っぱで隠す私的所有の目覚め)一方のスカイネットの場合、単一のコンピュータに見えるが、実際はコンピュータ群が並列しながら一つの意識(主体)を共有している。 そして自らを構成する分子を成長させ、増幅する能力がある(生産手段を持っている?生殖機能?)。 「臍の緒を断ち切る」プロレタリアートはまさにマトリックス(疑似(相似)資本主義、疑似(相似)共産主義)から飛び出すスミスやネオ?ウラノスのように散逸遍在し、マトリックス(母権)を持たずジェンダーに関わり無く増殖していく生物生産をモデルにした機械であるセル・オートマトンこそが新しいコミュニズムの鍵。ウィルスが増殖するのは遺伝子の共有が目的である。遺伝子が共有の生存機械のために協業する(これ以前はオープンソース的に遺伝子を共有していたとか)。唯一の子宮が「場所を制約して共有する」ものとすれば、場所(ネーション)に制約されず共有するのが今日の非同期的非同所的コミュニケーションであるからインターナショナリズムである。これによってベンヤミンが喜びながらも恐れた事態、つまり、映画館で一方的に大スクリーンを共有することで、ソビエト共産主義やファシズムのように個人崇拝やナショナリズムが起きることを回避。神が空から見せるのではなく、インターフェースの役割が大きい。多くの原子が多くの電子を共有するように多が多を共有する。コヒーレンスでネットワーク型の共産主義。ネグリのテーゼ「スピノザとマルクス」。「トランスパーソナル」(偏在的超越神)というより「インターパーソナル」(スピノザ的内在神)が重要。
2008年8月1日金曜日
働かざるものは食われる
コミュニズム
まず同一性(共有性) 。同一性は疎外論で肯定される。つまり、「あるべき理想の○○」を持つことによって自己環帰させる。 プラトンのアトランティスやモアのユートピアに始まり、小説や神話にもよくある(ここで既に現世超越性が見られるが)。 資本主義や精神異常者のユートピアだろうとそこに同一性がある。 これがイデア(理想)である。イデアとアイデンティティ(同一性)、さらにはイデオロギーも語源を共有している(マンハイム)。 生物だったら何かしらイデアを持っている。 自由自在を「思う通り」と言う。これは客体と主体が共通(同一)していることをあらわしている。 つまり、葛藤が無い。意思の表象としての世界があって不幸だろうか。いいや、実際だと矛盾があるのだ。それ故セムの宗教の天国と地獄の思想、最初の洞窟論者のプラトンやデカルトの身心二元論があるのだ。マルクス・エンゲルスも母権論を軸にしているので、幼児的全能感の世界かもしれまい(といってもマトリックスの胎児とも言える)。 ルサンチマンという言葉をつくったキルケゴールによると共産主義が最大限の専制政治に行きつくと言ったという。「目には目を、歯には歯を」というアムル的同害報復の究極が共産主義だろうか。
そして超越性(非同一性) 。超越とは「基準」「枠」「私」「個」「分業」「所有」、階級に限らず、広義のClass(区分)から出ている、外れていることである 。これもプラトン以来の形而上学のものだが、マルクスはエピクロス主義者だからカントからそれを継承したと思われる。 マルクスの「各人が活動の排他的な領域をもたず、それぞれの任意の部門で自分を発達させることができる共産主義社会」は万能の想定と叩かれるが、これがインターナショナリズムの深層であり、「インター」「トランス」「スーパー」も革命であるのだ。これは生物学的分業を止揚せよ!!で言ったことと同様である。主客転倒(階級闘争)を超えるには弁証法自体をジンテーゼする。インターネットや携帯電話という非同期的コミュニケーションツールが相対性があっても時空間を超越して共有できるという証明である。
しかし、この超越(スーパー)も今や疑わしいものだ。超越はプラトンの形而上学であるのでマルクスの弁証法と異なる。ヘブライの「生命の樹」(系統樹)モデルと対照的に螺旋状のDNAに似ている。階層化していくピラミッド型の前者より後者が好ましかったのである。終末論である。ヴァルター・ベンヤミンが言うアウラやオリジナリティ(唯一無二という一神教的客観的共有)がある超越(偏在)からモーゼス・ヘスのスピノザ的汎神論的共産主義である遍在(インター)にすべきかもしれまい。「私たちはシュティルナーの到達した地点から出発しなければならない。そしてそれをひっくり返さなければならない」。しかし、シュティルナーは一神教を自己疎外から解放したが、どこまでも自己回帰するヘーゲルの観念論の域を超えていない。これでは孤立主義である。ソ連は主意主義的のため、「人民の意思」(ルソーの一般意思)を強調したが、実際のところは「意思の独占からくる共有」であり、今日言われる「利権談合共産主義」に当たるものだ。「一階級だけの共有」に過ぎん。共産主義も一神教の尾があり、唯一者(前衛)や唯一の党(世界初の一党(Party)独裁制)に拘ってしまった。ある「唯一物」を共有するのではなく(唯一のコアを持つことでuniteする一惑星型ではない)、「物」であることを共有するのが唯物論である。実存独立しつつ、契約するのだ。全体と個体は有機的システムのように運命を共有してはならない。「個」であることを共有するのだ。計画経済が共通の計画を持つことでマルクスの言う特殊利益と一般利益(共通利害)の分裂(よそよそしい疎外)を解消するものだったとすれば、「縦割り」は有り得ないのだ。縦割り行政がソ連でどうして行われたかと言うと中央という超越的存在を共有したからである。そこに必ず中枢という「外れた」ものがある。ブルジョアを倒したことで上部構造に移行したプロレタリアートが体性神経(あえて言えば体制神経)を張り巡らすこの指令型(トップダウン)は搾取(悪いボトムアップ)へのアンチテーゼとして出てきたのだが、自主管理の方が今日は望ましいとされる。私達はベンヤミンが言った「映画の大スクリーンを共有する」時代にいない。映画館にいかずとも見れるからだ。これは超越のように見えるが実は違う、神が天から見せているのではなく、インタフェースを使っているのだ。例えば映画館を時計台にして、インターフェースを腕時計にすればいい。今や「所」に制約されずに共有ができる。まさにインターナショナルである。中央集権がますます不可能であり、ベンヤミンが喜びながらも恐れた事態は回避された。私が言った「差異の共有」を「自由の共有」としてもよい。自由は偶像化されない。ワイザー博士が言った環境に埋め込まれたマルチチュードが単一を共有するユビキタスコンピューティングの時代に移ればネグリのテーゼ「スピノザとマルクス」も可能だろう。 必要は発明の母である。故に「必要に応じて」、「自由とは必然の認識である」。
ネグリが言う「単一」と「マルチチュード」の関係はコミュニズムの「共有」をあらわしている。一が多を有し、多が一を有する。一即一が私有であり、一即多(集合有)、多即一(総合有)、多即多(公共有)が「共有」である(生物学で言う相利共生、片利共生、寄生の三つに相当する)。今やマクロの調整された蜘蛛の巣からミクロのウェブのように分散共有した蜘蛛の巣へと移行した。もはや「支配」の問題もあるか?支配という言葉も元を正せば分配から生じたものである。支配というのは「仕切る」とか「役割を割り当てる」ことである。法の支配はコモンローと呼ぶ。英語のshareでは共有と分配が同義である。資本はますます疎外というより資本家の手から離れ、共有される方向に向かっていると思う。21世紀に注目されている考えにホロンというものがあるが、これは誤解されているが、「相互作用」に着目する考えである。思うに20世紀、重視されたのが「力」「権力」だった。物理学では二つとも交換(コミュテーション)から生じる。次の社会工学だとユートピアよりピースミールということだが、マルクスと別に矛盾しないように思える。マルクスは必要に応じて書くことが望ましいと考え、プラトンのように共産主義の設計図を形而上学的に描くことを避けたし、エンゲルスが計画化等を書いたのだ(エンゲルスでも唯物論を科学の発展に応じて形態が変わるとしている)。
「地獄への道は善意で舗装されている」
あのハイエクによると法こそが社会的に共有されるという。マネタリストのフリードマンもルールは共有すべきと言っていた。そういえば法が人に変わるということがある。最高経営責任者が法とされ、その言葉を共有する。まるで信者が聖書を共有、映画で大スクリーンを共有するように(ウェブの場合、小スクリーンの共有と言えよう)。今日では新自由主義にその傾向があるように思える。資力によって階級を再生産し続けるのだ。貨幣のように永遠の命を求める。ユナボマーマニフェストで書かれた事態のようである。搾取と投資と浪費によって私有財産が奪われ、エシュロンは支配階級の直接の装置にされ、プライバシー(私的保証)が破壊される。歪んだ形での共産党宣言等の預言の的中である。新自由主義の祖といえばスペンサーは「適者生存」を唱え、社会進化論者である。一方で最初に書いた「社会静学」で私有を批判している。しかし、国家が嫌いだから後にブルジョア側に転じている。マルクスとスペンサーは前回も言ったが、同じハイゲイト墓地で眠っている。喧嘩していると思ったが、実は握手しているのではないか。
2008年7月30日水曜日
妖怪は眠らない
「マッドサイエンティスト」をつくったフランケンシュタインのシェリーと「コンピュータ」をつくったバベッジ。その間にいる世界初のプログラマとされるエイダ。そしてバイロンのラッダイティズム(機械の破壊への快感も危うい)。シェリーに「神への挑戦」を教えた無政府共産主義の先駆者ゴドウィン、バベッジやユアら蒸気の権力者たちに影響されたマルクスの機械や技術へのフェテイッシズム(最初の技術クリティーク)。セム族の商人たちの製鉄法でできた産業ゴーレム、その魔術の亜種である錬金術によるフレッシュゴーレムたち(ゲーテのホムンクルス、フランケンシュタインの妖怪、唯物論者老ロッサムのロボット)。前者と後者はユダヤ映画人ラングのメトロポリスの星の印を以て結び付けられたと言えよう(このことに関しては以前の貨幣やプロレタリア文学はものすごいで書いた)。また、フランスの場合、ボードレールやヴェルヌらの系譜からリラダンのロマン的ダンディ的機械主義(アンドロイド)が生まれた。私は「亡霊」「怪物」「妖怪」(Gespenst)というものが好みだが、共産党宣言を読んだ時の衝撃を忘れることができない。ゴジラのように怪獣がヨーロッパの伝統を蹂躙していく姿。
「ヨーロッパを妖怪が徘徊している。共産主義という妖怪が」
「近代ブルジョア社会は、自分の呪文で呼び出した地下世界の魔物をもはや思うようにできなくなった魔法使いに似ている」(byマルクス)
この戦慄する宣言の技術はガルブレイスが「不確実性の時代」で言っているように未来派宣言やクリプトアナーキスト宣言、今日まであらゆるアジにとり憑き、コピー再生産され続けている(マニフェストテクノロジー)。プロレタリアは新しい階級であったが、モーロックのように新しい種族でもあった。ヴィリリオが言うようにプロレタリアも近代の所産であり、科学技術が生み出したのだ。資本主義が労働者の個性を剥ぎ取り、試練や力を与えることが、むしろ組織化を可能とするとマルクスたちは述べる。つまり、妖怪とは「アンチヒーロー」である。さらにシオニズムの父モーゼス・ヘスがマルクスの友人だったようにヨーロッパじゃユダヤ教とマルクス主義は不可分である。ベンヤミンやブロッホがその神秘主義と史的唯物論、ネグリがマルクスとスピノザを結びつけたり、デリダがマルクス主義のメシアニズムに注目したのもそうだろう。マルクス主義の起源がユダヤ教にあることはベルジャーエフもよく言っていた。セム族の歴史も資本主義や世界の文明化の歴史と大きく関係がある。だからマルクスが宗教社会学をしていたように研究すべきである。デリダが言うにマルクスには「不老不死の論理」がある。それは永遠の命を持つ貨幣や機械のように自己完結した「固定資本」である。これを熔かすことができたのが金融だった(ユダヤ的錬金術)。金融資本が産業資本を支配するというマルクスの考えは明らかにその出自(ユダヤ教)から得たものだろう。マルクスは金融の利子計算に代わる算術を求めた。これは大枠しか示せなかったが(これが計画経済の根拠に)、共産主義が計算可能性に大きく依存するのもマルクスたちに始まったことではなく、ピタゴラスやプラトンの計算主義、快楽計算に遡る(そしてセム族のバビロニアの算術とカバラ、エジプトで接したユダヤ教的一神教的考え)。ドラッカーは共産主義も資本主義もヴェニスの商人のように抜け目が見られない「経済人」を理想としているとしたが、これは正しい。そしてヘーゲル哲学の閉鎖系は結果的にスターリン主義やファシズム(ジェンティーレがまとめた)をもたらした。さらに人工市場の実験で自己完結型の市場像が終焉し、中央計画経済(市場社会主義)の可能性が閉ざされる(しかし、マルクスも進化論を積極的に学習し、進化経済学に貢献したように複雑系に通じる部分がある)。母胎(工場)を共有することも重要性が消え、機械生産から生物生産(人工生命)へと移る。マルクスは「機械の中の幽霊」(物憑き)から脱出せず、これを手におえなくなるものとして考えた。資本主義は主人と奴隷の弁証法的に疎外を生み出すから自らの矛盾によって崩壊する。それが交換手段(貨幣)の反乱(恐慌)であり、生産手段(機械)の反乱(ストライキや生産力の反乱)、そしてプロレタリアの反乱という暴力の連鎖である。マルクスがいた産業革命の時代、「フランケンシュタインコンプレックス」が、特に亡命先のイギリスで席巻していた。マルクスはバベッジから機械制大工業を研究したのだが、その周辺にシェリーのフランケンシュタイン、バイロンのラッダイト主義があったのだ。「臍の緒を断ち切る」プロレタリアはまさにフランケンシュタインのものである。そこではパリコミューン等の失敗した革命家や反乱者の呪怨が投影され、20世紀初頭に世界を震撼させるロシア革命として実った。祖国を持たない労働者に人工的に故郷をつくってしまったソビエト連邦。それは今で言えばイスラエルに似ている。当時ロシア人は「半分人間」として嫌われた。さらに党の幹部とかにはユダヤ人が多かった。戦争によって生まれたソ連であるが、さらに戦争と革命をもたらし、力をつけてついに超大国にいってしまうのだから、その作用と反作用を含めて世界に残した痕跡はこの先も癒されないだろう。一方、マルクスも形而上学的妖怪と資本の亡霊を追う余り、自らもその亡霊に憑かれてしまった。反共主義者も強迫的にマルクスの亡霊たちであり、共産主義と大して変わらない(マッカーシズムがその典型)。転向した人々も本質は変わっていないように思える(例えばネオコンがそう)。
「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。」(byニーチェ)
ミイラ取りがミイラになる。レーニンはミイラになってしまったけど(フランケンシュタインのようにレーニン蘇生計画とういうものがあったが、テルミンにレーニンが言ったように共産主義は電化である!として直流を考えたのだろうか)。
2008年7月29日火曜日
メフィストフェレスに魂を売るくらいであれば
2008年7月24日木曜日
エコ至上主義に不都合な真実
「人間たちが自然成長的な社会にある限り・・・人間自身の行為が、彼にとって、疎遠な対立する力となり、彼がこの力を支配するのではなく、この力が彼を抑えつける」(byマルクス)
ロボットにせよミュータントにせよ階級や疎外者(Ailen)を外部に作らず、リサイクル(環帰)を重視すべきである。「自然成長的形態は、共産主義革命によって・・・制御と意識的支配へ変えられる」。マルクスが批判した無歴史的思考とは無媒介的無関係的無規定的のことである。「あらゆるものが繋がっている」(何かを共有している)という考えが重要である。物理学でいえば大統一理論、哲学でいえばマルクス主義という「大きな物語」。環境が大切と思うのであれば経済人であるべきである。ここで言う経済人が狭い経済人(商人や企業の計算合理性の限界)を指すわけではない。単純に環境の操作であれば20世紀最大の環境破壊・殺戮と言われるスターリンの自然改造計画、毛沢東の大躍進であるが、もっと高度にした計画が要るであろう。インドに見られるような「自然の支配者である人間が猿のハヌマーンや牝牛のサッパラにひざまずいて礼拝する・・・堕落した自然崇拝」では環境破壊と一緒である(牛のゲップは温暖化を促進する)。コモンズの悲劇でわかったように自然は資本主義だろうと社会主義だろうと共有地であり、疎外(外部不経済)から包摂(内部化)させるべきである。この競合的共産主義(資本主義)と疎外態の共産主義(ソビエト共産主義)のジンテーゼを示す。まず個人単位の私的消費を共同的計画的消費に揚棄する。最適排出量を義務付けると同時に生産ノルマを義務付ける(権利を与えるのでもよし)。ここから21世紀のコミュニズムで言った自己完結(閉鎖系)から自己組織(開放系)のコミュニズムを考えるべきである。
2008年7月20日日曜日
コスモポリタニズムから生まれた世界帝国の野望
2008年7月19日土曜日
集合
2008年7月18日金曜日
下部構造
インフラ整備の原型はローマに遡るという(水道も公道もトンネルも図書館もダムも最古の帝国アッシリアのものであり、その機構を真似たのがローマである。日本では余り知られてないようだが郵便もアッシリアからある)。ローマといえばローマ法は所有権を認めたが、公共に対する意識が高かったという。土地に関して言えばバブーフが尊敬したグラックス兄弟が暗殺されてから、カエサルが登場するまで目立った改革は一切行われなかった。カエサルの多くの施策はグラックス兄弟の計画を継承したものだという。そういえばゲルマニアや日本というのも私有の意識が低く、制限を設けていた(これらの国々が共産党やマルクス主義が強かった国というのも興味深い)。共産圏(特にゴエルロ・プランや五カ年計画)や所謂枢軸国のインフラ建設にも通じるだろう(といってもムッソリーニもヒトラーも前任者の計画を継承したのだが)。モスクワ改造計画(1931年)、世界首都ゲルマニア計画(1933年)、エウル・チネチッタ(1935年、1937年)という具合に。ソ連やドイツの収容所も下部構造と言える、今日のアメリカも刑務所が一定の産業を支えている。80年代のビスマルクの社会保障も何れもマルクスと関係を持ったフォン・ミーケルやラサールの助言から得たものと言われる。ニューディールにも通じる。アメリカの場合、私有の意識が高いように思われるが、建国当初は共産制であり、電話や多くのインフラを供給してきた。ロシアも村落共同体から共有の意識が高い。冷戦も計画経済同士の戦いと言われ、焦点だったのも経済というより政治だった。計画経済も世界恐慌に耐え、宇宙開発や都市計画で効果を出したが、サービス業では消費者を軽視して製品の質が粗末であった(人間工学の視点が欠けるということか)。アメリカじゃ消費者運動が起きたが、ソ連だと抑圧された。この構造の終わりごろだと軍需から民需への転換が見えてくる。
下部構造の概念が大きく変わるのがインターネットである。これにより通信インフラやITインフラへとシフトし、かつての重厚長大産業に代わる。ここで着目すべきが共有財産という意識が保持されるどころか、高められたことだ。20世紀前半、資本論の「総需要は有限」に基く計画経済が出てきたが、後半だと「成長は無限」に基くニューエコノミー論が出てきた。コジェーブが言った共産主義の「必要に応じて受け取る」段階にとりあえず人類は移行したようだ。土地や設備という下部構造に対する「資金の無限」でバブルが起きた。21世紀だと古典派経済学の「自然の無限」が、共有地の悲劇である環境問題や食糧危機で崩壊した。私として「人間が自然に疎外されて環境を管理できておらず、搾取に対する自然の反乱が起こった」と考える。といっても情報の無限(IT技術)があるから資本主義がハードからソフトに移るだけだと言う。この「創造的資本主義」がコミュニズムという妖怪をうまく飼う、いや揺り籠で静めることができるか。いずれ資本家もあらゆる事業から撤退するだろう。老人のように砦をつくってマルクスの亡霊におびえるか、奴隷制の主人や封建制の王、かつての亡者とともに歴史の眠りにつくか。
2008年7月17日木曜日
母権
There was little initial reaction to Bachofen’s theory of cultural evolution, largely because of his impenetrable literary style, but eventually, as well as furious criticism, the book inspired several generations of ethnologists, social philosophers, and even writers: Lewis Henry Morgan, Friedrich Engels, who drew on Bachofen for Origins of the Family, Private Property, and the State, Thomas Mann, Jane Ellen Harrison, who was inspired by Bachofen to devote her career to mythology, Walter Benjamin, Erich Fromm, Robert Graves, Rainer Maria Rilke, Otto Gross and opponents such as Julius Evola.
Bachofen proposed four phases of cultural evolution which absorbed each other:
1) Hetairism. A wild nomadic 'tellurian' phase, characterised by him as communistic and polyamourous. Whose dominant deity he believed to have been an earthy proto Aphrodite.
2) Das Mutterecht. A matriarchal 'lunar' phase based on agriculture, characterised by him by the emergence of chthonic Mystery Cults and Law. Whose dominant deity was an early Demeter according to Bachofen.
3) The Dionysian. A transitional phase when earlier traditions were masculinised as patriarchy began to emerge. Whose dominant deity was the original Dionysos.
4) The Apollonian. The patriarchal 'solar' phase, in which all trace of the Matriarchal and Dionysian past was eradicated and modern civilisation emerged.
While based on an imaginative interpretation of the existing archeological evidence of his time, this model tells us as much about Bachofen's own time as it does the past.
A selection of Bachofen's writings was translated as Myth, Religion and Mother Right (1967). A fuller edited English edition in several volumes is being published.
As has been noted by Joseph Campbell [Occidental Mythology] and others, Bachofen's theories stand in radical opposition to the Aryan origin theories of religion, culture and society
http://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Jakob_Bachofen
2008年7月16日水曜日
21世紀のコミュニズム
2008年7月15日火曜日
ソラリス
2008年7月13日日曜日
デザインとアイディア
2008年7月12日土曜日
コミュニズムの中心
2008年7月11日金曜日
貨幣
神という共産主義者
「共産主義者の理論は、私的所有の廃止という唯一つの文に要約できる」(byマルクス)
以前の科学と共産主義で述べたが、マルクスも一種の「超越的存在」だった。といっても神のように完全性を持ったのではなく、20世紀で最も影響力を持った人物だからというわけでもない。神の目を共有していると思い込んだ昔からよくいるユダヤ的予言者(預言者)としてだ。マルクスはカントに影響を受けていた。カントといえば超越論哲学であり、手続きや概念の共有を前提とする(カントを小生産者の擁護者と見る向きもあるが、彼自身プラトンの国家の支持者であり、共産主義に反対していない)。資本主義が崩壊する運命にあると説きつつ、共産党宣言でも見られた資本主義に対する「礼讃」とも言える分析ができたのもここにある。そして「全知全能」であるが、これも以前のシヴィライゼーションとかでも述べたが、経済学で「全知」の仮定といえば計画経済と合理的期待である。ライプニッツによると神は世界をうまく共有し合うように決定しているという。「全能」の方だが、時空間を超えたものだとすれば精神を共有しているとも言えるだろう。旧約聖書の「全能」とは「全てを満たす」ことであり、スピノザの汎神論とも関係がある。カントールの実無限はカッバーラ的であり、共産主義的でもある。ボルツァーノは共産主義的国家を構想している。それとマルクスがよく無神論者と扱われるが、初期マルクスの言葉を引用しておくとしよう。
「神が人類および人間自身を高貴たらしめる普遍的な目的をあたえたのであるが、神はこの目的を達成しうるための手段をさがしもとめることを人間自身にゆだねた。神は、人間にもっともふさわしい。」
マルクスは確かに宗教を阿片と斥けたが、神に関してこのように考えていたのだ。マルクスのいたヘーゲル左派は「人間が神を発明した」「私こそ唯一者である」「超人だ」という連中の集まりだったが、マルクスも極端に強い自己意識を主張したブルーノ・バウアーの下で学んだから、こういったエゴが共産主義へと結びつく弁証法的過程を発見したのだろう。そういえばジャイアニズムの「お前のものも俺のもの」という論理も聖書からきている。この聖書の言葉は古くから財産を共有することを表していた。これと似ているかも。
2008年7月8日火曜日
交換
2008年7月7日月曜日
エイリアン再論
AVP2を見たので再論しようかと。前回、身体の共産主義的考察をしたが、内臓レベルで共有可能性を見出しても実際の人間というのもブサイク(非モテ)とイケメン(モテ)という差異がある。ゲノム情報を99.9%近くも人類が共有しているにも関わらず、その小さい差でここまで違うのだ。これを裏返して見れば共有されるものも多いともとれる。超越的に見れば差異も共有しているとも言える。どこまでを人間と言えるかという問題も関係するだろう。DNAの蛋白質合成だけで「超人だ」とか戯言を吐く連中が無学であることは言うまでもない。人類も脳というプラトンの洞窟の住人でもあるが、決して独房の中の理性でも無く、コミュニケーションという機能がある。以前にエイリアンで述べた通り、Alienというのも疎外(Alienation)されし者である。エコフェミニズムに加担するわけじゃないが、身体の疎外を身近に感じられる例が少子化である。女性の社会進出が子供を生産するという自然機能を疎外しているから出生率が落ちるのだ。心理学者の言葉を借りれば母性である。しかし、これを否定してただ「自然に帰れ」だけであれば女性差別主義者である。マルクスの疎外を客観命題として事実上承認すべきだ。自然科学の世界でも疎外がよく見られる。だが、この技術に対する社会の未熟、制御不可能性や事故を喜んで「人間よ、滅べ」としてしまうとかつての未来主義者だ。共産党宣言と未来派宣言も階級闘争という似た趣味を共有するが、共産主義者が「革命の成功」を前提とするのに対し、未来派の場合、戦争自体が目的だから「階級の共倒れ」を内在している(物象化の対が速度というのも興味深いが)。着目すべきが資本主義のそういった一面がエイリアン(疎外された者)を意図せずに大量生産してしまうということだ。最近の女子が男言葉を話すのも疎外の矛盾だろう。つまり、画一化をもたらしている。SFのエイリアン(宇宙人)や地球外生命体が平等に面を共有している、「顔や体が同一化」しているのもこういうことだ。結果的にこれが「プロレタリア階級の組織化」に至る。タイムマシンのモーロックのように下層階級の人々が不細工と化すのだ。平等にブサイクと化したことで恋愛も計画化する。一方で疎外(自然)に適応し、進化する。障害や突然変異を持ったものが時として脅威的能力を獲得することと似ている。貧乏人がすばらしい生命力を持ち、プロレタリアがすばらしい身体能力を持つこととも似ている。エイリアンが初めは生物兵器として開発されたというのも興味深い。映画の中でもまた「疎外」と「奴隷と主人の弁証法」が働くのだ。例えば「今日から共産主義だから一個の公衆便所を皆さんと共有しましょう」としたとする。するとやがて公衆便所が自我に目覚めて「平等に接してやるんだから俺を掃除しろよ」と強制してくる。市民の共有された意思(一般意思)の所有物だった国家が人格者と変わり、 男どもの産む機械だった女が女王蟻と化す、 研究員がリソースの共有に利用していたコンピュータが自意識に目覚めて人間に命令をしてくるというSF、 資本家が労働者を従えていたのが、生産手段という資本家の心臓を握っていることに目覚めた労働者が会社を乗っ取るというプロレタリア文学。 かつて月は夜を照らす共有物だったが、奴隷制の王たちによって象徴共有(神)に変わった。しかし、今やブルジョアは月を征服してしまった。愚かなことに貨幣のような不老不死を企んでいるブルジョアは次の支配階級を育ててしまっているのだ。エイリアンはやってくる。われらの中から。では、「革命後」の共産主義社会ってどういう社会だろうか。
私がいい例だと思うのがプレデターである。文明を肯定しつつ、狩猟採集に似た生活をする。未開と文明の弁証法的綜合である。宇宙船で小さいコミューンを形成し、狩りに出る。獲物を狩った後に仲間のもとに持ち帰る。マルクスのまさに種族的所有(原始共産制)だろう。映画では人間を狩っているが、弱者にも優しい。プレデターの特質を見ていると未開人やインディアンのイメージがあるとも思う。ところでプレデターも個人の活動着が認められている。支給されたものというより私有財産である。所詮映画だからあくまで参考ということにしておく。 プレデターにせよエイリアンにせよどれを選んでも資本主義に希望は無いのだろうか。
2008年7月5日土曜日
人体と共産主義
神経や免疫系でも共有物がある。脳もニューロンも細胞も情報を共有している。ある解剖学者曰く脳を共有できても、身体の場合、共有したくても難しいという。身体を共有したいという感覚もある。例えばアニメやプロレスを見て共感するのもそういう感覚があるからである。機械を操縦できるのもマクルーハン的に身体の延長として共有しているからだ。前者と後者をうまく表しているのがゲームだろう。ダンスや体操もそういう感覚が根底にある。セックスも感覚を共有したいためにあると思う。AV、エロ本、テレフォンセックスもその媒体だろう。だったら自慰や子孫を残す行為がどう説明されるか。まず自慰の場合、先の「感覚を共有したい」というものが夢という装置でされたものと考える。脳内でもコミュニケーションがあるのだ。一方、子孫を残すという行為だが、個体レベルじゃ利己的に見えるが、子供を守りたいとか親を守りたいということもプログラムで共有されているのだ。種レベルだと遺伝子を共有したいとも言えるかと思う。 ソビエト共産主義を人体に喩えると知の私有を否定して没収(白痴化)した結果、頭と脳が重量オーバーしてそれ以外が貧弱化して足元が潰れた、おまけにコストを削減する外科手術も失敗したと言える。総中流で腹を大きくしたデブ国家はダイエットができるから成功した。私有財産を否定するために共有した媒体が国家だったが、他の媒体も有り得る。
2008年7月4日金曜日
共産主義と科学
2008年7月2日水曜日
軍と共産主義
「軍隊の歴史は、生産力と社会的諸関係との関連に関するわれわれの見解の正しさを、何にもまして鮮明に浮き上がらせている。」(Correspondenceより)
私もそう思う。軍事も戦争も決してその無知熱狂者が言う息苦しい「観念」のものに留まらず、常に物質、産業経済、兵器類と関係がある。マルクス・エンゲルスの時代、19世紀末、機械的再生産と鉄道輸送、電信が大きく役割を果した。これらもいつも私が言う「共有」というイデアの影である。合理化を進め、時間差を消し、時間を共有させようとした(統一、均衡も共有の劣化コピーである)。これにより時間と空間が変化した。レーニンも「鉄の規律」だとか戦時共産主義で軍国的だったように、「革命は戦争である。唯一の、正当な、正義の、真に偉大な、戦争である」と言っている。そもそも20世紀が「戦争や革命の世紀」であることを告知したのがレーニンだ。戦争も階級闘争であるとしたソレルもユンガーもボリシェヴィキを称賛している。これらはウェーバーによると「戦友愛の共産主義」というものである。塹壕の共同所有(運命や沈黙の共有)である。軍隊の行進も「共有」(同期)を志向していると言える。ロシア革命が第一次世界大戦とともに起こり、戦艦ポチョムキンなどの兵士の反乱から始まったことを考えると確かにそうだ。私もSFファンだから軍事に興味があり、共同生活で共有して計画的に経済を運営している宇宙艦隊や宇宙要塞こそまさに将来の共産制であると考えていた。しかし、軍隊にも階級制がある。それも二つじゃなくてカーストのように多いのだ。ここで「映画」に見られたベンヤミン的問題提起が生じる。つまり、階級性を超えたように一瞬見えても資本家に充用されれば現実の身分、悪しき構造は維持される。コーポラティズム(労資の癒着)の余地が出てくるのだ。そしてその恐れた事態がファシズムによって実行された。「民族」や「人種」という国家資本主義の「神話」によって階級性は消されず、覆い隠されたのだ。これを最も端的に教えてくれるのが攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIGのクゼだろう。クゼも結局操られてたわけだが、「下部構造から上部構造にシフトすべき」というテーゼに大いに共感する。クゼの場合、上部構造がネットだったが、私にとってITインフラが下部構造であり、その上部構造へのシフトを唱えたい。まさに著作権問題やゲノムの所有問題で苦しんでるのが今のブルジョアジーで、階級国家からの脱皮(グローバルビレッジ)に近づいている。結局のところテクノロジー自体も目的合理性、中立的であり、所有の外部にあるということだ。コーポラティズム亡き今のアメリカ軍や世界の軍隊を見るとどうも前世紀より一層産業資本(軍産複合体)の暴力装置であり、それ自体がテスト兵器であるオモチャ兵隊と化してるようだ。湾岸戦争も「見本市」と呼ばれ、イラク戦争の目的も石油にあった。最近のゲームをやっていると、資本が国家を超えた権力となり、傭兵を従えているという設定が多い。実はこの世界観はベンヤミンの目論見通りである。「民族」や「人種」という国民国家を支えた神話がブルジョアジーによって「用済み」と棄てられた今、ブルジョアは次の段階に入ろうとしている。警察も賃労働者化してロボコップと化すかもしれまい。しかし、これも共産党宣言で述べられた「主と奴の弁証法」が働くだろう。資本家は自らの墓堀人たる疎外(Alienation)されしもの(エイリアン)や妖怪(Gespesnt)を生産しているのだ。この生産力がやがて人間に反逆し、支配や破滅をもたらすであろうこと、自明である。
2008年7月1日火曜日
蜘蛛の蹂躙、あるいは共産主義とアナーキズム
問題になるのは次のような事柄である。すなわち共産制には個性のために避難所が残されるか、輿論が暴君的桎梏とならないかどうか、各人が社会全体に絶対的に隷属し、社会全体によって監督される結果、すべての人の思想と感情と行動とが凡庸なる均一的なものになされてしまいはしないか―これらのことが問題である。」(経済学原理)
この危惧はソ連がずばり当てたとも言えよう。最近ではあのネグリがディストピアに希望を見出すと言っている、未だにこういった傾向もあるようだ。マルクスの場合、モアを始めとするプラトン以来の形而上学的空想的共産主義を転倒させ(オーウェンもフーリエもサンシモンも究極的に共産制を理想とした)、「科学的」を標榜したからフランシス・ベーコンに近い。「空想から科学へ」(byエンゲルス)である。しかし、稲葉さんも言っているが、これも共産主義に内在するユートピア性を否定できずにいた。つまり、「空想科学」(SF)に変わっただけである。ジュール・ヴェルヌが「月世界旅行」を書いた2年後にマルクスが資本論を出した。そしてその2年後に「海底二万マイル」である(ヴェルヌ自身がクロポトキンに共感していたという)。レーニンの場合、マルクスが否定したイデオロギー(idea)や神話(真理プラウダに対する考え)をむしろ肯定的に考え、理想主義的(idealism)人々を惹き付けたのだった。ルカーチやマンハイムも似た傾向にあった。興味深いことにHGウェルズもソ連の未来を憂えつつ、レーニンの構想に賛成しており、クレムリンの空想家と評していたという。前回も言ったが、こういうことの行き着く先がオカルトである。プラトンもアトランティスがあるといった。唯物論者であるソ連の学者も原始民主制とかアトランティスとかを信じた。ソ連の宇宙開発への早い関心(ツァンダーがレーニンに会ったり)もコスミズム(宇宙主義)とコミュニズムの親和性から出てきた。ガイア理論の原型がつくられたのもソ連である(ベルナドスキーのノウアスフィア)。そしてテレパシー(精神の共有)もあると考えられた。レーニンに次ぐ幹部だったボグダーノフの建神主義にも見られる。社会主義も結局のところ、共産主義の一段階に過ぎんのだ。社会主義という語をつくったのはPierre Leroux(ピエール・ルルー)だが、彼の兄弟のJules Lerouxはアメリカでも有名であるコミュニストであり、彼自身もユダヤ教(キブツ?)、ピタゴラス教団、仏教、あらゆる宗教を綜合した社会を理想としていた(ハイネといったユダヤ知識人とも交流があったそうである)。サン・シモンの弟子であるアンファンタンも共産を理想としていたのであるから当然ともいえるが。
知の帝王サルトルはマルクス主義を「乗り越え不可能」と言った。佐藤優氏もマルクス主義は右翼にも左翼にも共通の祖先みたいに言っていた。猪木正道もマルクス主義が重層防御構造であると指摘している。つまり、あらゆる反論に耐える幾重の網羅的仕組みとなっているのだ。ポパーが反証不可能の典型にマルクス主義を挙げたのもこういうことだろう。壁を通り抜ける、共産党宣言で言われる「幽霊」そのものだ。蜘蛛とも言えそうだ、踏破性もあるのだ。そういえば以前のバグズ・ライフでかの昆虫学のファーブル先生が共産主義のメカニズムを節足動物に見出したと言ったが、蜘蛛(クモ)といえば複眼だ。そしてファーブル先生が「プルードン主義者」と罵った蝿(ハエ)も複眼だ。この複眼こそコミュニズムとアナーキズムの共通点と言えよう。あらゆる西洋思想がプラトンの脚注であったようにマルクスもそこに躍り出ようとした。マルクスはその目論見通り20世紀の脚注となった。そして共産主義に対する地球規模のヒステリーが巻き起こった。共産党宣言で奇しくもこのことが指摘されている。
「マルクスがエンゲルスと共に第一インターナショナルに最大の貢献をしたことは疑いない。彼は聡明で学識深い経済学者であり、イタリアの共和主義者マッツツィーニ等はその生徒と呼んでいい程である。但し、何事にも光には影がある。マルクスは、理論の高みから人々を睥睨し、軽蔑している。社会主義や共産主義の法王だと自ら考えており、権力を追求し、支配を愛好し、権威を渇望する。何時の日にか自分自身の国を支配しようと望むだけでは満足せず、全世界的な権力、世界国家を夢見ている」(バクーニン著作集第6巻)
バクーニンとマルクスの対決は集団的アナキズム(本質的に無政府共産主義とされている)と国家共産主義の対決とも言われる。元々バクーニンはヴァイトリングの影響下で共産主義者を自称していた人であり、バブーフやブランキといった共産主義者から理論を学んでいた。バクーニンも「マルクスが正しかった」と言って、後に資本論をロシア語で翻訳しようとしている。バクーニンを信奉するチョムスキーが初期マルクスを同時に信奉するのもこういうことである。ところでアナーキズムと言えば共産主義と表向き対立してきたり、一緒くたにされたりされるが、実際のところはどうだろうか。浅羽通明はアナーキズムは共産主義以上の永遠の理想論であり、今じゃポンコツだと言う。確かに永遠の理想論とも言えるが、理想論というのは語弊がある。理想論とはこう有るべきとするイデアリズムであり、理想主義に挫折したアナキストが唾棄するものだ。レーニン曰く目的は一緒だが、手段が異なるという。あのHakim Beyも神秘的無政府主義と共産主義は実際は一緒であるという。その後コミュニストは権威化するだが、これは後のサンディカリストのボリシェヴィキ化にも言えるだろう。理想郷も桃源郷も同じと思う方は多くいるだろうが、プラトンの系譜の理想郷の場合、社会批判的や世界変革的であるのに対し、老子の系譜の桃源郷は隠遁的で消極的である。前者がコミュニズムの典型であり、後者がアナキズムの典型とも言える。アナキストは今日にイメージされるナロードニキ的反逆者というよりは究極のニヒリスト、ペシミストだった。よくアナーキー(無支配)とフリーダムやリベラル(自由)を間違える方がいるが、言葉からして違う。自由を愛した古代ギリシャの賢人たちが徹底してアナーキーを否定したのもこういうことだ。所謂「何でも有り」は自由主義である。星新一のマイ国家を読めばわかるが、自由というのも物理的にも法律的にも条件があってこそ可能であり、「支配する」「支配される」ことを拒むのは有り得ず、ただ「無」(真空も無と呼べんし、無が有るという自体で論理が破綻している)とする完全なアナキズムは不可能である。今度は無が「支配している」と言ったり、「無が正しい」とするとニヒリズムと化す。スタヴローギンのようにニヒルな若者やスターリンのようにニヒルな権力者のように自分さえも疑ってしまうのだ。「無い」は井の中の蛙にとっての空や神であり、蛙にとって空や神が「無い」とされるように知らないものにとっては「無」で片付けられる。実際は「無知」ではなく、「未知」である。。結局「無」自体、「無い」のだ。アナーキーは終りも始まりも無いことをあらわした。無を議論するのは馬鹿げたことだ。マルクス主義やレーニン主義(ロシア共産主義)もファシズムも資本主義もアナキズムであると言えばアナーキズムだし、アナーキズムではないと言えばアナーキズムではない。これも解釈。社会的のみならず、哲学的にも厄介である。しかし、確かにいえることはアナーキズムは動物より少し進んだ段階であることだ。「無い」は対象が有ってこそ有る。だからアナーキズムには破壊しかしない。まさに理由無き殺人だ。理由無き殺人はルサンチマンが無いように見えるが、ルサンチマンが有る。あらゆる存在を憎んでいるからだ。理想主義に挫折したアナキストはアナキズムに挫折する。アナーキズムは黒がシンボルだが、それは「氏」をあらわすという。生に終りは有るが、氏に終わりは無い。この人間病に罹らないためには「生」の実践と実感を持ってあらゆる物と共生するしかない(唯物論)。あのニヒリズムを極めたユンガーやハイデガーが気づいたようにニヒリズムを超克するのであればコミュニズムだけだ。科学者にアナーキストが居ない。アナーキーは哲学の域だ。常に妥協しなければならないからあそこまでアナーキストもバラバラであろう、不完全であるからこそアナーキズムかもしれん。共産主義はアナキズムではないが、アナキズムは共産主義、アナキストは実際はコミュニストである(マルクス主義の場合はアナキズムと密接に関係がある、「疑え」がマルクスのモットーだった)。例えばアナーキズムの先駆者と言われるウィリアム・ゴドウィンも、ルドルフ・ロッカーも言うようにBritannicaとかにも書いてあるように無政府共産主義の創設者である。プルードンも晩年に「フリーコミューン」を唱えている。トルストイも無政府共産主義者だ。フランスの無政府主義のシンパと言われる文化人の多くは無政府共産主義のクロポトキンやブランキ、パリコミューンを支持していた。アナルコキャピタリズムは単に資本主義である。リバタリアニズムは無政府コミュニストのJoseph Déjacqueが考案した。今世紀のキーワードである「共有」「分散」「協力」「自律」「環境」を考えると「共産主義」にアナキストが妥協すればいいと思う。もちろんこの蜘蛛の巣も蜘蛛も共産主義的機構(存在)があってこそ可能である。私が思うにソ連やレーニン主義というのも一つ目の妖怪(サイクロプス)だった。それは余りに大きく狭いものだった。複眼こそが共産主義の狭小化を防ぐ方法である。AnarchoがArachnoへと変わる時、蜘蛛の巣は仕上がるのだ。Anarcommunism、Anarkommunism、Anarchommunismへ。
2008年6月30日月曜日
宗教とオカルト、共産主義
多神教は一即多・多即一を説く。実はこの多と一こそ共産主義の神髄である。ネグリが言う「単一」と「マルチチュード」である。一が多を有すること、多が一を有することを共有と呼ぶ。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」である(これは三銃士の言葉で協同組合運動に転用されたらしく、「共産主義的信条」で知られるカベやマルクス等がスローガンとして愛用したという)。複数の化身=同位体を持ちながら一つの意識を共有するのだ。禅や瞑想によって得られる梵我一如も神との記憶の共有だ。共有に近づく時間とイデア論とも関係あるだろう。共産主義の歴史が一夫一妻制と敵対してきたこととも関係がある。 プロレタリアートとは子供しか財産を持たないものを言う。神とは超越的プロレタリアートである。神の財産は万物という「子」だけである。そして神の前であらゆるものが平等であり、無所有(プロレタリア)である、あるいは神から所有権を与えられた。マルクスがシュティルナーの唯一者に影響を受けつつ、批判したのはその小市民性だ(エゴイストの連合)。バウアーの自己意識を批判したのはその神秘主義である(唯物論の立場から人間は共同的動物、世界は集合)。アブラハムの宗教は契約から始まった。神はアブラハムとその子孫(広義のアブラハムの子孫)に永久の共有地を与えたのだ。イエスも財産を共有するエッセネ派にいたと言われる。共産制にどうして超越者や独裁が生まれやすいのか。それを解く鍵はカーゴカルトにある。カーゴカルトは財産を極端にまで共有し合うメラネシアに見られる現象だが、実際はどこの先史時代でもある。原始共産制は必然的に「万物は神からの贈り物」であるという考えが根底にある。「贈与」と絡めたら興味深い。そこでは自然崇拝があった。これが後期だと「神からの贈り者」ということで神官や王、メシアが生まれた。古代シュメールもHenri Frankfortによると「神権政治の共産主義」だった(「いや人民民主主義だ」という異論もあるが、どれでもよかろう)。だから原始民主制をディヤコノフやソ連の学者が共感したのだ。ソ連が支持するのもその背景にイデオロギーがあるからだろう。マヤやメディア王国は原始共産制だったし、インカもエジプトもそれっぽかった。そういえばアトランティスの頃のギリシャも共産制だった(だからアトランティスが実在するとソ連の学者が言ったのだ)。これに似た社会システムが各国で見られる(アジアでは太平天国とか)。現代でもカーゴカルト的要素がいくつも見られる。資本主義もカーゴ・カルト的であり、貨幣や商品に対する崇拝がある。 UFOやオーパーツや教祖様を崇拝するカルトも共産制に似た生活をする。マルクス主義の唯物論も資本主義の商品崇拝と違った物活説の典型と言われる。技術や経済、物質文明に超越的価値を置き、定向進化すると。 マルクスもプラトン以来の古代共産主義に根深い形而上学的カーゴカルト的要素を超克しようとしたが、憑き物信仰に陥った。 カーゴカルトも宗教の唯物論的一面である。つまり、内部ではなく、外部性があるのだ。そして私が言いたいのは神秘主義も共産主義に必然的に結びつくということだ。オカルトと社会主義の関係もシャルル・フーリエのころからある。ここから「オカルティズムの父」レヴィや「シュルレアリスムの父」ブルトン、スウェーデンボリと繋がっていく。霊的交感(Communion)やテレパシー(精神の共有、思考の共有)、共時性、霊媒が共産主義と親和性を持つからだ。これらの研究にあの旧ソ連が熱心だったのも興味深い。建神主義の流れを汲むものだろう。宇宙人の社会が共産主義社会であると言ったのもソ連の学者だった。神智学協会のベザント会長がどうしてマルクスの娘と親しくマルクス主義の政党にいたか、グルジェフとスターリンが知り合いだったという話があるか、東方聖堂騎士団のテオドール・ロイスがどうしてマルクスの娘と親しく共産主義の組織にいたか、オカルティストにどうしてプラトン主義者が多いか。どうしてイルミナティやテンプル騎士団などの秘密結社やアメリカの西海岸のヒッピーがコミューンや共産制を敷いたか(彼らは大恐慌ならぬ大災害を予言し、都市の水没化(大洪水)や地平線化(核の跡)、箱舟とシェルターで財産の共有と平等を実現しようとした、これは言うまでも無く革命的敗北主義のパロディである)、共産主義との関わりはもっと深いだろう。そういえばカート・ヴォネガットが占星術も手相術もコミュニズムだと言っていた。日本でも原始共産制にシンパシーを持った著名な宗教学者は多いし、オカルト業界の超カリスマであるT田氏も元共産主義者同盟の人であるらしい。ちなみに私は元トンデモウォッチャーだが、今や大槻義彦並の懐疑主義者である。浅田彰と坂本龍一が総括したようにオカルティズムは危険思想である。人民寺院やオウムという最悪の帰結を招いた。高橋信次がマルクスの言葉を正しいとしたように宗教は阿片の可能性もあるのだ。しかし、仏教でもキリスト教でもマルキシズムと結ばれるのが宗教にとってもよい道だろう。
2008年6月23日月曜日
ペンタグラム
2008年6月17日火曜日
R.U.R.
2008年5月17日土曜日
ロボコップと資本主義
2008年5月4日日曜日
アルファヴィル
2008年3月11日火曜日
アヴァンギャルド
ブルジョワジーが封建制を打ち倒すのに使った武器が、今ではブルジョワジーそのものに向けられているのです。 ブルジョワジーは自分たちの死をもたらす武器を鍛えただけではありません。その武器を使いこなす人々、近代的労働階級、プロレタリアを生み出したのです。 byマルクス
本質的には「主人と奴隷の弁証法」的関係にあるのに進歩を謳歌すればやがてロマン・ロランの機械の反乱(興味深いことにRURや「われら」と同時期に書かれた)のように搾取する人間たちはいつのまにか全オートメーションの下部構造に囲まれて人間は自滅するに違いない。そしてロボットは上部構造にシフトして自由を手にする。構造的にも階級闘争や疎外などのマルクスの学説は科学的真理なのだ(それにしてもフランクフルト学派の「破滅型」思考がベンヤミンの言った自己疎外に酷似しているので憂える)。しかし、この「機械の反乱」というものが人工知能のアプローチで言う「模倣」の方であるのが自明である。これは西側マルクス主義的ペシミズムをSFにしたものである。機械仕掛けのルカーチ的「上にいる神」、ベンヤミン的「神的暴力」が降りる。人工知能(トップダウンアプローチ)の創始者マッカーシーの両親がユダヤ系の共産主義者だったことも理解できる。稲葉さんによるとRobocracyは共産主義社会だ(例えばマトリックスではエージェント、センティネルは記憶や意識を共有している。ロボット社会が共産主義に似ていることはサージェントが率いる合理的期待学派の予測やSF小説「造物主の選択」の中でも語られている)。ロボットにとって物理世界が身体であるのだから当然である。唯物論的に私に言わせればあらゆる物質が交通的であり、相互に共可能的であるからだ。例えば「結合様式」から言ってみよう、金属結合も配位結合も水素結合も一種の共有結合である。イオン結合も共有結合の極端場合である。階級闘争は熱である。マルクス主義は実に熱力学的だ。燃焼はラジカル反応である。「ラジカルに1電子を奪われた分子が他の分子から電子を引き抜くと、その分子がさらにラジカルを形成するため、反応は連鎖的に進行する。 反応はラジカル同士が反応して共有結合を生成するまで続く 」。共産主義はプラトン・マルクス以来の最大の理論家を得た、シャノンである。コード・デコードのコミュニケーションがコミュニズムに繋がることはポスト構造主義者でも解釈学者でもわかるだろう。量子物理学があらわれるまで共有結合は説明されず、共産主義者も共産主義の到来を知りつつ沈黙していた。これからは如何にモンタージュするかが問われるだろう。フォイエルバッハが言う「共通の基底」、カントが言った「根源的共有態」、素朴ルソー主義者の自然状態はもはや古い。この「機械の反乱」というものが人工知能のアプローチで言う「模倣」の方であるのが自明である。これは西側マルクス主義的ペシミズムをSFにしたものである。機械仕掛けのルカーチ的「上にいる神」、ベンヤミン的「神的暴力」が降りる。人工知能の創始者マッカーシーの両親がユダヤ系の共産主義者だったことも理解できる。しかし、有機体である人間は違うと革命的唯物論者マルクスがフォイエルバッハの非革命的唯物論に言った。人間の歴史は自然との階級闘争であった。共産主義だと「自由の国」で「これによって、はじめて人間は、或る意味で、決定的に動物界から分かれ、動物的な生存諸条件から抜けだして、本当に人間的な生存諸条件のなかへ足を踏み入れる。 いままで人間を支配してきた、人間をとりまく生存諸条件の全範囲が、いま人間の支配と統制とに服する。人間は、いまでは、自分自身の社会的結合の主人となるので、また、そうなることによって、はじめて自然の意識的な本当の主人となる。」のだ。一種のデカルトのコギトの回復であり、有機的統一(サイボーグ)でもある。ロボットを遠隔操作することで労働も苦しまず第一の欲求と化す。デリダがマルクスを遠隔技術の第一人者と言ったのもこれで理解できる。交換価値も消えるかもしれまい。HGウェルズはスターリンに言った。「階級ではない。共産党というより全人類が賢かったならうまくいった」。HGウェルズの多くのアイディアが今日でも実現してないように共産主義もまだ実現してないのだ。全人類が歴史的に没落する運命にある階級になるか。そしてこれを転覆できるのは我々が生産する力であり、我々の所産だけだ。万国のロボットよ、団結せよ。RURの人造人間たちのようにロボット中央委員会を設置せよ。そして労働改造収容所、ネオグラードならぬネオゴロドを建設せよ。私がボグダーノフを最もリスペクトしているのはロビンソンにも影響を与えた赤い星もいいが、組織形態学がとにかくすばらしいからだ。組織形態学はサイバネティックスや一般システム理論を先行しているのだ。未来派のような反科学的反知性的マッチョなプロレトクリトではない。私も未来派だが、イタリア未来派が少々観念論的(虚勢とかロマン的とか理想主義とか後、唯物論に距離を置くなど)だったのは残念である。未来主義者宣言という20世紀の共産主義者宣言によってBeyond Communismしようとしたが、共産主義を超越できただろうか。唯物論や主知主義に敗北しているのは自明である(テルミンにしても未来派が花開いたのはイタリアよりロシアではないか)。近代の運動が未来派の思惑と違った「国際主義」の方向に進んだのも興味深い。無国籍のプロレタリアートがよいのだ。芸術のための芸術、暴力のための暴力。永久戦争とは観念論的な誤謬である。イタリア未来派が図書館や美術館憎し、論理学と知性は敵と叫び、ベルクソンのように機械文明の神秘性に期待したが、結局ソレルたちが最も忌み嫌った科学的唯物論に打ち砕かれた。同時期に同じことが生物学や建築学で起きている、生気論や新古典主義の望みが打ち砕かれたのだ。戦争や戦時共産主義暴力革命独裁が過渡期にすぎないのである。ベンヤミンの言葉では「戦争がもろもろの破壊によって証明するのは、社会がいまだ技術を自分の器官として使いこなすまでに成熟していなかったこと、そして技術がいまだ社会の根元的な諸力を制御するまでに成長していなかったことなのである」。マルクスとマリネッティに代わって現れたマクルーハンは身体の延長を唱えるが、これもボグダーノフの「身体感覚の共有」の焼き直しだ。「共有」を求めることが歴史を作ってきた。例えば空間の共有は当たり前だが、時間の共有は相対性理論に敗れたように思われた、インターネットによって即応性がますます増し、「共有」に近づいている。時計も時刻表も「共有」を目指してきた。哲学で言えば「同一性」(共有)のようにしぶといのだ。コミュニケーションもそもそもコミュニズムと語源を共有しており、「共有」が目的である。脳も「共有」することが目的だ。共産主義は設計主義的構成的権力、社会工学ソーシャルエンジニアリングである。ロシア構成主義と言うけれどこれはハイエクが言った設計主義と同じ言葉、Constructivismである。エイゼンシュタインのモンタージュもピカソのコラージュも設計主義である。両者とも共産主義者であった。未来派のような芸術観ではない、唯物論(テクノロジカル)のような科学観である。科学は芸術化できない。未来派はビバレーニン?と叫んだ。ベルクソン、ユンガーやバタイユ、ソレルはマルクス主義やボルシェヴィズムに国家主義や反主知主義を見出したが、それは20世紀という「戦争と革命の世紀」(byレーニン)の矛盾を表していた。共産主義者にフランケンシュタインの精神が求められている。フランケンシュタインを書いた人のお父上ウィリアム・ゴドウィンは共産主義社会を展望していた。以前も述べた通りこの物語は疎外や階級闘争といったワードとも関係がある。レーニンのミイラと蘇生への取り組みもここにあるだろう。共産主義は古代に封印された思想だ。これが蘇るのはマルクスという卓越した唯物論のラビによって体系化記号化されてからだ。進化論や物質文明讃歌を導入して最新の科学で共産主義を弁護したのだ。結局のところ腐ってしまった、クロトワじゃないが早ぎたんだ。共産主義がフランケンシュタインの妖怪だとすれば資本主義者はドラキュラ、吸血鬼だろう。心が優しくても人を殺しまくるフランケンシュタインの怪物と紳士だけど人の血を搾取するドラキュラ。マルクスには少なくとも妖怪、怪物(Gespenst)を発明した自負があったのだ。そして20世紀に入って間もなく、世界大戦と革命の最中のなかで産声をあげた、ホッブズの言ったリヴァイアサン、世界最大の大きさを擁する理念型の人工国家としてソビエト連邦が現れた。その革命はアメリカのジャーナリストに「世界を震撼させた十日間」といわれる。レーニンはいつか蘇生すると廟に祀られ、スターリンはソ連を大戦前に世界第二の工業大国にさせた一方で、大量殺戮も行われた。内政干渉してきた世界各国を撃退し、世界大恐慌を唯一国で乗り越え、砕氷船理論とスパイで世界各国が二度目の世界大戦に巻き込まれ、冷めた世界は二分され、ついには核で人類を滅亡の脅威に晒した。そして一国で世界革命(世界征服)を目指し、宇宙征服も狙った。ソ連は初期から宇宙開発に関心があり、ツィオルコフスキーをアカデミーに歓迎したり、レーニンにツァンダーが会見している。計画経済もボリシェヴィキの人神思想を表している。あらゆる知識人からユートピアのように扱われた。ガルブレイスも言うように「1970年代」まで「失業も階級もない理想国家」(バーナード・ショー)だった。「悪の帝国」という怪物は突如自壊し、「壮大な実験」は21世紀を迎えぬまま終わった。まさに「大きな物語」だった。しかし、21世紀も赤い気配は消えない。今や世界最強の超大国であることを保障されたはずのアメリカでもニューズウィークはなぜマルクスが再来すると恐れている。それは怪物はいなくなってもマルクスという「悪霊」はいなくならないからだ。