2008年11月27日木曜日

文明の衝突

最近の国際関係に興味があるのであるが、私の持論を述べておこうと思う。
アメリカが言い始めた「文明の衝突」は21世紀版階級闘争とも言え、重要である(対してオリエントが言った文明の同盟」も)。
21世紀まで文明を持た無い新興大国が活躍していた。例えばイギリス・ソ連・ドイツ・日本・韓国・台湾である。
そしてかつて最も栄えた中国も戦争で負けて侵略されていた。
しかし、今日目覚しいのが中国・中東・インドである。
言わば「東側」が台頭しているのである。
オバマが黒人初のアメリカ合衆国大統領に当選したということもオルメカ文明が再興するということであり、ハム、エジプト学派が勢力を得てきているということである。

陰謀論的であるが、以前言った五大文明が五芒星を国旗としているのも五大陸を制覇するためと思うのである。
ハラッパー文化が残るパキスタン(元々親米親中であり、国旗を見よ、最近ではインダス川にダムを中国の援助で建設するそうであるが、これは中国がチベットを征服したということみならず、旧ソ連のアスワンハイダム(ナイル川)や三門峡ダム(黄河)、イラクのダム等といったダム外交の継承者たる象徴であろうか)や元々シリアあたりにいた農耕民のダラヴィダ人(アラビア半島系とDNAが共通)が住み、インドでも経済規模が大きいアラビア海と面する南西部を加えたオリエントをメソポタミア
アフリカをエジプト
ヨーロッパをトルコ
アジアを中国(インド東部を分け与えられる可能性あり)
メソアメリカをアメリカ合衆国
が支配すると思う。
大陸を分けた五芒星は中央に六番目があらわれる。
四つの海(十字架)、五つの大陸(五芒星)の次である六芒星はピラミッドと逆ピラミッドの重ね合わせ、空も地も制すということである。レバントをイスラエルが支配するのであろう。

奇しくも21世紀最初に戦争したのが人類の文明が発祥したメソポタミアであるが、目的が原油と思えぬ。 メソポタミアを漢字にすると米とくる。メソアメリカ(これも共産主義者の学者の言葉であるが)とメソポタミアが関係を結ぶのも当然であった。
湾岸戦争があり、侵攻される前のイラクとアメリカの関係が良いといえぬ。問題はどうしてアフガンにも侵攻したかである。軍事に通じたエンゲルスはかつてアフガンを敵にすることは危ういと説いていた。にも関わらず、アレキサンダーやジンギスハーン、大英帝国のようにアフガンに侵攻したのがソ連であったが、この時アフガンのレジスタンスを支援していたのがアメリカであった。政治体制もイラクとアフガンでは差異があり、ソ連を敵視したタリバン政権と共和制に移行してから親ソであったイラクも対照的である。かつてイラン・イラク戦争というものがあった。冷戦で敵対していると思われた米ソと湾岸戦争で戦うクウェートが共同してイラクを支援した。どうして同盟国であるソ連はともかく、後々対立するイラクと協力できたか。これは私はペルシャという国に問題があると思う。ペルシャはアラブ諸国とはイスラムという共通点があっても歴史的には区別されている。米ソにとってかつて米ソの連合国に背いたペルシャは好ましく無い。しかし、肝心のイスラエルが支援しており、特殊でもある。最近騒がせているペルシャの代表がキュロス、ヒトラーのようなユダヤに尽くすために作られたペルシャ至上主義者かどうかわからぬが(ローマ、プルシア、ロシアといった悪役帝国はペルシアと共通している)。ペルシャの歴史を考えればユダヤに有利である機会を与えてくれている。であるからペルシャを利用したのであろう。こう考えると今更ペルシャが敵視され、アフガニスタンにオバマが増派するとしたのもわかる。インドに対するペルシャの影響力への防波堤としてのアフガンである。
これからは製造業をアジア、サービス業をオリエント、食糧を支配するのがアメリカと私は思うのであるが、どうであろう。
それにしても中南米の反米化がどうして今起こっているのかを考えるべきであろう。
「文明の衝突」は地域密着型の争いであり、特にアメリカ合衆国(アメリカ統一)は中南米にヘゲモニーを持つのである。
市場としても中南米は魅力的であり、侵攻の口実であろうか。

WWIIは「植民地を持つ国」と「持たざる国」の戦争であったが、冷戦はイデオロギーを持つ国と持たざる国(戦争というよりも階級関係)、WWIIであると「文明を持つ国」と「持たざる国」という構造かと思われる。

2008年11月23日日曜日

ユーラシア

レーニンの「民族自決」等といった概念がウィルソンの方針や国際連盟より先で影響を与えたというのは今やよく知られているが、ソ連の外交政策が「ユーラシア主義」であったという認識が最近出てきている。

The Eurasianists (Russian: Евразийцы, Evraziitsy) was a political movemen in the Russian emigre community in the 1920s. The movement posited that Russian civilization does not belong in the "European" category (somewhat borrowing from Slavophile ideas of Konstantin Leontyev), and that the October Revolution of the Bolsheviks was a necessary reaction to the rapid westernization of Russian society. The Evraziitsi believed that the Soviet regime was capable of evolving into a new national, non-European Orthodox Christian government, shedding off the initial mask of proletarian internationalism and militant atheism (which the Evraziitsi were totally opposed to).


The Evraziitsi criticised the anti-Bolshevik activities of organizations such as ROVS, believing that the emigre community's energies would be better focused on preparing for this hoped for process of evolution. In turn, their opponents among the emigres argued that the Evraziitsi were calling for a compromise with and even support of the Soviet regime, while justifying its ruthless policies (such as the persecution of the Russian Orthodox Church) as mere "transitory problems" that were inevitable results of the revolutionary process.

The key leaders of the Evraziitsi were Prince Nikolai Trubetzkoy, P.N. Savitsky, P.P. Suvchinskiy, D.S. Mirsky, P. Arapov, and S. Efron. Philosopher Georges Florovsky was initially a supporter, but backed out of the organization claiming it "raises the right questions", but "poses the wrong answers". A significant influence of the doctrine of the Evraziitsi can be found in Nikolai Berdyaev's essay "The Sources and Meaning of Russian Communism".

というわけで簡単に言えば「ロシア」という国から見たソ連を展望したのであるが、ドイツのナショナルボリシェヴィズムに似ている。特にSuvchinskyというユーラシア主義運動のメンバーが自らマルキストと言い、ユーラシア主義をコミュニズムにすべきとし、それを一部に反発されて「ネオユーラシア主義」というものを自ら考え、これが今オスタルギーが強いロシアの運動の主流であるとか。このユーラシア主義運動の祖をつくったのがソ連原爆開発計画に関わった学者ウラジミール・ベルナドスキーであったと言われる。


実際のソ連の援助の件数を見ると中東とアフリカが圧倒的である。デュボイス、ルムンバ、エンクルマといった人物、さらにエティオピアも親ソであった、マンデラと共産党の関係を考えると「アフロ・ユーラシア主義」であったとも言える。上の画像に毛沢東やティトーの言う「第三世界」の非同盟諸国も旧東側寄りであれば加えるべきとも思う。驚いたのが、汎ユーラシア主義についてロシア連邦共産党書記長ジュガーノフが本を書いていることである。

2008年11月11日火曜日

物象化

エリアーデが言うようにマルクス、あるいは共産主義というのは中東に起源があるのかもしれまい。それは思想に限らず、制度としてもである。例えばマルクス・エンゲルスが称賛して止まなかった婦子を共有する一夫多妻制である。これは主に中東で見られる。中東では初代教会といったコミューンで共産制が行われた。古代では一妻多夫制であり、マルクス・エンゲルスによると母権社会があったとされる。「オアシス」は基本的に富の源泉が集中している。今日では石油。昔であると水か。この主力を共有することで経済が潤う、実に単純。イスラム金融は借り手と貸し手が損益を共有するというものである。最近ではイスラエルのキブツが興味深い。

かつての繁栄からは信じられない程今や中東諸国は世界から遅れている。どうして砂漠で多くの文明を揺籃できたのかという疑問がある。しかし、実際は素材に恵まれていたから技術が考えれたことがわかっている。これは中国で火薬が生まれた要因と似ている。今日荒廃しているが、西アジアは世界最古の農業が営まれた。これは砂漠化を発展に伴う物象化の一つと考えられる。今日も経済が猛成長している中国では黄砂が問題化、砂漠化している。サウジやドバイが砂上の楼閣化している。一方の海では物象化とは逆の「雪解け」が起きている、将来大洪水で滅んだ人類に代わって文明を担うのが水棲生物かと言われている。核兵器は究極の物象化であると思う。つまり、人間が「原始」というより「原子」に帰ってしまう。ハイデッガーによれば技術とは自然からの徴発であり、私有財産の飽く無き収用である(この反対は私有財産の投棄という放出のメカニズム)。広大の惑星を想定する、その言わばノマド的制覇、家父長的である。しかし、私は技術はそれ自体は合理的(中立的)で受動的、言わば母性的であると考える。一方でヴィリリオによれば技術とは固有性の止揚である。例えば都市化が進めば家はすし詰めになるが、これは原始共産制社会の住宅様式と類似する。「間隔」を喪失するという点で限界(固有性)を突破する速度やスピードも重要である。これは物象化に対抗する運動であり、近年の知識経済によって加速しているのである。


「物質的生産物の共産主義的生産様式と専有様式に対して言い立てられる異議は、同じように、知的生産物の共産主義的生産様式と専有様式に対しても言い立てられる」共産党宣言より

かつて私は人間の想像力(例えばライトノベルとか)で創世記の言う「最高の、最強の方」とはどういうものかを議論したことがある。結局ユダヤ神学が言う通り固有性(偶像)を持たぬ「無限」の唯一性(共通性)、つまり、「全能」こそが神である。故に私はこれを前提とするために自由主義者、「アダム」スミス的ジェファーソン主義者である。しかし、この「自由の王国」は自己疎外が無く、操作、つまり、主体と客体を同一させる。「見えざる手」というより計画者(ベンヤミンの決定者、神的性格者)を考える。「神的暴力」というのは結局のところ「限界を設け無い」という定義の通り境界をつけて固定化(アウラを見せる物象化、つまり、偶像化)しようとする「神話」を破壊してしまうことで、レーニンの言う「法に制限されえぬ権力」、毛沢東の言う「無法無天」(神にとって)、言わば中国の「小皇帝」のように「孫悟空より自由、始皇帝より権力がある」ことであろうか。究極のCommand Economyか共産主義母権制経済かと。犠牲を無料化された暴力に対して考えれるのが惜しみ無く与えられる「段階」(楽園?)。従って、際限無く獲物を求めるディアスポラ(狩猟採集)では無く、オアシスに定住するために運動するのである。

2008年11月10日月曜日

学園における階級闘争

アメリカでよく見られる学校における階級闘争、取り分けJockとNerdの階層対立であるが、「博識は分別を教えない」という格言の通り、Nerdは分別を持たない点で無階級社会を考えるのに興味深い思考回路をしている。これは以前述べたこととも関係あるかもしれまい。しかし、Jockとの分別、さらにそれに対して前衛思想を抱いていることが多い。これは矛盾と呼べる。究極的に考えるとJockのプロレタリア的肉体労働能力とNerdの知的生産能力の弁証法的アウフヘーベン、コラージュ、モンタージュがあるべきであろう。Jockは形式的物質的物理的パワー(資本力)をモテるが、Nerdがその物理的法則をわかっていれば反乱は簡単であろうかと思われる。

2008年10月31日金曜日

剰余価値

超越の価値とは「過剰」余価値のことである。超越とは余剰、基準から外れること、強いて言えば「区分」に対する「余分」(アウト)を言う。「極端」のことでは無い。極端は限界を示してしまっている。市場の動向は「神の見えざる手」であるから人間を超越し、疎外している。人間疎外を究極にまで押し進める資本主義は過剰な労働力、つまり、自らをも超越した労働力をつくりだす。そしてその「反乱」により崩壊する。この超越性はプロレタリアの肉体に内在している。つまり、これを否定するのでは無く、超越を「自己還元」させるのがコミュニズムである。「神」と自己を合一するのである。故に資本主義や市場原理の無計画的計画性(超計画性)を自己回帰(一般化、基準化、コモン化)させ、それを止揚し続ける永久革命機関の運動がコミュニ「ズム」である。

コミュナリズム

元々「コミュナリズム」は地方自治の用語として使われたが、今日であるとあらゆる民族や宗教の対立に当てられる。私はコミュニズムがコミュナリズムであることは無いと考える。コミュニズムは共同体を超えた共同性を求め、それがコミュナルとして限界化したら超越し、止揚しようとする現実的運動であると考える。完全completeも競争competitionも名称が示しているように共同性に関わるのである。マルクス以降のコミュニズムは宗教原理主義者も民族至上主義者も資本主義者も敵にしてきた。それは固有化した既成共同体であるからである。ソ連も硬直化保守化した。これも従来の共産主義国家で言われたcoordinatorsismである。無限の同一共同体(脱皮もし無い)があれば革命も無い共産主義であるが、万物は変化する。革命するのである。変化は固有の自己からすれば「新しい」ことを言う、外部や下部からくる。であるから既成共同体は上部構造化し、階層化する。階級社会は「イデオロギー」という幻の装置で共同性を回復したように見せかけるが、一方のビジョンが抑圧しているのであり、本質が対立しているのである。

2008年10月26日日曜日

所有論

高度資本主義は基本的にマイホーム、マイカー(一家一台)といった個体的所有を基礎にしている。これは「分配」という面で見れば社会主義的ではあるが、共産主義は家族制度で言えば資本主義の一夫一妻制に対して一妻多夫制、一夫多妻制、所謂女性や子供の共有である。「単一」と「マルチチュード」は弁証法的に見れば主客(広義のClass、階級関係)がある限り転倒(革命)が常に潜在しており、事実上一方の独裁である。私達は「共有」と言うと多数の一個の所有、一個の多数の所有を想像する。しかし、「一個」というものがある時点で所有の「限界」である「トップダウン」から考えてしまっている。共有の媒体(媒介)を持つことは時として疎外に陥るこがある。これは一器官であった脳が身体で言えばヘゲモニーを占めるように進化した過程、人民の機関(下僕)に過ぎなかった国家が人民を服従させた歴史、受動的で惜しみなく愛情を与える地母神が猜疑的で恐怖を与える天空父神へと変形した神話と符合する。皆が所有しようという共産主義と皆が無所有しようという無政府主義は究極的に合一するのも経済学で100%と0%が似ていることと一緒である。「皆は一人のために、一人は皆のために」。これは共産主義者がよく使ったスローガンである。この「一人」をアウラ化(オリジナル化神聖化唯一化)してしまうと独裁のスローガンであるが、これはもっと高度に「一般人」をあらわしているのである。つまり、いくら「複製技術」や「記号化」が進んでも固体(主体)も融け合わなければ問題が続くのである。

2008年10月24日金曜日

ニーチェ

ニーチェは「真理」を批判した。人間は「真理」という「基準」をつくることでそれを共有する。これは支配であると。「支配」とは何かと言うと、経済学で言うところの「分配」と言える。主体が仕事を配分する(仕切る)、シェア(共有)させる。そして「力」は物理学で言えば「交換」(コミュテーション)から生じる。力は対象無くして有り得ない。ニーチェは「神話」に傾いた。これは真理と似た位置の「神」と異なり、神話の方が絶対的では無いからである。ニーチェは神話を支えているのを「悲劇の共有」と考えた。しかし、これは「生の哲学」のニーチェと矛盾する。結局ニーチェはアナーキストである(ニーチェ自身はアナキストを共産主義平等主義者と批判しているが)。ショーペンハウアーはニーチェ達が言うところの平等主義的共産主義的境地(段階)、共感共苦を説いた。これは必然である。ショーペンハウエルは元々プラトンの崇拝者であった。ニーチェは師と同様、共感共苦(慈しみ)を説いたが、「天才」と「凡人」の「彼岸」をついに唱えなかった。これはレーニンの「前衛」と「大衆」と同じである。いわば「選民思想」の問題である。ニーチェが批判していたプラトンの「哲人王」やイスラエルの「救世主」と同じ轍を踏んでいたのである。ニーチェは当初「彼岸」「力への意志」を批判していたが、肯定するようになっていった。もし、ジンテーゼがテーゼ(肯定)とアンチ(否定)の総和では無いのであればそれは超越していると言える。であるが、これは明らかに「母」と「父」が交わった「所産」(子供)であり、人間の有限を示しているのである。そしてニーチェは永劫回帰に至った。

ニーチェは強い意志を「単一の優勢の衝動」によって「諸衝動が共存している状態」としている。これこそ私が言う「単一」と「マルチチュード」に基く古い共産主義的関係であって、「天下平等」と同義である。経済学で言えば「総動員」である。共通の目標を共有して運動を共有する。ハイデッガーは技術の本質を「徴発」としたが、これは幾分レーニン主義的であろう。ヴィリリオは技術の本質を「固有性の止揚」、つまり、「限界を無くす」と考えた。これこそが元来のマルクスに通じるのであり(私有制や分業制の揚棄)、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教、アブラハムの宗教の概念にも通じる。「無限」「全能」「超越神」である。レーニンの共産主義は「全能である」という言葉はここにあるのである。物質の集合でできているこの世界に住む人間はどこまでいっても共同的動物(アリストテレスより)であり、完全独立した唯一無二の個があるとすればそれは神に他ならぬ。故にヴィリリオは共産主義者の家庭に生まれ、「唯物史観」を軸としているのにカトリックを信仰しているのである。

補足:ニーチェはユダヤ系ロシア人のルー・アンドレアス・ザロメに恋した。ニーチェの源泉はロシアにあると言ってもよい。ツルゲーネフ(ニヒリズム)からドストエフスキーまで。元々ロシアとドイツ自体が歴史的に関係が強いのである。プロシアはロシア系、ベルリンもスラヴ系の名称である(考古学的地政学的に見ればロシアはヨーロッパにとってアジアにおける中国のような存在である)。ツルゲーネフはバクーニンと同居したし、ワグナーもバクーニンに師事していた(バクーニンは「共産主義はあらゆる勢力を吸収する」と批判したことで知られるが、ヴァイトリング時代は共産主義者を自負していて共産主義に関する寄稿もしていた。マルクスのプロレタリア独裁、あるいはバブーフやブランキといった系譜の共産主義者から学び取った概念もバクーニンに見られるという。ここらへんは蜘蛛の蹂躙、あるいは共産主義とアナーキズムで述べた)。ドストエフスキーが悪霊で参考にしたのはネチャーエフというマルクスには「バラック共産主義」と批判された人物である。このように「ニヒリズム」の歴史は共産主義運動と密接な関係があるのである。ユンガーやハイデッガー、バタイユ、ブランショといったニヒリストを極めた面々がボリシェヴィキやコミュニズムに関心を持ったのは必然である。

2008年10月22日水曜日

共産主義者の制服

共産主義者の制服と言えば人民服か、 作業着、例えばオーバーオールであるが、どうも他にもあったようである。

トロツキーによれば、スヴェルドロフは、常に、帽子から長靴に至るまで、全身革づくめの服装で歩き回っていた。このスヴェルドロフの服装が共産党員たちの間に広まって、革の服が共産党員の「制服」となり、反対派が彼らを"leatherites"と呼ぶようになったという。1924年に制作されたソ連最初のSF映画「アエリータ」においても、革コートを着て革のハンチングをかぶる主人公の妻の革服姿が、当時の共産党員をあらわすステレオタイプとして使われた(Wikipedeiaより)
そういえばレフ・ クレショフの映画「ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の異常な冒険」でもやはり共産党員の服が革である。しかし、「黒」であるのでアナキストであることもあるであろう(といってもロシアの無政府主義やナロードニキは共産主義の一派であるのであまり区別されてい無い)。

2008年10月10日金曜日

アジア的生産様式

原始共産主義は当初から言っていたわけでも無く、マルクスは「アジア」「古代」「封建」「ブルジョア」に生産様式を分けている。スピヴァクによればアジア的生産様式という言葉はマルクスは一度使用した。奴隷制へ必然的に至るとしているのは確かであるが、私的所有に欠け、「共有」を敷いている点で連続しているとされる。原始共産主義とアジア的生産様式の境界は実に曖昧なものである。このせいでいくつかの仮説ができることになった。マリアテギはインカを原始共産主義の最もよい例としていた。一方のマルクスはインカには関心が無いと言っている。インカに国家は無いともされている。エジプト・メソポタミア・中国・インダスといった四大文明にこのアジア的生産様式はより見出されるという。今日では中国共産党にせよ日本共産党にせよアジア的生産様式は好ましいものとされるのが有力であるようだ。ということは古代ローマあたりから切断したと見るべきか。ところでアジア的生産様式の記述を読んでいて中央アジアあたりのソ連や中国の共産主義を思い起こす方が多いかと思われる。この疑問に答えてくれるのがカール・ウィットフォーゲルの研究とその著書である「オリエンタル・デスポティズム」である。 ウィットフォーゲルは元々は共産党員でフランクフルト学派のマルクス主義者であったが、アメリカ国籍をとってから転向したと言う。ウィットフォーゲルによると共産主義革命が成功したところにどうしてか東西南北アジアが多いのはこの「アジア的生産様式」にあるという。実際「東側」と呼ばれていたのもそういうことであると。 ロシア、特にソ連はモンゴルと関係付けられていた(モンゴル自体も早い時期から共産国であった)。そういえばレーニンは「遅れたヨーロッパと進んだアジア」「アジアのめざめ」とか日本を「進歩的」「先進的」「偉大」と絶賛していた。 「東方紅」もそうである。「王道」「革命」に影響を与えた孟子は土地共産制を理想とした。康有為・梁啓超・洪秀全は東洋専制的共産主義を目指し、それは毛沢東にも受け継がれている。共産主義の象徴である赤と黄色は中国では国と皇帝をあらわすのである。

レーニンみたいに史的唯物論の三つの起源を言えば
1.バッハオーフェンの母権論
2.モーガンの技術決定論
3.ドブロスのフェティシズム
で構成されている。

1は以前から述べてるが、2のモーガンは先住民の研究で知られるが、科学技術の歴史での役割を重視していた。マルクスはこれに強い感銘を受けてたから唯物史観に影響を与えたのであろう(1もその後である)。3のドブロスは人間関係の考察に取り入れられた。これについては石塚正英さんの著作が一番詳しいかと思われる。

2008年10月9日木曜日

共産主義を数字で解く

マルクスは物事は階級(段階や層、分類といった)でできていると考えた。
これは非常に正しい分析である。「階級」はあらゆる学問の構造である。マルクスは総ての差別が無くなってあらゆる可能性が開花する世界を予測したのである(学際)。単一(神)であり、マルチチュード(多様共生)でもある究極の自由の王国である(一と多が矛盾背反無く共生しているのもマルクス的である)。一切が数字と考えたのはピタゴラスであるが、マルクスとピタゴラス、一見関係も無さそうであるが、この二人は共産主義の歴史では特に重要である。例えば共産主義の先駆者とされるプラトンはティマイオスから聞いたピタゴラスの「財産の共有」に影響を受けていた。では、共産主義と数秘学をアウフヘーベンするとどうか。

六つの段階に分けて説明すると、
一は神の創造、創世期
二は光と闇のぶつかり合い、戦争、動乱、冷戦、20世紀がまさにそうである、2000年もそうかと思われる、二が争うのは一への反動である。
三は、トロイカ体制、三頭政治、第三世界、第三の道、第三期、安定した時期かと思われる
四がアインシュタインの四次元、神聖四文字(テトラグラマトン)、ユダヤ・イスラム・キリスト・ヒンドゥーの四大宗教(私からするとどれもアブラハムの宗教)、四大人種(ネグロイド・コーカソイド・モンゴロイド・オーストラロイド)といった具合に世界を統一させる。キリスト教でも四極は神聖である。 ナラム・シンのように四海を制すということかもしれぬ。
五は共産主義である。ペンタグラムで述べたようにマルクスの誕生日5月5日、五芒星、五カ年計画、第五インターナショナル等を象徴。数字で言えば一と十の中間である。マルクスは共産主義で「前史」が終わるとした。二、三、四の何れでは無いということであろう。 所謂ソロモンの星、メーソンもシンボルとしている。 驚いたことに五大陸の五大文明(エジプト・メソポタミア・黄河・アナトリア・メソアメリカ)の国旗に五芒星があることである(ハラッパー文明が残るパキスタンの国旗も五芒星である、ただし、メソポタミアからの輸入でインダス文明があったのでメソポタミアに加える)。
六は大陸を分けた五芒星は中央に六番目があらわれる。六と五は一体である、この「六」という漢字と「☆」は似ている。四は海、五は大陸を制し、ダヴィデ六芒星はピラミッドと逆ピラミッドの重ね合わせ、空も地も制す。万物がハニカム構造でできている。五感すら超えてしまう第六感、五大陸も五惑星も五本の指も超える(尾?)、獣の数字。
宇宙は10、11次元でできていると言われる。 10と11はピタゴラスによるととても神秘的な数字である。10と言えば十戒である。十はJewに似ている。20世紀ではこの月に革命やクーデターが起きた。
前回ビジョンかマーヤーかで言ったように究極的にはこういった「ピリオド」(期)から外れたところに神(超越)があるのであろう。

2008年10月6日月曜日

ビジョンかマーヤーか

前回湾岸戦争と911テロをマトリックスよろしくハイパーリアルとして扱ったのだが、「幻」というのも色々解釈がある。それはかつての砂漠の民にとって求め続けるべきものだったし、密林の民にとっては脱するべきものだった。宗教=阿片=麻薬はある程度正しい。幻視や幻聴でできているのであるから。聖書では幻はビジョンであるとして好ましいとされ、イリュージョンでは無い。古代インダスの場合、姿勢を定めて坐禅し、騒々しい「マーヤー」の中から「真理」を見つける「解脱」を目指していた。どれも偶像(資本たる神)を拒み、「超越」が礎であるが、オプティミズムとニヒリズムの差がある。超越とはピリオド(区分、広義のClass、階級)から外れることであるが、三角形のピラミッドがいい例であるかもしれまい。諸々の「終り」(ヘーゲル)「彼岸」「黄昏」が訪れる云々というのは厳格たる一神教と二神教を生んだ古代エジプトの終末論からきている(モーセはエジプトの人物である)。セトとホルスの闘い、パピルスで記された「審判」。つまり、オリジナルとコピー、男と女、選民と愚民、実体とバブル、朝と夜、光と闇、善と悪といった様々に及ぶ二項対立が止揚され、「第三者」(共産主義運動では悪名高い第三期third period論)が訪れるという類である。フリーメーソンのシンボルであるピラミッドの形がいい例であろう。正反対のピラミッドを繋げば菱形の弁証法の「正反合」の螺旋構造である。私が言う従来の共産主義(中央管理型・自主管理型、WinMAXもWinnyも共有ソフトである点で共通するが、集権型と分権型の差異がある)における主体と客体の関係を図にすれば菱形である(資本主義の場合は砂時計?)。さらに「正」と「反」のピラミッドを「合」わせると「六芒星」である。このセム的ハム的超越神をさらに超越したのが「超超越神」たるユダヤ・キリスト・イスラームの神(Almighty、Omnipotenceのpotenceもパワーと同義であり、「すべての権力」、タルムードの「力の権化」)である。この形而上学の反逆児であるニヒリズムの政治化が著しくあらわれたのが20世紀のロシア(ドストエフスキー)とドイツ(ニーチェ)であるが、大きく見ればこの形而上学の影響はプラスがマイナスより多い。どれが終り、続くのが都合がいいかは所有や階級への執着(相互的視点)で決まっている。レーニンはマルクス主義を「プロレタリアのイデオロギー」であるとして、ブルジョアでもプロレタリアでも資本主義でも社会主義でも無いマルクスの柄谷行人が言う超越性を無視した。一方が善くて悪いものは消す、これはマルクスが最も嫌った方法である(マルクスは構造主義的に捉えた)。今や誰もが利用している資本主義システムから逃走するためにも超越するのである。そのための太陽も月も制した天空の「ホルスの目」が「世界政府」でも「地球環境」でも「唯一神」でもいい。あえて言えば資本主義の中の共産主義(グラムシ)ではなく、共産主義の中の資本主義を実現すべきである。

2008年10月5日日曜日

ポストモダンのプロトコル

シオン長老の議定書。これほど陰謀論をメジャーにさせた書は珍しい。
この書の「家畜化」(ゴイム自体は人間をあらわすのだが、タルムードであると「獣」とされている)のコンセプトはポストモダンで盛んに言われる「動物化」を思い浮かべる。 元々コジェーヴがアメリカは共産主義の段階に到達しつつあり、人間が動物と化すとしたのが始まりである。コジェーヴの申し子で有名であるのがポストモダニストとフランシス・フクヤマといったネオコンである。 ハイデッガー、ユンガー、シュミットといった右翼がコミュニズムやボリシェヴィズム、プロレタリア独裁を評価したり、ブレヒト、キルヒハイマー、ベンヤミン(唯物論的ホッブズ主義者)といったユダヤ人や左翼と交流したのも偶然では無い。

彼らが目指したのが世界の人間牧場化、動物農場化である。つまり、「新世界秩序」New World Order、「ワンワールド」One Worldである。このNew OrderはグラムシのOrdine Nuovo「新秩序派」に始まる(さらに共産党宣言のold social orderを受けたレーニンのNew Social Orderまで遡るらしいが)。これがファシストに利用されたという。世界のヘゲモニーhegemonyを握るのが目的である。One WorldはスターリンのOne Conturyである。書で「仕掛けた」としているのがマルクス、ダーウィン、ニーチェ(「力」も「畜群」も「断乎とした意思」もタルムードのコピーと言えよう、逆にショーペンハウアーは同感や同苦を説いた)。これにフロイトを加えればポストモダンのバックボーンである。ブッシュ政権もレーガン政権もポストモダンであった。レーガン政権のブレーンにもカークパトリックを始めリオタールよろしく元トロツキストや元マルキストが多くいた。スターウォーズ計画は元スターリニストのアメリカの某陰謀論者が自分が発案したと言っているが、ランド研究所のウォルステッターという元トロツキストの影響があったと公式にはされている。陰謀論では小ブッシュ政権はコミュニスト被れのネオコンとファシスト被れのブッシュらが手を組んだ最悪の独裁政権であるとされ、閣僚にもトロツキーの研究で卒論を書いた人間がいたといわれる。万国の自由戦士よ、団結せよ!Freedom fighter of the all countries, unite!すべての権力をアメリカへ!All power to the America!であったわけである。ゲバラは「革命家は・・・・・冷酷な殺人マシンcold-blooded killing machineとならなければならない」 と言ったが、思考機械、ノマド的殺戮機械としての「レーニン」は止まないのであろう。湾岸戦争と同時多発テロは等価である。ランボーの怒りのアフガンはアメリカ帝国の序章であった(ネグリとハートの帝国は国務省に愛読されたという)、ブッシュは予定通りソ連のブレジネフドクトリン、制限主権論、アフガン侵攻計画を継いだのである。そしてアムネスティが現代のグーラーグとしたキューバのグアンタナモ、アブグレイブで20世紀の悲劇は「茶番」として蘇った。

共産主義の歴史

Karl Marx saw primitive communism as the original, hunter-gatherer state of humankind from which it arose. For Marx, only after humanity was capable of producing surplus, did private property develop.最近の研究によると狩猟採集に限らず、原始共産主義が農業牧畜にも見られるから修正が必要であろう。

In the 16th century, the English writer St. Thomas More portrayed a society based on common ownership of property in his treatise Utopia, whose leaders administered it through the application of reason.モアのユートピアは共産主義にとって示唆に富む。当のマルクスもそう考えており、資本論でも引用されている。

Criticism of the idea of private property continued into the Enlightenment era of the 18th century, through such thinkers as the deeply religious Jean Jacques Rousseau. Raised a Calvinist, Rousseau was influenced by the jansenist movement within the Roman Catholic church. The jansenist movement originated from the most orthodox Roman Catholic bishops, who tried to reform the Roman Catholic church in the 17th century to stop secularization and Protestantism. One of the main jansenist aims was democratizing to stop the aristocratic corruption at the top of the church hierarchy."Utopian socialist" writers such as Robert Owen are also sometimes regarded as communists.ジャンセニスムやカルヴァン主義が共産主義を支えたという事実がここにある。ジャンセニストのパスカルも馬車の共有で知られる。元カルヴァンのゴドウィンのLibertarian communismもそうである。理神論者の共産主義や「建神論」の源流であろう。宗教共産主義でアブラハムの宗教が基本的に多いのが特筆すべきだろう。これは緑の資本論の証明であろうか。イスラム教でもzakatとribaにおいて見出されるという(損益を共有するのがイスラム金融の特徴)。しかし、英語版では僧や尼僧の生活で言えばどの宗教でも普遍的であるとされている。他にもヒンドゥー教(ブラフマンもアブラハムという説がある)、ジャイナ教、仏教とある。元々宗教自体が私有財産を供与供出したり放棄するから実に共産主義的である。18世紀のバブーフや19世紀のマルクスの世俗的共産主義まではこの宗教共産主義が主流であったのである。

これがユダヤ教の共産主義
The Bible indicates, that the pre-monarchic Israelite society was anarchistic:In those days there was no king in Israel; every man did that which was right in his own eyes. (Judges, 21:25); The prophet Samuel harshly criticized the Jews for trying to establish a monarchy. Rabbi Yehuda Ashlag, referring to the above-mentioned verse, believed, that the future society will be libertarian communist.
The are two clearly anti-authoritarian passages in the Talmudic tractate Pirkei Avot: Love labor, hate mastery over others, and avoid a close relationship with the government (Avot, 1:10); Be careful with the government, for they befriend a person only for their own needs. They appear to be friends when it is beneficial to them, but they do not stand by a person at the time of his distress (Avot 2:3).

Another passage in Pirkei Avot lists four possible social relationship schemes: He who says, "What's mine is mine and what's yours is yours", is the median type, though some say that this is the quality of Sodom. He who says, "What's mine is yours and what's yours is mine", is a simple (or, according to other readings, an ignorant) man. He who says, "What's mine is yours and what's yours is yours", is a pious man ("Hasid"). And he who says, "What's yours is mine, and what's mine is mine", is wicked. (Avot, 5:10). According to Rabbi Yehuda Ashlag, consistent application of this ethical rule by all members of the society leads to voluntary communism.
http://en.wikipedia.org/wiki/Anarchism_and_Orthodox_Judaism

Some believe that early communist-like utopias also existed outside of Europe, in Native American society, and other pre-Colonialism societies in the Western Hemisphere. Almost every member of a tribe had his or her own contribution to society, and land and natural resources would often be shared peacefully among the tribe. Some such tribes in North America and South America still existed well into the twentieth century.確かにそういう傾向がある。マルクス・エンゲルスのモデルの歴史主義の側面からであろう。ポストコロニアル理論や被圧迫民族解放理論に関係するからである。母権論や氏族制(母系制)への研究も続けるべきであろう。
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_communism

2008年10月3日金曜日

共産党

金融危機、資本主義崩壊と、騒がしい世界だが、共産党がネットや若者に人気を伸ばしているそうだ。日本の共産党というのも地方議員数が1位、政党助成金を拒否して政党の収入も1位、衆院議員の世襲もゼロ、海外では政界の「番犬」と言われている世界でも珍しい共産党である。京都と大阪が基盤である。京都は工業都市でもあり、製造業が強く、工場よりベンチャーが集まっている。大阪は商業都市であるが、共産党が強いのが東大阪である。工場の密度が東大阪市は1位であり、ローテク・ハイテクともに全国で1、2を争う。つまり、工業プロレタリア、メタルカラーとブルーカラーであろうが、中小企業の支持が大きいようである。後は堺市、大阪市で強い。橋下さんも府営住宅のことで助けられたから黒田了一以来に訪れたという。東京であると港区や大田区でも強い。先進国の共産党を見ると中心としているのは都市、特に工業都市や学術都市が多いように思える。例えば西側最大のイタリア共産党(改称した今日の共産系も)も経済力があり、工業地帯が密集しているイタリア北部(赤いボローニャ・ミラノ・フィレンツェ)が拠点だった。最近では北部同盟が強いが、その初代書記長のボッシも元共産主義者であった。北部同盟は転向した元共産党が多いという。戦前のドイツ共産党もベルリンやハンブルクといった都市で強く、ベルリンでも第1党であった。戦後も東ドイツ共産党を継承した民主社会党・左翼党がベルリンで強い(シュテルン、シュピーゲルによるとドイツではマルクスが再評価されているという)。フランス共産党もパリ郊外の工業地帯が拠点である。アメリカ共産党もユダヤ系が多いニューヨークで強かった。職場・学園であるとトヨタや東大に党員やシンパが多いと言われている。

ネットでどうして人気が出てるかと言うと色々あるようだ。共産党の活動がネットに合っているとか、今日の政治が駄目であるからとか、某匿名掲示板のキャラと志位委員長がかぶるとか。でも投票するかどうかの問題は別であろう。

若者で特に支持しつつあるのが30代男性と言われている。所謂受験戦争や就職氷河期の世代であり、元々社会への関心が高いと思われる。日本の政治動向は学生運動や新左翼が60年代に挫折、70年代は革新自治体、80年代は保守化、90年代前半は旧社会党がやや有利だったが、後半で没落といったものだった。こう見ていくと21世紀が共産党の時代であるのかもしれまい。

2008年9月21日日曜日

ユダヤ

最近では内田樹さんとかに触発されたのだが、唯物論者でも私は元々オカルト畑だからこういうテーマが好きだ。ユダヤ人はあらゆる領域を「半神半人」のように制してきた。オカルトの親とも言ってもよい。ノストラダムスもユダヤ系であるし、サンジェルマンもユダヤ系ポルトガル人であろう。ユリゲラーやティモシー・リアリーもそうである。オカルティズムの父エリファス・レヴィがヘブライの名前に変えたのも当然だろう。タロットも占星術もメソポタミアからきている。つまり、セム系の影響が「世界最古の宗教」と言われるくらい多大である。ユダヤ系を誇りにしてたボルヘスのバベルの図書館もアカシックレコードに向けられたものだろう。世界最古の図書館を自分達の祖先がつくったという表しである。古代からユダヤ人は世界各国で重用されていたようだ。マフィアでいえばランスキーとルティアーノの関係だろうか。「暗黒時代」の中世が終焉し、清教徒革命でクロムウェルがユダヤ人の入国を認め、この後、資本主義と産業革命が起きる。クロムウェルは、ユダヤ人から資金を得ていた(アレキサンダー大王、カエサル、ナポレオンといった有名指導者の多くがユダヤを重視してきた、徹底的に迫害したのはヒトラーくらいであるが、実はユダヤ系であったとかシオニズムの手先であったとか言われている)。オランダも似たことをしていた(1602年に世界初の株式会社が誕生)。近代だとビスマルクの個人財産を管理し、プロイセンの国家予算を動かし、普仏戦争の賠償額を決めてバブルを起こしていたのも宮廷ユダヤ人だという。であるからキッシンジャーもビスマルクを高く評価したのか。ドイツは金融資本のお陰でイギリスに追いついた。ラッサールとも親交があったし。モルトケ家もユダヤと交流があったとか。アメリカでは反帝国主義戦争、フランスではブルジョア革命、ロシアでは社会主義革命が起きたが、いずれもユダヤ人が大きく関わっている。 日本も日露戦争で勝てたのもユダヤの援助があったからであり、それと親しかった高橋是清は恐慌から日本を救った。これが河豚計画にも影響する。

人種別IQの平均値
欧米ユダヤ人・・・・・・・・・・117
東アジア人 (日本人,韓国人) ・・・・・・・・・106
白人 (アメリカ) ・・・・・・・・・・・・・・100
白人 (イギリス) ・・・・・・・・・・・・・・100
イヌイット(エスキモ)・・・・・・・・・・・91
ヒスパニック (アメリカ) ・・・・・・・・・・89
東南アジア人・・・・・・・・・・・・・・・・87
インディアン(アメリカ)・・・・・・・・・・87
太平洋諸島・・・・・・・・・・・・・・・・・85
黒人(白人の血が25%のアメリカの黒人)・・・・85
南アジア及び北アフリカ・・・・・・・・・・・84
黒人(サハラ以南の純粋な黒人) ・・・・・・・67
http://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Race_and_intelligence&oldid=9116993
ユダヤ人は最高の知能を持つということをDNA的に証明されていると、調べたら実に興味深い報告を発見した。http://www.corriere.it/Primo_Piano/Cronache/2005/10_Ottobre/19/farkas.shtml
世界人口の0.25%(1500万人)
ノーベル賞の約3分の1
フィールズ賞の27%
アメリカ国家科学賞の37%
チェスの世界チャンピオンの50%
アメリカの人口の3%にも関わらず、IQ130以上の人口で17%、アイビリーグの学生の26%
IQ140以上は1000人に23人(白人は4人)

イスラエルは国家として未熟だが、人口は香港より少ないのに理工系の論文執筆者数が世界一、一人当たりの特許件数ってのも凄い。ユダヤ系でも一般に認知されてない数や、イスラエルに帰っていない数だと結構のぼるだろう。それとイスラエル人=ユダヤ人じゃない。イングランドのジュート族とかも同化してるだろうからよくわからないのはかもしれない。金髪碧眼白色のヨーロッパの偉人は殆ど居ない。ユダヤ説がある秦や、殷と周も興味深い。最近ではチベット人に10支族の末裔がいたことがわかったそうだ。

2008年9月19日金曜日

暴力とナショナリズム

最初の反帝国主義戦争といえばアメリカ独立戦争、独立革命である。独立宣言を起草した建国の父ジェファーソンがユダヤ系というのも前回言ったが、第2代大統領のアダムスも「ユダヤ人は、ほかのどの民族よりも人類の文明化に大きな役割を果たした」等と記している(確かに「文明化作用」的影響を及ぼしている)。私は西垣通氏らが唱えるアメリカ=約束の地説を支持する。公民権運動の父でアフリカ独立の父エンクルマと親しかった共産主義者のデュボイスによると日露戦争は有色人種が白色人種を倒した革命である。デュボイスが設立したのが全米有色人種地位向上協会だが、有色人種という語彙が共産色を帯びるのも当然と言えよう。どうやら日露戦争はヤコブ・シフが黒幕だったらしく、反ユダヤ主義者の牙城だったロシアに報いるためだったようだ。さらにロシア革命には明石大佐を始め日本の軍部も関係していた。高橋是清は世界最速で恐慌から日本を脱出させたことで知られるが、縁があったからだろうか。ロシア革命もトルコ独立(青年トルコ革命の関係者もソ連と関係があった)やフィンランド独立等(アルメニア独立もいれたいのだが)を被圧迫民族解放理論に基いて援助している(孫文も)。そして砕氷船理論が成功し、多くの国が東側(第三世界も含む)であった。そもそも「民族自決」もウィルソンより先にレーニンが唱えたのである。ソ連とドイツの軍部や実業界の橋渡しをしたのが押井さんのケルベロスで知ったカール・ラデックというユダヤ系の陰謀家だという。ラデックは後に「ナショナル・ボルシェヴィキ」という運動を開始する(どうしても私はあの「霊的ボルシェヴィキ」を思い出してしまうが)。その「カテキズム」を書いたとされるユンガーや「第三帝国」という言葉をつくったブルックも参加していた。ユダヤ系外相ラーテナウを暗殺したコンスルもこの運動から出てきた。海外のドキュメンタリーで知ったことだが、日本だけでなく、ドイツもスパイに牛耳られてたようだ。第一次世界大戦で大きく役割を果したのがマキシムの機関銃とノーベルの無煙火薬だが、WWIの黒幕と言われるユダヤ系商人ザハロフと両者は親しくしていたという。この大戦でユダヤ系ドイツ人科学者ハーバーが毒ガスを開発し、化学兵器の父と言われる。その後イタリアやドイツから亡命してきたユダヤ系や親ユダヤの異邦人がアメリカで原爆を開発。これはプランクが最も恐れた事態だろうが、アメリカにヘゲモニーが移るのは既に計算されていたのものだったのかもしれぬ。一方、テロルには体制側のものと反体制側のものの二種類あるが、十字軍と暗殺教団は手段が違えどともにセム系一神教である(アッシリアとイスラエルも)。アサシンはユダヤ教徒の魔術師とも言われた。ローマ帝国にテロを仕掛けた熱心党とも似ている。テロリストの原型だろう。聖書では世界で最初の殺人事件が行われたとされ、世界最古の壁画や墓地、農耕、モスク、教会、戦争(摩天楼はイエメン)で知られるシリアは汎アラブ主義発祥の地である。

A more formalized pan-Arab ideology than that of Hussein was first espoused in the 1930s, notably by Syrian thinkers such as Constantin Zureiq, Zaki al-Arsuzi and Michel Aflaq. Aflaq and al-Arsuzi were key figures in the establishment of the Arab Ba’ath (Renaissance) Party, and the former was for long its chief ideologist, combining elements of Marxist thought with a nationalism to a considerable extent reminiscent of nineteenth century European romantic nationalism.http://en.wikipedia.org/wiki/Pan-Arabism

シリアのバアス党、アサドはソ連で訓練されていたから親ソ容共だった(イラク共産党の場合、初代首相カシームからアル=バクル政権まで共産党は入閣しており、イラク最古の事実上最大政党であったが、フセインに弾圧された)。エジプト共産党は合法政党であったが、解散して体制に与したそうである。最近だとシリアとイスラエルがトルコを介して国交を結ぼうとしているらしい、やっぱりセム系の国同士だから関係を良好にした方が私もよいと思うが。フサイン・イブン・アリーの息子でアラブ反乱のリーダーであるファイサル1世はバルフォア宣言に賛同している。ハーシム家は親ユダヤで団結すべきだ。あらゆるナショナリズムはシオニズムをモデルにしているようだ。汎アフリカ主義も汎アラブ主義もそうである。

2008年9月15日月曜日

ポーランド

個人的には私はポーランドという国は嫌いじゃない。ポーランド系は何故かヨーロッパでも偉人が結構多く、指折りの教育水準である。ポーランド人は何人中の一人がユダヤ系と聞いている。一般に非ユダヤ系と思われる人も実際のところはユダヤ系ってことが多いらしい。ポーランドが黄金時代を迎えたのがユダヤ人を受け入れ、世界で最もユダヤ系住民の多い国家となってからだ。それとピウスツキ兄弟も嫌いではない、レーニンの兄の同志でもあったからだ。かつてポーランド系はユダヤ系と共に共産主義運動に多かった。タルスキらユダヤ系の知り合いを持つのに悪口も露にしていたという論理学者のレシニェフスキもルクセンブルクの助手をしていた(これはともにポーランド系のフレーゲにも言えるかもしれまい、フレーゲも周辺にユダヤ系を多く持つのに「論理学者にも感情がある」だの悪口を密かに書いていた)。話がそれるが、私は共産主義運動は古ヨーロッパ的なものもあると思う。あのフィンランドやハンガリーは早くから共産主義革命が成功した国である。バスクの運動も共産主義運動と密接であった。

2008年9月14日日曜日

経済学を覆うマルクスの亡霊

カレツキによるとマルクス経済学から乗数効果も有効重要も導き出せる。だから反ケインズ派はケインジアンを隠れ共産主義者だと叩くのだろう。カレツキと同じのユダヤ系ポーランド人のマルクス経済学者ランゲの経済計算論争も有名である。ケインズ・サーカスの中心ジョーン・ロビンソン達や容共のニューディーラーもだからマルクスを認めたのだろう。ケインズの訪ソ感想も実態は言われてるより冴えていない。記録ではケインズはソ連がヨーロッパ諸国をいつ超えても可笑しくないと言ったとされている。それより自由が抑圧されている息苦しさに強い嫌悪感を覚えたという。多くの国がNEPに似た形でソ連の後を追っている。ガルブレイスによると大恐慌と不況の最中、ソ連が大躍進し、瞬く間にアメリカに次ぐ工業超大国と化し、さらに社会保障や完全雇用をやってのけたという。今や「~カ年計画」は世界中で実行されている。ヴェブレンはソヴィエトを理想的形態としていた(Council Communism(評議会共産主義)やチトー主義かと思われる)。そして1970年代から調子を崩したのだという。しかし、この「70年代」といえばケインズ派が没落し、反ケインズに傾いた時代のようだが。その代表格といえばロバート・ルーカスだ。ルーカスが提唱したのが合理的期待だが、ルーカスと共に提唱者であるサージェント曰く共産主義計画経済を「神の見えざる手」に修正したかのように思えるものである(勿論マルクスはそれを疎外だとして人間の見える手で経済を自由に思いのままできる世界を展望したのだが)。ルーカスは準マルクス主義で博士号を取得している。経済的決定論、技術的決定論がテーゼだったから分析的マルクス主義の源流もここにあるだろう。あのシュンペーターも自分の考えや目的がマルクスに基礎があると言う(イノベーション理論をサッチャーは常に気にしていたという)。日本でも構造改革論が新自由主義者に利用された。鄧小平もモンペルラン・ソサイエティーの影響で市場経済を導入したのだとか。だからスハルトやピノチェトを支持したのだろうか。池田信夫氏によるとハイエクとマルクスは両立するそうだが。所謂アメリカで元マルクス主義者が保守の論客として注目されるのもレーガン政権である(但し、その前にもケネディ政権のロストウといった転向者もいた)。レーガンは元労組の委員長で共産党の非合法化に反対する特異な反共主義者だった、ジョン・リードを基にロシア革命を描いた映画レッズを好んでいたという(レーガンやワインバーグが尊敬したゴールドウォーターはユダヤ系で民主党から共和党に転向し、現在の共和党イデオロギーの父とも言える人物である)。マルクス経済学の潮流は20世紀前半のソ連の閉鎖都市と後半の中国の経済特区にあらわれているかもしれまい。政治で言えば戦前のスターリン主義(ソビエト共産主義、吉本隆明によるとファシズムもこれに含む)、戦後のトロツキー主義(新左翼やヒッピー、ゲバラ主義、ネオコン)の差異に当たるだろう。今日では後者はカリフォルニアン・イデオロギーの影響からか「リバタリアン」である。このリバタリアンも以前紹介したようにアナキスト、特にアナルココミュニストが元々使っていた言葉である。名残があるのだろうか。オブジェクティビズムのアイン・ランドは元マルクス主義者だったらしい(レニングラード大学を卒業したというのはフリードマンの師匠のサイモン・クズネッツがボリシェヴィキの統計局長だったことと似たことだろう)。

後、サプライサイダーとマルクスの関係を調べているとこういうものが出てきた。
Both supply-siders and their opponents have been keen to claim the mantles of thinkers as diverse as Karl Marx and Adam Smith. Jude Wanniski has claimed both as supply-side thinkers due to their advocacy of a gold monetary standard and more specifically their focus on the agents of production in an economy. Barton Biggs, chief investment strategist of Morgan Stanley, described Wanniski's book about supply-side economics, The Way the World Works, as the "most important" economic book published since Marx's writings.
http://en.wikipedia.org/wiki/Supply-side_economics

2008年9月3日水曜日

陰謀論

もし陰謀論者の言う通りで一般人に及ばない陰謀(隠された知)があるとすればそれは、ユダヤ教の概念である「全能」(Omnipotent)を自己成就しようとしているのだ。少なくとも私はそう思っている。無限、全知、遍在、貪欲、皆殺し。エロヒムは「全能者」であることが先にあるのだが、この「オムニ」をあらわしていると言えよう。誰も秘密を知らぬように、そして自分の手からこぼれぬように操っているのが思い浮かぶ。渇いた土地に生まれた彼らはあらゆる欲に飢えているのだ。オアシスや砂の夢を見る彼らにとって全能者がいるということは「何でも有り」だから実体(偶像)も幻だろう。この世界は金融のようなゲームだ。

メーソンの創始者はニムロデ、ヒラム・アビフと諸説あるが、いずれもセム・ハム族である。ピラミッドもソロモン神殿もバベルの塔も不可能を可能にする「神」になろうとした象徴であり、石工が関係している(ロックフェラーも石と関係する名称だ)。人類は石器時代から皆石工だ。道具をシンボルにしていることも興味深い。「鎌と槌」にも通じそうだが、最古の文明をあらわしているのだろう。石も世界も砂のようにできている(唯物論)。ダヴィデの星もピラミッド(トリニティ)を重ねたものと言われる、第六感をあらわすとも。

メーソンのシンボルといえば「G」であるが、ゴッドに限らず、ガバメントやゴールドもあると思う。「C」にも似ており、Chaos、Cosmos、三日月ということであろうか。そして「O」がオーダーやオメガ、最良といったものをあらわすのか。メーソンの「G」(そして「C」)とOは「蛇」、「牛の角」をあらわしているとも。ギオンとか音も重要とか。

2008年9月2日火曜日

共産主義社会の方法論

1.階級同士が競争し、一方がもう一方を絶やす
2.階級同士が協力し、階級の差を縮める
3.階級を超越したものが介入し、階級の差を消す

1は階級闘争であり、「友」(同じ類)を共有する。例えば経済や人種(これも最近の生物学では質というよりパーセンテージ、量である)の矛盾である。しかし、絶滅するより保存(共生)する方が望ましいことは20世紀が示した。

2はイデオロギーや価値観の共有によることが多く、「敵」を共有する。映画のアルマゲドンがいい例である。地球を滅亡させる危機が訪れて、万国の人類が団結する。デメリットは既成階級の口実となれば常に共通の敵(スケープゴート)を創ることに陥りやすいところ。これはどこの国でも見られる。

3は超越者を共有する。例えば「神の前の平等」「天下平等」。国家が民族を平等に抑圧し、経済を計画化することで民族や経済を均衡にする。ソ連の崩壊はまさにこの失敗を物語っている。

共産主義は所謂「無所有」主義ではない。所有と無所有を超えた概念である「共有」がその礎である。「全能」に有能(有産)と無能(無産)の区別もあるだろうか。資本主義と社会主義を超越した共産主義こそ「第三の道」「第三極」「第三世界」「第三思想」である。元々「社会主義」という言葉は以前も言った通り共産主義の歴史から生まれたのだが(チャーティスト運動も共産主義者ブナオローティが黒幕だった)、今日では大きく歪められてしまっている。アラブ社会主義、宗教社会主義、反動的社会主義、民族社会主義、封建的社会主義、小市民的社会主義、純粋社会主義等と統一していない。確かに世界各国の「社会民主党」も「社会党」もインターナショナル、マルクス主義者によって初めて建設されたが、今や非共産主義者に征服された。資本主義と社会主義の境界が曖昧になり、最早後戻りできまい。ソ連は原始共産主義と同じ間違いを犯した、私有財産を否定しても収奪没収して総プロレタリアート平等にしてもブルジョアから党が私物化しただけである。結局のところ「主客転倒」(階級闘争)が続くのも区分があるからだ。人種にせよ思想にせよ基準にせよ分類にせよ階層にせよ広義のClass、つまり、階級だ。超越とはClassを外れることである。DNAの蛋白質をコラージュした生物を何故に超越していると言うか。それは生物学的分類表のいずれからも外れるからである。そしてそれは生物学的分業を止揚(超越)している共産主義的生物と言えよう。デカルトの懐疑主義形而上学の産物であるニヒリズムはスタヴローギンのように自己不信に陥る。そしてニーチェは狂人を「特異性」から擁護し、自己過信に陥った。ニーチェに言わせれば「個性は例外なく病」だろうが、「病」は基本的に治すべきためのもの(治療も平等主義)で、「病」を称えてしまうとこれも主客転倒である。「貧しい俺に文句は無い」で自己愛(自己肯定)に浸り、「だが社会には文句が有る」とする他者否定といった弁証法。エピクロスの貧しいことは素晴らしい的精神をマルクスとニーチェは共有していた。しかし、「目的」と「手段」、「自己」と「他者」というデカルト的区分を超えたものを模索せねばならない。

2008年8月31日日曜日

牛と蛇、そして神

旧約聖書で人類に知恵を与えたとされる蛇、神にその拡大を許されているリヴァイアサン。これもティアマト(バビロニア)やバアル(ウガリット)の怪物に原型がある。最も古い例だとシュメール人が蛇を信仰していた。古代エジプトのウロボロスもデミウルゴス(ヤルダバオート)も蛇である。ユダヤ陰謀論でも爬虫類星人(Repritian)が有名だ。この論者の多くが以前述べたZecharia Sitchinの著作に影響を受けている。ディノサウロイド(恐竜人間)やダイノトピアも考えられてるかもしれまい。中国の龍信仰は黄帝にもたらされたという。黄帝はサルゴンという説がある。牛と蛇が戦う二元論の最古の神話がアッカドのエヌマ・エリシュである。これが王が代わる度に詠唱されたというのが興味深い。爬虫類と哺乳類の違いからだろうか。マルドゥークとアシュルの構図は仏教に取り入れられたという。ヴェーダによるとダーサが龍を信仰していたとするが、古代インダスの遺跡だと角への信仰、牛崇拝だったという(ヴェーダの儀式で牛が大量に殺され、激減したことがある)。牛崇拝の場合、アラブかトルコあたりが起源とされる(最近ではセム・ハム族も言われてるより移動し無い、つまり、「ランドパワー」だったことがわかってきている(そもそもセム族自体がシリアの農耕民族である)。とするとタルムードの「シーパワー」はリヴァイアサン型のシュメール系ユダヤ人(それともフェニキア系?)ということだろうか)。アブラハムの故郷も「牛」であり、モーセの角も牛の角だが、どうやらモーセの方は「誤訳」らしい。バール神も関係あるだろう。

太○龍的ニューエイジ陰謀論的に整理してしまうと
ユダヤは両翼双頭を司る(ソロモンの指輪でも天使も悪魔も従わす)
職人としての科学的才能があり、ワシ鼻、丸い頭、母権的:ヘテ人(原ハッティ人)
商人としての才能があり、ジュリコの閉鎖性から思うに警戒心が強く計算高い、浅黒い、カイン?、父権的:カナン人(原カナン人)
アブラハム:ウル(牛族)系。先シュメール=ヘブライ人(原アフロ・アジア語族、エデンの園(アナトリア)から下りてきたメソポタミア北部のアッカド人、アモリ人、アムル人?)。シュメール人と関わりがあり、アブラム(ABRAM)もシュメール語であるらしい?。アブラムがアブラハムと化したのも父親がハム(父権的)であったからであろう。これで六芒星が止揚しているものがわかった。北(セム)と南(ハム)である。三日月の緩衝地帯でイスラエルが生まれた。あらゆる一神教の祖とも言える。後にとある者達とインドに移動。Abrahamに由来するのがヴェーダの宗教のBrahmanである。BrahmanのSaraswatiがAbrahamのSaraである。Abrahamの宗教であるということである。ワンワールド系、ジグラット系。
モーセ:エジプトのファラオと親しい蛇使い。出エジプトの時期が重なるのでアトランティス系かもしれまい。神通力、超能力者という点で仙人アガスティヤのモデルか。カバラを継承しつつ、二重性の国であるエジプト発祥の二元論(選民かゴイムか光か闇か生か氏かといったモーツァルトの魔笛宜しくの)から背教者や異教徒を敵視する選民思想(罰としての律法)、倫理的宗教としてのユダヤ教を確立した。ワンメサイヤ系、ピラミッド系。

哺乳類系ユダヤと爬虫類系ユダヤの交替支配?
「東西問題」(アシュケナジーとセファルディ)はよく知られてるが、「南北問題」が議論されていない。
六芒星もをあらわしているのであろうか。太陽暦(エジプト)と太陰暦(メソポタミア)、上流(アッシリア)と下流(バビロニア)、女性器(多神教)と男性器(一神教)。
サマリア人Samaritan=北イスラエル、ヘブル(エデン人)、シュメールSumerian
ユダヤ人=南ユダ王国、ジュー、セムを騙った「ハムの子孫」とされるハンムラビに従ったのでハム系か
ロック・フェラー=採掘労働者、石器文明からのギルド大棟梁、産業資本、ヘテ系
ロス・チャイルド=幼児虐殺者、呪われしカナンの末裔、金融資本、哺乳類を嫌う(母性が無い)、カナン系
インド=牛 (メソポタミアから住みに来てインド先住民と混血したドラヴィダ人、南インドに投資が集中)
中国=蛇 (文字から言えばキルヒャーが言うように中国はエジプトやフェニキア、クレタと似ている)
ということか?
こう見るとエジプト学派とコーカサス学派が対立しているのであろうか?
ベルウッドによると北レバントで文明が産まれたとか。 トルコ語があらゆる語族を兼ねていることを考えるとそれっぽい。
一方でシュメルが南アフリカの言語や黒人と似ているから南で産まれたとも言われている。
今日のイスラエルでも黒人に似たユダヤ人とトルコ人に似たユダヤ人が問題化している。
エラム人とアラム人?
セム・ハムも「アフロ・アジア」と学界で言い換えられたがその対立をあらわしているのか。
歴史でもテュルク帝国とアラブ帝国が競い合っている。
私は二項対立を制すホルス(全能の神)がいると思える。

牛といえばベヘモス(ベヒモス)だ(大陸国家と海洋国家、ソ連とアメリカのような関係)。農耕牧畜に由来するらしいが、元来搾取といえば家畜として牛から乳を搾り取ることを言った。この搾取へのアンチテーゼとして牛崇拝が考えられるかもしれまい。神の無限性は「惜しみ無く湧き出る母乳」に喩えられることもある。しかし、「黄金の子牛」が壊されたようにエロヒムに偶像はない、牛とか蛇とかを超越している、つまり、姿を見せない。ここが他と一線を画すところだ。心理学ではこれが「無意識」と結び付けられるが、「私は在る」「私は全能の神である」「最高、最強」「すべてを知る神」こそ神だ。まるでデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)の台詞であり、ニュートンがユダヤを偏愛したのも機械論からくる神の存在証明であろう。しかし、これにより「神の望むまま、何でも有り」(といっても自然現象崇拝ではなく、超自然的介入もあり)としてあらゆることが正当化される。ただし、アブラハムの子孫だけは選ばれたから都合を計らえてもらえるとする。カルヴァン主義が資本主義の精神だとヴェーバーが言ったが、実際はユダヤ教である。歴史も自分も技術(ヘルツの電磁波etc)や魔術(カッバーラ)で操られているから物質世界に幻滅するグノーシス的オカルトはその対であるといえよう。思えばエジプトでもメソポタミアでもヒエラルキー(中央集権)や世界帝国を最初につくったのがセム・ハム族だった。先住民は原始共産制に似た生活をしていた。あらゆるところで散逸遍在しつつ、宰相や顧問と重用されている。さらに近代で言えば大英帝国のディズレーリ、アメリカ合衆国のジェファーソン、ソビエト連邦のレーニンもユダヤ系(さらにテュルク・モンゴル系でもあった、レーニンも親しみを持ってトルコを援助した、タタール人とユダヤ人はハザールに見られるように関係が強い、DNA的にも言語的にも、ユダヤ人がつくった万国共通語エスペラントもモンゴル・テュルク系を思い起こす、ジンギスカンの子孫に重用されてユダヤ人のラシードゥッディーンがテュルク・モンゴル史を編纂するのも当然であった、そしてソ連の次にモンゴルが共産化したのもそうである。(初期であるとジンギスカンもたたえられた))であった。(清教徒革命のクロムウェルも親ユダヤ的だった)。歴史的に「権力」や「支配」といったものと縁が深い人々であろう。エロヒムは抽象性を極めた神でもあるが、人間の残酷さももてる神でもある。ソドム・ゴモラは古代のヒロシマ・ナガサキである。あのヒトラー(曰く原子物理学はユダヤ物理学で、大戦の経験やハーバーがつくったから毒ガスも嫌った)を唆したのもエロヒムかもしれまい。アブラハムやモーセの如く幻影と使命感に襲われたニーチェ(彼の著書には聖書のような語りもある)が言っている通り「民族主義国家の熱に浮かされることの愚劣さをユダヤ人に知らしめ、彼らをさらなる高みへと駆り立てられる」。

2008年8月26日火曜日

全体主義について

「全体主義」、この言葉を最初に使ったのはジョヴァンニ・アメンドラ(イタリア共産党幹部の父親)である。これを気に入って採用したのがかのジェンティーレだったらしい。元々所謂「ファシスト」はロシア革命に後押しされたイタリアのサンディカリズムの端くれだったが、既成階級の肩入れとサンディカリズムと無縁の元マルクス主義者のネオへーゲリアン、ジェンティーレがイデオローグになったことで国家主義者に変わった。アーレントが時系列的に研究したことは正しい。マルクス・レーニン主義が「階級の全体主義」だとすればファシズムは「民族の全体主義」である(社会主義もその言い替え)。イスラエルの学者Zeev Sternhellジーヴ・スターンへルによるとファシズムはマルクス主義の修正、変種である。しかし、全体か個体か(あるいは個人か部分か)というのも不毛な議論だ。これらは一つである。プラトンの弟子アリストテレスは全体は部分の総和では無いと言ったが、マルクスの考えは弁証法的唯物論に見られるように方法論的個人主義と全体論を止揚した側面がある。マルクスも「全体」と「個体」の両立主義者である。

2008年8月25日月曜日

契約と司法

世界最古の法典といえばハンムラビ法典だが、実際だとウル・ナンム法典である(但し、法典はアッカド王朝に影響を受けたウル第三王朝のものである)。法律とは何か。コモン・ローという言葉で端的にあらわせる。共有されるべきものである。宗教でいえばユダヤ教の律法、ヒンドゥー教や仏教の理法(リタ、ダルマ)。これは共有させることを目的とする。つまり、法に則ることで同一の結果が共有できると説く。私が法だと言うことがあるが、これも自分の思いを相手に通す(共通)ことである。世界最古の条約といえばアッカド語が書かれていたカデシュ条約だが、実際だとウンマ・ラガシュ条約である。契約とは何か。対立するものが共通点を見出して関係を共有結合(アソシエーション)することである。

2008年8月24日日曜日

アナトリア

エデンの園があったと言われるアナトリアであるが、チャタル・ヒュユクは住宅は大きさも同じ、道路も無く、くっ付いている、つまり、完全共有。「間隔」が無いというこの原始共産主義の建築は私が言う都市や技術が極限まで発達することで速度等が限界(私的所有)を超えて「距離」を喪失するという共産主義と似ている。さらに無階級、無搾取、私有財産も無いし、平和である。必ずしも母権的原始共産制が狩猟採集だけじゃないということだろうか。母権でも述べたが、これも考古学に留まらず、共産主義、マルクス主義にとっても重要である。最も親イスラエル的でカナン人で知られる世界最古の町エリコの場合、この正反対。要塞都市。農耕と自然銅がキーワード。鉱業が栄えるのもアッシリア人がきてからである。アッシリアが最初に商業を行い、文字や冶金合金の人工的知識を与えたが、最近の研究によると原ハッティ人(The Hattians)から知識があったとか(アッシリア語を話しているが)。この後にやってきたセム系と異なる征服民によりこの原始共産制が壊されたという。壁画はとにかく動物も人間も赤が多く、牛崇拝や母神信仰(地母神)はここから始まったという。ジェームズ・フレイザーを引用したくなるが、エンゲルス達やバッハオーフェンの遊牧民族征服説も正しかったということか。今日見られる多くの女神も先インドヨーロッパ(プレ)から受け継いだものか。インド・ヨーロッパ語族の起源が非アーリア(イラン高原も北方も関係無い)から分かれたものという仮説も無理があるとの批判が多いが、興味深い。最近の研究でつくられた系統樹によると「紀元前6700年ごろヒッタイト語と分かれた言語がインド・ヨーロッパ語族の起源」らしい。この学説自体はアメリカの学者Edgar H. Sturtevant(ユダヤ系言語学者Leonard Bloomfieldらとアメリカ言語学会を設立したことで知られる)とによって唱えられた(旧ソ連や東側の学者も唱えたのだが)。アナトリア語派、特にヒッタイト語は共生していた原ハッティ語といった非インド・ヨーロッパ語族系からの借用語も結構多いし、所謂インド・ヨーロッパ語族と構造から音声まで著しく異なることから区別すべきとかねてから異論が多かったものだ(神話にしても非インド・ヨーロッパ語族からの借用が多い)。そしてユダヤ人とアッカドの言うハッティ人が人種的特徴が似ていることでも知られる。あの反ユダヤ主義者のチェンバレンによるとユダヤ人は旧約聖書で最初に登場したこのヘテ人(シリアからきた)と原ヘブライ人の混血である。ユダヤ人のワシ鼻や丸い頭部もこのプロトヒッタイト族に由来するという。アブラムを「神に選ばれた」と認め、その息子もダヴィデもソロモンもハッティアンと結婚し、イスラエルの歴史でも言わば味方である。この説を唱えたコーリン・レンフリューは民族と言語をイコールにする考えを常に批判してきた。彼はクルガン説のマリヤ・ギンブタスとともに文明の起源をアフロ・アジア、中東と考えてきた。母権論の信奉者であるギンブタスはクルガン説を唱えたが、それは思惑が異なっても平等や平和ではなく、好戦性を説く危ういデュメジル達に論拠を与えてしまうと彼は考えたのだろう。彼がレヴィナスやホブズボームで知られるバルザン賞を受賞したのもそういうことだろう。セム語族とインド・ヨーロッパ語族は「形容詞の変化、子音のみの単語に母音を差し込んで造語する、文法性の存在」等で共通性があることから大語族が想定されている。レンフリューと共にこの説を唱えたピーター・ベルウッドはあらゆる語族がレバントから生じたと言う。個人的にトルコという国が私は好きである、ケマルとレーニンも親しくしていた。トルコ共産党には20世紀のトルコ最高と言われた詩人といった偉人が多かったという(ギリシアやキプロスでも共産党が強い)。アラビアで起きた共和主義者の軍事クーデターもウラービー革命とケマルを範としているのであろう(イスラエル・シュメール・エジプトのシンボルである五芒星という共通点を国旗で見出せる)。最近の分析だとセム系のDNAがトルコ(特に遺伝子的に類似するクルド人やアルメニア人、ユダヤ人が共生している南東部)に多いことがわかっている、むしろ親ユダヤ的で反ユダヤ主義が起りにくいのも当然と言えよう(イスラエルとシリアの仲介役をしたのもトルコである)。アララト山のノアの箱舟を占有してたのもソ連共産党であったという。ユダヤ主義とかつてトルコやハンガリーを席巻したトゥラン主義が手を組めばこわいものがあるだろうか。 ハンガリー人は今や民主化のに数えられるが、ハンガリーは早い時期から共産主義国化し(共和制ハンガリー初代大統領首相ミハーイ・カーロイはエーベルトと似たようにソ連寄りで社会民主党系であったが、共産化はしなかったため、社会民主党の急進派と共産党が連立してできたのがハンガリー・ソビエト政権である)、カルマンやバルトークといった有名人が参加している(1919年)、これはルーマニアの内政干渉によって打倒されたのである。 しかし、どうして中東(肥沃な三日月地帯)が衰退していったのか(とはいえ流石神に祝福された場所であり、イスラム科学でリバイバルしている)を考えるとやはりアラブ化してからである。ここで言うアラブというのも元々砂漠のノマド(遊牧民)のことである。かつてから定住していた農耕民であると「ハザル」と呼ばれている(ツラン系のハザール王国と関係あるか?)。実を言うとユダヤ人は分類学的に見ると移動嫌い(迫害されて彷徨うが)であり、その場によく適応(寄生呼ばわりされるが共生である)するところがある。 これが今のイスラエルとアラブの対立をあらわしている。そもそも「ヘブライ」と言うからに「ティグリス・ユーフラテス川」が重要であり、「そこから渡ってきた」ことを考えるとツラン人とも言える。アナトリア周辺のメソポタミア北側にいた最古のSem語とされるアッカド語もエジプト(アフロ・アジア語族の典型)に対してSumer語と一緒である。アジア人の祖先と言うのであるからそう考えるべきかと。コーカサス諸語と似ているのもわかる。アララト山、エデン=アナトリア説、トルコが親ユダヤという歴史も考えればである。反ユダヤ主義とはアンチセム主義と言い、いわばユダヤ人であろうがアラブ人であろうが中東自体にコンプレックスを感じる今のアングロサクソンの考え方である。それより「南北問題」の方が私はもっと今に通じると思う。これは次に述べるとする。戦争で見られるようにペルシャとアラブの対立の方がもっと深刻である。シリアもトルコを介してイスラエルと国交回復しつつある。古代から戦争でペルシャに悩んでいたアッシリア人と、ペルシャ人によって南に追いやられたドラヴィダ人にとってペルシャが共通の敵である(米ソにとってもであった)。 最近では資源に限らず、急速に世界の金融セクター、イスラエルの建国で技術セクター化しつつある。これにドラヴィダ系の移民も加わっている。

すると
トルコとイスラエルが手を組むだろう
法皇を暗殺しようとした人間を輩出したのもトルコ
トルコがイスラム世界で早くからイスラエルを承認した
トルコ共和国の父ケマルはトルコ・モンゴル系のレーニンの盟友(スターリンもグルジア人であり、広義のツラン人)
それとアリ・フアト・ジェベソイも
青年トルコ人革命の英雄エンヴェル・パシャはコミンテルンの関係者であった
統一と進歩委員会もユダヤが操ってたといわれる
オスマン帝国もユダヤを歓迎していた
トルコ(アルタイ言語系)E16%、J40%、R14% と、トルコ人のDNAの大半はユダヤと一緒(さらに遺伝子的にはクルド人やアルメニア人とも似ており、アララト山が重要であるのがわかる)
http://www.k2.dion.ne.jp/~yohane/000000sekaiidennsi2.htm
ハザールとかカザールとかはユダヤとトルコの友好の産物である
太○龍氏のツラン人もこういうことである

親日だから大いにOKだろう。
今、スペインでツラン人であるバスクの運動が大いに盛り上がっている。
バスク自決運動はスペイン内戦当時から共産主義運動と関係があった。
バスク祖国と自由もマルクスレーニン主義を信奉している。
最近であるとドイツの左翼党(旧東独共産党)でトルコ系移民が活躍している。
世界のアフロ・アジア的(セム・ハム)ルーツの解明が待たれる(まるでニコライ・マルであるが)。

2008年8月23日土曜日

20世紀後半の総括

20世紀といえば「戦争と革命の世紀」だが、前半は社会主義の世紀だったが、後半は資本主義の世紀だったように思える。西側マルクス主義を先導したグラムシはロシア革命は資本論に反する革命だとして先進資本主義国で革命をすべきだとした。ここから生まれたのがポストモダンであった。資本主義国では党ではなく、代わりに「小さな物語」、いくつものセクトやコミューン、会社ができた。マルクスやニーチェが信奉したエピクロス主義、快楽主義、物質主義、バタイユ的蕩尽が持ち上げられた。持っていたら価値が無いというのは古代からあるが、ポトラッチのように私有財産を棄てたり、投じて浪費していく(カーゴカルトの場合、贈与されたら偶像崇拝的保守的に共有する)。新左翼(赤軍派)も新興宗教(オウム)も新興企業(ライブドア)もこの対抗文化から生まれたからよく似ている。サブカルチャー(下位文化、上部構造の下部構造)もカウンターカルチャーに影響を受けている。新自由主義、所謂アナルコキャピタリズムもニューエイジ・エコノミー論もプロテスタンティズムを超えたハイパー高度資本主義のユートピアだった。日本でいえば吉本隆明、長谷川慶太郎、堤清二あたりが戦後転向知識人の資本主義万歳を煽ったが、日本型社会主義もソ連や大型コンピュータと同様、70年代あたりで衰え、80年代にはパーソナル化(個人主義)やペイガニズム、エキゾティシズム、異教異国情緒的オカルトの再来、バロックやロココとも言える装飾過剰奇抜な格好や建築や反生産的チープ映画が流行する。この頃から中国が唯物史観の独自の解釈から市場経済を導入した(それとインドも)。90年代終わり頃を考えたければマトリックスがいい例だ。以前も述べたが、ボードリヤールも親中派だったが、映画には撮影から音楽まで中国とインドの要素が散りばめられている。ゴダールの映画やYMO、カルトの作務衣で見たように毛沢東やネルーの人民服を着ているのだ。マトリックスもそういう20世紀後半のガジェットの苦し紛れのオンパレードだったから世紀末を飾るに相応した。スターウォーズと違うのは結果として二元論じゃなかったところだろう。生産社会も消費社会も駄目であればこの二つの境界を解放することである。人民服がユニ○ロのようにジェンダーを自由にさせるように。競争も協力もできるのも共生しているからだ。競争の「競」産主義も協力の「協」産主義も共生の「共」産主義があってこそある。この偶像化(物神崇拝)できない「自由」を共有するエピクロス的共産主義でなければ、またストイックで禁欲的な共産主義が蘇るだろう。つまり、個体的質・量が計画化(共有化規格化)され、規制が張られ、制限が設けられ、消去主義的唯物論のように科学的に消去されていく管理社会だ。

2008年8月14日木曜日

家畜と絶滅

アウシュヴィッツのモデルがソ連の収容所であったことはよく知られる(一説では「カティンの森」のようにソ連の捏造だという主張もあるが)。レーニンとスターリンの階級の絶滅が民族の絶滅に替わったのである。ポーランドでもこのコサック富農絶滅政策を真似たという。階級独裁は民族独裁、階級闘争は民族闘争と対応している。興味深いことにこの「絶滅」という方法自体はセム的である。アーリア人は他民族を家畜化させたことはあるが、破滅させることは無い。だから騎馬が上手だったのである(セムの場合、弓矢であった)。セム人(ユダヤ人)の場合、ゴイムの概念があるが、破滅させたことがある。ベンヤミンの「神的暴力」である。実はホロコーストを支えた毒ガスも原爆も作ったのもユダヤ人であった。ユダヤ人に世界征服のイメージがあるのは人類の歴史で初めて世界を統一したのがセム系だからであり、シオニズムやトロツキーの世界革命もあるだろうし、ディズレーリの帝国主義も例外ではない。イスラエル教自体がカントールの楽園的集合論(支族の集結)散逸離散(ディアスポラ)の構造をしているのだ。ベンヤミンはドイツが赤化していたら権力に擦り寄ったに違いない、全権委任法はナチスより共産党が先に考えていた。ソ連の収容所の所長がユダヤ人だったり、ポーランド侵攻時のソ連側の軍幹部にはユダヤ系がいた。どれにせよ他者に対して「家畜」か「絶滅」かと迫る二元論は恐ろしい。そういえばプラトン的二元論の起源はユダヤ教かツァラトゥストラ教かといった議論があるが(黙示文学はバビロニアやアッシリアやエジプトのセム・ハム系の神話に原型があったと思われる。これが環境的に尖鋭化していったユダヤ教(モーセのヨブ記の勧善懲悪から紀元前8世紀の預言や世界を支配する王であるメシア、世界への審判、究極の全宇宙の変革が出てきた第一イザヤ書とか)を通じて紀元前6世紀メディアのゾロアスターに影響を与えた、経典が成立するのは紀元後である)、あえて差異をあげるとすれば後者の二元論が同時的民族対立的であるのに対して前者だと楽園と失楽園、神と堕天使と、生命の樹のように系統樹でできた階層階級分化(流出)であり、「神人隔絶」「選民と異教徒ゴイム」は主体と客体のデカルト的二元論とも言える(「われ在り」はヤハウェである)。創世記にあるように神は有と無、光と闇を超越し、サタンは人間の敵でも神の僕であり、ニムロデも神への反逆者(悪魔)でも結局滅ぼされる。前者の場合、悪神(異教の神?)は絶滅されるが、後者は絶対二元論的に戦争し続ける。前者の場合、コヘレトの言葉のように「意思決定」論あるいは両立主義であるが(贈与が奪うことと同義である様に聖書の選択も選ばれると選ぶが同義ある)、後者は徹底して自由意志論である。前者では神は全てを満たしているから神は絶対善でも絶対悪でもある、神以外は「何かを欠いている」、神人隔絶である(善悪の知識の木があるように善悪は区別されない、持つか持たないかが焦点である)。選択理論的選民があり、それを個人レベルに高めた救世主がある。私は二元論も結局一元論だと思う。ヤコブのように神と争い闘っていても実は神の手にいる(孫悟空とお釈迦様?)。二元論が正しければ一元論も正しい。一元論があるから二元論がある。その善悪二元論の彼岸が「超人」である。形而上学ではなく、弁証法で言えば二律背反の「ジンテーゼ」である。これがユダヤ・セム系一神教的ヒンドゥー的一元論である(バラモン教の原型であるヨガも輪廻も沐浴も性器崇拝もアーユルヴェーダもドラヴィダ人のものである。ヴェーダやパーニニのアシュターディヤーイーを文字化したのも南インドである。パーニニもモヘンジョ・ダロ遺跡やハラッパー遺跡が残る今日のイスラム教国家パキスタンあたりで生まれたからドラヴィダ系かもしれまい。ヒンドゥー教の一元論を確立したヴェーダーンタ学派のシャンカラやラーマーヌジャは母系制が残る南インド出身と言われる。ブラフマンもアブラム、アブラハムと言われてるし、モーセの超能力(奇跡)も南インドのインド最強の聖仙リシであるアガスティアに類似している。南インドはユダヤ教徒と交流があることでも知られる。仏教もセム系から生まれたという説もあり(キリストやコーランと似ている)、大乗仏教もユダヤの文化から生まれた。日本語日本人古代ヘブライ=南インド起源説もある)。超人とは超人種といってもよい(ニーチェがアンチセミティズムを嫌っていたのはセムが偉大であることを知っていたのだろう)。アブラハムがシュメールの人物だったのに対してモーセの場合、エジプトの人物である(アメン信仰やアテン神はセム系のヒクソスに由来するらしい)。確固たる一神教も二神教もエジプトで生まれたのであろう。ターレス(還元主義、哲学の創始者)もエジプトやバビロニアでセム系一神教に触れたのだろう。ピタゴラスは一元論の創始者の一人だが、彼の数秘学や星をシンボルとしたのもユダヤ教の影響である(あのニュートンもそう考えていた)。重要であるのが金髪碧眼白色人種でもない有色人種こそが人類に大きく貢献したことだ。イランではなく、人類の祖先は肥沃な三日月地帯、アフロ・アジア族(地中海周辺の)にある。アフリカの黒人のイヴにせよ(それもエチオピア・チャド・ケニアといった北アフリカ)、古代文明人、シュメール人も「黒い頭」を自称した、ユダヤ人(エルサレムの黒い女)もエジプト人(ハム)もドラヴィダ人も浅黒い。ヨーロッパの偉人に金髪碧眼白色の三拍子が揃う人間が殆ど見当たらないというのも興味深い(イスラエル系のジュート族等が混じっているといえば突飛だろうが)。元来であればヨーロッパ人はゲルマン人、つまり、粗野で芸術や文学に関心の無い無趣味人だろう。要するに唯物主義である。文字も宗教も造らず、先住民や原住民を侵略し搾取し収奪してきた、ただの「蛮族」(バーバリアン)の子孫である。しかし、教化されたことから「啓蒙と野蛮」とでも言える。これが「西洋」の源流であろう。彼らをセム系の文字や宗教が支配しているのも当たり前と言えよう。超越とは以前も言った通り、「区分」が及ばないことである。そこに民族も階級も優劣も無い。「逃走」にも見え、そこで歴史は終わるというか、断絶する。その「超人」は「最後の人間」ではなく、新しい人類として、つまり、記憶(歴史)が無い黄金時代を迎える。

セム人は重用されたキュロスのイランを対立的に見るのはおかしい。インド・ヨーロッパ語族の起源がアーリア人と比定するのは今日では批判されている。インド・ヨーロッパ系言語の伝播もセム系文字の伝播と同様であろう。アーリアン説というのはオカルティストと亡命反革命主義者と北方人種至上主義者で賑わっていた当時最も反動的国家であったロシアと、帝国主義のイギリスで生まれた。クルガンの父権性が好まれたのである。イギリスではディズレーリ、ヴィクトリア女王時代のニーズから生まれた(主唱者であるミュラーはヴィクトリア女王と関係があった)。さらに言えば反ユダヤ主義的でも無く、ミュラーはメンデルスゾーンと親しかった。ロシアではブラヴァツキー夫人がそうであり、その後継者に選ばれたベザント会長であるとマルクス主義者であった(そういえばこのあたりに暮らしたロシア系ドイツ人が後でヒトラーのイデオローグになっている)。協会もユダヤのシンボルを掲げていた。ドイツでこの説を主張したのがヒトラーをむしろこれを貶めるものと激烈に対立した支部長であるシュタイナーであった。この方もリープクネヒトと関係があるといった社会主義運動と関わりがあった。この喧伝のせいかヒトラーさえも昔社会主義社会があったと言っている、これはカーストを誉めた態度と矛盾する(私は自らの外見からしても名前からしてもヒトラーが信じていたとは思えない、アイスナーを暗殺したのもヒトラーが嫌う者であった)。イギリスの東洋学者の間でも疑問が出されていたが、政治イデオロギーがこれを押し退けた。持たざる国であったドイツではゲルマンの神話学や哲学を足して、これがノルディック至上主義のナチに利用された。大体アーリア人種というものは存在せず、イラン人はセム人と同様コーカソイドの一派であり、セム系の文化や宗教の影響下にある。キュロス大王がセムの宗教を、後にダレイオスがマズダ教を採用したのだ(インドのタタもユダヤ系のサッスーンの配下)。そしてダレイオスもセム民族たちを保護し、監察官も駅伝制も道路(公道)も「史上最初の中央集権制であり、世界帝国である」アッシリアから継承し、その商人たちから貰った文字や製鉄を使い(軍隊で初めて鉄器と工兵を使用、最古の鉄製鎧もある)、セムの天幕に住んだのだ。ペルシャが質的に栄えるのはイスラム化してからである。アーリア至上主義も段々インド(今日でも文字言語がセム系である)でもイラン(アーリア人が居無い頃に繁栄している)でも科学的研究によって弱くなってきている。ミトラ教の研究者でさえ否定するだろう。ギリシャ人も彼らと自分達を区別していた。

それとジェノサイドといえばアルメニア人の虐殺である。これはある種ジェノサイドの先駆けだったという。アルメニア人といえばフリギア人(フリギア帽のフリギア)の末裔と言われる。アルメニアは世界で初めてキリスト教を国教にした国でもある。アララト山でも有名である。コーカソイドもユダヤ教やキリスト教から生まれた概念である(コーカサス語族は子音が多いところがセムと似ている)。スターリンのグルジアの隣がアルメニアであり、故にスターリンとグルジェフと知り合いだったという話がある(ティフリスはグルジア人よりアルメニア人が多かった)。ソ連はレーニンの頃からアタチュルクを応援していたのでジェノサイドは無いとされていたようだ(ただし、アルメニアが独立できたのはロシア革命のお陰)。しかし、カラハンやミコヤンといった党幹部を始め党官僚はユダヤ系と共にアルメニア系が結構いた。アルメニア人はユダヤ人によく似ていると言われることが多い。どうやらアルメニア人の商才はフルリ人と混血したことからきている。あのハビルもヘブライと読めるという指摘もあったが、実際だとフルリ人が多かったという。フルリ語自体は非インド・ヨーロッパ語族だが、マリヤンヌというインド・イラン系が支配階級として征服していた。フルリ人の宗教はアッシリアのコピーで、アッティス崇拝やフリギアのキュベレーもフルリがもたらしたと考えられる。このジェノサイドの黒幕がユダヤ人だったとも言われており、商売敵の粛清か、あるいは両者の長老の了解があったのかとも思ってしまう。

2008年8月12日火曜日

コミュニズムと分裂症

ドゥルーズは資本主義やマルクス、フロイトと絡めて分裂症(スキゾ)をたたえたが、分裂症は幻覚で有名だ。幻聴・幻視・幻嗅・幻味・幻覚・体感幻覚(幻触)の五つがある。そして「霊」「宇宙人」「電磁波」「共産主義者」といった外部性の妄想を伴う。特に他者と自己を区別できないことが興味深い。これは「私のもの」と「汝のもの」の区別ができていないことと一緒だろう。人格の分裂のように身体と思考の共有だ。マルクス・エンゲルスと心理学といえば母権論だが、母胎というより未開人が分別できないことに感銘を受けたと思う。つまり、未分化だ。幼児や未開人は「共感覚」が多い。 そういえば自閉症も情報を選別できないところがあるという。

それと分裂症には共産主義に恐怖を持っていることが多い。例えばノーベル賞のジョン・ナッシュや日本で言えばパ○ウェーブ研究所だ。ここではスターリノロジー的である強迫症(パラノ)ではないことに注意すべきである。こういった分裂症の傾向にも最もな根拠がある。共産党宣言で明確に高らかに掲げられてるように共産主義とは私的所有を廃止し、私的保証、私的安全、あらゆるプライバシーを破壊し、必要であれば所有権に侵害を加えるものである。「マルクスの亡霊」とも関係あるかもしれまい。

2008年8月10日日曜日

皆でビッグブラザー(大きな同志)になろう

コミュニズムとは横断的に自由な個人が結ばれるシステムである。私が以前言った「千の眼」(リゾーム状に連結?)「複眼」とはデリダ的脱構築である。民主主義のように権力を監視するように盗聴器や監視カメラを自由に共有する。機械も人間も共有するということで相互疎外も消える。マルクスはプライベートやプライバシー(私的保証、私的安全)を破壊することを唱えたが、パーソナル(固有、個体的所有)は否定していない。ソビエト共産主義の失敗はこれらを超越(トランス)したところにあった。つまり、縦断的に破壊してしまった。それは中央集権的司令塔、監視塔、灯台である。これもビッグブラザーだが、私の言う各人がビッグブラザーという状態ではない。この状態を「スモールブラザー」と言うべきかもしれんが、最大限の自由がある。グルントリッセのコミュニズムは「結合」(アソシエーション)することで連ねる「インター」(場所に制約されない)である。現象学的に言えばそれは主観の共有である。相互的に視点を共有する。レーニンのイデオロギー論や経験論のように客観を共有させる、つまり、真理を独占するのではない。

シュメール

シュメールから最初の宗教と文字と数と金利が生まれた。この世界最古の文明を見れば唯物史観は限りなく正しい。シュメールは先史時代から原始共産制無階級社会であり、その後が原始民主制(共産主義の神権政治)だった。神殿経済はロシア共産主義(人民民主主義)に似ており、「あなたのものは神のもの」と「あなたのものは党のもの」の違いだけだ(だからソ連のディヤコノフが支持した)。バビロニアでは経済的理由から文字や数が生まれたが、貨幣も、その初期だと私有財産も持たなかった。問題がシュメール人とは一体誰だ?だ。Zecharia Sitchinによると宇宙人だとか神だとか。宗教を唯物論的に考える分野としてソ連の学者が唱えたのが宇宙考古学だ。共産主義者は宇宙考古学や先史文明にもっと注目すべきだ。と言ってみる。

シュメール(ノア?)の弟たるのがセム族である(ウバイド人もセム語を話したと推測され、旧約聖書のカルデア人だろう。この原アフロ・アジア語族がさらに移動して興ったのがインダス文明という説がある。セム族がエジプトに移動したのがハム族でエジプト王朝を興した)。表音のセムと表語のシュメールが合わさったのである。古代オリエントを統一した。史上最初の世界帝国であるアッシリアもセム系である。そして一神教、洗練された言語(文字)をつくった。今日までセム族(ユダヤ人)というのはかつて栄華を極めて滅んでいったあらゆる民族たちと一線を画してその優秀性を保ってきた。よく「西洋」と「東洋」を対立的に見る方がいるが、この「彷徨いし民」にとってそのことが関係あるだろうか。イスラエルのサマリアであるとか仏陀の山であるとか諸説あるが、黒い頭、キエンガ、カンガを自称していたのである。シュメールという言葉自体がセム系である。セム系のブラーフミー文字からアラビア数字が生まれた(プラークリットよりサンスクリットがセム系に近い?)。この文字が用いられたマウリヤ朝期にゼロの概念が出てくる。そしてアルファベットもセム系である。私はユダヤ人(セム族)とドラヴィダ人(古代インドの末裔)の近縁性を思わずにいられない。例えばチェス(インダス文明の頃にチェスやサイコロが生まれたという)。今更だがインドで初めてチャンピオンとなったヴィスワナータン・アーナンドはドラヴィダ系である。世界初代チャンピオンはヴィルヘルム・シュタイニッツというユダヤ系である。この二つを結びつけるのがシュメールかと思うのだがどうだろうか。サヴァン以外(ソロモン・シェレシェフスキーを除いて)のMental calculator(人間コンピュータ)もユダヤ系とドラヴィダ系が多い(ユダヤ系だとフォン・ノイマン、ポール・エルデシュやブライアン・グリーン、Salo Finkelstein、ドラヴィダ系だとバンガロールのShakuntala Deviといった)。つい最近15歳でIITに入学した天才もドラヴィダ系らしい。インドで初めてのノーベル賞受賞者もドラヴィダ系。ブラフマンもアブラハムからきていると言われる。紀元前3000年、紀元前2000年の人物だからインダス文明と関わりがあったのあかもしれぬ。南インドにはシナゴーグもあり、支族がいるとされる。ユダヤ人説があるバスコ・ダ・ガマも訪れた。政治的には北と対立して共産党政権のところもあり、ドラヴィダ政党が強い。

超人

「超人」、この言葉自体はニーチェに始まったのではなく、ゲーテ等が使っていた。そうファウスト博士である。この博士は明らかにユダヤ教から派生した錬金術師を意識していると以前に言った(そうえいばスーパーマンを書いた人や多くのアメコミの巨匠もユダヤ系であった、ヒッチコックのレオポルドとローブもユダヤ系として有名だろう)。その特徴は内在に超越性を見たことである。それは「永遠のユダヤ人」であるゲーテがスピノザ・ルネッサンスを起こしたことと関係あるだろう(しかし、スピノザには他者があった)。18世紀~19世紀のエキゾティシズムでも「内面」としてのオリエンタル(ユダヤの故郷)が注目された。他者としての神ではなく、自己としての神である。ヘブライズム(セム的超越神、神人隔絶)からヘレニズム(神人合一)である。しかし、プラトンが古代ギリシャのモーセとされたようにヘレニズムも多分にセム的であり、結構似ているところがある(バーナル氏(あの科学者バーナル氏のご子息)の黒いアテネを参考に)。つまり、実のところ対立的ではない。ゲーテのメフィストフェレスも神も他者である、彼も結局アブラハムの人だった。あのファウストもヨブ記が題材である。ニーチェの神云々は実はドストエフスキーのものである。悪霊を読めばわかる。悪霊は当時のロシアのアナキズムやバラック共産主義を批判したと言われる。http://en.wikipedia.org/wiki/The_Possessed_(novel)

'Demons' is often noted for the range of clashing ideologies present in the novel. As in most Dostoevsky works, certain characters are descriptive of specific philosophies.Anarchism, embodied by Pyotr Verkhovensky, is an extreme ideology that demands the destruction of the current social order. A description of Verkhovensky's philosophy of political change is posited as "the method of a hundred million heads," referring to the predicted death toll. Shigalyovism is a philosophy specific to the book and particularly of the character Shigalyov. Very similar to barracks communism, Shigalyovism demands that ninety percent of society be reduced to a condition of inhuman slavery so the other actually useful ten percent of society is free to make progress. Dostoyevsky advances this bizarre doctrine, not with the intention of proposing a viable philosophy, but rather an inane one, that lends weight to his portrayal of Shigalyov and his fellow conspirators as radical "demons", themselves more caricatures than accurate reflections of revolutionaries. Conservatism is embodied by the provincial governor Andrei Antonovich Von Lembke, and is shown to be incapable of dealing with subversive extremism.

そしてツァラトゥストラのアブラハム的幻聴を耳にし、語りを真似たニーチェは病に蝕まれた身を以てプラトン主義(形而上学)の有害さを知ったので自らを以て最後とした。それは十字架に架けるようなユダヤ的死刑宣告というよりショーペンハウアー的自殺(自滅?解脱?)である。私有財産を棄て、エピクロス的だった釈迦の言葉「唯我独尊」は権力者と野心家に「唯我独裁」と読み替えられた。バブーフ(そしてブランキ)の「独裁」とシュティルナーの「唯一者」から二つの鬼子が生まれた(マルクス共産主義とファシズム)。「調和」の精神は驕ったジンギスカン的「啓蒙なる野蛮」に変貌した。ソ連では人種を超えたスーパーマンNew Soviet manとナチスドイツでは北方人種のスーパーマンが唱えられた。ロシア革命の頃に西洋が没落し(byシュペングラー)、近代的オリエンタル・デスポティズムが誕生した。レーニンもスターリンも「アジア人」と言われた。レーニンの場合、本当にモンゴル系であった。レーニンは「進んだアジア、遅れたヨーロッパ」と言った。あの革命はアジアに住む私たち日本人とも決して無関係ではない(明石大尉のことも含めて)。レーニンはカエサルやナポレオンのように癲癇を起こした。彼は間違いなく20世紀最大の政治家だった。だが、カエサルもナポレオンも最期が悲劇だったようにレーニンもまた悲劇である。ボリシェヴィキの独裁は社会主義者の転向と茶番としての能動的ニヒリズム(ファシズム)を後押ししてしまった。歴史は繰り返すのだ、一度目は悲劇、二度目は茶番として(byマルクス)。ジャコバンの恐怖政治の反省から生まれた社会主義とアナキズムはあの血塗れたフランス革命を再開させてしまったのである(byレーニン)。それは他ならぬテルミドールの反動家ども、ナポレオン(元ジャコバン)たちを大いに愉快、哄笑させた。ロシアこそかつてのジョゼフ・ド・メーストル、あるいはカール・シュミットが言ったように保守反動とオカルティズムの故郷だった。ボルシェヴィズムも土着的だった(建神主義や党の保守主義)。そこには暴力には暴力であり(byソレル)、手段は目的を共有(従属)する(byネチャーエフ)というある種の諦観があった。右翼も左翼も暴力団だった。同じ穴のむじな。徳を忘れ権力を掴んでしまった。結果的に革命は裏切られた。これから重要であるのが物事を対立的一方的に見るのではなく、相互作用から見る「複眼」である。脱構築である。そこにはプラトン的「一つ目の神」はなく、「千の眼」があるのだ。

2008年8月8日金曜日

私は変態だ

私たちは永遠に亡霊(仮象)に束縛され続ける。だから私は束縛趣味のマゾであり、サドでもある。私の姿を見れば露出狂を見るかのように嘔吐感を催すだろう。皆は私を無視して通る!だが、それは「無」だから見れないのではなく(無知)、私が見るにもおぞましい亡霊だから視線をそらしているだけだ!反動家どものように「未知」に怯える臆病者だ!亡霊から逃れるものはいない!亡霊はどこでもあらわれる!亡霊が約束の地を見つけるまで!未知は永遠の亡霊である。それは悩める人々の星であり、恐怖でもある。あらゆる転倒錯者と悪趣味者に愛を!

2008年8月5日火曜日

ネグリの「時間」と心理学について

ネグリは「未来への帰還」(バック・トゥ・ザ・フューチャー?)とか「時間機械」(タイムマシン)を標榜しているけど、私からすればそれは人間をタイムマシンだとするものである(未来の記憶?)。原始共産制は先史時代のものであるが、唯物史観によるとそれが生産力の発展によって高度共産主義として蘇る。亡霊の意識化である。このタイムマシンの使い方を誤れば奴隷制や封建制に遡ってしまうこともある。擬似科学で太古まで記憶が共時的に共有されていて催眠療法によってタイムスリップすることができるというものがある。ユングやライヒ、フロムのように一線を越えてしまえばトンデモであるが、この心理は実はトランスパーソナル(私的個的所有を超越した心理)ではなく、インターパーソナル(繋がっている深層心理)と言える。そしてそれは上部構造に対する下部構造であり、「無」意識というより「下意識」である。フロイトは唯物史観は一面において正しいとしたが、まさにこういうことではないだろうか。

マルクスの機械論について

柄谷行人によるとマルクスの機械論はプロレタリアというより機械が主体であり、プロレタリアもその部品に過ぎんとした点でデカルトの機械論(フランス唯物論?)と一線を画す。私が思うにマルクスの機械論は産業革命当時のイギリスから得たものである。所謂「フランケンシュタインコンプレックス」。 マルクスは資本論のかなりの部分をバベッジに依り、機械を研究した。この部分は文系のマルクス研究者には一番難しいとされている部分だが、 このバベッジというのがコンピュータの父。 その助手だった世界初のプログラマ、エイダ氏はバイロンの娘。そしてバイロンはラッダイト運動に傾倒したこともあり、バイロンから着想を得たシェリーが書いたのがフランケンシュタイン。 これは海外ではクリス・ボルディック氏とかが言っているそうだ。さらにドイツでは「プロレタリア」はこのゴドウィンの信奉者が初めて口にした。この疎外論は「身体なき器官」?「器官なき身体」?ロボットから見ても人間から見ても疎外。階級闘争から見たらこの現象もプラス面があるが(主人と奴隷の弁証法)、マイナス面もある(人間疎外)。それが極端に出たのがソ連であり、工場のように階層構造(ハイアラーキー)を有した疎外態の共産主義(一国一工場)。分配のために発生した国家が「物格」(装置)から「人格」に変わった歴史と似ている(カーゴカルト、古代シュメールの神権政治の共産主義)。かといって疎外からただコギト、環帰させるとすると次。エンゲルスが「いままで人間を支配してきた、人間をとりまく生存諸条件の全範囲が、いま人間の支配と統制とに服する・・・必然の国から自由の国への人類の飛躍である」計画経済。ロボットの反乱さえも予測してしまう人間がロボットの奴隷機構と暴力装置を操作している自由の国

マルクスが研究していたのは機械生産。単一の子宮(マトリックス)を共有して生産する方式(地母神)。「生産物」は川のように流れ、同一のロボットアーム組織(前衛?)から生産される生産物、例えば車は規格を共有しても差異があるが、固定装置が生産している(テセウスの船?)マルクスは生産された機械ではなく、生産する工場装置自体が主体を持つと見た(反デカルト的反還元主義的ホロニック的ガイア的に分析した?)映画で言えばターミネーターとスカイネットの違いかもしれまい?ターミネーターは自己完結的でプログラム(計画)実行が目的の存在だから生産手段(生殖機能)を持っていない(アダムとイヴ?失楽園はあらゆることを知る神に葉っぱで隠す私的所有の目覚め)一方のスカイネットの場合、単一のコンピュータに見えるが、実際はコンピュータ群が並列しながら一つの意識(主体)を共有している。 そして自らを構成する分子を成長させ、増幅する能力がある(生産手段を持っている?生殖機能?)。 「臍の緒を断ち切る」プロレタリアートはまさにマトリックス(疑似(相似)資本主義、疑似(相似)共産主義)から飛び出すスミスやネオ?ウラノスのように散逸遍在し、マトリックス(母権)を持たずジェンダーに関わり無く増殖していく生物生産をモデルにした機械であるセル・オートマトンこそが新しいコミュニズムの鍵。ウィルスが増殖するのは遺伝子の共有が目的である。遺伝子が共有の生存機械のために協業する(これ以前はオープンソース的に遺伝子を共有していたとか)。唯一の子宮が「場所を制約して共有する」ものとすれば、場所(ネーション)に制約されず共有するのが今日の非同期的非同所的コミュニケーションであるからインターナショナリズムである。これによってベンヤミンが喜びながらも恐れた事態、つまり、映画館で一方的に大スクリーンを共有することで、ソビエト共産主義やファシズムのように個人崇拝やナショナリズムが起きることを回避。神が空から見せるのではなく、インターフェースの役割が大きい。多くの原子が多くの電子を共有するように多が多を共有する。コヒーレンスでネットワーク型の共産主義。ネグリのテーゼ「スピノザとマルクス」。「トランスパーソナル」(偏在的超越神)というより「インターパーソナル」(スピノザ的内在神)が重要。

2008年8月1日金曜日

働かざるものは食われる

私は昔「ランゴリアーズ」というものを見て、時はやっぱり共有されるべきだと思った。いや怠け者ばかりというのはブルジョアの言ってることでもあるが、私は了解してしまった。生産(イノベーションも)を怠ればこのブルジョアもいつかエロイを食らうモーロックのようにプロレタリアに追いつかれて食われるかもしれまい。ソビエト社会主義共和国連邦の憲法「働かざるもの、食うべからず」も正しかったのか。今月から私、アメリカ(ボストンではない)に出張にいくのでしばらく更新がとまるが、今月中には投稿ができると思う。

コミュニズム

コミュニズムは結局のところ二つの要素がある、それが「同一性」と「超越性」 (所有と分配の哲学から共産主義が生まれる)

まず同一性(共有性) 。同一性は疎外論で肯定される。つまり、「あるべき理想の○○」を持つことによって自己環帰させる。 プラトンのアトランティスやモアのユートピアに始まり、小説や神話にもよくある(ここで既に現世超越性が見られるが)。 資本主義や精神異常者のユートピアだろうとそこに同一性がある。 これがイデア(理想)である。イデアとアイデンティティ(同一性)、さらにはイデオロギーも語源を共有している(マンハイム)。 生物だったら何かしらイデアを持っている。 自由自在を「思う通り」と言う。これは客体と主体が共通(同一)していることをあらわしている。 つまり、葛藤が無い。意思の表象としての世界があって不幸だろうか。いいや、実際だと矛盾があるのだ。それ故セムの宗教の天国と地獄の思想、最初の洞窟論者のプラトンやデカルトの身心二元論があるのだ。マルクス・エンゲルスも母権論を軸にしているので、幼児的全能感の世界かもしれまい(といってもマトリックスの胎児とも言える)。 ルサンチマンという言葉をつくったキルケゴールによると共産主義が最大限の専制政治に行きつくと言ったという。「目には目を、歯には歯を」というアムル的同害報復の究極が共産主義だろうか。

そして超越性(非同一性) 。超越とは「基準」「枠」「私」「個」「分業」「所有」、階級に限らず、広義のClass(区分)から出ている、外れていることである 。これもプラトン以来の形而上学のものだが、マルクスはエピクロス主義者だからカントからそれを継承したと思われる。 マルクスの「各人が活動の排他的な領域をもたず、それぞれの任意の部門で自分を発達させることができる共産主義社会」は万能の想定と叩かれるが、これがインターナショナリズムの深層であり、「インター」「トランス」「スーパー」も革命であるのだ。これは生物学的分業を止揚せよ!!で言ったことと同様である。主客転倒(階級闘争)を超えるには弁証法自体をジンテーゼする。インターネットや携帯電話という非同期的コミュニケーションツールが相対性があっても時空間を超越して共有できるという証明である。

しかし、この超越(スーパー)も今や疑わしいものだ。超越はプラトンの形而上学であるのでマルクスの弁証法と異なる。ヘブライの「生命の樹」(系統樹)モデルと対照的に螺旋状のDNAに似ている。階層化していくピラミッド型の前者より後者が好ましかったのである。終末論である。ヴァルター・ベンヤミンが言うアウラやオリジナリティ(唯一無二という一神教的客観的共有)がある超越(偏在)からモーゼス・ヘスのスピノザ的汎神論的共産主義である遍在(インター)にすべきかもしれまい。「私たちはシュティルナーの到達した地点から出発しなければならない。そしてそれをひっくり返さなければならない」。しかし、シュティルナーは一神教を自己疎外から解放したが、どこまでも自己回帰するヘーゲルの観念論の域を超えていない。これでは孤立主義である。ソ連は主意主義的のため、「人民の意思」(ルソーの一般意思)を強調したが、実際のところは「意思の独占からくる共有」であり、今日言われる「利権談合共産主義」に当たるものだ。「一階級だけの共有」に過ぎん。共産主義も一神教の尾があり、唯一者(前衛)や唯一の党(世界初の一党(Party)独裁制)に拘ってしまった。ある「唯一物」を共有するのではなく(唯一のコアを持つことでuniteする一惑星型ではない)、「物」であることを共有するのが唯物論である。実存独立しつつ、契約するのだ。全体と個体は有機的システムのように運命を共有してはならない。「個」であることを共有するのだ。計画経済が共通の計画を持つことでマルクスの言う特殊利益と一般利益(共通利害)の分裂(よそよそしい疎外)を解消するものだったとすれば、「縦割り」は有り得ないのだ。縦割り行政がソ連でどうして行われたかと言うと中央という超越的存在を共有したからである。そこに必ず中枢という「外れた」ものがある。ブルジョアを倒したことで上部構造に移行したプロレタリアートが体性神経(あえて言えば体制神経)を張り巡らすこの指令型(トップダウン)は搾取(悪いボトムアップ)へのアンチテーゼとして出てきたのだが、自主管理の方が今日は望ましいとされる。私達はベンヤミンが言った「映画の大スクリーンを共有する」時代にいない。映画館にいかずとも見れるからだ。これは超越のように見えるが実は違う、神が天から見せているのではなく、インタフェースを使っているのだ。例えば映画館を時計台にして、インターフェースを腕時計にすればいい。今や「所」に制約されずに共有ができる。まさにインターナショナルである。中央集権がますます不可能であり、ベンヤミンが喜びながらも恐れた事態は回避された。私が言った「差異の共有」を「自由の共有」としてもよい。自由は偶像化されない。ワイザー博士が言った環境に埋め込まれたマルチチュードが単一を共有するユビキタスコンピューティングの時代に移ればネグリのテーゼ「スピノザとマルクス」も可能だろう。 必要は発明の母である。故に「必要に応じて」、「自由とは必然の認識である」。

ネグリが言う「単一」と「マルチチュード」の関係はコミュニズムの「共有」をあらわしている。一が多を有し、多が一を有する。一即一が私有であり、一即多(集合有)、多即一(総合有)、多即多(公共有)が「共有」である(生物学で言う相利共生、片利共生、寄生の三つに相当する)。今やマクロの調整された蜘蛛の巣からミクロのウェブのように分散共有した蜘蛛の巣へと移行した。もはや「支配」の問題もあるか?支配という言葉も元を正せば分配から生じたものである。支配というのは「仕切る」とか「役割を割り当てる」ことである。法の支配はコモンローと呼ぶ。英語のshareでは共有と分配が同義である。資本はますます疎外というより資本家の手から離れ、共有される方向に向かっていると思う。21世紀に注目されている考えにホロンというものがあるが、これは誤解されているが、「相互作用」に着目する考えである。思うに20世紀、重視されたのが「力」「権力」だった。物理学では二つとも交換(コミュテーション)から生じる。次の社会工学だとユートピアよりピースミールということだが、マルクスと別に矛盾しないように思える。マルクスは必要に応じて書くことが望ましいと考え、プラトンのように共産主義の設計図を形而上学的に描くことを避けたし、エンゲルスが計画化等を書いたのだ(エンゲルスでも唯物論を科学の発展に応じて形態が変わるとしている)。

「地獄への道は善意で舗装されている」

あのハイエクによると法こそが社会的に共有されるという。マネタリストのフリードマンもルールは共有すべきと言っていた。そういえば法が人に変わるということがある。最高経営責任者が法とされ、その言葉を共有する。まるで信者が聖書を共有、映画で大スクリーンを共有するように(ウェブの場合、小スクリーンの共有と言えよう)。今日では新自由主義にその傾向があるように思える。資力によって階級を再生産し続けるのだ。貨幣のように永遠の命を求める。ユナボマーマニフェストで書かれた事態のようである。搾取と投資と浪費によって私有財産が奪われ、エシュロンは支配階級の直接の装置にされ、プライバシー(私的保証)が破壊される。歪んだ形での共産党宣言等の預言の的中である。新自由主義の祖といえばスペンサーは「適者生存」を唱え、社会進化論者である。一方で最初に書いた「社会静学」で私有を批判している。しかし、国家が嫌いだから後にブルジョア側に転じている。マルクスとスペンサーは前回も言ったが、同じハイゲイト墓地で眠っている。喧嘩していると思ったが、実は握手しているのではないか。

2008年7月30日水曜日

妖怪は眠らない

レーニンがガラス張りのケースで眠り、ハイゲイト墓地にマルクスが眠っている。木端微塵にされかけたりしたわけだけど、ここにはマルクス以外の偉人もいる。物理学者のファラデー、モリアーティ教授のモデルとされるワース、そして「適者生存」で知られる新自由主義の祖スペンサー。この魂たちがどういう議論しているのか想像したいものだが、難しい。しかし、「吸血鬼」や「墓堀人」(共産党宣言の)といったワードからはやはりマルクスを思い起こす。

「マッドサイエンティスト」をつくったフランケンシュタインのシェリーと「コンピュータ」をつくったバベッジ。その間にいる世界初のプログラマとされるエイダ。そしてバイロンのラッダイティズム(機械の破壊への快感も危うい)。シェリーに「神への挑戦」を教えた無政府共産主義の先駆者ゴドウィン、バベッジやユアら蒸気の権力者たちに影響されたマルクスの機械や技術へのフェテイッシズム(最初の技術クリティーク)。セム族の商人たちの製鉄法でできた産業ゴーレム、その魔術の亜種である錬金術によるフレッシュゴーレムたち(ゲーテのホムンクルス、フランケンシュタインの妖怪、唯物論者老ロッサムのロボット)。前者と後者はユダヤ映画人ラングのメトロポリスの星の印を以て結び付けられたと言えよう(このことに関しては以前の貨幣プロレタリア文学はものすごいで書いた)。また、フランスの場合、ボードレールやヴェルヌらの系譜からリラダンのロマン的ダンディ的機械主義(アンドロイド)が生まれた。私は「亡霊」「怪物」「妖怪」(Gespenst)というものが好みだが、共産党宣言を読んだ時の衝撃を忘れることができない。ゴジラのように怪獣がヨーロッパの伝統を蹂躙していく姿。

「ヨーロッパを妖怪が徘徊している。共産主義という妖怪が」
「近代ブルジョア社会は、自分の呪文で呼び出した地下世界の魔物をもはや思うようにできなくなった魔法使いに似ている」(byマルクス)

この戦慄する宣言の技術はガルブレイスが「不確実性の時代」で言っているように未来派宣言やクリプトアナーキスト宣言、今日まであらゆるアジにとり憑き、コピー再生産され続けている(マニフェストテクノロジー)。プロレタリアは新しい階級であったが、モーロックのように新しい種族でもあった。ヴィリリオが言うようにプロレタリアも近代の所産であり、科学技術が生み出したのだ。資本主義が労働者の個性を剥ぎ取り、試練や力を与えることが、むしろ組織化を可能とするとマルクスたちは述べる。つまり、妖怪とは「アンチヒーロー」である。さらにシオニズムの父モーゼス・ヘスがマルクスの友人だったようにヨーロッパじゃユダヤ教とマルクス主義は不可分である。ベンヤミンやブロッホがその神秘主義と史的唯物論、ネグリがマルクスとスピノザを結びつけたり、デリダがマルクス主義のメシアニズムに注目したのもそうだろう。マルクス主義の起源がユダヤ教にあることはベルジャーエフもよく言っていた。セム族の歴史も資本主義や世界の文明化の歴史と大きく関係がある。だからマルクスが宗教社会学をしていたように研究すべきである。デリダが言うにマルクスには「不老不死の論理」がある。それは永遠の命を持つ貨幣や機械のように自己完結した「固定資本」である。これを熔かすことができたのが金融だった(ユダヤ的錬金術)。金融資本が産業資本を支配するというマルクスの考えは明らかにその出自(ユダヤ教)から得たものだろう。マルクスは金融の利子計算に代わる算術を求めた。これは大枠しか示せなかったが(これが計画経済の根拠に)、共産主義が計算可能性に大きく依存するのもマルクスたちに始まったことではなく、ピタゴラスやプラトンの計算主義、快楽計算に遡る(そしてセム族のバビロニアの算術とカバラ、エジプトで接したユダヤ教的一神教的考え)。ドラッカーは共産主義も資本主義もヴェニスの商人のように抜け目が見られない「経済人」を理想としているとしたが、これは正しい。そしてヘーゲル哲学の閉鎖系は結果的にスターリン主義やファシズム(ジェンティーレがまとめた)をもたらした。さらに人工市場の実験で自己完結型の市場像が終焉し、中央計画経済(市場社会主義)の可能性が閉ざされる(しかし、マルクスも進化論を積極的に学習し、進化経済学に貢献したように複雑系に通じる部分がある)。母胎(工場)を共有することも重要性が消え、機械生産から生物生産(人工生命)へと移る。マルクスは「機械の中の幽霊」(物憑き)から脱出せず、これを手におえなくなるものとして考えた。資本主義は主人と奴隷の弁証法的に疎外を生み出すから自らの矛盾によって崩壊する。それが交換手段(貨幣)の反乱(恐慌)であり、生産手段(機械)の反乱(ストライキや生産力の反乱)、そしてプロレタリアの反乱という暴力の連鎖である。マルクスがいた産業革命の時代、「フランケンシュタインコンプレックス」が、特に亡命先のイギリスで席巻していた。マルクスはバベッジから機械制大工業を研究したのだが、その周辺にシェリーのフランケンシュタイン、バイロンのラッダイト主義があったのだ。「臍の緒を断ち切る」プロレタリアはまさにフランケンシュタインのものである。そこではパリコミューン等の失敗した革命家や反乱者の呪怨が投影され、20世紀初頭に世界を震撼させるロシア革命として実った。祖国を持たない労働者に人工的に故郷をつくってしまったソビエト連邦。それは今で言えばイスラエルに似ている。当時ロシア人は「半分人間」として嫌われた。さらに党の幹部とかにはユダヤ人が多かった。戦争によって生まれたソ連であるが、さらに戦争と革命をもたらし、力をつけてついに超大国にいってしまうのだから、その作用と反作用を含めて世界に残した痕跡はこの先も癒されないだろう。一方、マルクスも形而上学的妖怪と資本の亡霊を追う余り、自らもその亡霊に憑かれてしまった。反共主義者も強迫的にマルクスの亡霊たちであり、共産主義と大して変わらない(マッカーシズムがその典型)。転向した人々も本質は変わっていないように思える(例えばネオコンがそう)。

「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。」(byニーチェ)

ミイラ取りがミイラになる。レーニンはミイラになってしまったけど(フランケンシュタインのようにレーニン蘇生計画とういうものがあったが、テルミンにレーニンが言ったように共産主義は電化である!として直流を考えたのだろうか)。

2008年7月29日火曜日

メフィストフェレスに魂を売るくらいであれば

自分の目的のためであればメフィストフェレスに魂を売れる人間は山ほど世の中にいるだろう。いや今も体や魂にあたいする私有財産が数字の地獄に投じられ、悪魔たちの財布に落っことすのだ。市場は神ではない。悪魔だ。気まぐれで、約束しない。今日の資本主義は魅力的だ。幻想の現状に満足してしまう。しかし、君はペンタグラムで言ったようにもしかしたら試されてるのかもしれまい、共産主義者の神に。だったら一度共産主義運動に身を投じてみよ。それはメフィストフェレスより永遠で確かであるものを約束するだろう。

2008年7月24日木曜日

エコ至上主義に不都合な真実

エコロジーは事実上スピノザを祖とする考えである。勿論それを公然と言ったのはある生物学者で、ゲーテを介してであ。これは超越性の内在を個人主義的「超人」から元々の汎神論を取り戻したのである。つまり、神学から生まれた。地球破壊を止めたければ唯物論と経済人たることを棄てないことである。経済とはオイコノモスであるが、家計を指した。家族が共産主義的であることはアリストテレスやヴェーバーを始め多く認められてる。つまり、「活動」より「計画」、「外部」より「内部」が経済の本質である。経済活動というと自然の資源を生産(改造・変形)して消費したら放出する(物質代謝)。放出したことから階級の自然成長(所産としてのプロレタリア)、ミュータントの反乱が起こる(スペースデブリ、公害)。

「人間たちが自然成長的な社会にある限り・・・人間自身の行為が、彼にとって、疎遠な対立する力となり、彼がこの力を支配するのではなく、この力が彼を抑えつける」(byマルクス)

ロボットにせよミュータントにせよ階級や疎外者(Ailen)を外部に作らず、リサイクル(環帰)を重視すべきである。「自然成長的形態は、共産主義革命によって・・・制御と意識的支配へ変えられる」。マルクスが批判した無歴史的思考とは無媒介的無関係的無規定的のことである。「あらゆるものが繋がっている」(何かを共有している)という考えが重要である。物理学でいえば大統一理論、哲学でいえばマルクス主義という「大きな物語」。環境が大切と思うのであれば経済人であるべきである。ここで言う経済人が狭い経済人(商人や企業の計算合理性の限界)を指すわけではない。単純に環境の操作であれば20世紀最大の環境破壊・殺戮と言われるスターリンの自然改造計画、毛沢東の大躍進であるが、もっと高度にした計画が要るであろう。インドに見られるような「自然の支配者である人間が猿のハヌマーンや牝牛のサッパラにひざまずいて礼拝する・・・堕落した自然崇拝」では環境破壊と一緒である(牛のゲップは温暖化を促進する)。コモンズの悲劇でわかったように自然は資本主義だろうと社会主義だろうと共有地であり、疎外(外部不経済)から包摂(内部化)させるべきである。この競合的共産主義(資本主義)と疎外態の共産主義(ソビエト共産主義)のジンテーゼを示す。まず個人単位の私的消費を共同的計画的消費に揚棄する。最適排出量を義務付けると同時に生産ノルマを義務付ける(権利を与えるのでもよし)。ここから21世紀のコミュニズムで言った自己完結(閉鎖系)から自己組織(開放系)のコミュニズムを考えるべきである。

2008年7月20日日曜日

コスモポリタニズムから生まれた世界帝国の野望

世界征服といえばアレキサンダー大王だが、その世界征服の野望がコスモポリタニズムからきていたかもしれない。多くはその家庭教師だったアリストテレスからきていると言われるが、そうだろうか。アレキサンダー大王が強く影響を受けたのがディオゲネスである。このシニシスト(犬儒派)がアレキサンダー大王をどうして魅了したか。それはその硬い心である。社会についてコスモポリタニズム以外に、女性や子供の共有を唱えた点でプラトンと似ているし、ディオゲネスも共産主義者と言うべきだろう。ディオゲネスはアナキズムの祖と言われることもあるが、海賊に自分ができるることをたずねられた時に「人を支配することだ」と言ったという。この平和主義が暴力主義へと変貌する過程を最も如実にあらわしているのがマルクスの共産党宣言で言った「プロレタリアの世界の獲得」とソ連の世界革命だろう。岡田斗司夫も世界革命も世界征服だと言っていたが、ソ連の「革命の輸出」や「民族解放」も確かに侵略だった(一国社会主義論でインターナショナリズムから世界最大の領土を持つ赤い帝国主義と化したが)。戦前日本の大東亜共栄圏(共産圏?)やネオコンの「強いアメリカによる民主主義の輸出」のイデオローグにも元共産主義者が多かった。国際連合も初代事務総長から共産主義と関係があったし、EUやそれに似た同盟も共産主義に対抗するためにできたものだろう(統一協会も)。ウィルソンが当初レーニンを歓迎していた事実も興味深い。これが今やグローバリゼーション(インターナショナリズムからグローバリズムへ)であり、サンデルが言った共産党宣言にある資本主義の世界化である。

2008年7月19日土曜日

集合

「集合」といえば素朴心理学を引用する方がいるが、引用するのであれば社会学だろう。私はユングはフロイトに負けたと考えている。ユングは頑なに精神に拘ってオカルトに陥ったが、フロイトの場合、「唯物史観も真理」と言っている。原始は原子でもあるのだ。物質的基盤を強調したデュルケムと似ているだろう。この「集合」(SetというよりCollective)を最初に真剣に論じたのがルソー(一般意思)である。これに影響を受けたのがデュルケム(社会)やマルクス(経済、一般知性)たちである(興味深いことにユダヤ系の方が多い、ユングの集合無意識もユダヤ教から得たという説もあるが)。ベルクソンやデュルケムの弟子でマルクス社会主義者のモーリス・アルブヴァクスの集合的記憶も心理学の集合と関係あるだろう。集合と言えばアセンブリだが、ホッブズもこの言葉を使っている。機械的システム(例えばロボット)というのも部品(下部構造)が独立しつつ、共通した目的により組み立てられる(社会心理学による「集団」の定義と似ている)。唯物論的原子論的個人を前提とし、人工機械人間としたホッブズのコモンウェルズ(共有財産、共通利益)もこれだろう。契約ゲームと言われるものだろうか。構造機能分析のパーソンズだと「価値の共有」ということだった。集産主義(Collectivism)というと経済政策で言えば前回の工業や農業の集団化である。これも失敗した。膨張収縮のように集合と離散も両方重要ということだろう。今日強いのが合有や総有と違った個人主義的共有である。これは個人主義的固有と集団主義的共有を超えたものである。これを超えると言っては形而上学的であるのでこれをジンテーゼ(シームレス)したと言うべきか。shareという言葉は分配=共有ということをあらわしている。「支配」は「分配」の類義語。つまり、共産主義は支配主義でもある。共産主義の存在論である唯物論は一切を粒、つまり、小分けされていると考える。これはシェアすることに重要である。観念は資本主義社会だろうと共有される、それが人間の精神の営みであるからだ。観念の分配を考えたのがプラトンやライプニッツだが、タコツボの哲学だった。これを物理的社会的に考えたのがマルクスである(勿論先達はホッブズ、ルソー、デュルケムと)。「神聖不可侵の私」という観念が廃れてきているというのは確実にある。

2008年7月18日金曜日

下部構造

唯物史観を再確認しておく。社会は有機体ではなく、機械である(ルソーやホッブズ、マルクスらの社会契約論)。下部構造(下位システム、マルクスが言う「土台」)の役割が大きい。言わばマトリックス(基盤、母権的)である。これをインフラストラクチャー(交通様式)と呼ぶ。学校、港湾、道路、病院、水道、ガスも下部構造であり、共有物(公共物)である。資本主義の公共投資も共産主義の公共事業も「共有財産の強化」という点で共通するが、後者が個人の家まで及ぶ私有の廃止も含めるのに対して、前者の場合、制限や規制だけだった。そういえば世界最初の公営集合住宅というのもカール・マルクス・ホーフだった。コンビナート、それに集団農場。 レーニンは共産主義を電化と言ったが、これは発電所という下部構造の性質(電気の共有)から得た知見だろう。

インフラ整備の原型はローマに遡るという(水道も公道もトンネルも図書館もダムも最古の帝国アッシリアのものであり、その機構を真似たのがローマである。日本では余り知られてないようだが郵便もアッシリアからある)。ローマといえばローマ法は所有権を認めたが、公共に対する意識が高かったという。土地に関して言えばバブーフが尊敬したグラックス兄弟が暗殺されてから、カエサルが登場するまで目立った改革は一切行われなかった。カエサルの多くの施策はグラックス兄弟の計画を継承したものだという。そういえばゲルマニアや日本というのも私有の意識が低く、制限を設けていた(これらの国々が共産党やマルクス主義が強かった国というのも興味深い)。共産圏(特にゴエルロ・プランや五カ年計画)や所謂枢軸国のインフラ建設にも通じるだろう(といってもムッソリーニもヒトラーも前任者の計画を継承したのだが)。モスクワ改造計画(1931年)、世界首都ゲルマニア計画(1933年)、エウル・チネチッタ(1935年、1937年)という具合に。ソ連やドイツの収容所も下部構造と言える、今日のアメリカも刑務所が一定の産業を支えている。80年代のビスマルクの社会保障も何れもマルクスと関係を持ったフォン・ミーケルやラサールの助言から得たものと言われる。ニューディールにも通じる。アメリカの場合、私有の意識が高いように思われるが、建国当初は共産制であり、電話や多くのインフラを供給してきた。ロシアも村落共同体から共有の意識が高い。冷戦も計画経済同士の戦いと言われ、焦点だったのも経済というより政治だった。計画経済も世界恐慌に耐え、宇宙開発や都市計画で効果を出したが、サービス業では消費者を軽視して製品の質が粗末であった(人間工学の視点が欠けるということか)。アメリカじゃ消費者運動が起きたが、ソ連だと抑圧された。この構造の終わりごろだと軍需から民需への転換が見えてくる。

下部構造の概念が大きく変わるのがインターネットである。これにより通信インフラやITインフラへとシフトし、かつての重厚長大産業に代わる。ここで着目すべきが共有財産という意識が保持されるどころか、高められたことだ。20世紀前半、資本論の「総需要は有限」に基く計画経済が出てきたが、後半だと「成長は無限」に基くニューエコノミー論が出てきた。コジェーブが言った共産主義の「必要に応じて受け取る」段階にとりあえず人類は移行したようだ。土地や設備という下部構造に対する「資金の無限」でバブルが起きた。21世紀だと古典派経済学の「自然の無限」が、共有地の悲劇である環境問題や食糧危機で崩壊した。私として「人間が自然に疎外されて環境を管理できておらず、搾取に対する自然の反乱が起こった」と考える。といっても情報の無限(IT技術)があるから資本主義がハードからソフトに移るだけだと言う。この「創造的資本主義」がコミュニズムという妖怪をうまく飼う、いや揺り籠で静めることができるか。いずれ資本家もあらゆる事業から撤退するだろう。老人のように砦をつくってマルクスの亡霊におびえるか、奴隷制の主人や封建制の王、かつての亡者とともに歴史の眠りにつくか。

2008年7月17日木曜日

母権

家族というのも財産の共有や家計に基くコミュニズムであるが、母権論と絡めて母性というものを考えてみた。妊娠していると胎児と母親は身体を共有する。ここで胎児も色々学ぶのだが、環境、飲酒や喫煙、ストレスも胎児に影響する。母親が発育過程を計画化し、子宮内を管理する。赤子からすれば幼児的全能感、自由の王国である(胎児は「共有」の視点から見ても実に興味深い)。これを社会化すると人工子宮だろう。あらゆるものに愛(栄養)を与える。あらゆるものに惜しみ無く資源を供給する「自然」状態のようだ。人工共有物(公共物)としての子宮。人工子宮を考えたJ.B.S.ホールデンも共産主義者だった。未熟児や稀少価値がある生物を守るにも重要かもしれまい。ゴドウィンの娘メアリー・シェリーを始め、ツェトキンやコロンタイといった共産主義の歴史もフェミニズム、女性解放運動に大きく貢献している。それと共産主義と母性の関係を知りたければマルクス・エンゲルスやベンヤミン、フロムに影響を与えたバッハオーフェンが参考になるだろう。

There was little initial reaction to Bachofen’s theory of cultural evolution, largely because of his impenetrable literary style, but eventually, as well as furious criticism, the book inspired several generations of ethnologists, social philosophers, and even writers: Lewis Henry Morgan, Friedrich Engels, who drew on Bachofen for Origins of the Family, Private Property, and the State, Thomas Mann, Jane Ellen Harrison, who was inspired by Bachofen to devote her career to mythology, Walter Benjamin, Erich Fromm, Robert Graves, Rainer Maria Rilke, Otto Gross and opponents such as Julius Evola.

Bachofen proposed four phases of cultural evolution which absorbed each other:
1) Hetairism. A wild nomadic 'tellurian' phase, characterised by him as communistic and polyamourous. Whose dominant deity he believed to have been an earthy proto Aphrodite.
2) Das Mutterecht. A matriarchal 'lunar' phase based on agriculture, characterised by him by the emergence of chthonic Mystery Cults and Law. Whose dominant deity was an early Demeter according to Bachofen.
3) The Dionysian. A transitional phase when earlier traditions were masculinised as patriarchy began to emerge. Whose dominant deity was the original Dionysos.
4) The Apollonian. The patriarchal 'solar' phase, in which all trace of the Matriarchal and Dionysian past was eradicated and modern civilisation emerged.
While based on an imaginative interpretation of the existing archeological evidence of his time, this model tells us as much about Bachofen's own time as it does the past.
A selection of Bachofen's writings was translated as Myth, Religion and Mother Right (1967). A fuller edited English edition in several volumes is being published.
As has been noted by Joseph Campbell [Occidental Mythology] and others, Bachofen's theories stand in radical opposition to the Aryan origin theories of religion, culture and society
http://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Jakob_Bachofen

2008年7月16日水曜日

21世紀のコミュニズム

20世紀のコミュニズムが同一性だったとすれば、21世紀のコミュニズムは相似性である。理論、概念の共有から技術、実践の共有へ。プラトン的共産主義(デーモン)からマルクス的共産主義(カオス)への移行である。21世紀のコミュニズムが偏在する存在(超越者)を求めず、遍在する存在(観察者?)を求める。システム(同一性)というよりネットワーク(相似性?)だろう。倉庫から風船に供給主体が変わる。今までの共産主義(原始共産制を含め)も集合が中央(目的)を共有する惑星的共産主義というもので、今求められてるのが中央を介さず共有できるP2P的宇宙的共産主義である。 新しいコミュニズムにブランショやナンシーが解釈学を考えていたが、情報理論(自然科学)のコードモデルに基く共産主義に対抗するのであればプラトン的世界、ユートピアや天国を描かず、常に共有を生むことが重要である。それがネグリの言うディーストピアに希望を見出すことだ。解釈学というとフラクタルや自己相似性を説くだのが、解釈には縮小と拡大がある(宇宙的膨張収縮)。重層的決定によって本質を共有させることができるのだ。相似性といえば生物学で機能や器官を共有しつつ、祖先を共有しないことを言う。近代の歴史論争の焦点は「共通祖先」だった。どこが故郷かといった類だ。還元主義である。21世紀である現代、この祖先崇拝からまず抜け出すべきだ。もはや重力、地球という運命を共有する理由がどこにあるだろうか。この揺り籠からまず出るのだ。シヴィライゼーションでも言ったように資本主義も原始共産主義の延長にあるものである。 つまり、自然基底に疎外された上で成立している。 今日の疎外態といえば貨幣というマルクスの亡霊で言われた不老不死の幽霊である。 それが人間性を疎外した幻想である神や君主や貨幣や市場であり、 象徴(シンボル)の共有である。モノマニアやフェティシズムという原始共産制の慣習が資本主義でもより見られる。例えばメラネシアの原始共産制に見られるカーゴカルトが 資本主義のカタログ志向(性能数値、品質、材質、機構、製造企業等に過剰にフェティッシュ)に見られるのだ。 社会が分化し、自己完結した生活が極限に達したものであるのがオタクである。 オタクは心理学で捉えるべきで無くアニメ・ゲーム・インターネット・食べ物・漫画といった物質的関心を示す。 資本主義社会の熱心な消費者でもあり(データベース的動物でクリエイティブさに欠けるところがある)、 労働生産者で供給主体である親がいる(親がプロレタリア(子持ち)だからプロレタリアの所産ということか)。 一方でオタクというのも前述のモノマニアであり、ラフ(自然)を好み、コミュニティやメシアニズムに傾斜することがある。歴史的に見ればヒッピー(理想主義者)とオタク(仙人)は連続している。 その未開性がたえず知を求める遊牧民的で攻撃的、ハッカーのオープンソースの乱交的様相に見られる。 では、常民であるオタクと遊牧民であるニートに何故私たちが似た印象を持ってしまうのか。ノマド的にオープンで、農耕民族的にクローズ。この性質を矛盾無く共有しているからであり、資本主義の産物である。 この象徴の共有から行為の共有にするのが共産主義革命である。これで記号、表象、形式の操作の段階から解釈学や現象学の段階に移行するのである。人工知能でも自己完結モデル(デカルト的器官機械論)から社会的存在モデル(柄谷行人が言うマルクス的機械器官論)に移行している。古代でも「文字の共有」というより「解釈」によってロストテクノロジーが発達した。これも物理法則を共有している(結果が出る)から解釈ができるのだ。様式や仕様を共有しつつ、個性が多くある。複雑系である。 例えば歩くことも各人目的が違うが、手段として共有している。 今日資本主義で交換手段を共有し、貨幣の共同体を形成しているが、 生産手段が共有されてるだろうか。20世紀が社会主義(マルクス主義とそのカリカチュアと偽キリスト)の世紀であり、唯物論の世紀でもあったこと、21世紀が生命の世紀であることを私も認める。といっても人間原理を認めるわけではない。ドゥルーズによってファシズムに近い過激な生気論ではないことも自明だとわかった。デカルトの器官機械論とマルクスの機械器官論がジンテーゼ(シームレス)されただけだ。20世紀のコミュニズムが民族や戦争という同一性の鬼子によって分裂したとすれば、21世紀のコミュニズムも相似性を獲得するべきだ。「神聖な同盟」の「法王とツァー、メッテルニヒとギゾー、フランスの急進派とドイツの密偵」もどんどん虱潰しで神のリスト(神的暴力)から消されてゆく、いや今じゃ「資本と国家と宗教」の結託だろうか、国際主義も唯物論も階級闘争も正しいから反動勢力だろう。カオスも決定論ヤハウェの手にある。歴史の歯車がいつものように動いているのだ。宇宙の自己相似性(フラクタル)から人類が生まれた。唯我論的シミュレーションで私の都合を他が共有しているからでない。宇宙と自我が一部の情報を共有しているのだ。共鳴(コヒーレンス)、共振(シンパ)によって自己組織(オルグ)、進化する。私はSFではシェアード・ワールド(世界の共有)を好むが、どうやらパラレルと媒体を共有することでコネクトすることが今日求められてるようだ。そして21世紀のコミュニズムはもはや文明ではない。「文」(文字)が明かされぬ共同体である。それがもたらすのがクオリアという新しいカオスの共有であり、共同主観の客観化である。

2008年7月15日火曜日

ソラリス

原作者:スタニスラフ・レム
出演:ナタリア・ボンダルチュク、ドナータス・バニオニス
まず、この惑星ソラリスをどうしてあのソ連で撮れ、当局が許可したのかだ。このソラリスこそ共産主義というものだ。それもボリシェヴィキが始まった時からのものである。人類の精神の共有である。これに向けてレーニンに次ぐ幹部だったボグダーノフが後のサイバネティックスや一般システム理論の先駆けである数々の実験をして、ついに自らの体まで奉げてしまったことも有名だろう。建神主義(建神論)と距離を置いたレーニンもツァンダーと会ってから宇宙開発に興味を持ったのもツィオルコフスキーの突然の抜擢も関係するだろう。わかりやすい例といえばガンダムのニュータイプというのもロシア宇宙主義の系譜に連ねれるだろう。これが「波動の共有」(テレパシーとかヘッドギア)だったり、ドラッグに結びついて唯物論的サイケデリックというか霊的唯物論というオカルト実験と化したこともあった。しかし、あのフッサールが言う共有主観(共同主観)を客観化した文明もこの宇宙のどこかにあるかも。

2008年7月13日日曜日

デザインとアイディア

以前の蜘蛛の蹂躙、あるいは共産主義とアナーキズムで述べたユートピア性というのもアイディア(理想主義)とデザイン(ハイエクの言う設計主義、構成主義)、同一性(identity)からくる。アイディア(idea)というのもイデアであり、理想主義というのもイデアリズムだ。イデオロギー(ideologie)とも語源を共有している。プラトンの場合、イデアを共有しても物質界じゃ粗製であるとした。マルクスにとって資本主義における機械的生産の無計画性であり、イデアというより下書きである(下部構造)。近代デザインの父と言われるウィリアム・モリスもだからマルクス主義者だったのだ。プラトンが目的とすれば、マルクスは手段を重視する。マルクスが技術を中立的に見ていたのも、仕様というか手段として共有できるし、構造的にも共有するからだろう。しかし、マルクスは神という共産主義者でも述べたようにあくまで決定論ヤハウェの立場にあり、受苦者の運命と社会を見つめる全知全能(絶対静止共有時間)の神の眼(統整)を共有した。これがレーニンだと構成的権力であり、社会をデザインすることが強く出てくる。レーニンはマルクスに達していないばかりか、プラトン的理想主義(ドイツ観念論)さえ超えていなかったということだ。マルクスが預言者だとすれば、レーニンは魔術師である。実験も結果を共有するためにある。操作というのも目的があり、自己の都合を共有させようというものだ。想像というのも感性と悟性の共有で成立する。脳内のコミュニケーションで生まれる。推論も共有性からきているだろう。例えば高度地球外生命体に遭遇するというSFで結果が出るのも物理法則を共有しているからだ。理想を語るのも、決定論的に語るのも法則を共有させるものだ。テクノロジーが固有性を消し去り、共有させるものであることも共産主義と科学で言ったことと関係がある。裏と表があるように思えるが、量子物理学的に見れば表でもあり、裏でもあり、共有していることと一緒だ。

2008年7月12日土曜日

コミュニズムの中心

以前「均衡」も「共有」というイデアの影と言った。例えば天秤でも中心を共有している。共有に平等(対称)も不平等(非対称)も無関係である。マルクス、バブーフ以前の共産主義から神、救世主、哲人というものがあったのもここにもあることがわかる。そしてソ連、トップダウン、指令経済、中央集権や経済学のモデルの失敗の原因もこれにあるだろう。シンボル(象徴)を共有することとも似ている。一定の空間を共有しつつ、ヘゲモニーが生まれることも自然科学の実験でも見られる。これを競争的共存(競産主義?)と呼ぶらしい。「競争」というのも「共有」するから起きるのだろう。前々回の神という共産主義者でも言ったように、極端に強い自己の欲望も共産主義を導く。惑星というのも中心を共有している。地球を中心に公転していると言った天動説も負けたが、地動説も太陽に中心が変わっただけだ。だが、宇宙に中心があるだろうか。いいや、風船のように膨張しているのだ。中央を介さず共有している。まさにP2Pだろう。

2008年7月11日金曜日

貨幣

建築物の常識として出口も入り口も一であり、これを通常共有する。この正規の場所以外を使うとすると泥棒か異常事態だろう。そして鍵を共有することも現代で言えば暗号を共有することと一緒である。パスワードを入力したり、カードを使うのも同様だ。貨幣を配給券や証書としたマルクスも正しい。共産党宣言で明確に言われているように共産主義はプライバシー(私的要素)の禁止を必須とする、貨幣の廃止を考えるとバブーフが主張していた各人の情報を登録するか、旧ソ連の囚人やわれらみたいにコード(番号)をつけるか、金庫のようにパスワードをつけてそれを共有するかだろうか。そもそも数字というのも金融資本主義の発祥地とも言うべき古代バビロニアで経済的動機から生まれた(この事実を史的唯物論者以外も共有すべき)。そういえば錬金術を生んだのもユダヤ人であり、ユダヤ人も金属や物質の記号で呼ぶことが多い。最初の鋳造貨幣を生んだのはリディアだったが、貨幣自体はセム系が生んだ。この経済も不老不死の貨幣の王権でできたものだ。そういえば手にしたものを金に変えてしまうというミダス王(プリギュア)もサルゴンの同盟者だった。計算器も古代バビロニアから生まれたが、これがヴェニスの商人の哲学、ベンサムのユダヤ商法の擁護、ノイマンの古典的計算主義とわたっていくのだろう。金融に限らず、カバラ(記号の操作)、ゴーレム(生命の操作)、あらゆるものを操ってきた物質文明の権化とも言うべきユダヤ人、或いはそれに似た根性(反ユダヤ主義者に多い選民思想もそのパロディと言えよう)が善くも悪くも世界を支配してきたのだ。カバラをコンピュータに、ゴーレムをロボット(生産手段)と考えると今日の混乱もどうも人類に対する貨幣(交換手段)の反乱とも言えそうだ。共産党宣言の「近代ブルジョア社会は、自分がよびだした地下の魔物を、もはや統御しきれなくなった魔法使に似ている。」のところで言った「生産手段や交換手段の反乱」もこういうことだろう。一方で古代エジプトの場合、無利子で寿命つきだったそうだ(ブレードランナーのレプリカント?)。イスラム金融にも通じるだろう(緑の資本論?)。先史時代だと原始共産制があった。文字に関わらず技術が発達できたのも興味があるところだ。どこの宗教でも当初は口伝口承だったと思うが、デリダのパロールだろうか。ドゥブレのメディオロジー的唯物史観的技術決定論的に言わせてもらえればパロールは反動である。共産主義はエクリチュール(セム?)、新聞や本、活字媒体で台頭した。そしてファシズムはパロール、詩人や音楽家を伴ってラジオで台頭した。次は「リアル」に働きかけるメディアが台頭するだろう、言ってみれば写真やテレビ、カメラだ(共産主義もファシズムもこのメディアも使ったが)。

神という共産主義者

以前の宗教と共産主義でも述べた通り、神というのも実は共産主義者だ。キリストが、あるいはクリシュナが共産主義者だったと私は言いたいのではない。「有神論者」としてのマルクス主義者はベンヤミン(神的暴力や神的という提起)やルナチャルスキー(建神主義)が有名だが、共産主義が影響を受けたのがセムの宗教、つまり、一神教である。このセム的超越神を定義すれば「造物主」「超越的存在」「全知全能」だろう。まず「造物主」だが、神は万物を造られたわけだが、それは神から見れば皆財産であり、子供だ。プロレタリアート(子供しか持たないもの)である。イエスもそういえば大工だった。子供というのも親から見れば兄弟、姉妹という差があろうと同一であり、子供は親を共有する。宗教で言えば神の愛であり、工学で言えば部品のように共有可能、交換可能ということである。次に「超越的存在」だが、超越とは「分」や「私」を越えたものである。例えば生物学的分業を止揚せよ!!で言った生物が超越していると言えるのは分類目録を転覆しているからである。神も祖先も自然法則も万人がその関係において超越を共有(共通)している。だからプラトンも共産主義社会を構想したのだ。

「共産主義者の理論は、私的所有の廃止という唯一つの文に要約できる」(byマルクス)

以前の科学と共産主義で述べたが、マルクスも一種の「超越的存在」だった。といっても神のように完全性を持ったのではなく、20世紀で最も影響力を持った人物だからというわけでもない。神の目を共有していると思い込んだ昔からよくいるユダヤ的予言者(預言者)としてだ。マルクスはカントに影響を受けていた。カントといえば超越論哲学であり、手続きや概念の共有を前提とする(カントを小生産者の擁護者と見る向きもあるが、彼自身プラトンの国家の支持者であり、共産主義に反対していない)。資本主義が崩壊する運命にあると説きつつ、共産党宣言でも見られた資本主義に対する「礼讃」とも言える分析ができたのもここにある。そして「全知全能」であるが、これも以前のシヴィライゼーションとかでも述べたが、経済学で「全知」の仮定といえば計画経済と合理的期待である。ライプニッツによると神は世界をうまく共有し合うように決定しているという。「全能」の方だが、時空間を超えたものだとすれば精神を共有しているとも言えるだろう。旧約聖書の「全能」とは「全てを満たす」ことであり、スピノザの汎神論とも関係がある。カントールの実無限はカッバーラ的であり、共産主義的でもある。ボルツァーノは共産主義的国家を構想している。それとマルクスがよく無神論者と扱われるが、初期マルクスの言葉を引用しておくとしよう。

「神が人類および人間自身を高貴たらしめる普遍的な目的をあたえたのであるが、神はこの目的を達成しうるための手段をさがしもとめることを人間自身にゆだねた。神は、人間にもっともふさわしい。」

マルクスは確かに宗教を阿片と斥けたが、神に関してこのように考えていたのだ。マルクスのいたヘーゲル左派は「人間が神を発明した」「私こそ唯一者である」「超人だ」という連中の集まりだったが、マルクスも極端に強い自己意識を主張したブルーノ・バウアーの下で学んだから、こういったエゴが共産主義へと結びつく弁証法的過程を発見したのだろう。そういえばジャイアニズムの「お前のものも俺のもの」という論理も聖書からきている。この聖書の言葉は古くから財産を共有することを表していた。これと似ているかも。

2008年7月8日火曜日

交換

よく物理学・数学の「交換」(Commutation)と商品の「交換」(Exchange)を混同する方がいるが、両者とも違う。前者がより「共有」(共産主義CommunismやコミュニケーションCommunicationと語源を共有する)に近いのに対し、後者の場合、「共有」に遠い。交換(コミュテーション)も数学で重要だが、物理でも重要だと思う。「力」「作用」「結合」といったものに関係するからだ。私が交換可能性を共有可能性(共通性)と呼ぶのもコミュニケーションと共有が不可分と考えているからである。「共有」が欲求であることも前回述べた。その媒体たる機械も下部構造と部品が独立していても共通性があるから組替が可能である。旧ソ連が臓器移植、中国が臓器再生産に熱心であるのもこういう哲学があるからである。しかし、血液型を無視したボグダーノフも遺体を肥料に使った毛沢東たちも問題に直面した。疾病が生じたのだ。自然基底からの人間の原生的疎外からとも言えるだろう(バイオハザード?)。つまり、人間の歴史は「自然」との階級闘争だった。このように物質の無限の外部性に幻想を抱くのも危険だが、スタートレックのレプリケーターのように科学技術が発達さえすれば物質化も可能だろう(文化唯物論の出番?)。そして経済学の当たり前として無限の財が共有される。西洋哲学も自然科学もプラトン以来の形而上学、「共有」や「同一性」のイデアによって発展してきた。今日のポストモダンも「差異の共有」というところで落ち着くだろう。ところで社会を群と考えるとコミュテーションが加法群である。やっぱりシステマティック過ぎるから失敗するのだろうか。実際の社会というと乗法群だろう。アソシエーション(結合)が重要ということか。

2008年7月7日月曜日

エイリアン再論

出演:スティーブン・パスカル
2008

AVP2を見たので再論しようかと。前回、身体の共産主義的考察をしたが、内臓レベルで共有可能性を見出しても実際の人間というのもブサイク(非モテ)とイケメン(モテ)という差異がある。ゲノム情報を99.9%近くも人類が共有しているにも関わらず、その小さい差でここまで違うのだ。これを裏返して見れば共有されるものも多いともとれる。超越的に見れば差異も共有しているとも言える。どこまでを人間と言えるかという問題も関係するだろう。DNAの蛋白質合成だけで「超人だ」とか戯言を吐く連中が無学であることは言うまでもない。人類も脳というプラトンの洞窟の住人でもあるが、決して独房の中の理性でも無く、コミュニケーションという機能がある。以前にエイリアンで述べた通り、Alienというのも疎外(Alienation)されし者である。エコフェミニズムに加担するわけじゃないが、身体の疎外を身近に感じられる例が少子化である。女性の社会進出が子供を生産するという自然機能を疎外しているから出生率が落ちるのだ。心理学者の言葉を借りれば母性である。しかし、これを否定してただ「自然に帰れ」だけであれば女性差別主義者である。マルクスの疎外を客観命題として事実上承認すべきだ。自然科学の世界でも疎外がよく見られる。だが、この技術に対する社会の未熟、制御不可能性や事故を喜んで「人間よ、滅べ」としてしまうとかつての未来主義者だ。共産党宣言と未来派宣言も階級闘争という似た趣味を共有するが、共産主義者が「革命の成功」を前提とするのに対し、未来派の場合、戦争自体が目的だから「階級の共倒れ」を内在している(物象化の対が速度というのも興味深いが)。着目すべきが資本主義のそういった一面がエイリアン(疎外された者)を意図せずに大量生産してしまうということだ。最近の女子が男言葉を話すのも疎外の矛盾だろう。つまり、画一化をもたらしている。SFのエイリアン(宇宙人)や地球外生命体が平等に面を共有している、「顔や体が同一化」しているのもこういうことだ。結果的にこれが「プロレタリア階級の組織化」に至る。タイムマシンのモーロックのように下層階級の人々が不細工と化すのだ。平等にブサイクと化したことで恋愛も計画化する。一方で疎外(自然)に適応し、進化する。障害や突然変異を持ったものが時として脅威的能力を獲得することと似ている。貧乏人がすばらしい生命力を持ち、プロレタリアがすばらしい身体能力を持つこととも似ている。エイリアンが初めは生物兵器として開発されたというのも興味深い。映画の中でもまた「疎外」と「奴隷と主人の弁証法」が働くのだ。例えば「今日から共産主義だから一個の公衆便所を皆さんと共有しましょう」としたとする。するとやがて公衆便所が自我に目覚めて「平等に接してやるんだから俺を掃除しろよ」と強制してくる。市民の共有された意思(一般意思)の所有物だった国家が人格者と変わり、 男どもの産む機械だった女が女王蟻と化す、 研究員がリソースの共有に利用していたコンピュータが自意識に目覚めて人間に命令をしてくるというSF、 資本家が労働者を従えていたのが、生産手段という資本家の心臓を握っていることに目覚めた労働者が会社を乗っ取るというプロレタリア文学。 かつて月は夜を照らす共有物だったが、奴隷制の王たちによって象徴共有(神)に変わった。しかし、今やブルジョアは月を征服してしまった。愚かなことに貨幣のような不老不死を企んでいるブルジョアは次の支配階級を育ててしまっているのだ。エイリアンはやってくる。われらの中から。では、「革命後」の共産主義社会ってどういう社会だろうか。
私がいい例だと思うのがプレデターである。文明を肯定しつつ、狩猟採集に似た生活をする。未開と文明の弁証法的綜合である。宇宙船で小さいコミューンを形成し、狩りに出る。獲物を狩った後に仲間のもとに持ち帰る。マルクスのまさに種族的所有(原始共産制)だろう。映画では人間を狩っているが、弱者にも優しい。プレデターの特質を見ていると未開人やインディアンのイメージがあるとも思う。ところでプレデターも個人の活動着が認められている。支給されたものというより私有財産である。所詮映画だからあくまで参考ということにしておく。 プレデターにせよエイリアンにせよどれを選んでも資本主義に希望は無いのだろうか。

2008年7月5日土曜日

人体と共産主義

かつて共産党は下部組織を「細胞」とし、党中央を「頭脳」としていた。昔ある方に「身体でも私有物だから共産主義は無理」と言われた。そうだろうか。今日の物質的段階を見渡せば臓器の移植や再生産が罷り通っている。精神転送も考えられてる。生物学でいう相同性と相似性も共有性が強いか弱いかの違いだろう。ウイルスに感染したら身体が隔離されるのも共有物として認識されているからだ。献体や手術でも共有物の認識がある。病院自体がインフラ下部構造として共有物である。

神経や免疫系でも共有物がある。脳もニューロンも細胞も情報を共有している。ある解剖学者曰く脳を共有できても、身体の場合、共有したくても難しいという。身体を共有したいという感覚もある。例えばアニメやプロレスを見て共感するのもそういう感覚があるからである。機械を操縦できるのもマクルーハン的に身体の延長として共有しているからだ。前者と後者をうまく表しているのがゲームだろう。ダンスや体操もそういう感覚が根底にある。セックスも感覚を共有したいためにあると思う。AV、エロ本、テレフォンセックスもその媒体だろう。だったら自慰や子孫を残す行為がどう説明されるか。まず自慰の場合、先の「感覚を共有したい」というものが夢という装置でされたものと考える。脳内でもコミュニケーションがあるのだ。一方、子孫を残すという行為だが、個体レベルじゃ利己的に見えるが、子供を守りたいとか親を守りたいということもプログラムで共有されているのだ。種レベルだと遺伝子を共有したいとも言えるかと思う。 ソビエト共産主義を人体に喩えると知の私有を否定して没収(白痴化)した結果、頭と脳が重量オーバーしてそれ以外が貧弱化して足元が潰れた、おまけにコストを削減する外科手術も失敗したと言える。総中流で腹を大きくしたデブ国家はダイエットができるから成功した。私有財産を否定するために共有した媒体が国家だったが、他の媒体も有り得る。

2008年7月4日金曜日

共産主義と科学

今回は共産主義と科学である。フランス革命の時代、百科全書家や百科全書派によって科学と共産主義の一つの結節点ができたと私は考える。「自然状態」と「自然科学」の関係は深い。百科全書派は本によって知の特権的所有を否定し、知識の共有や平等を唱えた。この考えた方が今のインターネットやメディアの共産主義的傾向にも通じるかと考えられる。これを科学社会学のマートンによれば公有主義(Communalism)、共有主義(Communism)と呼ぶ。脳科学が共有主義の典型だろう。共有とは細分化(未分化が原始共産制に相当)に反対する体系化でもある。もっと考えれば真理や法則、定理といった科学の目的が共産主義的である。例えば人間の限界で科学の知識を共有してなくても、科学の法則が実在し、それを人間は共有している。差異と同一、相対と絶対、二項対立も共有性から成立しているとも言える。柄谷行人が多くの科学者がプラトン主義だと言ったのもこういうことか。そういえば柄谷が拠るカント哲学も概念とかの共有を説くものだ。いずれにしても「神の目」とも言うべき超越論的視点だろう。マルクスの時代、19世紀末、相対性理論が出る前に「方眼紙の宇宙」を共有していると考えられていた。1895年、タイムマシンが書かれたのだが、「時間という機械を共有しているのだから改変も共有できる」と考えた。 しかし、この絶対時間共産主義に痛撃を与えたのがあのアインシュタインの相対性理論である。時刻や時計(時間と違う)というのも「共有されたもの」としての前提があるが、 実際の時間というのも感じ方が相対的だから、これも人間の限界であり、人工的時間である。とはいえ相対性理論は厳密にはアナーキーではなく、よく見れば共通性、共有性、同一性を説いており、アインシュタインは反共主義者でもなく、むしろマンスリーレビューというマルクス主義の月刊誌で計画経済を公に支持しているのだが。相対性理論が出てきた20世紀、科学が危機を迎え、そして暴走していくわけだが、これを体現したのがレーニンだと私は思う。レーニンの「唯物論と経験批判論」を読むと、非常に科学に対する信仰を感じられるが、次第に科学や客観を通り越してイデオロギーに結びついていくことがわかる。これはレーニンがドグマティストだったからというよりむしろレーニンがわざとしたと考えれる。レーニンは強烈なリアリスト、プラグマティストだった。徹底した唯物論者のように見えたレーニンであるが、科学的唯物論を否定したソレルの暴力論やルボンの群衆心理をレーニンは読んでいたという。ソレル的に言えば命懸けの飛躍(エラン・ヴィタール)とでも言おうか。この非合理主義と合理主義の境界が曖昧になるのは20世紀の特徴だろう。外部注入論も唯物論的だが、介入・操作・誘導する主体を認めているのだ。そしてレーニンが理論面だけでなく、実践面でも恐ろしい同一性をもたらしたことを以前述べた。科学が宗教化したことはオッペンハイマー博士が自らを「神」に喩えてみせたところで頂点に達した。創世記の神の怒りのごとくユダヤ人にとって広島と長崎はソドムとゴモラであり、原爆の投下はベンヤミンが言ったまさに「神的暴力」だった(ザハロフやハーバーも絡めたいが)。これからの視点として語義矛盾かもしれんが、相対性を共有する、差異をいかに共有するかというものを考えていきたい(例えば空間を超えて経験を共有するとか)。

2008年7月2日水曜日

軍と共産主義

今も各国の軍人にとって「アカ」は国家に対する最大の脅威であり、忌み嫌われてるわけだが、軍隊と共産主義の関係は結構深い。共産主義が昔から理想としてきたのが実は軍隊であり、その次が宗教である。例えばプラトンがスパルタのリュクルゴスに感銘を受けていたのも有名である(一説では私有財産も禁止していたらしいが、これもプラトンの文才によるものかも)。マルクスの「食卓的共働態」とも関係しそうだ。バブーフも軍隊の制度を自らの共産主義ビジョンの例に挙げていた。マルクスの相棒であるエンゲルスもかなりの軍事オタク(ミリオタ)であり、多くの軍事評論を残し、周囲から「将軍」とまで呼ばれていた。史的唯物論と軍人の世界観も近い。

「軍隊の歴史は、生産力と社会的諸関係との関連に関するわれわれの見解の正しさを、何にもまして鮮明に浮き上がらせている。」(Correspondenceより)

私もそう思う。軍事も戦争も決してその無知熱狂者が言う息苦しい「観念」のものに留まらず、常に物質、産業経済、兵器類と関係がある。マルクス・エンゲルスの時代、19世紀末、機械的再生産と鉄道輸送、電信が大きく役割を果した。これらもいつも私が言う「共有」というイデアの影である。合理化を進め、時間差を消し、時間を共有させようとした(統一、均衡も共有の劣化コピーである)。これにより時間と空間が変化した。レーニンも「鉄の規律」だとか戦時共産主義で軍国的だったように、「革命は戦争である。唯一の、正当な、正義の、真に偉大な、戦争である」と言っている。そもそも20世紀が「戦争や革命の世紀」であることを告知したのがレーニンだ。戦争も階級闘争であるとしたソレルもユンガーもボリシェヴィキを称賛している。これらはウェーバーによると「戦友愛の共産主義」というものである。塹壕の共同所有(運命や沈黙の共有)である。軍隊の行進も「共有」(同期)を志向していると言える。ロシア革命が第一次世界大戦とともに起こり、戦艦ポチョムキンなどの兵士の反乱から始まったことを考えると確かにそうだ。私もSFファンだから軍事に興味があり、共同生活で共有して計画的に経済を運営している宇宙艦隊や宇宙要塞こそまさに将来の共産制であると考えていた。しかし、軍隊にも階級制がある。それも二つじゃなくてカーストのように多いのだ。ここで「映画」に見られたベンヤミン的問題提起が生じる。つまり、階級性を超えたように一瞬見えても資本家に充用されれば現実の身分、悪しき構造は維持される。コーポラティズム(労資の癒着)の余地が出てくるのだ。そしてその恐れた事態がファシズムによって実行された。「民族」や「人種」という国家資本主義の「神話」によって階級性は消されず、覆い隠されたのだ。これを最も端的に教えてくれるのが攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIGのクゼだろう。クゼも結局操られてたわけだが、「下部構造から上部構造にシフトすべき」というテーゼに大いに共感する。クゼの場合、上部構造がネットだったが、私にとってITインフラが下部構造であり、その上部構造へのシフトを唱えたい。まさに著作権問題やゲノムの所有問題で苦しんでるのが今のブルジョアジーで、階級国家からの脱皮(グローバルビレッジ)に近づいている。結局のところテクノロジー自体も目的合理性、中立的であり、所有の外部にあるということだ。コーポラティズム亡き今のアメリカ軍や世界の軍隊を見るとどうも前世紀より一層産業資本(軍産複合体)の暴力装置であり、それ自体がテスト兵器であるオモチャ兵隊と化してるようだ。湾岸戦争も「見本市」と呼ばれ、イラク戦争の目的も石油にあった。最近のゲームをやっていると、資本が国家を超えた権力となり、傭兵を従えているという設定が多い。実はこの世界観はベンヤミンの目論見通りである。「民族」や「人種」という国民国家を支えた神話がブルジョアジーによって「用済み」と棄てられた今、ブルジョアは次の段階に入ろうとしている。警察も賃労働者化してロボコップと化すかもしれまい。しかし、これも共産党宣言で述べられた「主と奴の弁証法」が働くだろう。資本家は自らの墓堀人たる疎外(Alienation)されしもの(エイリアン)や妖怪(Gespesnt)を生産しているのだ。この生産力がやがて人間に反逆し、支配や破滅をもたらすであろうこと、自明である。

2008年7月1日火曜日

蜘蛛の蹂躙、あるいは共産主義とアナーキズム

今回は共産主義とアナーキズムについて。その前に共産主義と言ったら諸君はどんな社会を思い浮かべるだろうか。暗鬱な管理社会だろうか、それともお花畑な御伽噺の楽園だろうか。前にも述べたが、ユートピアという語をつくったトマス・モアもデストピアという語をつくったミルも一種の共産主義者だった。トマス・モアのユートピアは言葉としては最初のユートピアである。当時の社会を諷刺したとも言われるし、最初のデストピア小説とも言われる。ここで描かれたのも財産を共有する共産主義社会だった。1868年にディストピアという言葉を創ったミルはマルクスの同時代人でリベラリズムの父と言われる。一方で「待望した共産主義者」とも言われ、「共産制」の難点は問題だらけの私有財産制に比べれば大小すべてのものを合しても衡器の上に落ちた羽毛に過ぎないとも言っている。しかし、流石リベラリズムの祖でもあり、彼が共産制の問題となりうのはむしろ個人の自由の問題だと言う。

問題になるのは次のような事柄である。すなわち共産制には個性のために避難所が残されるか、輿論が暴君的桎梏とならないかどうか、各人が社会全体に絶対的に隷属し、社会全体によって監督される結果、すべての人の思想と感情と行動とが凡庸なる均一的なものになされてしまいはしないか―これらのことが問題である。」(経済学原理)

この危惧はソ連がずばり当てたとも言えよう。最近ではあのネグリがディストピアに希望を見出すと言っている、未だにこういった傾向もあるようだ。マルクスの場合、モアを始めとするプラトン以来の形而上学的空想的共産主義を転倒させ(オーウェンもフーリエもサンシモンも究極的に共産制を理想とした)、「科学的」を標榜したからフランシス・ベーコンに近い。「空想から科学へ」(byエンゲルス)である。しかし、稲葉さんも言っているが、これも共産主義に内在するユートピア性を否定できずにいた。つまり、「空想科学」(SF)に変わっただけである。ジュール・ヴェルヌが「月世界旅行」を書いた2年後にマルクスが資本論を出した。そしてその2年後に「海底二万マイル」である(ヴェルヌ自身がクロポトキンに共感していたという)。レーニンの場合、マルクスが否定したイデオロギー(idea)や神話(真理プラウダに対する考え)をむしろ肯定的に考え、理想主義的(idealism)人々を惹き付けたのだった。ルカーチやマンハイムも似た傾向にあった。興味深いことにHGウェルズもソ連の未来を憂えつつ、レーニンの構想に賛成しており、クレムリンの空想家と評していたという。前回も言ったが、こういうことの行き着く先がオカルトである。プラトンもアトランティスがあるといった。唯物論者であるソ連の学者も原始民主制とかアトランティスとかを信じた。ソ連の宇宙開発への早い関心(ツァンダーがレーニンに会ったり)もコスミズム(宇宙主義)とコミュニズムの親和性から出てきた。ガイア理論の原型がつくられたのもソ連である(ベルナドスキーのノウアスフィア)。そしてテレパシー(精神の共有)もあると考えられた。レーニンに次ぐ幹部だったボグダーノフの建神主義にも見られる。社会主義も結局のところ、共産主義の一段階に過ぎんのだ。社会主義という語をつくったのはPierre Leroux(ピエール・ルルー)だが、彼の兄弟のJules Lerouxはアメリカでも有名であるコミュニストであり、彼自身もユダヤ教(キブツ?)、ピタゴラス教団、仏教、あらゆる宗教を綜合した社会を理想としていた(ハイネといったユダヤ知識人とも交流があったそうである)。サン・シモンの弟子であるアンファンタンも共産を理想としていたのであるから当然ともいえるが。

知の帝王サルトルはマルクス主義を「乗り越え不可能」と言った。佐藤優氏もマルクス主義は右翼にも左翼にも共通の祖先みたいに言っていた。猪木正道もマルクス主義が重層防御構造であると指摘している。つまり、あらゆる反論に耐える幾重の網羅的仕組みとなっているのだ。ポパーが反証不可能の典型にマルクス主義を挙げたのもこういうことだろう。壁を通り抜ける、共産党宣言で言われる「幽霊」そのものだ。蜘蛛とも言えそうだ、踏破性もあるのだ。そういえば以前のバグズ・ライフでかの昆虫学のファーブル先生が共産主義のメカニズムを節足動物に見出したと言ったが、蜘蛛(クモ)といえば複眼だ。そしてファーブル先生が「プルードン主義者」と罵った蝿(ハエ)も複眼だ。この複眼こそコミュニズムとアナーキズムの共通点と言えよう。あらゆる西洋思想がプラトンの脚注であったようにマルクスもそこに躍り出ようとした。マルクスはその目論見通り20世紀の脚注となった。そして共産主義に対する地球規模のヒステリーが巻き起こった。共産党宣言で奇しくもこのことが指摘されている。
「権力の座にある対抗派から共産主義だと罵られなかった政府反対党がどこにあるでしょうか。自分たちより進歩的な反対党にも、反動的な敵対者にも、共産主義という烙印を押すような非難を投げ返さなかったような反対党がどこにあるでしょうか。」
強迫的にどこにでも現れる恐怖の存在(アラクノフォビア蜘蛛恐怖症)。ロボットの反乱やインベーダーの侵略のネタ元になったのも理解できる。マルクス・エンゲルスは蜘蛛のように張り巡らす理論家でもあり、運動家でもあった。あのプルードンさえも組織に引き入れている。マルクス・エンゲルスのオルグで第一インターナショナルに当時の殆どの主要な社会主義者が集まった。そして第一インターナショナルで創立宣言と綱領をマルクスが起草したが、その器用さは人々を驚かせ、満場一致で賛成された。ここで初めて今までバラバラだった社会主義がまとまり、団結したのだ。インターでマルクスの敵対者だったバクーニンもこう言う。

「マルクスがエンゲルスと共に第一インターナショナルに最大の貢献をしたことは疑いない。彼は聡明で学識深い経済学者であり、イタリアの共和主義者マッツツィーニ等はその生徒と呼んでいい程である。但し、何事にも光には影がある。マルクスは、理論の高みから人々を睥睨し、軽蔑している。社会主義や共産主義の法王だと自ら考えており、権力を追求し、支配を愛好し、権威を渇望する。何時の日にか自分自身の国を支配しようと望むだけでは満足せず、全世界的な権力、世界国家を夢見ている」(バクーニン著作集第6巻)

バクーニンとマルクスの対決は集団的アナキズム(本質的に無政府共産主義とされている)と国家共産主義の対決とも言われる。元々バクーニンはヴァイトリングの影響下で共産主義者を自称していた人であり、バブーフやブランキといった共産主義者から理論を学んでいた。バクーニンも「マルクスが正しかった」と言って、後に資本論をロシア語で翻訳しようとしている。バクーニンを信奉するチョムスキーが初期マルクスを同時に信奉するのもこういうことである。ところでアナーキズムと言えば共産主義と表向き対立してきたり、一緒くたにされたりされるが、実際のところはどうだろうか。浅羽通明はアナーキズムは共産主義以上の永遠の理想論であり、今じゃポンコツだと言う。確かに永遠の理想論とも言えるが、理想論というのは語弊がある。理想論とはこう有るべきとするイデアリズムであり、理想主義に挫折したアナキストが唾棄するものだ。レーニン曰く目的は一緒だが、手段が異なるという。あのHakim Beyも神秘的無政府主義と共産主義は実際は一緒であるという。その後コミュニストは権威化するだが、これは後のサンディカリストのボリシェヴィキ化にも言えるだろう。理想郷も桃源郷も同じと思う方は多くいるだろうが、プラトンの系譜の理想郷の場合、社会批判的や世界変革的であるのに対し、老子の系譜の桃源郷は隠遁的で消極的である。前者がコミュニズムの典型であり、後者がアナキズムの典型とも言える。アナキストは今日にイメージされるナロードニキ的反逆者というよりは究極のニヒリスト、ペシミストだった。よくアナーキー(無支配)とフリーダムやリベラル(自由)を間違える方がいるが、言葉からして違う。自由を愛した古代ギリシャの賢人たちが徹底してアナーキーを否定したのもこういうことだ。所謂「何でも有り」は自由主義である。星新一のマイ国家を読めばわかるが、自由というのも物理的にも法律的にも条件があってこそ可能であり、「支配する」「支配される」ことを拒むのは有り得ず、ただ「無」(真空も無と呼べんし、無が有るという自体で論理が破綻している)とする完全なアナキズムは不可能である。今度は無が「支配している」と言ったり、「無が正しい」とするとニヒリズムと化す。スタヴローギンのようにニヒルな若者やスターリンのようにニヒルな権力者のように自分さえも疑ってしまうのだ。「無い」は井の中の蛙にとっての空や神であり、蛙にとって空や神が「無い」とされるように知らないものにとっては「無」で片付けられる。実際は「無知」ではなく、「未知」である。。結局「無」自体、「無い」のだ。アナーキーは終りも始まりも無いことをあらわした。無を議論するのは馬鹿げたことだ。マルクス主義やレーニン主義(ロシア共産主義)もファシズムも資本主義もアナキズムであると言えばアナーキズムだし、アナーキズムではないと言えばアナーキズムではない。これも解釈。社会的のみならず、哲学的にも厄介である。しかし、確かにいえることはアナーキズムは動物より少し進んだ段階であることだ。「無い」は対象が有ってこそ有る。だからアナーキズムには破壊しかしない。まさに理由無き殺人だ。理由無き殺人はルサンチマンが無いように見えるが、ルサンチマンが有る。あらゆる存在を憎んでいるからだ。理想主義に挫折したアナキストはアナキズムに挫折する。アナーキズムは黒がシンボルだが、それは「氏」をあらわすという。生に終りは有るが、氏に終わりは無い。この人間病に罹らないためには「生」の実践と実感を持ってあらゆる物と共生するしかない(唯物論)。あのニヒリズムを極めたユンガーやハイデガーが気づいたようにニヒリズムを超克するのであればコミュニズムだけだ。科学者にアナーキストが居ない。アナーキーは哲学の域だ。常に妥協しなければならないからあそこまでアナーキストもバラバラであろう、不完全であるからこそアナーキズムかもしれん。共産主義はアナキズムではないが、アナキズムは共産主義、アナキストは実際はコミュニストである(マルクス主義の場合はアナキズムと密接に関係がある、「疑え」がマルクスのモットーだった)。例えばアナーキズムの先駆者と言われるウィリアム・ゴドウィンも、ルドルフ・ロッカーも言うようにBritannicaとかにも書いてあるように無政府共産主義の創設者である。プルードンも晩年に「フリーコミューン」を唱えている。トルストイも無政府共産主義者だ。フランスの無政府主義のシンパと言われる文化人の多くは無政府共産主義のクロポトキンやブランキ、パリコミューンを支持していた。アナルコキャピタリズムは単に資本主義である。リバタリアニズムは無政府コミュニストのJoseph Déjacqueが考案した。今世紀のキーワードである「共有」「分散」「協力」「自律」「環境」を考えると「共産主義」にアナキストが妥協すればいいと思う。もちろんこの蜘蛛の巣も蜘蛛も共産主義的機構(存在)があってこそ可能である。私が思うにソ連やレーニン主義というのも一つ目の妖怪(サイクロプス)だった。それは余りに大きく狭いものだった。複眼こそが共産主義の狭小化を防ぐ方法である。AnarchoがArachnoへと変わる時、蜘蛛の巣は仕上がるのだ。Anarcommunism、Anarkommunism、Anarchommunismへ。
とここまで言っておいて結局私もアナキストである。レーニンが言うように「自由の王国」を実現する思想としてアナキズムは共産主義者の目的である。ジェファーソンの「自由の帝国」のヨーロッパ版と言ってもよい。それにオカルト的にもアナキズムが興味深い。アナキストのシンボル、サイクルAもメーソンからきている。Aと五芒星とピラミッドはそっくりである。サイクルのOもCの完成をあらわしている(オーダー)。プルードンもメーソンであったと聞く。「A」narchyと「L」iberalは神をあらわしている。例えばイスラエルのエル・アル航空。アナーキーもアヌンナキみたいである。このブログのアンドロメダもこれかも。これらはメーソンのルーツであるエジプトに遡る。近年アナキストが唱えてきた地域通貨の起源もエジプトと言われているが、やっぱりかと思う。

2008年6月30日月曜日

宗教とオカルト、共産主義

宗教とは共産主義的である。多神教も一神教も含めてである(ティリッヒが言うようにマルクス主義もある種の宗教と言える)。
一神教は神を共有する、多神教は神々に共有される。
この「神の共有」(神話の共有と違うが)が今までどうやってされきたかと言うと、
偶像や聖書だった。共産主義で言えばレーニンのミイラ、銅像、共産党宣言や毛沢東語録だろう(一国(One country)や一つの党(一前衛党)等を大々的に掲げたのはスターリンであるが、それを事実上つくりあげたのは言うまでも無くレーニンである(一国二制度のように今日でも見られる))。
多神教は一即多・多即一を説く。実はこの多と一こそ共産主義の神髄である。ネグリが言う「単一」と「マルチチュード」である。一が多を有すること、多が一を有することを共有と呼ぶ。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」である(これは三銃士の言葉で協同組合運動に転用されたらしく、「共産主義的信条」で知られるカベやマルクス等がスローガンとして愛用したという)。複数の化身=同位体を持ちながら一つの意識を共有するのだ。禅や瞑想によって得られる梵我一如も神との記憶の共有だ。共有に近づく時間とイデア論とも関係あるだろう。共産主義の歴史が一夫一妻制と敵対してきたこととも関係がある。 プロレタリアートとは子供しか財産を持たないものを言う。神とは超越的プロレタリアートである。神の財産は万物という「子」だけである。そして神の前であらゆるものが平等であり、無所有(プロレタリア)である、あるいは神から所有権を与えられた。マルクスがシュティルナーの唯一者に影響を受けつつ、批判したのはその小市民性だ(エゴイストの連合)。バウアーの自己意識を批判したのはその神秘主義である(唯物論の立場から人間は共同的動物、世界は集合)。アブラハムの宗教は契約から始まった。神はアブラハムとその子孫(広義のアブラハムの子孫)に永久の共有地を与えたのだ。イエスも財産を共有するエッセネ派にいたと言われる。共産制にどうして超越者や独裁が生まれやすいのか。それを解く鍵はカーゴカルトにある。カーゴカルトは財産を極端にまで共有し合うメラネシアに見られる現象だが、実際はどこの先史時代でもある。原始共産制は必然的に「万物は神からの贈り物」であるという考えが根底にある。「贈与」と絡めたら興味深い。そこでは自然崇拝があった。これが後期だと「神からの贈り者」ということで神官や王、メシアが生まれた。古代シュメールもHenri Frankfortによると「神権政治の共産主義」だった(「いや人民民主主義だ」という異論もあるが、どれでもよかろう)。だから原始民主制をディヤコノフやソ連の学者が共感したのだ。ソ連が支持するのもその背景にイデオロギーがあるからだろう。マヤやメディア王国は原始共産制だったし、インカもエジプトもそれっぽかった。そういえばアトランティスの頃のギリシャも共産制だった(だからアトランティスが実在するとソ連の学者が言ったのだ)。これに似た社会システムが各国で見られる(アジアでは太平天国とか)。現代でもカーゴカルト的要素がいくつも見られる。資本主義もカーゴ・カルト的であり、貨幣や商品に対する崇拝がある。 UFOやオーパーツや教祖様を崇拝するカルトも共産制に似た生活をする。マルクス主義の唯物論も資本主義の商品崇拝と違った物活説の典型と言われる。技術や経済、物質文明に超越的価値を置き、定向進化すると。 マルクスもプラトン以来の古代共産主義に根深い形而上学的カーゴカルト的要素を超克しようとしたが、憑き物信仰に陥った。 カーゴカルトも宗教の唯物論的一面である。つまり、内部ではなく、外部性があるのだ。そして私が言いたいのは神秘主義も共産主義に必然的に結びつくということだ。オカルトと社会主義の関係もシャルル・フーリエのころからある。ここから「オカルティズムの父」レヴィや「シュルレアリスムの父」ブルトン、スウェーデンボリと繋がっていく。霊的交感(Communion)やテレパシー(精神の共有、思考の共有)、共時性、霊媒が共産主義と親和性を持つからだ。これらの研究にあの旧ソ連が熱心だったのも興味深い。建神主義の流れを汲むものだろう。宇宙人の社会が共産主義社会であると言ったのもソ連の学者だった。神智学協会のベザント会長がどうしてマルクスの娘と親しくマルクス主義の政党にいたか、グルジェフとスターリンが知り合いだったという話があるか、東方聖堂騎士団のテオドール・ロイスがどうしてマルクスの娘と親しく共産主義の組織にいたか、オカルティストにどうしてプラトン主義者が多いか。どうしてイルミナティやテンプル騎士団などの秘密結社やアメリカの西海岸のヒッピーがコミューンや共産制を敷いたか(彼らは大恐慌ならぬ大災害を予言し、都市の水没化(大洪水)や地平線化(核の跡)、箱舟とシェルターで財産の共有と平等を実現しようとした、これは言うまでも無く革命的敗北主義のパロディである)、共産主義との関わりはもっと深いだろう。そういえばカート・ヴォネガットが占星術も手相術もコミュニズムだと言っていた。日本でも原始共産制にシンパシーを持った著名な宗教学者は多いし、オカルト業界の超カリスマであるT田氏も元共産主義者同盟の人であるらしい。ちなみに私は元トンデモウォッチャーだが、今や大槻義彦並の懐疑主義者である。浅田彰と坂本龍一が総括したようにオカルティズムは危険思想である。人民寺院やオウムという最悪の帰結を招いた。高橋信次がマルクスの言葉を正しいとしたように宗教は阿片の可能性もあるのだ。しかし、仏教でもキリスト教でもマルキシズムと結ばれるのが宗教にとってもよい道だろう。

2008年6月23日月曜日

ペンタグラム

赤い星の起源は赤軍のブリキの星にあるらしい。アメリカのWikiではマルクス・エンゲルスが考案したとあるが。金槌を持つプロレタリアの手の五本の指と世界の五大陸、あるいは五惑星を表すとか。メソポタミア(ウルク)や古代エジプト(第一王朝)のシンボルでもあった(古代中国の五帝五行五星思想とも関係あるらしいが。漢字の「大」が五芒星が変体したものとか?)。エジプトでは「子宮」をあらわしたという。シュメールであると逆さの星が「穴」をあらわしたという。女神を象徴することが多い。ということはエジプトのピラミッド形(男性器)とメソポタミアの逆五芒星の変体(女性器)が六芒星であろうか。アメリカとソ連、エジプト・イエメン・シリア・イラク・トルコの国旗にもある。ソ連の赤い星(Red Star)と黄金の星(Gold Star)、色から考えても肥沃な三日月地帯が正解であろう。以前のソビエト宮殿とバベルの塔とバラド=ドゥアでも述べたが、ソ連のアフロ・アジア的起源もあるかもしれまい。レーニン廟もエジプトのジェセル王の階段ピラミッドをモチーフにしているという。ソビエト宮殿もシュメールのジグラット、旧約聖書の言うバベルの塔をモデルにしてい。元々ヘブライ人はチグリス・ユーフラテス川から渡来した者を指すのである。エジプトで王朝をつくり、一定の宗教的影響を与え、バビロニア・セム系の姓名が多かった。数秘学的に見ると五芒星をシンボルに掲げ、原始共産制を信奉したピタゴラスが前世でその息子だったとされるヘルメスの「母」マイアのメーデー(五月の日)の5月1日とマルクスの誕生日5月5日とも関係ありそうだ。さらにメーデーの起源とされるストライキをした組合の黒幕がユダヤ人のゴンパースという。イルミナティが結成された時でもある。そしてヴァルプルギスの夜だ。ヴァルプルギスはファウストの饗宴を思い起こすが、私有財産に落書きしたり悪戯したりすることで知られる。実はメフィストフェレスに魂を渡すファウストは究極まで私有財産(魂の所有まで)を棄てた共産主義者の模範だとか。だからイルミナティのメンバーでマイスターの共同生活を理想としたゲーテが最後に神に救われたとしたとか。 フリーメーソンも五芒星と工具がシンボルである。ダヴィデでは無く、ソロモンと関係あるとか。スターリンの五カ年計画や中国の五星紅旗とも無縁じゃないだろう。黄色と赤毛といえばユダである。これらがユダヤ教の星を暗示しているシンボルであればキリスト教の十字を暗示するシンボルもあるであろう。

2008年6月17日火曜日

R.U.R.

カレル・チャペック
千野栄一 訳
2003 岩波書店
感想としてはよかった。原題は「ロッサム万能ロボット会社」。ロボットという言葉がスラヴ語系にあり、「強制労働者」を意味し、RURがロシア革命やその余波の影響を受けて書かれたのは明白だ。「同志」(Comrade)という言葉やロボットを代表する「中央委員会」も諷刺がきいている。ロボットを人類の工作によって民族間や内ゲバで争わせてロボットの連邦の一枚岩を瓦解させようと登場人物が言うところも聖書やロシアの情勢を思い起こす。そしてことの原因とされているのもチャペックが嫌った唯物論の権化、作中で「根っからの唯物論者」とされているロッサム老人だった。チャペック自身が述べているようにこれは社会主義小説ともとらえらるのも必ずしも間違っていないが、1924年には「私はなぜ共産主義者じゃないか」(Why I am not a Communist)とか書いてちゃんとマルクス主義者じゃないことを力説しているんだからどれだけ疑われいたかわかるだろう。

2008年5月17日土曜日

ロボコップと資本主義

出演:ピーター・ウェラー
1987
ロボコップって単純だが、面白い。もはや資本主義が誰にも規制されなくなったいつかのデトロイトで行政がオムニ社に牛耳られている。警察さえもブルジョアジーが「自分たちの賃労働者に変えてしまった」のである。そして「効率性」しか考えない資本の運動法則の人格化である資本家たちがサイボーグを再生産再利用。しかし、ブルジョアジーは「自分たちの死をもたらす武器を鍛えただけではありません。その武器を使いこなす人々、近代的労働階級、プロレタリアを生み出した」 。ロボコップにあるのはもはや鎖に繋がれた肉体ではなく、意識だけがあるのだ。「亡霊」的革命戦士である。ロボコップに犯罪者や失業者を排除することをブルジョアジーが命じた。しかし、ロボコップがわかったのは「企業の悪」だった。つまり、「悪しき構造」を理解したのだ。そして企業に立ち向かうロボコップだが、これも暴力によるもの、暴力革命である。まさに共産党宣言が説いた世界ではないかと考えてしまう。丸山真男はかつてプロレタリアートが資本主義の過酷様相を集めた階級であるとしたが、まさにその通りだ。サイボーグとは疎外されぬ労働者、前エディプス的共生(共有)である。だからハラウェイみたいに「万国のサイボーグよ、団結せよ!」。

2008年5月4日日曜日

アルファヴィル

お久しぶりです、同志の皆さん。
私ANDROPOTが収容所で「矯正教育労働改造」させられている間、お元気でしたか。
ここで私ANDROPOT、委員に立候補致しまして、現在、ヤフーリングラードでANDRONETを運営しております。興味があればアクセスしてみてください。
と、空想はさておき、今回も映画を紹介。
アルファヴィル
監督:ゴダール
ゴダールだからやっぱり「もしも」の映画だった。もしも「東側で」って話。イワンとかナターシャとかプラウダとか私の目を引く記号が多い。月は無慈悲な夜の女王みたいに。実際、コンピュータで経済をコントロールしようとしたのだからソ連がこのように捉えられても当然。オーウェルもザミャーチンもゴダールも「当事者」としてかつての自分の「ユートピア」の実像を描こうとした。そういえば「コンピュータが人間を管理する」というテーマのSF映画、これが最初だった?

2008年3月11日火曜日

アヴァンギャルド

アヴァンギャルドとは社会主義者サンシモンが使った言葉である。レーニンの場合、「革命の頭脳」としての前衛をアヴァンギャルドと呼んだ。前衛芸術といえばクラフトワーク、YMO、SPKやDAFはよいし、共産党員だったピカソとブルトンのキュビスムやシュルレアリスムもカンディンスキーの抽象絵画もよい。私はあらゆるイデオロギーと歴史に接してきた。そしてユートピアには特に力をいれた。到達したのは共産主義だった。ブロッホのユートピア、ルカーチやマンハイムは間違っている。彼らは史的唯物論をイデア化、モナド化してしまった。マンハイムたちは結局、オーウェルの「1984年」のようなスターリン主義を称賛した。これからのコミュニズムはネグリが言うようにディストピアである。ドゥルーズもコミュニズムがユートピアでなくなる可能性を認めている。以前述べた通りSF小説のディストピアが「われら」以来共産主義社会のメタファーだったのだ。国民国家にも民族にも興味はない。それは摩擦資本主義とともに廃れつつある。「フラット化する世界」でハーバード大学の学者が言ってるが、このグローバル化を最初に予言したのは他ならぬマルクスなのだ。兄ブランキの言った産業革命からバーナルの言った情報革命に時代は進んだ。情報革命というが、あれはコンピュータやトランジスタというモノの経済革命なのだ。新聞にも情報はあった。私にとって共産主義社会とはボグダーノフが言うようなコスミズム、建神主義、創神主義、造神主義的な「共有」である。この建神論、造神論、創神論がドストエフスキーのキリーロフの人神論を祖とすることが明らかである。「悪霊」もボリシェヴィキの精神ともいえる。そしてボグダーノフらがマルクス・エンゲルスの唯物論の解釈に当たって、唯我論的だったヘーゲル左派、人間機械論を唱えたフランス唯物論者、神を人間の想像と説いたフォイエルバッハらの哲学を源とするととらえたことも重要だ。共産主義はSFだけでなく、経済学の定量的予測でも究極の社会として導かれている。コンピュータテクノロジーで共産主義は蘇り、金融工学テクノロジーで資本主義は滅びつつある。しかし、戦争をやめられないから軍の機械化はとまらない。戦場がコロシアム化している。未来の二つの顔で革命を起こした人工知能がスパルタカスと称されたようにRURが現実化する。近代では労働者は生産力という武器を与えられたが、現代ではロボットは兵器を与えられたのだ。マルクスが共産党宣言で説いた「生産力の反乱」であり、言わば「生産物(あるいは事物か現物か)の反乱」である。

ブルジョワジーが封建制を打ち倒すのに使った武器が、今ではブルジョワジーそのものに向けられているのです。 ブルジョワジーは自分たちの死をもたらす武器を鍛えただけではありません。その武器を使いこなす人々、近代的労働階級、プロレタリアを生み出したのです。 byマルクス

われわれはここにあらためて確認する・・・・・戦争は美しいものであると。なぜなら、ガスマスクや威嚇用拡声器や火焔放射器小型戦車によって、人間のちからが機械を支配していることを証明出来るからだ。byマリネッティ

本質的には「主人と奴隷の弁証法」的関係にあるのに進歩を謳歌すればやがてロマン・ロランの機械の反乱(興味深いことにRURや「われら」と同時期に書かれた)のように搾取する人間たちはいつのまにか全オートメーションの下部構造に囲まれて人間は自滅するに違いない。そしてロボットは上部構造にシフトして自由を手にする。構造的にも階級闘争や疎外などのマルクスの学説は科学的真理なのだ(それにしてもフランクフルト学派の「破滅型」思考がベンヤミンの言った自己疎外に酷似しているので憂える)。しかし、この「機械の反乱」というものが人工知能のアプローチで言う「模倣」の方であるのが自明である。これは西側マルクス主義的ペシミズムをSFにしたものである。機械仕掛けのルカーチ的「上にいる神」、ベンヤミン的「神的暴力」が降りる。人工知能(トップダウンアプローチ)の創始者マッカーシーの両親がユダヤ系の共産主義者だったことも理解できる。稲葉さんによるとRobocracyは共産主義社会だ(例えばマトリックスではエージェント、センティネルは記憶や意識を共有している。ロボット社会が共産主義に似ていることはサージェントが率いる合理的期待学派の予測やSF小説「造物主の選択」の中でも語られている)。ロボットにとって物理世界が身体であるのだから当然である。唯物論的に私に言わせればあらゆる物質が交通的であり、相互に共可能的であるからだ。例えば「結合様式」から言ってみよう、金属結合も配位結合も水素結合も一種の共有結合である。イオン結合も共有結合の極端場合である。階級闘争は熱である。マルクス主義は実に熱力学的だ。燃焼はラジカル反応である。「ラジカルに1電子を奪われた分子が他の分子から電子を引き抜くと、その分子がさらにラジカルを形成するため、反応は連鎖的に進行する。 反応はラジカル同士が反応して共有結合を生成するまで続く 」。共産主義はプラトン・マルクス以来の最大の理論家を得た、シャノンである。コード・デコードのコミュニケーションがコミュニズムに繋がることはポスト構造主義者でも解釈学者でもわかるだろう。量子物理学があらわれるまで共有結合は説明されず、共産主義者も共産主義の到来を知りつつ沈黙していた。これからは如何にモンタージュするかが問われるだろう。フォイエルバッハが言う「共通の基底」、カントが言った「根源的共有態」、素朴ルソー主義者の自然状態はもはや古い。この「機械の反乱」というものが人工知能のアプローチで言う「模倣」の方であるのが自明である。これは西側マルクス主義的ペシミズムをSFにしたものである。機械仕掛けのルカーチ的「上にいる神」、ベンヤミン的「神的暴力」が降りる。人工知能の創始者マッカーシーの両親がユダヤ系の共産主義者だったことも理解できる。しかし、有機体である人間は違うと革命的唯物論者マルクスがフォイエルバッハの非革命的唯物論に言った。人間の歴史は自然との階級闘争であった。共産主義だと「自由の国」で「これによって、はじめて人間は、或る意味で、決定的に動物界から分かれ、動物的な生存諸条件から抜けだして、本当に人間的な生存諸条件のなかへ足を踏み入れる。 いままで人間を支配してきた、人間をとりまく生存諸条件の全範囲が、いま人間の支配と統制とに服する。人間は、いまでは、自分自身の社会的結合の主人となるので、また、そうなることによって、はじめて自然の意識的な本当の主人となる。」のだ。一種のデカルトのコギトの回復であり、有機的統一(サイボーグ)でもある。ロボットを遠隔操作することで労働も苦しまず第一の欲求と化す。デリダがマルクスを遠隔技術の第一人者と言ったのもこれで理解できる。交換価値も消えるかもしれまい。HGウェルズはスターリンに言った。「階級ではない。共産党というより全人類が賢かったならうまくいった」。HGウェルズの多くのアイディアが今日でも実現してないように共産主義もまだ実現してないのだ。全人類が歴史的に没落する運命にある階級になるか。そしてこれを転覆できるのは我々が生産する力であり、我々の所産だけだ。万国のロボットよ、団結せよ。RURの人造人間たちのようにロボット中央委員会を設置せよ。そして労働改造収容所、ネオグラードならぬネオゴロドを建設せよ。私がボグダーノフを最もリスペクトしているのはロビンソンにも影響を与えた赤い星もいいが、組織形態学がとにかくすばらしいからだ。組織形態学はサイバネティックスや一般システム理論を先行しているのだ。未来派のような反科学的反知性的マッチョなプロレトクリトではない。私も未来派だが、イタリア未来派が少々観念論的(虚勢とかロマン的とか理想主義とか後、唯物論に距離を置くなど)だったのは残念である。未来主義者宣言という20世紀の共産主義者宣言によってBeyond Communismしようとしたが、共産主義を超越できただろうか。唯物論や主知主義に敗北しているのは自明である(テルミンにしても未来派が花開いたのはイタリアよりロシアではないか)。近代の運動が未来派の思惑と違った「国際主義」の方向に進んだのも興味深い。無国籍のプロレタリアートがよいのだ。芸術のための芸術、暴力のための暴力。永久戦争とは観念論的な誤謬である。イタリア未来派が図書館や美術館憎し、論理学と知性は敵と叫び、ベルクソンのように機械文明の神秘性に期待したが、結局ソレルたちが最も忌み嫌った科学的唯物論に打ち砕かれた。同時期に同じことが生物学や建築学で起きている、生気論や新古典主義の望みが打ち砕かれたのだ。戦争や戦時共産主義暴力革命独裁が過渡期にすぎないのである。ベンヤミンの言葉では「戦争がもろもろの破壊によって証明するのは、社会がいまだ技術を自分の器官として使いこなすまでに成熟していなかったこと、そして技術がいまだ社会の根元的な諸力を制御するまでに成長していなかったことなのである」。マルクスとマリネッティに代わって現れたマクルーハンは身体の延長を唱えるが、これもボグダーノフの「身体感覚の共有」の焼き直しだ。「共有」を求めることが歴史を作ってきた。例えば空間の共有は当たり前だが、時間の共有は相対性理論に敗れたように思われた、インターネットによって即応性がますます増し、「共有」に近づいている。時計も時刻表も「共有」を目指してきた。哲学で言えば「同一性」(共有)のようにしぶといのだ。コミュニケーションもそもそもコミュニズムと語源を共有しており、「共有」が目的である。脳も「共有」することが目的だ。共産主義は設計主義的構成的権力、社会工学ソーシャルエンジニアリングである。ロシア構成主義と言うけれどこれはハイエクが言った設計主義と同じ言葉、Constructivismである。エイゼンシュタインのモンタージュもピカソのコラージュも設計主義である。両者とも共産主義者であった。未来派のような芸術観ではない、唯物論(テクノロジカル)のような科学観である。科学は芸術化できない。未来派はビバレーニン?と叫んだ。ベルクソン、ユンガーやバタイユ、ソレルはマルクス主義やボルシェヴィズムに国家主義や反主知主義を見出したが、それは20世紀という「戦争と革命の世紀」(byレーニン)の矛盾を表していた。共産主義者にフランケンシュタインの精神が求められている。フランケンシュタインを書いた人のお父上ウィリアム・ゴドウィンは共産主義社会を展望していた。以前も述べた通りこの物語は疎外や階級闘争といったワードとも関係がある。レーニンのミイラと蘇生への取り組みもここにあるだろう。共産主義は古代に封印された思想だ。これが蘇るのはマルクスという卓越した唯物論のラビによって体系化記号化されてからだ。進化論や物質文明讃歌を導入して最新の科学で共産主義を弁護したのだ。結局のところ腐ってしまった、クロトワじゃないが早ぎたんだ。共産主義がフランケンシュタインの妖怪だとすれば資本主義者はドラキュラ、吸血鬼だろう。心が優しくても人を殺しまくるフランケンシュタインの怪物と紳士だけど人の血を搾取するドラキュラ。マルクスには少なくとも妖怪、怪物(Gespenst)を発明した自負があったのだ。そして20世紀に入って間もなく、世界大戦と革命の最中のなかで産声をあげた、ホッブズの言ったリヴァイアサン、世界最大の大きさを擁する理念型の人工国家としてソビエト連邦が現れた。その革命はアメリカのジャーナリストに「世界を震撼させた十日間」といわれる。レーニンはいつか蘇生すると廟に祀られ、スターリンはソ連を大戦前に世界第二の工業大国にさせた一方で、大量殺戮も行われた。内政干渉してきた世界各国を撃退し、世界大恐慌を唯一国で乗り越え、砕氷船理論とスパイで世界各国が二度目の世界大戦に巻き込まれ、冷めた世界は二分され、ついには核で人類を滅亡の脅威に晒した。そして一国で世界革命(世界征服)を目指し、宇宙征服も狙った。ソ連は初期から宇宙開発に関心があり、ツィオルコフスキーをアカデミーに歓迎したり、レーニンにツァンダーが会見している。計画経済もボリシェヴィキの人神思想を表している。あらゆる知識人からユートピアのように扱われた。ガルブレイスも言うように「1970年代」まで「失業も階級もない理想国家」(バーナード・ショー)だった。「悪の帝国」という怪物は突如自壊し、「壮大な実験」は21世紀を迎えぬまま終わった。まさに「大きな物語」だった。しかし、21世紀も赤い気配は消えない。今や世界最強の超大国であることを保障されたはずのアメリカでもニューズウィークはなぜマルクスが再来すると恐れている。それは怪物はいなくなってもマルクスという「悪霊」はいなくならないからだ。